魔術師の弟子コフル、危機一髪
椿の実を求めながらコフルは森の中を慣れたように歩んで行く。目当ての椿の木がある場所もしっかり頭に入っている。魔術師の御師匠様から借りたトネリコの木杖を片手に、枯草色の薄いローブを身に纏い、道順通りに進んで行く。
だが、時折大きな木の根が浮き出しており、コフルは小さな身体で、その木の根を攀じ登った。
少し不安な気がしていた。慣れ親しんだ森がどこか変わってしまったような、木の葉のざわめきに悪意を感じるようなそんな気分になっていた。しかし、コフルは怖じ気付いたりはしなかった。何故なら、優しい小鳥の囀りは存命であり、歩けば山鳥の雛が目の前をヨチヨチと横切って草むらへ入っていたりしている。また、リスが木の枝の上でドングリを齧っているのも見た。森の仲間は健在だ。何ら恐れることはない。
椿の木はやはり、毎年そこにあるように今年も鎮座していた。
「こんにちは。木の実をいただきに来ました」
コフルは挨拶を述べると、背負っていた籠を下ろし、椿の実を取り始めた。この実から油が取れるのだ。そしてそれを近くと言っても半日かかるが、村に来る行商と物々交換をする。この椿の木はここにあったものでは無い。御師匠の更に御師匠、そのまた御師匠が何故かここを選んで植えたという。今度は自分がこの木を見守る時が来るだろう。コフルはそう考え、使命に燃えていた。だけど、まずは半人前の魔術を成長させることが第一だ。それに行商との取引に使う、レースの編み物も頑張らなくてはいけない。あとは焼き物ももっともっと上手くならねばならない。師匠の蔵書の山のような本だって全て読んでみたい。
自分の身体が複数欲しい。やりたいこと、やらなきゃいけないことでいっぱいだ。
コフルは鋏を使って椿の実を取り、籠に入れて行く。黙々と続けていたが、ふと、その手を止めた。コフルはまず、後ろを見て、次に周囲を見回す。
「誰かいるの?」
その問いに答えは返って来なかった。
平気だと思っていた慣れ親しんだ森が悪意に晒されているような気がまたしてきた。コフルは度胸はあるが、女の子だ。師匠から借りたトネリコの杖には勿論、魔術が発動するようにルーン文字が刻まれている。それが淡く明滅しているのに気付き、自分でも焦っているのだと思い、力を抜いた。ルーン文字の点滅は止んだ。
椿の実はまだまだあり、籠の半分も満たされていなかった。
コフルは柔らかく枝を折り曲げ急いで椿の実を採取していった。
朝に家を出て今は昼になっていた。腰のバッグにはパンが一つ入っている。本当ならここで食べていくつもりだったが、気が変わり、まるで本能が告げるように足早にここを去ることにした。
師匠に馬鹿にされたくない。呆れられて欲しくはない。だからこそ、この仕事は完遂させる。コフルはそう言い聞かせ、落ち葉を踏み鳴らし、足を速めた。
ガサガサガサガサ、ポキン。落ち葉と枯れ枝を踏み締めながらコフルは急いだ。
気付いてしまった。右手の木々を影に隠れて追って来る何者かの姿を。落ち葉を踏む音がずれた時にそれに気付いた。
何だろう、ゴブリンかな。コボルトならどうにかなるかもしれないけど、それ以上はまだ不安だ。大得意の火球、ファイアボルトなら撃てるが、それだけで済んでくれる相手だろうか。
あの隆起した木の根が見える。壁のような斜面になっており、背中の籠の重さもあって一苦労だった。
そうして降りた時、ガサリと落ち葉の踏む音が重なった。
「誰!?」
コフルは頂上から滑り落ち、右手の森へルーン文字の光る杖先を向けて詰問するように鋭く尋ねた。
その声に応じたのは、四つ足で草むらを踏み締める瘦せこけたハイイログマであった。全長二メートル以上はあり、自然の動物とは言え、狼並みに会いたくない、コフルにしてみれば魔物と同じだった。
ああ、お腹を空かせているんだ。だから私を食べようと思ってるんだ。コフルは熊の異様に痩せた身体を見てそう察した。
「去りなさい! さもないと」
「ウルル、グアアアアッ!」
ハイイログマが四つ足で突っ込んで来た。
「火の神よ、我に力を貸したまえ! ファイアボルト!」
直径三十センチほどの紅蓮の火の玉がハイイログマの顔に命中した。熊は身動ぎした。
ここで斃すか、退散するのを待つか、自分が逃げるか。
コフルの聡い頭の中ではこの三つの選択肢が全て同時に出て、彼女は駆け出した。肩まで伸ばした髪の毛が首筋や耳に触れ、ヒヤリとさせる。
どれぐらい駆けただろうか。籠が思った以上に足を引っ張る。だけど、これを持って帰らなければ意味が無い。
不意に、左手の茂みが鳴った。
コフルはハッとしてルーン文字の明滅する杖腕を向けた。
そこで驚いた。先程の熊では無いし、何故、こんなところにこれがいるのだろうか。だが、納得する。これがいるからこそ、森が異様に悪意に満ちた闇を感じさせるのだと。
それは豚の鼻をした醜い魔物で、ずっしりとした体躯に斧を持っていた。
オークだ。バジリスクに会う並に最悪だ。
「ブオオオオッ!」
オークは声を張り上げて斧を振り回してきた。
コフルは慌てて後退しながら、足目掛けて魔術を放った。
魔術の光りはオークを転ばせることに大成功だった。
コフルは逃げた。本能が告げる、これは勝てない。師匠に報告してもう一度見つけ出して狩った方が賢明だ。
コフルは森の中を息を切らしながら駆け抜けた。だが、賢い自分としたことが、強敵に出会ってよほど肝を潰していたらしい。知らない場所へ出て来てしまったのだ。
「嘘、ここ何処?」
鳥の囀りも聴こえない。唯一聴こえるのは、落ち葉を踏みしめ、こちらへ向かって来る足音だけであった。
また何かが追って来る。だけど、このまま我武者羅に逃げれば余計に遭難してしまう。
コフルは覚悟を決めた。杖を向け、茂みから飛び出したところを火球で仕留める。
「ブルル、グオーン!」
飛び出してきた影はオークであった。鍛えられた半裸の下には腰布を纏っている。コフルは思った。ゴブリンに似ている。
「何故追って来るの?」
コフルはゴブリン語で話しかけた。
「ブエルルルッ!」
通じなかった。オークはよだれを撒き散らし、粗末な斧を振り上げてコフルに襲い掛かって来た。
「火の神よ、わた、キャッ」
オークの斧を避け、コフルは詠唱ができなかった。だが、思う。例えできたとしても目の前の敵を焼き尽くせる程では無い。
それでもやらなきゃ。
オークがこちらを振り返る。
コフルは師匠の姿を思い出していた。私ならできるかもしれないし、これが成功すればこの強敵を炭に変えることができる。
決意を新たに魔術をオークの足に向けて射出する。
見事に命中しオークは仰向けに転んだ。
今だ!
「火の神よ、私に力を与えたまえ。いざ、ファイアボール!」
杖先が飛び出したのは直径一メートルを超える、大きな火の球だった。
起き上がろうとしていたオークにぶつかり、その身体を燃やし尽くすべく煙りを上げながら、真っ赤な炎が魔物の身体を蝕んでいる。
コフルは杖先を向ける。だが、自分でもわかる。魔力の源、マナの力が枯渇していることを。ファイアボルトさえ撃てるか怪しいことを。コフルは願っていた。これで焼け死んで。
コフルが見守っていたのはもう一時間ほどかと思われた。だが、炭となって動かなくなった魔物の姿を確認し、無性に時間が知りたくて黄金色の懐中時計を出すが、もともと見ていなかったのでどのぐらいここにいたのか分からなかった。
何にせよ、森の脅威を排除できた。コフルは師匠に土産話ができたことを嬉しく思ったが、自分が遭難していることを思い出し、気落ちした。枯れ葉は柔らかく、足跡を消してしまう。今の戦いで、自分がどの方角から来たのさえ分からなくなった。
方位磁針、あれば役に立ったかな。夜になっても戻らなければ師匠が助けに来てくれるだろう。それに北極星を見て、方角を知ることができる。だけど、オークが一匹だけとは限らない。もう、自分には戦う力が残されていない。
不意に、木漏れ日すら遮る森の広場に激しい草葉が鳴る音がした。
「グガアッ!」
現れたのはハイイログマだった。
あはは、私、もう戦えない。クマのご飯になっちゃうんだ。
それでもコフルの脳裏ではどうすればここを突破できるか、最善の方法を探すべく、試行錯誤が過ぎっていた。
ファイアボルトを撃って目潰しする! その間に逃走! コフルは背中の荷物を置いた。
コフルの方針は決まった。
「火の神よ、私に力を貸したまえ、ファイアボルト!」
火球が真っ直ぐクマの顔面目掛けて飛んで行く。
よし、今の内に。少しだけ視界が暗転したような気がした。そして驚くべきことが起きた。ファイアボルトをクマは飛び退いて避けたのだ。
「嘘でしょ!?」
コフルは一気に絶望し、もはや立つ気力さえ萎え切ってしまった。地面にドサリと尻もちを着く。
私って美味しいのかな? などと、気弱な笑みを浮かべてクマが近寄って来るのを見た。
その時、クマが立ち止まり、両手を自分の頭の左右に添えて顔を脱いだ。
「へ!?」
「ばあっ!」
驚くコフルの前に現れたのはクマに扮した師匠その人であった。
「やぁ、コフル、見ましたよ、あなたの魔術。随分上達しましたね」
銀髪の細面の顔を微笑ませて師が言うと、コフルはさすがに抗議した。
「この野郎! いたいけな乙女をからかいやがって! 誰のお使いで森に来たと思ってるんだ、ああん!? 本当にビビったんだぞ、コラァッ!」
「まぁまぁ、コフル落ち着いて。私はコフルの成長を見たくてこのような芝居を打ったのですよ。オークが出て来て、それをあなたが焼き殺すことまでは計算外でしたが。コフルがここまで命懸けの探索をすることになるとは思っていませんでしたよ。本当です」
穏やかな口調でにこやかに言い訳する、この優男を殴り飛ばしてやりたかったが、もうそこまでの気力はない。
「罰として私を家まで送り届けなさい」
まどろみが襲って来る。そうして師がコフルを抱き上げた瞬間、コフルは師の胸の鼓動を子守歌に眠ってしまったのであった。