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1から始める異少女会話   [2/4]

 結果的に、有休取って女性物下着を買っただけの男になってしまった。

 しかし取った有休は戻らない。時間を持て余している。

 せっかくだから、アーレンに日本の街でも見せてやろう。警察に行かないのであれば、またしばらくは我が家を拠点に生活することになる。多少の生活文化や風俗は知っておいてもらう方が、何かと便利だろう。

 帰ってきた駅でそこそこの大きさの書店へと入る。

 書店、というか本は世界の縮図。数センチの厚さの紙の上には一つの次元が広がっている。本好きの友人の受け売りだが、それがいくつもあるのだから、文化を知るにはうってつけの場所だろう。

 それに、アーレンがどんな本に興味を示すのか、その嗜好も気になる。文字が読めないから表紙買い限定になるが。

 そんな意図もありながらそれとなく、店内をゆっくり回る。視覚的に訴えやすい雑誌棚をゆっくり回るも、反応は薄い(どこでもやっているキョロキョロ程度)。

 漫画コーナーはなかなかの反応だった。いくつか表紙を食い入るように見つめていた。アクションとかバトル物だろうか。

 存外に一番の反応があったのは、児童向けコーナーを散策している時だった。

「タークマ。ヌクアント?」

「ん?」

 彼女が指差したのは、ひらがな五十音表だった。お風呂に貼れるという売り文句のキャラクター商品だが、まさかキャラクターが気になったわけじゃあるまい。

「『あ』。『い』」

「ア? イ?」

 一文字ずつ指し示せば、その文字を理解していく。

 物は試しだ。五十音を一通りさらって、今度は俺は黙ったままで。

「コ。タ。ミ。ン。リ。ケ」

「おお! もう覚えた! アーレン、すごい!」

「スゴイ? ス、ゴ、イ」

「そう!」

 あっという間に覚えてしまった。思わず、子供を褒めるように頭を撫でてしまう。しかしこれは、これは捗るぞ。

「アーレン。イェイ!」

「イェイ!」

 店内でハイタッチする迷惑なカップルの図になってしまったが、これは良い買い物になりそうだ。

 俺はうきうきでひらがな五十音表とかたかな五十音表、そして幼児向けの学習絵本を買い漁った。


 帰宅し、昼飯はコンビニ弁当|(安い)だ。俺は休日は自炊する派だが、今日はのんびりしている暇はないので、レンジでチンのミートソーススパだ。

「アーレン。これ、スパゲッティ」

「テ。スパゲッティ」

「ミートソース」

「テ。ミートソース」

「フォーク。ぐるぐる」

「テ。フォーク、グルグル」

「いただきます」

「イタダキマス」

  クルクルッ

 ああ、いかんいかん。これはいかんいかんですよ。レンジでチンするだけなのにこんなに美味しいのは。ミートソースとかいう悪魔の発明品。混ぜるだけで美味いのは反則ですって。イタリア人に感謝。感謝しすぎて長靴履けないね。この刻んだマッシュルームがね、パスタ巻いてから刺そうとするんだけど、刺さらなくて……ええいしゃらくせえ! ミートソースのマッシュルームは単体で食っても美味いんだよ! ぶす! んで、不器用だからどうしてもソースが最後余るんですよ。このソースだけをすくって食べるのがね……なんか意地汚いように見えるけどね……やっぱこの一すくいが、ミートソース食ってるなっていう大事な感覚を呼び起こしてくれてね……

「ごちそうさまでした」

「ゴチソウサマデシタ。ヤー、クッタクッタ」

 昨日の唐揚げ後に俺がつぶやいた言葉を真似する。いかん。既に異国の美少女が変な日本語を覚えている。

 優雅に昼食をキメこまずにコンビニ弁当で急いだのには理由がある。アーレンの日本語教育にも関係するが。

 アーレンの身柄をどうするか問題。彼女が何を警戒したかは不明だが、警察に頼りがたいならば、すぐ行動できる出先はない。

 なら我が家を拠点に生活、行動するしかないのだが、俺もれっきとした社会人だ。今日は有休を取ったが、週明けには仕事にも行かねばならない。アーレンの分の生活費も必要なのだからなおさらだ。

 となると、平日の我が家にアーレン一人になる、という課題が浮上してくる。

 別に家事を任せたいわけではない。箸もフォークも使えるので、ご飯は作っておけば食べられるかもしれない。だが、世の中には衣食住以外の危険もある。怪しいセールスも来るかもしれない。もし美少女が一人で過ごしていると知れれば、悪漢がやってくるかもしれない。

 幸いにもここは一軒家ではない。アパートだ。

 遠くの親戚より近くの他人。頼るべきは住人だ。

 そういうわけで、301号室、階下の住人の元へと出向く。

「……アーレン。傘、違う」

 再びビニール傘を手にしたアーレンに忠告する。そんなに気に入ったのか。

「タークマ。カサ、モッテイク」

「……了解。持っていこう」

 気を取り直して、階下へ向かう。

  ピンポーン

「4階の荒船です」

 古いアパートゆえの壊れかけたインターホンが鳴る。のぞき穴に向かって名乗ると、ややあって、ドア越しのくぐもった返事があった。

「はーい。今開けまーす」

 鍵とチェーンの外れる音がし、スチール製のドアがちょこんと開く。

 隙間から顔を出したのは上下スウェットのアーレンに劣らない、ラフな服装の女性だ。トレーナーに半纏を羽織った、小柄な体。肩口で切りそろえた黒髪にヘアバンドをして、化粧もしていないだろう。化粧をしていないのはアーレンも同じだが、いかにも現代日本人の家での過ごし方、みたいな雰囲気を出している。ちんまりとしていてやや丸顔の、小動物のような容姿も影響しているかもしれない。

「美咲さん、すみません真っ昼間に」

「いーえー。どっちかってゆーと、琢磨くんが平日になんて珍しいね」

 3階の住人、三上みかみ美咲みさき。学年で言えば俺と同じで、一児の母でもある若奥様だ。

 ちなみに、下の名前で呼ばれるほど親しいのは、町内会の集まりで顔を合わせる唯一のアパート住人だからである。こう見えて俺も、近所付き合いを気にしているのだ。

「ちょっと事情とご相談がありまして……」

「あらら。あ、こんな所でごめんね。中入って……ほ?」

 大きく開けて、ようやく後ろのアーレンの存在に気付く。途端、大きな目を真ん丸にして、輝かせた。

「琢磨くん……そちらの方は?」

「彼女のことで相談で……中で、でいいですか?」

「どっ、どうぞどうぞ」

 俺だけの時と違って慌てた様子で招き入れる美咲さん。平日昼間に芸能人顔負けの美少女と対面すれば、同性でもこんな対応になるのか。

「ごめんね、散らかってて。寧亞ねいあのフィーバータイムがさっき終わったところだから」

「いえいえ。お邪魔します。……アーレン」

「? オジャマ、シマス?」

 四階の我が家と違い、三階以下の部屋はそこそこの広さだ。洋間二部屋にダイニング・キッチンがある。2DKというやつだ。四階はアパート全体の設備にスペースを取られていて、部屋が小さくされているのだ。その分家賃が安いので、一人暮らしには助かることこの上ない。

 ダイニングテーブルの席を勧められて座る。の前に、

「アーレン。傘」

「タークマ。アーレン、カサ、モツ」

「アーレン。駄目」

「タークマ。ヌアタラターテ、ノンフェカナー…」

「駄目」

 またまくしたてようとするが、遮る。よっぽど気に入ったようだが、日本の文化、というか礼儀も知って守ってもらわねばならない。ましてや人の家である。

「イオシナーテ……」

 渋々と、ビニール傘を差し出す。はたから見たら、どういうやりとりに見えるのだろうか。

「アーレンさんって名前?」

 美咲さんは気にしないようだ。まあ、その方がありがたい。

「そうです。実は彼女のことで相談があるんですが……まずは自己紹介からか。

 アーレン。あいさつ。私、タークマ。あなた?」

 さあどうぞ、とアーレンから美咲さんへの手ぶりで示すが、美少女の顔には険が見え隠れする。視線は俺でなく、美咲さんだ。

 やがて、自己紹介ではない文で口を開く。

「ワタシ、アナタ、シラナイ。アナタ、ダイジョウブ、ナイ」

「大丈夫、アーレン。待って」

 駄目だった。傘を奪われたせいか、言葉の通り知らない人だからか、敵意丸出しである。

「すみません。俺が説明します。警戒心が強いんです」

「日本語上手ねー。発音もキレイじゃない?」

 どこまでも精神が強くて助かる。図太いとも言うが。

 美咲さんにかいつまんで説明する。彼女の名前と、知らない土地から来たこと。言葉は通じないこと。行き倒れていたこと。警戒心が非常に強いこと。警察には行きたがらないこと。それによって、しばらく俺の家にいること。

「で、大変申し訳ないんですが、俺が仕事でいない間、一緒にお部屋にいさせていただけないか、というお願いでして……」

「なるほど。でもね、話にもあったけど、すっごく警戒してるじゃない?」

 もっともな指摘だ。それを解消するために、今日来たのだ。

「俺とも小一時間で打ち解けたんです。慣れさえすれば大丈夫だと思うんですよ。なので、今日と、この土日も一緒に過ごさせてもらえたらなー、と。俺がいれば多少緊張も緩和すると思うんです」

「あ、なるほどなるほど。良い考えかも!」

 パチンと手を叩く。美咲さんはにこにこっと柔和な笑顔で、

「あたしは大歓迎です! 寧亞ちゃんもいいよねー?」

 隣室の長女氏への確認。ぶーう、ふぇー、という声だけが返ってきた。

「オッケーです! 他ならぬ琢磨くんの頼みだからね。できる限りの協力はさせてもらいます」

「ありがとうございます。太健さんにも改めて……」

「んー。太健さんね、出張中なのよ。あと二週間くらい帰ってこない予定でね」

 太健さんというのは三上家の主人、美咲さんの旦那さんだ。俺も多少は鍛えているが、あの人はいかにも強そうなオーラを放っている。

「まったく、こんなに若くて可愛い奥さんをほっといて何が仕事だか……浮気してくださいって言ってるようなもんじゃんねえ?」

「太健さんいないんだったら、ケーキじゃない方がよかったな……寧亞ちゃん、プリン食べられますよね?」

「ちょっとちょっと! 琢磨くん! そこはさあ、『そうですよね、俺だったら出張先にも連れていきたいくらい美咲さんは可愛いのに……』とか、『それって……誘ってるんですか?』とかさあ! リアクションがあるじゃない!?」

 親しくしてくれるのはいいのだが、加減はしてほしい。というか旦那にそんな勘違いされたら殺されそうだから乗りたくないのだが。

 では、改めて。

「アーレン。あいさつ。彼女、美咲。美咲さん、どうぞ」

「あー、アーレンさん。ワタシ、ミサキ。ヨロシク」

 調子を合わせてくれているのか、というよりも緊張しているような美咲さんが、手を差し出す。アーレンはその手をどうしたものか、と眺めている。

「アーレン。大丈夫。美咲、あー、仲良し?」

「ナカヨシ?」

 どう説明したものか。

「んん……アーレン、私、仲良し。イェイ!」

「テ」

 応じてはくれるものの、説明中だからか楽しげにしてはくれない。続けよう。

「知らない、知らない、イェイ、ない」

「テ。シラナイ、イェイ、ナイ」

「私、美咲、仲良し。イェイ!」

「へ? イェーイ!」

 何も知らない美咲さんは一人でダブルサムズアップ。俺は小声で、

「ハイタッチ!」

「はい! イェーイ!」

「アーレン、美咲、仲良し。大丈夫。よろしく。イェイ!」

 訝しげにこちらを見やるが、物は試し、とアーレン。

「……ヨロシク? イェイ?」

「イェーイ!」

 パチンと音が鳴る。アーレンも、表情は和らいではいないが、目の端は吊り上がってはいない。とりあえず、儀式としては十分だろう。

「たださ。いるのはいいけど、あんまりかまってあげられないと思うよ? うちにはチビもいるし」

「実はですね、奥さん。こんな物を買ってきたのですよ」

 取り出したるは、書店で買った五十音表2つと絵本の数々。

「彼女、物覚えがすごく良くて。さっきもものの数十秒でひらがな五十音覚えたんですよ。だから、絵本読みながら日本語がわかるようになるんじゃないかと思って。これ読んでれば勉強になるし、時間も潰せると思うんですよね。しかも、寧亞ちゃんもいずれ読めるようになるし」

「ホントねえー。もし読めるようになったら寧亞に読み聞かせしてもらおうかしら。この子、いろいろ喋るようにはなったんだけど、まだママもパパも言ってくれないんだよねえ。ものの本によると、そろそろ喋っていい月齢みたいなんだけど……」

「うまー」

 クマのぬいぐるみを抱えて持ってくる幼子。発音はたどたどしいが、子供の成長はそれぞれ違っていても心配しなくていいらしいけれど。

「ははあ。子育ても難しいモンですね」

「何か単語とかは喋るのよ。でもやっぱり、マーマとかパーパとか呼ばれたいじゃない? なんか所帯じみたこと言うけどさ」

「そりゃ、所帯持ってるから仕方ないかと」

 ぬいぐるみをしゃぶって遊んでいる寧亞ちゃん。アーレンも部屋の中を一通りキョロキョロした後は寧亞ちゃんの様子を見つめている。赤ちゃんを可愛いと思うのは万国共通、種としての本能か。

「アーレン。彼女、寧亞。あいさつ。よろしく」

「テ。アイサツ」

 床へ下りて、体を縮める。そろり、そろりと気配を殺して、2歳に満たない幼子へと近付いていく。密林のハンターか。

 ウサギのぬいぐるみの耳を食んでいる寧亞ちゃんの正面に、片膝を立てるいつもの姿勢。別に驚かせるつもりではなく、慎重に接近してだけのようだ。

「……ワタシ、アーレン。アーレン・ハーファーハイト。ヨロシク。イェイ」

 ちっちゃい手の前に手の平を差し出す。幼子は目の前の刺激物に反応して、

「ふぇー、てー」

 ぶにー、と柔らかい手の平を押しつけている。可愛い。

「可愛いなあ。俺も子供欲しいなあ」

「琢磨くん、あたしは人妻だから……でも、どうしてもって言うなら……」

「あの、そのノリそろそろ怖いんですけど」

「冗談だってば。……ここだけの話、アーレンさんは、そういう関係なの?」

「いやっ! 違いますよ! そりゃ可愛いですけど! アーレンとは行きがかり上知り合っただけで」

「あーえん」

「えっ」

 美咲さんがバッと振り向く。寧亞ちゃんの声か?

「あーえん」

「テ。ワタシ、アーレン」

「あー、えん。あー、れん」

「寧亞、完全にアーレンって言ってる……!! ママでもパパでもなく……!」

「き、気のせい! 美咲さん、それはきっと気のせいです! ほら、口から洩れた音がたまたまそう聞こえただけ!」

 それか発音しやすかっただけだ。とにかく、二人の関係がややこしくなるのは避けたい。せっかくの味方なのに。

 しかし、げに恐ろしきは赤子なり。寧亞ちゃんはキャハキャハと笑い声を立てて、アーレンの突いた膝につかまり立ち、その胸元へと吸い込まれていく。

「寧亞……!」

 口元を覆う美咲さんの迫真の演技もあいまって、新手のネトラレ現場を見ているようだ。当のアーレンは、意外と物怖じもせずに寧亞ちゃんを抱き上げる。

 そのまま美咲さんへと視線を向ける。これで『あの人があなたの母親よ……そう、今はね……』とか言い出せば完璧なのだが、そんなことをされたら困る。

「カノジョ、ミサキ。アナタ、ミサキ、ナカヨシ」

「みー、さー…」

「キー」

「いー」

「惜しいっ……! もういいっ! あたし、今日からミサイになるっ!」

「いや、そっちで涙流さなくても……」

 危ないところだった。わかっていたのかいないのか、アーレン自身のナイスパスだ。

「でも、アーレンさんのおかげで名前呼んでくれたわ! ありがとう琢磨くん! ただいまよりアーレンさんを寧亞の教育係に任命します!」

「そんな大仰な……喜んでもらえてよかったです」

「そうと決まれば、早速アーレンさん! はい、本どうぞ!」

 俺から絵本をふんだくって渡す。勢いのまま受け取ったアーレンは、寧亞ちゃんの代わりにそれを抱えて、俺に視線を送る。

「タークマ? コレ……」

「本。どうぞ、プレゼント」

「……テ」

 大事そうに抱き寄せる。ん? そういえば、どういうものかわかっていないかもしれない。

「アーレンさん、そういう時は『ありがとう』って言うのよ。はい、ありがとう」

 美咲さんがぺこりとお辞儀する。隣でアーレンは、本を一度置き、俺に向き直った。

「アリガトウ」

「……ドウイタシマシテ」

 ……これはアーレンに合わせただけだから。


 アーレンは猛烈な勢いで本を読んだ。大人が読んでいるなら相応の速さ、という程度だが、昨日初めて日本語に触れた少女がその速さだ。『たべもの』とか『いえのなか』といった言葉の学習のようなシリーズを買ってきたので、三上家にあるものでクイズを出してみたら、絵本に載っているものは全問正解。走るや泳ぐといった動作も、ジェスチャークイズで答えられるのだから大したものだ。

「アーレンさん、マジでスゴイねえ。あたし中学生の頃、こんなに英語覚えられなかったよ」

「すごいでしょ? 知らないことは多いけど、アーレンは相当賢いと思うんですよ」

 彼女もすっかり三上家に慣れたのか、今は寝転がって寧亞ちゃんと遊んでいる。その彼女に向けて美咲さんが、

「アーレンさん、すごい! イェイ!」

「イェイ。タークマ、スゴイ?」

「すごい。あー、えーと」

 こういう概念の説明は難しい。だから、上目遣いに見つめられても。

「んー……すごい。なでなで」

 頭を撫でて誤魔化すことにする。本屋での行動を再現することになったが、間違ってはいないと思う。いないよな? おじいちゃんおばあちゃんが小さい子にやったりするし。

「スゴイ……」

 理解したかはともかく、満足はしたらしく、寧亞ちゃんの世話に戻っていく。

「顔も可愛いし、一体どこから来たんだか……」

「……琢磨くん、『そういう関係じゃない』って言ってたけど、むしろお父さんみたいだね」

「俺がですか?」

「うん。まるきり。自慢の娘なんですー、って感じの」

「うーん……そうかも」

 知り合ったばかりだが。今の関係と感情は、恋人ではない。言われてみれば『危なっかしい娘を案じる父親』は近い。

「琢磨くんは良いお父さんになりそうだ」

「だといいですが」

 いきなりこんな大きな子供では困ってしまうが、寧亞ちゃんと遊ぶアーレンの姿は、妹と戯れるお姉ちゃんそのものだ。

 まだ結婚するには早いが、この光景が自分が生み出したものだったら、どれだけ幸せだろう。

 子供が自分一人の時とは違う様子だろう寧亞ちゃんを見て、美咲さんも微笑んでいる。優しい人だと信じていたが、アーレンのことも快く受け入れてくれた。この人とつながっていて良かった。

 ほ、と、美咲さんが一息をついて立ち上がる。半纏を脱いで、薄手のコートを手に取る。

「しばらく寧亞とアーレンさん……あ、アーレンさんは元々そっちのお子さんだった。……いやお子さんじゃないか。ともかく、寧亞のこと見ててもらっていい? お買い物行ってくるね」

「もちろんいいですよ」

 時計を見ると夕刻。この時期ならもうそろそろ暗くなる頃合いだ。思ったよりも長居をしてしまった。

「琢磨くん、何か食べたい物ある? あたしにできる範囲でだけど」

「え? いや、悪いですよ。そこまでお世話になっちゃ」

 ただでさえ無理なお願いをしてお邪魔しているのだ。この上、夕飯までいただくなんて。

 俺の意思を理解していないのか、美咲さんは、はーあ、と大仰に肩をすくめる。

「君……良いお父さんにはなれそうだけど、良いお嫁さんは当分見つけられなさそうね」

「どういう意味ですか」

「そのまま。女心がわかってないってことよ。

 あのね。太健さんが出張中だって言ったでしょ? それでもう三日よ。その間、寧亞と二人っきり。もちろん我が子は可愛いけど、お話もできないし」

 でもね、とアーレンを見る。彼女も肩越しに振り向いて、立ち上がった美咲さんを見返す。

「琢磨くんとアーレンさんが来てくれて、すごーく気晴らしになったの。浮気が云々なんてのは冗談だけど、人恋しかったのは正直な気持ちかも。だからさ、そのお礼くらい、快く受け取ってよ」

 明るく振る舞っていたが、美咲さんもただ寂しかったのだ。

 なるほど、彼女の言う通り、女心の欠片もわかっていなかったのかもしれない。

「……わかりました。じゃあ、わがまま言わせてもらいますよ」

「もちろん! ……ホントはね、太健さんの出張がなくても、琢磨くんには何かしてあげたいなって、思ってたんだ」

「? なんでです、……」

 問い直すと、美咲さんは小さい動きで顔をそむける。こちらからまだ見えている耳は、赤い。

 な、なんだその反応は。さっきまでのふざけた会話と違って、なんか現実感のある、地に足の着いた照れは! 信じちゃいそうだろうが!

 心の中でふざけて応答を待つが、美咲さんも俺の反応を待っているようだ。わずかに縮こまって震える背中は、失敗した、と悔いているのか。それとも、正真正銘の本音をくれたゆえの不安なのか。

 いや。俺も、親切にしてくれるご近所さん、という以上に、仲の良い友人というか、身近な女性として見ていた節は多少あるが、人妻だし……

「……あの、その厚意も、素直に受け取っていいんですよね……?」

「いやっ、好意って! ちがくて! そういうんじゃなくて、ほら、日頃の! 町会とかでお世話になってるお礼ってことだからね!? 琢磨くん、何勘違いしてるかな!?」

 もー! と、完全に混乱状態の美咲さんにどつかれる。正面から見ても、顔はイチゴよりも真っ赤だ。

「んなことより早く、夕飯どうする!? 早く決めないとカップ麺にしちゃうよ!?」

「仮に」

 照れ隠しに打ち付けられる腕を掴んで、引き寄せる。美咲さんの真っ黒な瞳に俺の顔が映る。俺の顔も、リンゴより赤かろう。

「ここで、『美咲さんがいいです』、って、言ったら……」

「琢磨くん……」

「美咲さん……」

「タークマ……」

「      」

「………………あ、あ、あ、あーれんさん!」

 ぬ、と二人の横に出現するアーレン。はっ、俺は一体、人妻の、いやさ人の家で何を?

 雰囲気に関係なく出現したアーレンは、物凄い形相だった。

「アーレン?」

「アーレン、オナカ……」

 絵本で得た語彙で何かを訴えているようだ。空腹だろうか。

「アーレン。食べ物、美咲、買う、行く」

「アーレンさん、何食べたい?」

「タベモノ、チガウ……」

 なんと。食べるのが好きなアーレンが食べ物ではないとは(何だその認識は)。

 彼女の手を見れば、お腹といっても腹部ではなく、下腹部を押さえているように見える。

 あ。

 そういえばこいつ、昨日からトイレに行って――――

「み、美咲さん! こいつにトイレの使い方を! 買ったばかりの下着が爆発する!」

 数分後。

 アーレンは洋式トイレの使い方を覚えた!

 そして俺は美咲さんから『琢磨くん、ああいう下着が好みなんだね……』と、ふざけているのかマジなのか判別つかないお言葉をいただいた。


 夕飯のメニューは、『美咲さんが作りたいと思っているけど普段なかなか作れないもの』に決まった。何でもいい、では作り手は困るものだし、これなら美咲さんが苦労しそうなものは出ないだろう。

 俺も食材を切るとか、出しゃばらない程度に手伝いをする。何もせずに出来上がるのを待っているほど料理に自信がないわけでも、図々しいわけでもない。アーレンにも手伝わせてみようかと思ったが、シャワーも知らないのに包丁なんか持たせられない。しばらくは寧亞ちゃんの子守り役だ。

「アーレンさん、できたよ~」

 ゲームのキャラクターがプリントされたエプロン姿の美咲さんが鍋を運んでくる。俺は3人分のご飯をよそい、アーレンは寧亞ちゃんを抱え上げて席に着かせる。そして自分もいそいそと席に座る。何が書光沢に並ぶか楽しみなようで、心なしかそわそわしている。生活の楽しみを見つけたようで何よりだ。

 美咲さんが鍋から深皿へとよそってくれたのは、白く、ドロッとした液体。ジャガイモ、ニンジン、ブロッコリー、ベーコンと、具材がごろごろとこちらを向いている。

「タークマ? コレ、スープ?」

 絵本学習の成果で語彙が増えたアーレンが指差し確認をする。しかし、惜しい。チッチッチッ、と俺は指を振る。

「シチュー」

「シチュー?」

 絵本と見ただけで違いを理解するのは難しいだろう。今度、普通のスープも飲ませてあげよう。今はまず、実物だ。

「アーレン。これは?」

「スプーン。スプーン、モツ」

「オーケー。まずは、……いただきます」

「イタダキマス」

 美咲さんが寧亞ちゃん分を味薄め小鍋から皿に取り分けたのを目に入れて、唱和する。

 まずはスプーンで一口。ドロッと、熱い食感が口の中に広がる。液体としては『固め』で、口の中に留まっている感覚が俺は好きだ。

「ヒフッ、ハフッ、タークマっ、クゥレンッ!」

 隣で美少女が必死に口元を押さえている。最後は何と言っているかわからなかったが、言わんとしていることは理解できたので、水を渡す。

  ゴクッ ゴクッゴクッゴクッ!

 そこまで熱かっただろうか。かなり熱めではあったが。猫舌なのか。

「ミサキ、エークアングッテルベウンユガンテナート!? エーイオニタルバ、シユースベニェトラータ!」

 あんまり熱かったからか、テーブル越しに美咲さんに詰め寄るアーレン。そんなこと言われても美咲さんも困るだろうに。その美咲さんは、

「ハフッ、フッ、あひっ、たふまふんっ、みふっ!」

「アンタも!?」

 ゴクッゴクッと飲み干して、いやーいやーと弁明を始める。

「鍋料理ってたくさん作るほど美味しくなるって言うじゃない? でもうちは基本2人分だからさ。なんかもったいない感じがして作らなかったのよねー。そしたら加減わかんなくなって熱くしすぎちゃったみたい。や、ごめんごめん」

「……イオシナーテ」

 相手もダメージを負ったからか、ばつが悪そうに引き下がる。美咲さんのマイペース、強い。

「お味の方はどう?」

「美味しいです。特にこのニンジンの切る角度が絶妙で……」

「それ切ったの君じゃん!」

「冗談ですよ。美味しいです。お袋の味を思い出します」

 市販のシチューの素を使っているから似ているのは当たり前なのだが、だからこそ、人はシチューにお袋の味を求めるのかもしれない。それにしても、本当に故郷を思い出す味だ……

「めんつゆ投入したのが上手いことハマったのかな」

 ……割と特殊なことしてたな。まさかお袋もやってたのか?

「量も多くしちゃったからさ、おかわりしてね」

「オカワリ!?」

 ガタッと隣席のイスがけたたましい音を立てる。

「アーレン、オカワリ!」

 右手にスプーンを大事に握りしめ、深皿を掲げる。

 よく食べるのは良いことだ。人の家だから遠慮しなさいとか、そんな他人行儀なことはこの際だから不問にしよう。それよりも気になることがある。

「なんでそんなに髪ベッタベタになるんだ……」

 あまりにガッつきすぎて、イヌが如く皿を舐め回したか。あらあらあら、と美咲さんは呑気な声を出す。

「そりゃこんなに髪長かったら付いちゃうわよね。琢磨くんよそってあげて」

 美咲さんは立ち上がって、アーレンの髪をゴムで束ねてくれる。そういう気遣いと行動ができるのは、ふざけていてもさすがは女子。いや、俺の気配りが足りなかっただけか。猛省。しかし、

「ポニーテールは反則じゃないかな……」

「ほ?」

「あ、いや。アーレン、米?」

 シチューは貪り尽くしたのに、白米には手をつけていなかった。珍しい。

 アーレンは悲しげにスプーンを握りしめる。

「アーレン、ハシ、ナイ……」

 そういえば米は箸でしか食べたことがなかった。スプーンでいいのに……

 いや。

「美咲さん。自分、お行儀悪、いいっすか?」

 挙手し、許可を求める。ほ? と疑問符を浮かべながら、美咲さんは頷く。

「アーレン。シチュー。米」

「? スプーン、コメ?」

「そう。ゆっくり、ドボン!」

「ユックリ、ドボン?」

 ざくざくと、シチューに投入された米塊に匙を入れていく。ほどほどにシチューをかけ直して、

  もぐ まぐ  まぐ

 かあ~っ、これこれ! シチューがたっぷりがしみ込んだ白米! いつもと違うもったり感により、ご飯は飲み物! 優しい味が奥までしみていて、シチューをおかずにご飯を食べるのとは違う幸せをくれる。女子二人が手を焼いたハフハフ食感&熱感がご飯をも支配し、口の中にしばらく滞在していてほしくなる。さっき飲み物って言ってた? 馬鹿、良いワインは口の中で噛んで楽しむんだぜ……!

 アーレンは……再び空になった皿が美咲さんへ伸びていた。対して、手の平で制止を求める美咲さん。

「琢磨くん……自分も、お行儀悪、いいっすか」

 もちろんです。


 俺も、アーレンも、美咲さんも、人数分以上のシチューライスを平らげ。皿も洗い終えた頃合い。

「今日は本当にお世話になりました」

「え? まさか、帰る気?」

「……まさか、風呂も入っていけと?」

「普通に寝るもんだと思ってたんだけど」

 なぜそこまで、とはもう言わない。言わないが、

「……洗濯物干しっぱなしだったんで、たたみに戻るだけです。あと、替えの服とか」

「あ、そか。んじゃ、お風呂沸かしとくねー」

 んじゃー、と開けたドアから送り出される。

 コンクリむき出しの階段を上って、自分本来の部屋へと戻る。

 狭い廊下を見せつけられ、ようやく現実に返った気分になる。

 アーレンは大きく成長して、コミュニケーションもかなり取れるようになってきた。美咲さんとも、ここまで濃密な時間を過ごすとは思わなんだ。これでアーレンが当分うちに居座ることになろうと、生活面での心配はないだろう。

「ただただ、問題はこれだけなんだよな……」

 アーレンが着ていた服を手に取る。

 女性の服をまじまじと眺めるなんて変態じみているが、唐突な出会いから冷静になってみれば、この洋服一つ取っても謎が見つかる。

 上着は革のような、スカートは化学繊維のような、しかしどちらともつかない硬さ、柔らかさ、滑らかさ、ざらつき、弾力、どんな素材でもないように思える手触りだ。

 上着に付いている飾りは、夜目にはシルバーアクセサリーか何かに見えたが、出鱈目なデザインではなく、幾何学的模様、文様が施されている。このような装飾を複数付ける衣装。

 どこかの王族の正装か、階級章の付いた軍服か。

 トゥベロンとはどこなのか。彼女はトゥベロンの、一体何者なのか。

 もし、言葉での意思疎通がさらに図れるようになれば、アーレンは教えてくれるだろうか。教えてくれるようになれるだろうか。

 今考えても詮無き事だ。美咲さんの服では、アーレンが借りても丈が足りないだろう。いつまでも俺の服を着せていては、俺の切る服がなくなってしまう。アーレンが着たものをまた着る変態的勇気はない。……いやライブグッズは着る。

 これが最後に着せる服だなあ、と感慨深げに要らぬことを考えながらスウェットを抱えて鍵を閉め、再び階下へ。

 踊り場を曲がった所で見える三上家の扉が、今まさに閉まるのが目に映る。はて、旦那さんは帰らないはずだが。

 ガチャリ。と乱暴に鍵のかかる音から程なくして、

「えっ、なに、イヤア―――――――!?」

 絹を裂く声がくぐもって響く。

 しまった。

 アーレンの留守居では案じたことだ。旦那が長期出張で帰らない、幼子と若く小柄な女性。少し考えればわかることだし、外からでも少し観察していれば把握できる状況だ。

 文字通り階段を飛び降り、ドアノブを掴む。鍵がかかっているが、構わず引っ張る。一発では動かず、大きな音が鳴るだけだ。

 しかしその音に反応し、隣家の住人がドアを開けて顔を出す。

「大家に連絡! 警察呼んでもらって!」

 顔を出した瞬間に指示。隣人も返事をするより早く、1階の大家の下へ走っていく。

 周りに気兼ねがなくなったところで、本気を出す。元よりボロいアパートだ。2、3発かませばブッ壊れる。

「 っぅ、ハアッ!!」

 一度引き、体当たりする。留め金がはじけ飛び、三上家へ通じる道が開けた。

「テメエッ!!」

 各者位置を把握次第、悪漢に飛びかからんと構えて飛び込む。

 ダイニングの床にへたり込む美咲さん。その後ろに吊り上がった眦の、しかし平然と膝立ちで佇むアーレン。奥の部屋をごろごろと転がる寧亞ちゃん。

 悪漢はというと、アーレンの足元に伸びていた。

「……えーと」

「怖かったあっ!」

 だっと俺の懐に飛び込んでくる美咲さん。

「琢磨くんかと、思って! 開けたらこの人が入ってきてっ、あたしっ、むりやりっ……」

 涙を溜めて恐怖を訴える。悪漢だったのは間違いないらしい。

 そこから先は嗚咽を漏らすばかりで、説明にならなかった。そんな状態の彼女に、悪漢をどうこうできるとは到底思えない。

 まさか、とアーレンに視線を向ける。アーレンは至って落ち着いた様子で頷き、悪漢の横に立つ。

「アーレン、シラナイヒト、サッカー」

「サッカー?」

 絵本の語彙だろうが、この小太りの男と球技に興じたわけがあるまい。

「えーと、蹴る?」

「テ。シラナイヒト、アゴ、ケル」

 俺のジェスチャーに首肯して、俺の側頭部から30センチの虚空を下から蹴り上げる。風切り音と風圧が顔に当たる。こんな蹴りを喰らったらたまったものではない。

「でも、助かった。ありがとう、アーレン」

「ドウイタシマシテ」

 ますますアーレンのことがわからない。

 だが、服の装飾からの連想であれば、後者の可能性が高まったと言えよう。


 その後、駆けつけた警察と大家に事情を説明し、順にシャワーだけ浴びて、俺達4人は4階の部屋へと上がった。ドアをぶち壊してしまったので、さすがに夜を過ごすことはできない。

 警察には俺が殴って気絶させたことにして説明した。ここでアーレンが関わったとなれば、万が一事情聴取でもされた時に困ってしまう。ましてや悪漢が悪質な奴で裁判にでもなったら、国籍もはっきりしない彼女はどう扱われることやら。不幸中の幸いと言おうか、美咲さんの叫び声は隣人も聞いていたので、最悪の場合でも正当防衛は通るだろう。

 寧亞ちゃんが寝返りを打って落ちてしまうので美咲さんと床、アーレンは相変わらず座位での警戒睡眠なので、俺がベッドの上だ。

 昨夜はその警戒の意味もさっぱり理解できなかったが、今は想像くらいはできる。正解かは皆目見当もつかないが。

 彼女は少なからず、戦いの心得がある。その辺の痴漢とはいえ、大の大人を瞬時にのしてしまうだけの蹴り。一人眠らず、周りを警戒する姿勢。一般人の技術と行動ではない。

「アーレン」

「フェ? タークマ?」

「アーレンは……」

「……」

「……いや。何でもない。もっと話せるようになったら教えてくれ。おやすみ」

「テ。オヤスミ、タークマ」


 ☆☆☆


 そうして一夜が明け。

「…………」

「シャケ。魚」

「サカナ? サカナ……」

 絵本を引っ張り出し、水族館の絵|(マグロか?)と食卓の切り身を見比べる。

「ここ」

 絵の中の腹を一部、指先で切り取って示す。アーレンは納得がいかずにピンクの身色をじっと睨んでいる。

「おまたせー。お味噌汁どんぞ」

 汁椀なんて三つもないので俺はカップ麺の空き容器だ。

 美咲さんは起きて朝食を作れる程度には気持ちが回復した。食材は昨日既に買っていたので、また甘えてしまった。もしかしたら彼女も、このくらい働いていた方が気が紛れるかもしれない。

「いただきます」

「イタダキマス」

 ご飯、ネギと豆腐の味噌汁、ほうれん草のお浸し、焼き鮭、白菜とキュウリの漬け物。完璧だ。朝食の完璧超人だ。

「タークマ、サカナ、オイシイっ、オカワリ……ング、ゴフッ、ッグ!?」

 隣の席の人はどうやら骨を無視して切り身をかっ込んだようだ。

「アーレン。米、かっ込む」

 取り急ぎ、手元に残っている白米を茶碗ごと渡す。

「ングッ、フグッ、ンッ! ミサキ、エーベヘケヌイベウンユガンテナート、イオナコンフィゴラーテ!? エーイオニタルバ、シユースイングベニェトラータ!」

 結局、アーレンはご飯を都合三杯半食べた。よく太らないものだ。

「ご馳走さまでした」

「ゴチソウサマデシタ」

「お粗末様でした」

 皿を片付け、アーレンにトイレを促す。行動について保育園児並みと想定して管理しなければならない。

 十分に身支度をして、財布の中身を確認する。

「じゃ、俺ら買い物に行ってきます」

「え? 待って待って、聞いてない聞いてない」

 寧亞ちゃんと戯れていた美咲さんが素っ頓狂な声を上げる。慌てて周囲を見回し、しかし目的の何かはなかったようで、視線が俺に戻る。

「着替えてくるから、一緒に下に来てね」

「日本語変じゃないですか?」

「っていうか、まさか置いていく気だった?」

 鍵をかければ、と思っていたが、自分でも開けられるのだから置いていくのは駄目かもしれない。反省。

 女性の準備は長いと聞くが、三上家のダイニングで背を向けて待つこと40分。これは長いのか短いのか。少なくとも俺はこんなに時間をかけられない。

 花柄のワンピースという、わかりやすくも似合っている服に着替えた美咲さん、大学時代にサークルで作ったスウェットに相変わらずのライブ物販Tシャツの上下、プラスして晴れのビニール傘を持ったアーレン、幼児に大人気な残飯マンのトレーナー姿の寧亞ちゃん、そして適当なワイシャツの俺。また奇妙な組み合わせの四人で買い物に出かける。

「ところで、何の買い物?」

「アーレンの服、靴ですね。あと、余裕があったら本の買い足し」

 なぜ下着を買ったのに服は放置なのか。今更だが。まあ、女性の意見があった方がいいだろう。

「そういうことなら、あたしにお任せなさいね!」

 美咲さんもこの通り、やる気である。

 元来、女性というのは他人のお洒落を楽しめる人種である(俺調べ)が、素材が国宝級の美少女である。自分好みに仕上げたいというのが人情かもしれない。俺だって個人的な趣味の服でも着させて鑑賞したいところだが、世間とか法律が許してくれない気がする。

 昨日に続き電車に乗って四駅、繁華街のある駅へ。

 電車移動も二度目であり、俺の生活行動範囲も電車移動が多いので、地名も合わせて紹介しよう。ここは初坂はつさかという県内ではそこそこの繁華街だ。駅の北側には落ち着いた雰囲気の大人の街が広がっており、過日のランジェリーショップは北側にある。一方、南側は若者の街で、遊ぶ場所も充実している。

 今日は美咲さんの希望により、初坂駅の南口を歩いている。

「なかなか同年代の子とこの辺来ることもなくてさ。太健さんと来ても反応鈍くてねー。久しぶりに来たかったんだー!」

「いや、俺もファッションの反応は鈍いと思いますが……」

「ま……それはそれとして、アーレンさんの服選ぶんでしょ? これは楽しいわー!」

 やはり楽しみだったらしい。その点は俺も同意だ。ただセンスが無いだけで。

「選ぶのは全力で美咲さんに任せますんで、ビビッときたら教えてください」

「任せて!」

 そして美咲さんは猛進した。駅前の複合ファッションビル。有名ブランドのショウルーム。路地に入り込んだ古着屋。服を買うこと、見ることが好きなのだろう。それこそ庭のように自在に進んでいく。先輩に飲みに誘われてこの街に来る程度の俺とは大違いだ。

 買ったものを一つ一つ挙げていくことに意味はないが、試着したアーレンの姿はどれも素敵だった。清楚な雰囲気、ストリート系、大人っぽいシックな合わせと、どれを取ってもぴたりとハマる。行く先々の店員も、こぞって最適な商品を見つけ出そうと躍起になるほどの素材だ。どうだ我が子は可愛いだろう(違う)。

 十軒は回っただろうか。とにかく買いに買ったので大荷物だし、歩き疲れたので、メインストリートの先にある広場で休憩をとる。

「あ~、つかれたー」

 どっこいしょ、と可愛らしい容貌に似合わぬかけ声で美咲さんが階段に腰を下ろす。噴水を中心に放射状に広がるレンガ造りの広場には、そこかしこに若者が座り込んで休日を過ごしている。

 若者の街だが十代ばかりではなく、二十代と合わせて八割ほどか。かくいう俺自身もその中に含まれるのだが、彼らのように優雅に談笑する気にはなれなかった。

「しかし、いっぱい、買いましたね……」

 袋で数えてもいくつあるかわからなくなってきた。マンガで女子の買い物に振り回される荷物持ちの図はよくあるが、現実に発生するイベントだとは、夢にも。

「ていうか、よくお金あったね? いやごめん、まさかこんなに楽しくなるとは」

「大丈夫ですよ。独り身で使うこともないから、カノジョでもできた時のために貯めてたんで……」

「あーよかった。じゃあ本来の目的のために使われたのか。心配して損した」

 アーレンは彼女ではないのだが……美咲さんからもそう見えるのだから、もうそうなのだろう。なんか疲れて思考停止しているだけな気がするが。

 そのアーレンだけは涼しい顔で辺りを見回している。

 今の彼女はスウェット姿ではない。

 襟に飾りのベルトが付いたワイシャツの上に、中世ヨーロッパの貴族女性が着ていそうな、前を紐で結ぶベスト(ボディスというらしい)。胴回りのベストで、胸の下で結ぶような格好になるので、自然と、細身ながら豊かな胸が強調される。タータン・チェックのキルト・スカートに騎士由来のキャバリエ・ブーツを合わせて、頭にはマリン・キャップ。一つ一つの意味合いや目的は合致しないものだが、アーレンの美貌の下に集うことで最高の衣装になっている。生来の容貌と合わさって、中世からそのまま飛び出してきたかのような非現実感を纏っている。

 広場に居合わせた衆目を一身に受ける彼女は、そわそわと落ち着かない様子でいる。警戒とは違うようだ。さすがのアーレンでも、これだけ大勢に向けられる視線には慣れないか。

  ぐううぅぅぅうぅ ……

「…………ご飯?」

「……ゴハン、タベル」

「そうだねえ。琢磨くん、行ける?」

「いや、もうちょっと休ませてもらえると……」

 昼食には賛成だが、ここから立ち上がって店に入るには、ちと疲れすぎている。

「……タークマ。イオシナーテ」

 申し訳なさそうな声をアーレンが漏らす。う……そんな子犬みたいな目で見られると……

「あ。美咲さん、あれは?」

 広場の中、十数メートル先にキッチンカーのクレープ屋があった。ひとまず空腹を紛らわせるには悪くない。それに、甘い物はまだアーレンに食べさせてあげていない。

「いいね。なんか若者っぽいねえ」

 彼女もまだ若いはずなのだが、家庭に入るということは気持ちを老いさせるのだろうか……俺も自分を若者だと思うことはあまりないが、他人だと妙に心配になってしまう。

「よし! アーレンさん、カモン!」

「テ!」

 意気揚々と美咲さんが飛び出す。アーレンはそれを追いかけていくが、寧亞ちゃんが置き去りだ。おいおい。

 その場で捕まえようと寧亞ちゃんに手を伸ばしていたら、二人はキッチンカーまでたどり着いていた。

 アーレンは色とりどりのメニューを見せられて困惑していた。美咲さんが横から顔を突っ込んで、食い入るようにメニューを見つめている。選びたかったのだろう。

 あーでもないこーでもないと店先で悩んでいるのを眺めること5分。ようやく決まったようで、二つずつの甘味を手にして二人が振り向く。寧亞ちゃんは丸々食べるのか?

 店員が礼を口にしたかどうか、というタイミングで、横から三人組の男達が現れ、アーレン達の前に立ちふさがった。先程までは見当たらなかった顔なので、つい今し方来たばかりだろう。

「お姉さん達、二人でそれ食べんの? めっちゃ食うじゃん!」

「オレらと一緒に食わない? つーかせっかくだからさ、遊ぼーよ」

「マジ上玉」

 染めた金髪、鼻ピアス、派手なサングラスと、いかにも日頃から遊び慣れていそうな風体の三人組の目的はナンパのようである。初坂を南に下ったこの辺りの地域では、さして珍しい光景ではない。

 まして対象がアーレンだ。俺が一緒にいる所を見ていなければ声をかけたかった人間は数多いただろう。あれだけ店先でまごついていれば、俺との関係を知らずに声をかける輩が出てもおかしくはない。が、美咲さんは昨日、痴漢に遭ったばかりだ。止めなければ。

「うっ」

 立てない。そうだ、荷物を肩に提げたままだった。こんな重い物持って立てるわけがない。急いで取り外す。

「どっから来たのよ? 外人? 憧れちゃうなー」

「あの、私達、友達と来てるので……」

「まー、待ってよ」

 さりげなく拒否して去ろうとする美咲さんの肩を鼻ピアスの男が掴む。掴まれた美咲さんの肩が、ビクッ! と大きく跳ねる。

「友達が女の子なら、一緒に遊べばいーじゃんし、男だったら、オレらと遊ぶ方が楽しーよ? オレらこの辺詳しーし」

 ようやく大量の紙袋やビニール袋を外し、寧亞ちゃんを抱えたまま立ち上がろうとした、その時だ。

「ダメ」

 アーレンの声が凛と鳴る。その声は、唐突に鳴き出した鳩時計の調べのように広場全体へと響く。

「あぁん?」

 鼻ピアスの顔がアーレンを正面に捉える。アーレンはクレープ二つを器用に片手に持ち替え、まだ美咲さんの細い肩に触れていた鼻ピアスの腕を叩き落とす。

「ああ!? 何よ外人さん、アンタが俺の相手してくれるってぇ?」

 鼻ピアスがこめかみに青筋を浮かべるのに対して、アーレンは至って冷静だ。まだその瞳は吊り上がっておらず、しかし視線を男達からそらさず、クレープを美咲さんに手渡す。

「ワタシ、アナタ、シラナイヒト。ナカヨシ、チガウ。ミサキ、アナタ、イェイ、ナイ」

 片言ながら力のこもったアーレンの声と態度に、三人組も、周囲の人間の動きも、止まる。

「ミサキ、イク。タークマ」

 彼女なりの言葉で『逃げろ』と出された指示に、美咲さんは我に返って、わずか十数メートルの距離を急ぐ。もちろん、俺も寧亞ちゃんを連れて立ち上がっている。

「た、琢磨くん!? アーレンさんが……!」

「すみません、遅くなって。でも、アーレンは大丈夫じゃないかと思うんです」

「え? 何言って……」

 目を離すと何があるかわからないのは、昨夜の出来事で身をもって理解した。だから美咲さんを横に置きながら進んでいくが、アーレンは彼らをどうするのか。

「日本語、お上手じゃねえかよ……でも、今の態度は日本的じゃねえな」

 アーレンの言葉でも、三人組は落ち着きは取り戻せず、逆に怒りを深くしてしまったらしい。これだから『若者』は……とか言われてしまうのだ。

「ガッくん、ここじゃなんだからさ。〝アリバ〟で日本の文化を楽しんでもらおうよ」

「それがいいな……おい、来いよ外人の姉ちゃん」

 鼻ピアスがアーレンの肩を掴む。

 アーレンは動かない。まだ瞳は吊り上がっていない。まぶたをわずかに閉じた半眼で、鼻ピアスをじっと見る。睨むのではない。言葉抜きでもわからせてやろうとしている。

「ワタシ、アナタ、シラナイヒト。ナカヨシ、チガウ」

「うるせえっ、意味わかんねえことばっかぬかしやがって!」

 掴む右腕に力が入り、勢いよく引かれる。

 それでも、アーレンの体は動かない。口元だけが小さく、

「……デピェンソニギュラーテ」

 顔も動かさず、素早く鼻ピアスの右腕をアーレンの右手が逆手で掴む。

 アーレンは順手に戻すだけの動きで鼻ピアスの腕をひねり上げる。

「いだだっ!」

「テメェ、ガッくんに何しやがる!」

 膝をつく友人を思ってか、サングラス男がアーレンに殴りかかる。

 アーレンはひねり上げたままの鼻ピアスの腕を、逆手に握った短刀のように振り回し、サングラス男のサングラス目がけてぶつける。もちろん鼻にも直撃だし、鼻ピアスの腕はあらぬ方向に曲がっていく。

 動作で数えればわずかに二つ。それだけで男二人にうめき声を上げさせる異国の少女のアクションに、広場の観衆は、誰もが我知らずに感嘆の声を漏らしていた。

「いかんいかん。騒ぎがデカくなりすぎた」

 アーレンが彼らをどう料理するのかは知りたかったが、警察でも出てきたら、それどころではない。

「タークマ!? アーレン、イカンイカン?」

 気にするところはそこなのだろうか。ともあれ、男性関係者の登場で、残った金髪男も正気に戻った様子だ。

「おっ…男がいるなら、そうと早く言えよ! おい、行こうぜ……」

 捨て台詞と共に去ろうとするも、あいにく連れ合い二人は地に伏している。固まってしまった金髪に、こちらも捨て台詞を言うしかなかった。

「その2人に伝えておいてくれ。女の子に手え上げるようじゃ、ナンパは成功しないぞって」

 観衆から、おおお~という囃すような歓声と、意図のわからない拍手が届く。俺も見守っていたので人のこと言えないのだが。

 半ば逃げるように駅へと急いだ道行き、すれ違った警官から、

「坂南の噴水広場で喧嘩があったらしいんですが、目撃しませんでしたか?」

 と問われた時は、同行する金髪美少女のマリン・キャップを目深にさせることしかできなかった。

 これで確信を持ったことが一つ。アーレンは何らかの戦闘訓練を受けている。


 歩きながら食べたクレープで多少腹は膨れたが、疲れは癒されていない。ちょうど昼時。電車で四駅、我が家の最寄りである狐見台きつねみだい駅まで戻り、駅との複合商業施設内にあるファミレスで昼食にすることとなった。

「寧亞が生まれてからはほとんど来なかったからなー。産後初ヤンガだー」

 ヤンガというのはここのファミレスの略称だが、なんか若干の不倫感を増すような発言はやめてほしい。

「ミートソーススパゲッティ、カルボナーラスパゲッティ、……」

 アーレンはメニューとにらめっこを始めている。体を動かしたから空腹も増しているだろう。

 それにしても、男2人を一度に伸したあの動き。

 とても素人のそれではない。動きの軌跡を描いたらほぼ一筆書きで済むほどに無駄がなく、ただの力自慢や思い切りの良さだけではできないものだ。

 彼女はトゥベロンで何らかの戦闘訓練を受けている。

 それがどういった類のものかは不明だし、知る必要もない。彼女のことを知ること自体、俺の人生に必要があるのかと問われれば、一切ないのだが……

「ベーコントホウレン…ノ……スパゲッティ、ワタリ…ノクリームスパゲッティ、…キ…ト……ノドリア……タークマ? コレ、ヒラガナ? カタカナ?」

 彼女の正体に思考を巡らす俺の心の内など知らず、当の本人はメニューの漢字を指差して質問してくる。

「草。違う、ソウ。ほうれんそう。わふう。がに。カニ。挽き肉と海老のドリア」

「アーレン、シラナイヒラガナ?」

「違う。漢字」

「カンジ……」

 そしてメニューを指で追う。漢字がたくさんあることに戸惑っているようだ。

「タークマ。カンジ、ゴジュウオンヒョウ」

 ひらがな五十音表のようなものが欲しいのか。残念ながら、漢字はそんなに単純なものではない。

「漢字五十音表、ない」

「ナイ……」

 完全に、しゅん、と擬音を立てて落ち込む。……これは漢字辞典を買ってあげるべきだな。小学生向けの振り仮名付きのものならもう読めそうだ。

「あたしこれにしよーっと。二人は決まった?」

「アーレン?」

「ミートソーススパゲッティ、ガッツリボリューム…ステーキ…ライスセット、ワタリガニノクリームスパゲッティ、ワフウドレッシングのサラダ、カラアゲ!」

「一つ、一つ!」

「ヒトツ?」

 メニューを指していた指先を口にくわえる。ページをめくり、戻し、まためくり、

「ヒトツ……」

「じ、じゃあこうしよう。アーレン、ガッツリボリューム!ステーキ&ライスセット。私、ワタリ蟹のクリームスパゲッティ。ミートソース、昨日食べた。今日、お休み。どう?」

「テ……」

 まだ指くわえてメニューを抱えている。美咲さんが呼び鈴のボタンを押して、やってきた店員に粗方の注文を伝える。

「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

「はい、それで―」

「カラアゲ……」

「…唐揚げ、二つ追加で」

「かしこまりました。唐揚げ二人前ですね」

 厨房に戻る店員の背中を見送りながら、美咲さんが一言。

「琢磨くん……めっちゃ甘やかすタイプだね」

 だって、良い笑顔は見たいじゃん。


「いただきます」

「いただきまーす。寧亞ちゃんもー」

「いららいまーす」

「イタダキマス」

 注文した物が全て届き、それぞれがスプーンやらフォークやらを取る。寧亞ちゃんは美咲さんの分から小皿に取り分けだ。

「なんでカニって美味いんですかね……普段、エビって食うじゃないですか? 俺、エビ大好きなんですけど。吐くほど食う」

「吐くとか言わないでほしい」

「すみません。で、カニなんて寿司か北海道行くかしないと食べないじゃないですか。だから、割とカニのことナメてるんですけど……何これめっちゃ美味いホントにチェーン店か?」

 カニはやっぱりクリームパスタ。いやもちろん脚だけ生で食ってるのも当然美味いんだけど、カニ食べたいってなって脚買えないだろ? そんな時、こんなに身近にカニを提供してくれる店があって、日本人って幸せ……店員さんも店員さんだよ。こんなん脚のまま出したって日本人勝手にほぐして食うのに、ちゃんとほぐしておいてくれるとか、これがOMOTENASHIか……

「つまり、何が言いたかったわけ?」

「カニクリパスタめっちゃ美味い。身とクリームの相性もバツグン」

「食べるの好きなんだね」

「まあ。食べ盛りの男ですし。……そんな食い意地張って見えました?」

「うん……アーレンさんの食べ方が気にならないくらい美味しいんだなって……」

「アーレン?」

 横に視線を移すと、海賊かギャングのボスのように、フォークでステーキ肉をブッ刺して口にくわえ引き千切っている美少女がいた。

「アーレン!? ダメ!」

「フェ!?」

 慌てて肉を皿に置く。ああもう、こんなに口の周り汚して……拭き拭き。

「保護者……」

「アーレン。フォーク。刺す。ナイフ。切る。食べる。どうぞ」

 素直に聞き入れ、カチャカチャと手際よく切り分ける。それにしても、直で噛みついて千切れるなんて、丈夫な歯だ。

「アーレン、美味しい?」

「…………………………」

  まぐ まぐ まぐもぐ  ごくん

「アーレン?」

「…………………………」

  もぐまぐ  まぐ まぐ  ごくん

「アーレン」 とんとん

「フェッ! ……ゴメンナサイ」

「いや、ごめん……美味しい?」

「オイシイ。ステーキ。オイシイ」

「幸せそうねえ」

 改めて聞かなくてもわかっていたが。

「アーレン。カニのスパゲッティ。食べる?」

「タベル!」

「おう。口開けてー」

「何をイチャイチャしてんだお前」

 通路、明らかに美咲さんのものではない声が俺達に向けられる。瞬間、アーレンが手にしたナイフを通路に向けて握りしめる。

「ダメ!」

 明らかに投擲の動きを言葉で手で制止。昨日今日の出来事で、どうもアーレンの警戒メーターが振り切れているように思える。

 しかしこの声、安心できる人ではないかもしれないが、敵ではない。

「…………だ、誰ですか」

 テーブルの反対側で美咲さんが震えた声を出す。彼女のメーターは振り切っていても仕方ない。彼女は本当にただの一般人だ。

「アーレン、美咲さん、大丈夫。知らない人、違う。私、仲良し」

「なんで片言なんだお前」

 問うてくるのは、男。背はアーレンより低い。だが、その腕の筋肉は隆々だ。なぜスーツのジャケットを腕まくりしているのかはいつも謎だが。髪はヤバい色に染め上げ、逆立たせていて、耳にはピアスの穴がいくつも空いている。このままでも不良にしか見えないし、これでアクセサリーでもジャラジャラ着けていて、入れ墨の1つや2つでも入れていれば、その筋の人に間違われても仕方がないガラの悪さだ。だが、

「えーと、俺の職場の先輩で、みなと竜太郎りゅうたろうさん。見た目は不安だけど、敵ではないです」

「なんかムカつく紹介だが、女性陣に免じて許してやろう。どうも、俺の部下がいつもお世話になってます」

「いや、俺は竜先輩の部下ではない。あなた俺と同じ平社員でしょ」

「お前……可愛くないって言われない? 主に俺に」

「ナ――ッ!!!」

 さりげなく竜先輩がひょいっと唐揚げを1つつまみ上げるのを目の当たりにして、アーレンが悲鳴を上げる。ナイフを逆手に飛びかからんとする彼女を間一髪、抱きとめて防ぐ。

「お、落ち着けアーレン! どうどうどう!」

「エーブイオロンラーテイエカラアゲシ、イングカラアゲフゥイヂネコイングシュレインナーテ!」

『唐揚げの恨み!』って言いたいのは俺でもわかる。初対面ながら傍若無人を存分に見せつけてくれた竜先輩も、さすがの迫力に面食らっている。

 だが減らず口は減らないようで、

「お前の女、めっちゃおっぱいデカくない? 触り心地どう?」

「アーレン。ナイフ」

「テ」

「待て待て待て落ち着け落ち着け! さすがにナイフ持ったお前とやり合いたくない! 奥さん、ちょっと琢磨借りてきますね!」

 無理矢理肩を組まれドリンクバーまで引っ張られる。テーブルから距離は空くが、視界には入る範囲で助かる。発言は酷いし後輩の扱いも激悪だが、妙に気が付き、気遣いもできる人なのだ。

「で、だ。まず一言言わせろ?」

「はい?」

「そこそこのガキまでこさえておいて3Pって、お前は性欲の化身か?」

「ナイフ持ってるのお忘れなく?」

「どうどう。ほれ、俺の奢りだ」

 ドリンクバーは頼んでいるので奢りにもならない。しかもコーラとメロンソーダ混ぜてる。小学生か。

「黒髪の人は三上さんって言って、同じアパート住まいのご近所さんです。小さい子はあの人と旦那さんの子供。旦那さんが長期出張中のところに痴漢が押し入ってきて、それを助けるために俺が部屋のドア壊しちゃったんで、直るまで外に出てて、一緒に行動してるだけですよ。それこそ安全と安心をお届けするために」

「だから入社初日から言ってんだろ、大家にウチと契約するように売り込めって。オートロックに一手間足すだけよ? っつって」

「うちのアパート、オートロックどころか玄関に戸もないんですよ」

「Oh……」

 じゃあ、と竜先輩はアーレンに視点を合わせる。

「あの子はそういう関係?」

「なんでみんなそういう方向に持っていくんですかね……」

「お前に幸せになってほしいからじゃね?」

 ……さらっとそういうことを言うから、悪い先輩と断罪できない。少女漫画に出てくるタイプの不良だこの人は。

「そりゃ冗談として。あの子が課長が話してた無断欠勤の理由か?」

 コーラ紅茶をぐびっ、とあおって、次のコーラカクテルを作り出す。どうやら職場内で事情は筒抜けになっているらしい。

「有休使っただけですよ」

「『オルトロック色島支社の鋼の歓迎会で死ぬほど飲まされたのに次の日平然と出社した荒船が有休使ってまで休んだ!』って、課どころか部内で騒ぎになったんだぞ。しかもその理由が女だって」

「女ですが……本当にそういうんじゃないですから」

 その手の話題を振られる度に、水の滴る白い肌が脳裏に浮かんでは消えていくが、決してそういう関係ではない。

「知ってるよ。そこでそういう関係になれるくらいなら、俺ももうちょっと楽に仕事してるわ」

 どういう因果関係だ。風が吹けば桶屋が儲かるようなものか?

「実際問題、金髪ちゃんの問題っつーのは解決したのかよ。警察行くって割にはまだ一緒に行動してるじゃねーか」

「手結署までは行きました。でも彼女、どうも警察には行きたくないようで。確かに身元がわからないどころか、住んでた国もろくにわからない状態なので、警察に行ってもお手上げでたらい回しになるでしょうし、だったらしばらく預かってても同じかと」

「じゃあ、同棲はしてんだ!」

 爛々と目を輝かせる。小学生か。

「……彼女、今のやりとりで先輩のこと、本気で敵視してると思うんで。気を付けてくださいよ?」

「わーったよ。お詫びにマイデリの唐揚げ10キロ送ってやるから」

「それマジでやめてくださいよ! 新人宿泊研に先輩が持ってきた俺と努の分20キロ、本当に死ぬかと思ったんですから!」

「その死がお前を育ててくれたんだな……だからうちの新入りは優秀なんだ」

 ホントテキトーに話を流す先輩だ。

「まあ困ったら言えよ。金と女と仕事と頭脳労働以外なら相談に乗ってやるから」

「その気持ちはありがたく受け取っときます」

 席に戻ると、アーレンが葛藤に満ちた表情で座っていた。

「タークマッ……」

「アーレン……唐揚げ、どうぞ」

「ダメ、タークマ、カラアゲ、タベル……」

「おい琢磨。片言のくせに分かり合った感出してイチャイチャすんな」

「それには同意です」

「ふぇーて」

 美咲さんと寧亞ちゃんまでが頷く。そこまで酷いですか?

「琢磨くんは土日出勤してる覚えがないけど、湊さん? は、今日はお仕事なんですか?」

「そういえば。なんでスーツなんです?」

「昨日サボったからその分やらされてる。お前も明日はちゃんと来いよ」

「明日は日曜日で、うちの部署は真面目にやってれば週休二日制ですよ」

「ゴチソウサマデシタ」

 大ステーキにご飯大盛り、スパゲッティ少々と唐揚げほぼ二皿を平らげ、美少女はご満悦だ。心なしか顔もつやつやしている。

「って、唐揚げの油付きすぎだよ。アーレン、顔。唇」

「クチビル?」

「唇で拭き取ってやればいいんじゃね」

「あー。それいいかも」

 この二人、揃ったら頭悪い。

 馬鹿は放っておいて、紙ナプキンを手に取る。

「ン……」

 …………なんで拭かれるのを待つだけの待機状態が、そんなに色っぽくなれるんだ。教えろ金髪美少女よ。

「…………俺もカノジョ欲しい」

 俺達にスマホのカメラ向けたりしなければできるんじゃないですかね。


 会計を済ませようと思ったが、奢りは美咲さんに断固拒否された。

「いや……そりゃそうでしょ。今日君何十万使ったと思ってるの? あたしが調子に乗って買ったんだけどさ。貯金してたのかもしれないけど、いいって無理しなくて」

「すみません……正直助かります」

 散財するために貯金していた分の消費だから生活には大きな影響はないが、次に通帳記帳した時にすごくびっくりする額は使った。服が一揃えしかない人間にお洒落をさせたのだから当然なのだが。

「アーレンちゃーん、俺とも仲良くしてよー」

 へらへらと笑いながら言い寄る竜先輩。アーレンが反撃しないので、本気で言っていないことは伝わるのだろうが(そもそも言葉はわからないかもしれないが)、イライラした様子で逃げられている。あまり仲良くなられるのもなんか嫌だからいいけど……

 アーレンが自動ドアにビクッ! となってから一歩、店の外へ先に出る。

「御免!」

 と同時、何者かが彼女に襲いかかる。

 柱の陰に隠れて待ち構えていた長身の男が、最小限の動きで振り返り、拳を顔面目がけて振り抜く。

 アーレンも最低限の動き。上体をわずかに後ろへそらし、手にしたビニール傘で殴る。持ち手の曲面で顎を打ち抜いた。

 引き足をすっとたたみ、低空ですぐに第二の反撃姿勢に構える。しかし、相手の第二撃は来ない。

「いたた……ホントに強いじゃないか、遠慮する必要ないくらい…」

「……何してるんだよ、努」

 アーレンに殴られて頭をふらふらさせているのは、半年で見慣れた同期の顔だった。

「あー。トムでもやられんのか。マジ強いな琢磨のカノジョ」

 この人の差し金か。

「ごめん、琢磨。竜先輩に『ちょっと襲って強さ確かめてみろ』ってLINNEで指示されて」

 同期、泥田どろたつとむが顔の前で手を合わせる。俺よりも背は高いが、細く、どこか頼りない雰囲気がある。そのせいか竜先輩に、俺よりも断然、振り回されている。

「アーレン、ごめん。大丈夫。この人、努。仲良し」

「テ。ツトーム、ダイジョウブ」

「おいおい、俺の時とずいぶん違うじゃねえかよ」

 人徳では。

「先輩。いい加減にしてください。アーレンにもですし、美咲さんにもこれ以上怖い思いさせたくない」

「琢磨」

 本心を半分は出した怒りを表情に出して伝えるが、それ以上に先輩が真面目な声で近付く。そして組んできた肩の上、小声で、警告を発した。

「坂下噴水で喧嘩したって金髪女子、その子か?」

 ドキ、と心臓が鳴る。

「さっきあっちの方から営業回ってきたんだけどよ。坂上さかうえ交番の田口がぼやいてたぜ。男二人を軽くひねるような新キャラはポンポン出てほしくねえって」

 会計を終えた美咲さんが寧亞ちゃんと共に出てくる。先輩は更に小声になり、耳元でつぶやく。

「勘違いすんな、お前の可愛いカノジョをお廻りに突き出したいわけねえだろ。お廻りのお世話になりたくないなら、上手いことバレないようにしろよってこと」

「……お言葉、ありがたく頂戴します」

「オーケー、月曜昼飯奢れ」

「なになに? 男同士で内緒話ですかあ?」

「不倫は駄目だぞって話ッスよ、お・く・さ・ん」

「えっ!? や、あの、不倫はしてませんよ!?」

「え……おい琢磨、本当に大丈夫なんだろうな」

「すいません……もう帰っていいですか……」


 竜先輩と努の二人とは別れ、書店で絵本と漢字辞典を買い足して家路に着く。

 アパートの外でドアの業者とすれ違う。昨日のうちに大家に頼んでおいたのだが、早くもこの時間までに取り付けを完了させてくれたらしい。

 大家から新しい鍵を貰って、部屋へ。ちなみにアーレンも昨日のうちに大家と顔を合わせているが、特に何も言ってこなかった。住民に関心の薄い大家だ、こんなものだろう。

 三上家の新しいドアの建付けを確認する。当然プロの仕事、揺らぎもずれもない。

「これなら安心だね。今日一日ありがと。琢磨くんも、アーレンさんも」

「いえいえ。いつでも頼って……頼るのは俺達の方でしたね」

 平日のアーレンは預かってもらいたい。彼女の身の安全については、どうやら彼女自身で守ることができそうだが、逆に訪問者をしばき倒してしまいそうだ。

 むしろ、美咲さんの安全のためにアーレンを送り込みたい。

 いえいえ、と美咲さんも俺と同じように否定の言葉を続ける。

「正直、まだ不安な部分はあるからさ。いつでも連絡取れるようにしてもらってもいい、かな。……ってか、あれ? もしかしてあたし、琢磨くんのケータイ知らない?」

「町会で顔合わせるくらいだったし、近所だし……知らないですね」

「えーそれはヤバい! すぐ教えて今すぐ教えて! 不安で眠れなかったら電話するから!」

「それは旦那さんにしてください」

「確かに! ってか太健さんこそ連絡寄越せ!」

 ケータイに向かって(繋がってもないのに)怒鳴る美咲さん。よかった。元気な美咲さんに戻った。

「じゃ、美咲さん。寧亞ちゃんも。また月曜日、よろしくお願いします」

「うん! お待ちしてます。んじゃねー」

「ミサキ、ネーア、オヤスミ」

「アーレン。おやすみ、まだ。さようなら」

「テ。サヨウナラ。ミサキ、ネーア」

「さおうなあー」

「あー寧亞ちゃん可愛いっ! さおうなあー!」

 テンションの振り切り方は見習いたいものだ。


「こいつに風呂の入り方を教えてやってください」

「また月曜日だったのでは?」

「だって、洗い場でわけわからん呪文唱えながら飛び回ってるんですよ。よくあの狭い洗い場で飛び回れるとは思いますが」

「琢磨くん、のぞきだー」

「のどいー」

「寧亞ちゃんが変な言葉覚えてますよ。うちの部屋安普請だからドタバタしたらすぐわかるんですって」

 シュンとしたアーレンを従えて、また三上家を訪れていた。

 アーレンの様子を見て、美咲さんは、腕組みをして嘆息。

「で、ドタバタうるさいからもう嫌になってうちに来ちゃったの?」

「いや、わからないのもしょうがないし、飛び回ってたのは昨日の朝もやってたからいいんです。彼女なりに何かしたかったんでしょうから。ただ、『洗う』のジェスチャーで伝わらないんじゃ、これ以上教えようがないので……女性に手本を見せてもらうしかないと」

「いーでしょう。そういうことなら、この美咲さんが、文字通り! 一肌脱いであげましょう!」

「ヨロシクオネガイシマス……」

 その後、美咲さんから「アーレンさん、やっぱりデカいね……」という無駄な報告があったのは言うまでもない。


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