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1から始める異少女会話   [3/4]

 ☆☆☆☆


「………………クマ。タークマ」

「……おはよう。アーレン」

 俺の顔を覗き込むアーレンの髪に、朝の陽光が光る。

「オハヨウ、タークマ。ゴハン、ショウガヤキ? サンドイッチ?」

「美咲さんの生姜焼き美味しかったねえ……ご飯炊いて、海苔巻いて食べるかな」

 時刻は9時を過ぎている。土曜日とはいえ、かなりのんびり起きてしまった。昨日は荷物運びで疲れたから、仕方ないということにしよう。

「その前に、服着替えて、洗濯するか……」

「フク? アラウ?」

「うん。着替えはいっぱいあるけど、どれにしようか迷うな」

 出かける用事はないので、お洒落しなくてもよいのだが、せっかくだからアーレンには可愛いものを着せたい。美咲さんが選んだ服のおかげで、選択肢は豊富だ。

 そんな平和な悩みを考えていると、家のドアがトントントン、と丁寧に鳴る。

 アーレンが殺気立ち、手近な針金ハンガーを手に取る。成程、傘はどうやら武器にするために持っていたようだが、ハンガーでも武器にできるのか?

「アーレン、待って。宅配便かも」

 アーレンがひらがなや漢字を読むのに意欲的なので、せっかくならば文章を読めるようにと、俺が小学一年生の時の教科書を送ってもらうよう、実家に頼んだのだ。日中に頼めば翌日には着く距離ではあるが、それにしては速い。

 アパート全体の設備・管理スペースを改築して部屋にしているここは、来客確認用の覗き窓やインターホンなんて住居らしいものはない。ドアチェーンだけは付けてもらったが、ドアを開けて客人を確認するしかない。

「……………」

 昨日一昨日の出来事もあるので、慎重に、少しだけ開ける。アーレンもハンガーを傘に持ち替えて一歩後ろで待機。それはしなくていい。と思うが。

「どうも、荒船さん。一昨日はどうも」

 顔を出したのは、一昨日の晩、痴漢の件で三上家に駆けつけたお巡りさんだった。名前までは覚えていないが、地域の交番勤務の若い巡査で、町会の集まりや地域防災訓練にも顔を出している。ちょっとした顔馴染みだ。

「その節はご迷惑を。犯人どうなりました?」

「もう署に送ってね。初犯じゃないみたいだし、まあお縄ですね。殴ったって話ですけど、犯人自身もそれについては何も言ってないし、荒船さんには影響ないですよ」

 どうやら先日の件とは関係ない訪問のようだ。

 俺は少し安心したのだが、後ろからの殺気が強くなる。一昨日もこのお巡りさんには会ったが、その時は敵意は持っていなかったのだが。

「実は、今日は荒船さんでなくて。あの金髪の女の子、います?」

 その質問に、俺もやはり緊張する。彼は地域に根付いたお巡りさんらしくのほほんと、

「本署の刑事さんがですね。その子のことについて聞きたいと仰っていて」

 お巡りさんと入れ替わって、大男が現れる。

「荒船琢磨さんですね。手結たむすび署の本郷と申します」

 ドアの隙間の前に立ったのは、スーツ姿の上からでも筋肉がわかるような大男だ。顔の造り自体は素朴だが、眼光は険しく、クマ、いや、あえて漢字で書いて『熊』のようだ。

「アーレン・ハーファーハイトという女について聞きたいことが―――」

「――――ラアッッ!」

 すぐそばを風切り音が通り過ぎる。

 何が起こったのかを理解したのは、俺の横に傘を大きく振り下ろしたアーレンがいて、ドアの外で本郷と名乗った熊がうつ伏せに倒れているのを確認してからだった。

 推測だが、アーレンが一歩を踏み込み、縦に傘を一閃。石突を本郷の脳天に叩き込み、一撃で気絶させた、といったところだろう。

 努にはちゃんと手加減してたんだな……

「ほ、本郷さんっ?」

 ドアから下がっていたお巡りさんには、高速の一撃は視認できなかったようで、何が起こったのか理解できないままに驚いている。その方が好都合だ。

「どうしたんですかね、この人。まあ、いいです。金髪の子、お巡りさんにフルネームは言わなかったと思うんですが? なのに知ってるなんて、怪しい刑事さんですね。そんな人の質問には答えられませんので、連れて帰ってもらっていいですか?」

 三下の悪役ではないが、お巡りさんは慌てて熊男を肩に背負い、ひいこら言いながら階段を下りていく。

「危機は去った。……が」

 俺が横を向くと、アーレンの肩が跳ねる。珍しくおどおどした動きで、傘を棚にかけて置く。

「アーレン」

「ッ! ……ゴメンナサイ」

「まだ何も言ってない」

 身長差は10センチもないけど、それでも必死に送られる上目遣いには、許しを請う色が強い。

「ご飯にしよう」

 腹が減っては戦はできぬ。

 今から炊飯器で炊くのは時間がもったいないので、冷凍しておいたご飯を電子レンジにかける。アーレンに食器棚から茶碗と汁椀、箸、小皿を取らせ、俺は調味料の棚から醤油、その上から海苔缶、インスタントの味噌汁パックを取る。

 ケトルで沸かした湯にさっとネギとワカメの味噌汁をかき混ぜる。チン! と同時にご飯を取り出して茶碗へイン。

「いただきます」

 まずは米だけで一口。冷凍していても米は美味い。

 次は小皿へ醤油を注ぐ。が、まずは付けずに海苔だけでご飯を巻いて食べる。磯のかほりがする~。口蓋に貼りつくところを味噌汁で流して、次へ。

 今度こそ醤油をちょんづけして、ご飯を巻く。美味い。日本人が開発した生物兵器、醤油。万物の食事を司る神の業。もう醤油だけかけて食べてもいい。だがそれは気が早い。

「……イタダキマス」

 暗い顔で準備を手伝っていたアーレンが、ようやく箸を取る。言いたいことも、聞きたいことも山ほどあるが、それと表情とは別だ。凛としているアーレンは美しいし、落ち込んでいるのも可愛いけど、やはり美人には笑顔と、日本書紀の古来より決まっている。

「第二弾!」

 一杯目を海苔で平らげ、二杯目。ここで冷蔵庫より取り出したるは、もちろん卵。あと刻みネギ。

「卵。卵かけご飯」

「タマゴカケゴハン?」

 俺よりも早いペースで海苔ご飯を食し終えたアーレンが興味津々に、俺の手元を見ている。卓袱台の角に殻をぶつけ、直接白米の上へ中身を落とす。上から醤油をかけ、

「混ぜる! これぞTKGストロングスタイル!」

「テ! マゼル!」

「最後に刻みネギをパラっと……」

 かあ~っ、これこれ! これが日本人の急ぎ飯ですよ! さっさと食べて栄養満点! ジャパニーズファストフードイズナンバーワン!

「くう~、ごちそうさまでした!」

「ゴチソウサマデシタ!」

 笑顔でパン! と手を鳴らして合掌。朝から茶碗いっぱいに二杯のご飯を食べる女子に悪い子はいない。

 そう信じているが、どうにも周りにきな臭い動きが出てきた。話をじっくり聞かないわけにはいかない。

 ノートパソコンを取り出す。電話線だけはしっかり引いてあり、無線LANは使えるようになっている。

 起動し、インターネットに接続する。何文字か入力して次の画面へ移る様子を、アーレンが横で眺めている。

「この人、大丈夫?」

 見せるのは、一般的な警察官の画像。制服を着た、いわゆる『お巡りさん』だ。

「テ。ダイジョウブ」

 肯定の頷きがある。なら次は、と別の画像。一見するとただのスーツ姿のおじさんだが、一応『刑事ドラマ 捜査一課』の画像だ。

「ダイジョウブ」

「なら、これは……?」

 次に映すのは人ではない。建物の外観だが、

「……ナーテ。ダイジョウブ、チガウ」

 アーレンを連れていき、入らなかった、手結警察署。彼女はこれを大丈夫ではないと言う。

 二度会っても何もしなかったお巡りさんと、顔を見せただけで攻撃を喰らわせた手結署の刑事。

 これで確実なことが一つ。彼女は、手結警察署に何かしらの危険が存在することを知っている、あるいは気付いている。

 問題は、どうやって気付いたのか。

 ただ建物を見ただけ。そこから人も出てきていないし、大きな物音がしたとか、受付がバタバタしている様子が見えたとか、そんな兆候もない。名前を知っていた刑事は予兆がなくとも怪しいが、ならば竜先輩の方が怪しい近付き方をしていた。あの人にも本気で襲いかかってもいいはずだ。よくはないか。

 パソコンを閉じて、アーレンの正面に座り直す。彼女も、膝立ちに座り直して、拳を床に突く。

 まるで王様から命令か褒美を受ける騎士のようだ、という感想と同時に、その所作の理由にも思いを巡らす。

 彼女が元々着ていた服が、王族か軍服か、という想像。仮に中世の騎士のように王にでも仕え、功績を称えられたのであれば、勲章の付いた軍服と見ることもできる。

「アーレン。あなたは、誰?」

 あなたは誰なのか。そんな単純な質問では何もわからない。聞きたいのは、そんな単純な内容ではない。だが、こう聞くより外ないのだ。今の俺と彼女では。

「―――ワタシ、アーレン・ハーファーハイト」

 返ってきたのは、当然の回答だった。それが聞けるだけでも、初対面に比べれば進歩したものだ。

「……ワタシ、トゥベロン、…ダイジョウブ、チガウ、シラナイヒト、……」

 しかし、アーレンは言葉を続ける。彼女がこの数日で身に付けた、少ない手持ちの言葉のカードを切って、俺の問いに答えを探している。

「……アーレン、ケル。……シラナイヒト、……ミズ……アラウ……? …キル…?」

 それでも限界がある。あまりにも使えるカードが少ない。日常生活で触れた言葉を駆使しようとするが、アーレンのことをわかったつもりの俺でも意味がわからない。

「アーレン、ナカヨシ、…ク、ニホン、……ココ、ナイ……」

 次のカードを探して、彼女の目は泳ぐ。けれども、言葉のカードはそうしても手に入らない。

「イエカハットラーテフェィヤ、テレンベスコータカクレトラーテ! トゥベリエンテネクトナーテ、オイゲニックラーテ、デピェンイエソノナルラーテ……」

 原語に頼るも、俺にはわからない。今までに多少意味が伝わった言葉があったのは、前後の状況や行動があったからに過ぎない。

 アーレンが固まる。

 しばらく待ったが、動き出すことはできなかった。

「……ありがとう、アーレン。大丈夫、大丈夫」

 肩に手を置く。それは労いのつもりだったのだが、それを拍子に、彼女の青い眼から透明な液体が流れてきた。

「あ、アーレン?」

 見知らぬ俺に抱き上げられても、知らない土地での初めての夜も、街の不良に絡まれても、弱音を吐かなかった少女が落とした涙。それを上手く慰める方法が、俺にはわからなかった。いや、この場に誰がいようと、彼女を慰めることは難しかっただろう。

「あの、ほら、…本! 本読もう! ね?」

 提案できることといったらそれくらいだった。絵本の10冊や20冊程度、昨日の午後のうちに読み終えてしまっていた。

 その山から、アーレンは1冊を取り出す。『ぼくのきもち』という絵本。目に見えない感情の説明は難しいと思い、絵を通してわかりそうだと買ったものだ。それを、文を追うというより、絵を頼りにめくっていく。

 一枚一枚ページをめくり、お目当てらしい場面にたどり着く。それは、逆上がりができずに男の子が泣いている絵だった。書かれている言葉は、

「クヤシイ……!」

 その言葉の選択で、彼女の涙の意味がわかった気がした。

 彼女は、教えてくれようとしたのだ。自分のこと、トゥベロンのこと。一生懸命、彼女の持てる力を出して、俺に教えてくれようとしたのだ。

 それでも、彼女の持てる力では足りない。彼女には伝えたいことも、伝えようとする意志もあるのに、ただただその力がないのだ。

 クヤシイ。悔しい。伝えられないことが、悔しい。

 そして、それほどまでに伝えたい、伝えなければならないことが、彼女にはあるのだ。

 それを受け止められない、俺自身の不甲斐なさよ。

「アーレン。ごめん。アーレンは、すごい」

 頭を撫でる。それしか、俺にはできない。

 それは無力を恥じる、アーレンではなく、俺への慰めかもしれない。

「……アリガトウ、タークマ。アーレン、ホン、ヨム」

 彼女は、すごい。それは本心だ。

 こんな情けない慰めに立ち直って、すぐに切り替えた。

 そして彼女は、絵本ではなく、押し入れから覗く本棚から数冊を取り出した。


 この日、アーレンはよく本を読んだ。料理本とか、雑学本とか、大した本ではないが、明らかに大人向けの本を、辞書片手に読んだ。実家から取り寄せた、こくごの教科書が馬鹿らしくなるくらい読んだ。

 それでも、こくごの教科書もよく読み込んでいた。

 彼女が話せるようになったら。その日がいつ来るのかわからないけれど。

 俺も彼女の心を知ることができるのだろうか。


「ふぇ、料理本の中から今日の夕飯の献立が決まった、と」

 食材の買い出し及び安全管理のため、美咲さんと寧亞ちゃん(もちろんアーレンも)を連れてスーパーマーケットへ。徒歩2分で着く道のりとはいえ、美咲さんには昨日までの、そしてアーレンには今朝のことがあるので、どちらも一人にしておくのは不安だ。

 美咲さんには今朝の刑事の件は話していない。無闇に不安を煽っても仕方ない。幸い、その後半日の間、敵方に動きはなく、平和な読書タイムを過ごすことができた。昼食は残っていたシリアルで済ませた(それでもアーレンは美味しそうにおかわりをした)のだが、アーレンの腹の音を契機に、夕食を考える運びとなったのだ。

「親子丼かあ、いいねえ。アーレンさん、えーと、親子丼? ホワイ?」

「逆に英語はわからないですから。アーレン、なんで親子丼?」

「カラアゲハ ニワトリ デス。カラアゲ ハ オイシイ。タマゴカケゴハン オイシイ。ニワトリ、タマゴ、ノセル、オイシイ」

「ほ?」

 理由を説明するアーレンの話しぶりに、美咲さんが目を丸くする。昨日までと明らかに違う話し方。それはもう、驚くなり感心するなりしてもらわねば困る。

「アーレンさん、すごいね。いつのまにそんなに喋れるように」

「小1の時の国語の教科書読ませたんですよ。『は・を・へ』を読めるようになりましたよ。自分で話す時はまだ主格の『は』くらいだし、話し方が教科書調になってますけど」

「すごいねー、アーレンさん」

 精一杯背伸びをしてアーレンの頭を撫でる。美少女は少し照れくさそうに目元をゆがませて、すぐに真顔に戻る。

「トゥベロンハ オイシイ ゴハン、スクナイ。イツモ」

「とぅべ?」

 彼女の国、と説明するのは簡単だが、あの刑事の件がある。アーレンを探す理由が、トゥベロンから来たことに関係するとしたら、美咲さんも何かを知っていると思われるのは避けた方がいいだろう。

「とぅめろんー」

「ネーア、イイコイイコ」

 アーレンもそれをわかってか、美咲さんの聞き返しには反応せずに寧亞ちゃんの頭を撫でるだけで、話を流す。

「読める、話せるようになったのはいいんですけど、もう読ませる本がなくなっちゃって」

「じゃあ、預かってる間に図書館でも連れていってあげようか? いくらでも読めるよ」

「それは名案かも」

 公共の場に出るのは、逆に犯罪者対策になるかもしれない。刑事が何をするつもりかはわからないが、公衆の面前で手荒なことはしないだろう。

 もっとも、手荒なことの対処の方がアーレンは得意そうだが……


「いただきまーす」

「いたたいます」

「イタダキマス」

 二人分も3.5人分も同じなので、美咲家の台所を借りて親子丼を作る。初めて作ったが、案外上手くいくものである。

「んっ、あふっ、うんうん……琢磨くんは、卵固めが好きなの?」

「あっ……やっぱりふわとろにはなってないですね?」

「なるほど。まだまだ修行が足りませんねー」

 俺も食べる。

 ううむ。まずくはない。というか味は良い。鶏の下味も利いてるし、卵の味付けも邪魔にならずに噛み合っている。しかし食感。玉子焼きになるまでは固まっていないが、噛むのにある程度の力を要する固さだ。

 違う。俺が求めていたのはこんなのじゃない。もっと、唇だけで溶け切れるような、ふわとろの――

「タークマ! オカワリ!」

 美少女が茶碗を勢いよく差し出す。にっこりと、惚れ惚れするくらい目を細めて、おかわりを求めてくる。

 うん。親子丼の卵とじの出来をこんなに悩むなんて馬鹿らしい。でもなアーレン、次に作る時はもっと美味いからな。

「合点承知。大盛りだぞ」

「ヤッター!」

 くそ、可愛いなこの娘。神様ありがとう。

 アーレンは都合三杯おかわりしてくれた。いやホント叶うならばこんないい子と結婚したい。


 ☆☆☆☆☆


「いただきます」

「イタダキマス」

 昨日のうちに漬け込んでおいた煮卵をおかずに、白米。よし、良い味しみてる。この調子なら、一緒に漬けた豚も良い感じになっているだろう。今日の夕飯は決まりだ。

 となると昼は米は避けたいところ。竜先輩と一緒の可能性も考えると、無難にラーメンか?

「タークマ。ツナハ ナニ?」

 ツナサラダの中身が気になるようだが、シャケで混乱していたのに、マグロと言ってもわけがわからなくなるだけだろう。いや、料理本を読んだからもしかしたらわかるか?

「マグロ」

「マグロ……」

 料理本を取り出して、示すのは漬けマグロ丼のページ。真っ赤な身が光っている。マグロ丼もいいな。夕飯は煮豚丼にしようかと思ったが、煮豚焼きそばでもいいかもしれん。

「ごちそうさまでした!」

「ツナ…マグロ…ゴチソウサマデシタ」

 今日は月曜日。アーレンは心配だが、仕事に行かなければならない。美咲さんと一緒だし、連絡も取れるので、大丈夫だとは思うが。

「タークマ。アーレン、フク、キル」

 スーツに着替えている間に、アーレンも着替え終わったようだ。今日は白地に原色を何色もぶちまけたファンキーなTシャツにショートパンツ、アーレンの瞳と同じブルーのファスナー付きパーカーという、非常にカジュアルな服装だ。

「よし。それじゃ、行くぞ。漢字辞典、持った?」

「テ。カサ、モツ」

「よし。持とう」

 この際自衛のために持ってくれた方が安心だ。刑事を殴った時は、こんな細い棒切れでこれほどの威力が出るものかと疑ったものだ。

「タークマ、カバン、チガウ」

「ん? ああ。これは、仕事に行く時」

「シゴト…フェーテ、パパ」

 絵本で働くお父さんの横に書いてあったのだろう。意味と言葉がリンクした上で、アーレンはこう返してきた。

「アーレン、シゴト、イク」

「アーレンは美咲さんの家」

「タークマ」

 階段の行く手を遮る。これまた裏表のない真顔で、

「タークマハ アーレン、マモル。アーレンハ タークマ、マモル。シゴト、イク」

 この強情っぱりめ……

 今守ってほしいのは俺ではない。自分自身だ。そう怒ったところで聞き入れる相手ではない。

「私、大丈夫。アーレン、美咲、寧亞、守る」

「ミサキ、ネーア、マモル……」

 ふむ、と口に手を当て、わずかに思案する。彼女の中ですぐに答えは出たようで、

「テ。アーレン、ミサキ、ネーア、マモル」

「よろしくお願いします」

「ヨロシクオネガイシマス」

 アーレンも心配だが、美咲さんもまだ不安定そうだ。アーレンがいた方がお互いのためになるはずだ。

「というわけで、美咲さん。今日からよろしくお願いします」

「あいよー! 任せてちょんまげ! 琢磨くんが帰る頃にはアーレンさん、めちゃくちゃ賢くなってるかもよーあたしのおかげで!」

「アーレン。自力で頑張れ」

「テ」

「何よその疑いの眼差しは!? こう見えてあたし、小学校ではまあまあできたんだからね!」

 小学校でまあまあできたレベルの人は大抵大してできてない。というのは冗談としても、現代の美咲さんの言動の時点であまり何かを吹き込んでほしくないものだ。

「とにかく、気を付けてくださいね。何かあったらすぐ連絡を。怪しい人や警察官を名乗る人物、役所や省庁を騙った手紙等には十分に注意を」

「そんな詐欺被害防止の呼びかけみたいな……大家さんがドア直すついでに、カメラ付きのインターホン設置してくれたみたいでね。だから不審者も大丈夫! いざとなったらアーレンさんに出てもらうから」

「そうしてください。じゃ、よろしくお願いします。アーレン、いってきます」

「イッテキマス……イッテラッシャイ」

 絵本の情報とリンクさせて、返事が来る。しかし、せっかくのアーレンとの挨拶なのに、どこかもったいない感じがする。ハイタッチでもするか。

「アーレン。イェイ!」

「……イェイ!」

 横に美咲さんがいるせいか、少しためらってから片手でハイタッチ。俺達のやりとりに美咲さんがなぜかぶう垂れている。

「なんだなんだ、アーレンさんにはいってきますなのに、あたしにはお願いしますなんだ。ふーんへーんほーん」

「…………面倒くさい人だな」

「タークマ。シッ」

 アーレンにまで気を遣われてどうする、23歳一児の母。

「美咲さん、寧亞ちゃん、いってきます」

「いっえらっさーい」

「あなた! いってきますのチューは!?」

 大仰な動きで芝居がかった声を出す人妻。この手合いは乗ってやったら逆に照れて二度としなくなると思ったのだが、それはこの間やったのに効いていないから駄目だ。それにアーレンの教育によろしくない。

「いってきます」

「あ! 無視した! いってらっしゃい!」

「イッテラッシャイ!」

 もう一度、いってきますと返して、階段を下りる。

 いってきますを言える生活は、良いものだ。


 株式会社オルトロック。業務内容を簡潔に説明すると、警備だ。

 企業のビルなどで夜間警備をする仕事もそうだし、店舗や住宅に警備システムを導入して有事の際に出動するのもそう。あるいは多額の現金や貴重品を輸送する仕事もある。それが表の仕事であり、会社のイメージだ。

 俺が働くのはその裏方。表の仕事を顧客につなぐ営業部である。余談だが地方支社である。

「おはようございます」

「おっす。昨日はお楽しみでしたねえ」

 タイムカードを通して出勤、自席に荷物を置くなり、隣の竜先輩が軽口をくれる。

 まずは無視して、課長の席へ。勤務時間までだいぶあるが、課長は幾枚もの書類と格闘していた。

「泉課長。おはようございます」

 書類の山の主、いずみ礼名れな女史が顔を上げる。書類を置いて、わざわざ俺に向き直る。俺より4歳しか違わないのに課長まで務める敏腕社員は、どんなに忙しくとも部下と話す時は顔を見てくれる。上司として非常に好感を持てるところだ。

「おはよう、荒船くん。なんだか久しぶりな気がするわね」

「金曜日はありがとうございました。突然でご迷惑おかけしました」

「大丈夫よ。試用期間もとうに過ぎているし、有休は胸を張って使っていいシステムです。むしろ、湊くんと一緒に仕事してよく半年元気に来てるわ」

「課長ー。3課のゴミ山の方が後輩潰してますよー」

 部屋の反対側から飛んでくる言い訳は聞き流した。

「それで、その謎の女の子の件は片付いたの?」

 有休理由についての問い。申請の導入が不可思議なのだから、当然結果も気になるだろう。有休を消化した割に進展していないので、俺としては答えづらい。

「片付いてはいませんが……日常会話が概ねできるようになりました」

「ということは、まだ一緒に家にいるのですね?」

「はい。日中は下の階の人に預かってもらっていますが」

「そう……わかりました」

 そうつぶやいて、視線を書類に戻す。あれ? 普段、こんな風に会話を切る人ではないのだが。

 そう思って、その場を離れがたく立ち呆けていたら、

「……結婚式には呼んでくれますか?」

「は?」

「だから、荒船くんと、その、なんですか、アーレンさん? の、結婚式には、呼んでくれるのかと聞いているんです。私も、一応、職場の上司ですし、なんというか、ええと、……あなたの門出を祝う権利はあると思うのですが?」

「み~な~と~せ~ん~ぱ~い~~~……?」

「なんですぐ俺を疑うんだ! 大さんの可能性もあるだろうがっ!」

「アーレンに会ったのは努と湊先輩だけです。そして湊先輩はそういう軽口をすぐ言います。なので、ボコボコにするとしたら湊先輩です」

「おま、その名字で呼ぶのやめろ、怖いだろ普段ちゃんと慕った感じで呼んでくれてんのに!わかった、悪かったよ! 課長、その情報嘘ですから! 情報元はちゃんと調べた方がいいですよ!」

 どの口が言うか。

「あの、課長。その、アーレンというのですが、彼女とはそういう関係ではありません。本当に、偶然出会っただけで……」

「……じゃあ、まだ荒船くんには、そういう人はおらず、独り身生活が続くと」

 手元の書類に目を落としたまま聞いていた課長の唇が動く。その言い方も何かとげがあるが、間違ってはいない。

「まあ、はい。そうです」

「そ、そう。それは難儀なことですね」

 ようやっと課長が顔を上げる。が、しかし。

「なんでちょっと嬉しそうなんですか」

「や、そんなことはない! 何か困ったら、いつでも言いなさい。

 今日はB班は営業回りでしょう? そろそろ行く準備してらっしゃい」

 心なしかニコニコ、とニヤニヤの中間辺りの笑みを浮かべる課長に一礼して離れる。自席に戻って、まずすることは、

「先輩ぃ……?」

「怒っただろ!? あんなに怒ってたのにまだ怒るのか!?」

 小学生かこいつは……

「冗談ですよ。努と池さんはカード通したらすぐ出る人じゃないですか。書類とか名刺持ちましたか?」

「お前さあ……怒ったらめちゃくちゃ怖いんだぞ? 自覚持たないと、カノジョできても怖がらせちまうぞ?」

 いつそんなに怖く怒ったというのだ。まったく、この先輩は本当に虚言癖がひどいな。

「おはよう。相変わらず早いな、二人は」

 はす向かいの席に、昨日の刑事に劣らぬ大男が到着する。違うのは、あちらが変哲もない黒髪だったのに対し、こちらはホッキョクグマを思わせる金髪だ。金髪なのに白熊? こちとら動物園の黄ばんだホッキョクグマしか知らんのでな。

「おはようございます、池さん」

 俺が所属する営業部営業2課、B班の主任であるいけ大作だいさくは、格闘家顔負けの肉体を誇る。うちの会社は広報部所属扱いでレスリングの選手が何人か所属しているが、そういうのとはまた違う使い方をする筋肉だ。

 俺達の主な仕事は当然営業なのだが、社の方針で、定期的に警備部の仕事にも取り組まされている。そのために、研修期間には新入社員全員が護身術や格闘術を叩き込まれる。そういう流れもあってか、営業部でも広報部でも経理部でも、ムキムキな人が多いのが特徴だ。ちなみに泉課長は引き締まっているが、ムキムキという感じではない。ジム通いは日課にしているそうだが。

「おはようございます! 今日も最後かあ」

 出発ぎりぎりに出社した努も、スーツ姿ではひょろっとして見えるが、脱ぐとなかなかの細マッチョだ。

 2課の営業は班ごとのローテーションで外回りに行き、4人1班の中で2手に分かれるのが基本だ。主任の池さんと一応先輩の竜先輩が組むことはなく、俺と努のジャンケンによりその日のペアが決まる。

「っし、主任で!」

「っそおあ、また竜先輩かああ!」

「おいお前ら、今日こき使うから」

「竜と琢磨は喧嘩しないで行ってこいよー」

 B班は基本的に同じエリアを同日に回る。今日は初坂南口方面だ。

「七月くらいにも来ませんでしたっけこの辺。というか、そんなに回る所ありますかね?」

「前回断られた所もあるだろー。二度と断れないように徹底的にやってやんだよ。よその会社と契約してる所もこっちが行けば考え変えて鞍替えしてくれっかもしんねーし、契約者にも新しい商材を説明して押し売りしなきゃなんねえだろ? そのための使いっ走りだぞ」

 なんだろう、言っていることはあまり間違っていないのに、口が悪いせいで仕事というよりシノギの話に聞こえる。

「この辺の裏路地とか前回来てないだろ。そーだ、ついでだから坂下行って田口に挨拶するか? こないだの噴水の喧嘩やったの僕のカノジョですって」

「カノジョじゃないですし喧嘩もしてないです」

 ってことにしてください、と小声で付け加える。へーへー、と頷く先輩は相変わらず腕まくりスーツ状態だ。よくこれで営業が務まると思うが、うちの会社の奇抜なシステムのおかげでもある。詳しくは後述。

 先日、アーレン達と来た時も少々狭い路地には入ったが、今日は完全に『裏』の初坂に来ている。看板に落書きだらけの古着屋なんかはまだまともな見た目で、首が変な方向に曲がって注射器を口にくわえているマネキンが飛び出しているショーウィンドウとか、店の看板もなく地下への奥まった入口だけがあるクラブハウスとか、今にもカラーギャングか半グレ集団が出てきそうな雰囲気だ。

「予想通りというか、案の定というか、当然というか、少なくともうちの契約ステッカーは貼ってないですね」

「泣く子も黙るオルトロックのステッカー貼ってないとは、不届き者だ。琢磨ぁ、カチ込むぞ!」

 この人、さては馬鹿なのでは……? 疑問が湧き上がる間に、竜先輩はクラブの扉に手をかける。この人の営業は思い切りの良さでできている。

「こんにちはー! 責任者の方いらっしゃいますー?」

 無鉄砲を絵に描いたような訪問をした店内には、既に先客がいた。といっても、俺達同様、店としての客には見えない、スーツ姿の大男だった。

「んだあ、同業か?」

「いや……多分、警察です」

 店員が俺達に気付き、話していた大男も振り向く。あちらも俺達の姿を見て、少し驚いたように目を見開く。

 最悪だ。いや、逆に考えれば、これはチャンスだ。

「本郷刑事、でしたよね。昨日はどうも」

「荒船さん……こんな所で会うとは」

 ではどうも、と店員との話に区切りを付けて、熊のような刑事が近付いてくる。当然、笑みの一つも浮かべずに。

「大丈夫でしたか? 突然倒れられたから、驚きましたよ」

「ええ、問題ありません。それより、アーレン・ハーファーハイトと話はできそうですかね?」

 どうしても話を聞きたいらしい。所在については交番のお巡りさんから聞いたのだろうから、しらばっくれても意味がない。

「なぜアーレンを追っているんですか? 彼女が何かしたんですか?」

「それはあなたが知る必要のないことです」

 取り付く島もない。だがそれこそ、彼女が何かをしたことの証明に聞こえる。

 少しの間、沈黙が流れる。

 アーレンは手結署を警戒している。手結署はアーレンを探している。そして手結署はあのアパートにアーレンがいることまでは突き止めている。

「……そういえば、坂下の噴水広場で喧嘩があったみたいですね。その捜査ですか」

「……ああ。よくご存じですね。目撃情報でもお持ちで?」

「いいえ。先輩から聞いたんで、そうかなーとだけ」

「成程。そうですか」

 聞きたいのがアパートの痴漢の件なら、お巡りさんからでも聞けばいい。広場での喧嘩の件なら、『実はそのことなんですよ』とでも言って聞けばいい。どちらも俺に隠し立てするほどの話じゃない。

 こいつは、アーレンにとって、何者なんだ?

「琢磨よ。こいつ、刑事だって?」

 珍しく黙って聞いていた竜先輩が、親指で本郷を指す。刑事だとわかってその態度、ふてぶてしいが、それでこそ先輩だ。

「そうです。昨日、家に来て」

「ほーん。どうも刑事さん。俺、株式会社オルトロック営業部2課、湊って言います。これ、名刺どうぞ」

 内ポケットからスッと名刺を差し出す。警備会社という性質上、警察と関わることも少なくない。仮にも社会人、手慣れた手つきで渡す紙切れを、本郷はこのタイミングかと戸惑うように受け取る。

「手結署の本郷です」

「手結署の本郷さんね……どちらの部署なんスか?」

「部署は……生活安全課です」

「手帳は?」

「は?」

「警察手帳。持ってますよね?」

「ああ……これですが」

「そ。どうも。仕事柄、お付き合いすることも多いんで、どぞよろしく。おい琢磨。知り合いかもしんねえけど、ちゃんと名刺渡しとけ」

「は、はい」

 俺も内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を差し出す。なるべく関わり合いたくないので、会社とはいえ連絡先が書いてあるものを渡したくないが、ここで先輩の命令を断ると話がややこしくなってしまう。

「……ご丁寧にどうも」

 無造作にジャケットの前ポケットにしまうと、本郷は軽く頭だけ下げて店を出ていく。バタン、と扉がしまったのを確認して、竜先輩が、

「やだね~最近のポリって。名刺のしまい方も知らねえのかよ」

「ビジネスマナーについては先輩が言えることはないと思いますけど……」

「どーでもいいのよ、そんなことは。店員さん、お待たせしてすんません。私達、株式会社オルトロックの者で、営業に参りました! これ、名刺です」

「は、はい。店長の村井です」

 何事もなかったように本来の仕事に戻る。気弱そうな店長は、その見た目通りに竜先輩のペースに押される。

「あの、変わったお名刺ですね」

「ええ! それがうちの会社の特徴でして。私達営業ですが、警備業務を請け負うこともあるんです。なので、こういう人が皆さんの生活やお仕事を守りますよ、と知ってもらうことで、親しみやすく、かつ信頼を持ってもらうために! こういう仕様にしております!」

 店長が不思議がるのも無理はない。オルトロック社員の名刺は、変だ。

 縦長の紙に名前と所属、連絡先が書いてあるのはいい。しかしそれは中央で主張はしておらず、右下または左下に小さく寄せてある。代わりに中央には、顔から上半身、腰辺りにかけてのポーズを取った本人写真、そして左右の柱に分かれて、

「『疾風迅雷 一騎当千 我 難攻不落之守護者也』……湊竜太郎さん、ですか?」

「です! ご契約の窓口には、ぜひ湊を! ご指名ください!」

 社員が考えたキャッチフレーズ――俺と努は『(ポエム)』と呼んでいるが――が刻まれている。これは本人が考えている場合もあれば、他の社員が考えて付けている場合もある。竜先輩は、間違いなく前者だ。

「こちらもうちの者で。おい琢磨、名刺!」

「はい。荒船琢磨と申します。よろしくお願いいたします!」

 水色の名刺を差し出す。ちなみにオルトロック仕様名刺は背景色も指定でき、斜線とかドットにするとか、デザインも融通が利く。竜先輩は黒地に赤の十字を刻んだ背景だ。俺は白で良かったのに、竜先輩や池さんにみんな色を付けるモンだと騙されてこのザマだ。昇進するとメタリック加工にしたり文字をレリーフ加工にしたりできるらしい。泉課長も真面目な顔してラメ加工がしてあった。

「『癒しの3条件――温かい食事、大切な人、安心して過ごせる家――私達がその3つ目をつくります。』……荒船琢磨さん」

「そうです……」

 これを考えたのは間違いなく後者である。断じて俺ではない。というか竜先輩と池さんだ。

「なんか、キャラがわかる感じしますねえ」

「でしょう! その辺もご参考にしていただいてって感じでですね――」

 ……こんな名刺を渡した後で、すぐ仕事の話ができる先輩は、すごくタフだと思う。


 そんなやるせない思いを何件分か今日も体験して、昼食を取るために池さん、努と駅の近くで合流する。

「竜ー。そっちどうだったよ?」

「1件取ったッスー。つーか六世ビルのオーナー、最悪ッスよ。テナントごと契約、徴収支払いオーナーって自分でしたくせに、テナント変わったの黙ってやがって」

「お金貰ってるんだったら変わらないんじゃ?」

「だったら先輩も怒らないよ。テナント一つしか入ってなかったフロアが改装して2テナント入っててさ。怪しいと思ったら、どっちも1フロア分の契約料オーナーに支払ってた。オーナーがチョロまかしてたんだよ」

「うわー。今時そんなことやる人いるんだ! はした金じゃないですか、そんなの」

「もー、オーナーボッコボコよ。前から好かなかったんだよなー、あそこのボンボン」

「まさか、物理ボッコじゃないだろうな?」

「精神ですよ、さすがの竜先輩でも」

「こら琢磨、どういう意味じゃ」

「まあ、そこのオーナーは課長に報告だなー」

「ン待たせしましたー! 味噌、塩チャーシュー大盛り、オロチョン大盛り、でっかいどうオロチョンチャーシュー!」

 成果報告の合間に注文したラーメンが着弾する。

「っし、待ってましたあ! 竜先輩、ご馳走さまです!」

「おいトム、俺は店を紹介しただけだっつの。誰が奢るか」

「つーか池さんのデカすぎじゃないですか?」

「二倍って書いてあったけど、絶対三倍あるだろ……食うけど」

 ピーマンの入っている不思議なラーメンだ。チャーシューとは違う豚肉の塊が汁の中に紛れていて……まどろっこしいのはやめだ。食う。

 白髪ネギ、シャキ! ピーマン、ポリ! いいねえ、麺の前哨戦としては……

  ズズズルッ  ズズッ ゾッ

「っぷあっ!」

 いいね。ちょっと辛いスープがよく絡まって、麺が進む進む。ズズッ。いいね。薄く切るチャーシューと違って、直方体の肉が、スープの味に合う強さだ。これなら30回噛んでもいい。

 でも麺は駄目だ。ズゾッ。お前なんか、こうして、ズゾッ、こう、ズズルッ、こうだっズズズルルッ

「琢磨、相変わらず美味そうに食うなあ」

「ほうでふか?」ズズッ

 巨大なラーメンを豪快にすすりながら池さんがつぶやく。竜先輩もたまに言うが、そんなに意地汚く見えるだろうか。

 美味しそうに食べるといえば、アーレンだろう。二人はアーレンの食べっぷりを見てもそう言ってくれるだろうか。

「トムも見習ってもっと食え、食え! 筋肉付かねえぞ!」

「いいんです、俺は。服の上からわかるほど付かなくて。俺はカノジョができたら『えー努くんって腹筋割れてるのー意外ー触らせてー! いいなーエリ(仮名)はおなかふにょふにょだもーん触ってみるー?』ってやるのが夢なんですから」

「お前の妄想、結構キモいな」

「受付の早川さんとかやってくれそうじゃないですか? ふわふわ系女子」

「うちの社員はみんなムキムキだぞ」

「えー受付嬢もですか?」

「ムキムキかどうかはともかく、同期の金戸さんは護身術研修受けてたよ」

「そうだなあ。受付担当でも、ナイフ一本の押し入り強盗を撃退する技術くらいは叩き込まれるぞ。身に付く技能かは別としてな」

「じゃ、社員は無理か……」

「いくら筋肉があったって、琢磨のカノジョくらい可愛けりゃオッケーだろ」

「あー、アーレンさんでしたっけ? うわー、あれくらい可愛かったらなー、迷うなー」

「カノジョじゃないし、勝手に迷うな」

「おいおい、竜も努も会ったことあるのかよ。俺にも見せろ。そんな可愛いのか」

「可愛いっつーか美人系ッスよ。美人系っつーか、もーガチ美人! この世の外国人モデルを全部融合させたらあんな感じ?」

「それバケモンじゃないですか」

「あ。思い出した」

 食べながら休憩時間らしい無駄話を咲かせていると、不意に竜先輩が俺に箸の先を向ける。

「あの怪しい刑事。何者なんだよ」

「……やっぱり、怪しいですよね」

 先輩はラーメンをすすりながら頷く。何も知らない努が、レンゲに小ラーメンを盛り付けながら、

「竜先輩達、初坂署まで行ったんですか? あそこ駅からめっちゃ遠いじゃないですか」

「ちげーよ。たまたま入った店に聞き込みかなんかで刑事が来てたんだけど、なんか琢磨と知り合いだったらしくて」

「知り合いってほどではないですが」

「でも知ってたんだろ? でよー、手結署だっつーわけ。手結署は俺、先月挨拶回りして新しい名刺全員に配ってきたばっかだし、こんな奴いなかったよなーって思ったから所属聞いたら生活安全課だっつーし。話聞いてるとアーレンちゃんのこととか坂下の喧嘩のこととか嗅ぎまわってるらしくて、なんで生活安全課がそんなことすんだ? って感じ」

「手結署の刑事が? アーレンさんは家出少女として届けでも出てるならあれですけど、坂下の喧嘩は確かに…所轄越えてまで捜査するようなことじゃないですよねえ」

「そーそー。しかも『手帳は?』っつったら、リアクション薄っしーの。俺、ガキの頃から会話するポリみんなに同じこと言ってるけど、ちゃんと警察手帳のことだってわかってリアクションするぜ。ポリ公の自覚足んねーんじゃねーの?」

 竜先輩と努が2人で刑事の粗探しを続ける。俺が訝りながら本郷と対峙している間、先輩も頭の中で動いていてくれたのだ。

「何より、一番おかしいと思ったのは」

「のは?」

「俺達の名刺を見ても、何も言わなかったことだ……!」

「ええー!? そんな人類います!?」

「だよなあ! 老若男女、小坊に見せたって『カッケー!』か『ダセー!』か、でけえ声出すぜー!? なのにあの、名前忘れたけど刑事、変な顔もせずにそのままポケット直行! つーか名刺を直でポケットにしまうな! ビジネスマナー幼稚園からやり直せ!」

「竜先輩にビジネスマナーだけは言われたくないですよ、そいつも…あー、俺のチャーシュー!」

 そうなのだ。自分自身、未だに慣れないとはいえ、名刺のやりとりは入社半年で何十回と繰り返してきた。どんなに反応の薄い顧客でも、噴き出すなり眉を顰めるなり、『変な名刺』と認識していた。一部では『オルトロック公式ファンブックキャラクター図鑑』とか『オルトロックオフィシャルトレーディング名刺ゲーム』なんて呼ばれているほどだ。

「もしかしてそいつ、外国人だったとか? ほら、外国の人は日本のハンコ文化が理解できないとか聞くし、そんな風に名刺文化も浸透してなかったとか」

「本郷って名乗ってたし、見た目も日本人に見えたぜ? つか、名刺ない国とかあんの?」

「探せばいくらでもあるんじゃ」

「名刺を知らない……」

 そんな奴いるか? いるじゃないか。

 名刺どころか、シャワーだって知らなかった奴がいるんだ。

「……ちょっと、電話いいですか」

 急激に不安が襲う。

 大丈夫だ。もしかしたら。昨日だって一日。でも今日は。さっきここらにいた。もう何時間も経った。はっきりとしない不安と、安心。しかし後者は、ただの慢心だったとしかもう思えない。

 美咲さんの携帯電話への発信は数コールで繋がる。

『タークマ?』

 もう聞き慣れた鈴のような声。ほっと胸を撫で下ろす。

 それもつかの間だった。

『美咲なら、今は電話に出られないぞ』

「――――――!?」

 電話口の第一声とよく似た声。しかし、この話し方。アーレンのはずがない。

『申し訳ないが、彼女の声を聞かせることはできない。こちらもいろいろと準備を進めていてな。君が戻ってきた時の驚く顔が楽しみだ』

「お前――」

 言葉が上手く出てこない。

 お前は誰だ? アーレン達は無事なのか? 何が目的なんだ?

 聞かなければならないことはいくつも浮かぶのに、膨れ上がっていく不安に思考を塗り潰される。

『……こちらも忙しい。切るぞ。では、また』

 アーレンに似た声が聞こえなくなる。

「……た、琢磨? どした? 深刻そうな顔して」

 迂闊だった。油断していた。

 あの本郷という刑事を撃退したから? その日一日、何者も害を加えてこなかったから? 今日会って、大きな動きを見せる様子でなかったから?

 何もかも、俺の危機意識が足りなかっただけじゃないか。

「……池さん。俺、早退します」

「何かあったのか? 例の女の子のことか?」

「はい」

「わかった。俺達は問題ないけど、課長には直接自分で伝えろ。あの人、金曜だってすごく心配して、気にしてくれてたんだぞ」

「――はい」

 店を飛び出し、走りながら泉課長に直接電話する。

『泉です。荒船くん? どうしたの?』

「すみません、午後早退させてください!」

『また急ね。体調不良……いえ、あの女の子のことかしら?』

 何を以てそう感じ取ったかはわからないが、話が早くて助かる。

「そうです!」

『……だとしたら、これは言わせてもらいます。

 君は、彼女を安全な状態にするために、金曜日を使ったのではないのですか? 上手く事が運ばなかったとしても、安心して仕事に出てこられるように対策してきたのではないのですか?』

 思わぬ言葉に、胸が苦しくなる。泉課長の言葉は続いた。

『3日もあって、それが十分にできていなかったのだとしたら、安心・安全を売る我が社の一員として、意識が足りていないと思いますよ』

 全く以てその通りだった。

 思い出す。なぜこの会社を受けようと思ったのか。

 実家に置いてきた漫画やアニメのヒーローが泣いているぞ。俺は彼らに憧れて、何かを守りたくて、この会社を選んだんじゃないのか?

 大事な物を守ることに誇りを感じて、この道を選んだんじゃないのか?

 だから、彼女のことも放っておけなかったんじゃないのか!?

 助けたい気持ちも、実家に置いてきてどうする!!?

『…………そんなに、その子が大事なんですね』

 課長がずっと沈黙していたような、そんな時間を感じた末に、責めるでもなく、落ち着いた優しい声が耳に響く。

「…………はい」

 ちゃんと返事できていたか、わからなかった。それと関係なく、課長の声がする。

『朝も言った通り、有休は使って然るべき制度です。申請理由は『恋人を守るため』にしておきますから。それとは別に、警備会社社員としての意識については改めてもらわなければなりません。明日、覚悟しておきなさい』

「――――はい!」

 助けになれることがあれば会社も力になるから、と最後に言って、課長から電話が切れた。

 俺は走った。


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