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1から始める異少女会話   [1/4]

 勤務時間大幅超過の残業終わり。終電間近に遅れる電車。

 駅を出れば予報にない雨降り。男の俺に見せつけてくる不審者。

 疲れと予期せぬ出来事が重なって、俺の判断能力も鈍っていたのかもしれない。でなければすぐ警察か消防に通報していただろう。

 しかし、結果的には司法的な手続きのお世話にならずに済んで良かったのかもしれない。彼女にとっては。


 俺、荒船あらふね琢磨たくまは警備会社勤務一年目の新社会人だ。

 警備会社を志望した理由は何だったか……就職活動を始めた頃から第一志望に選んでいたので、並々ならぬ決意があったのはわかる。だが思い出せない。22時過ぎまで残業をした頭では。

 警備会社といっても、営業部だ。主な仕事は、外回りの営業やプレゼンの資料作り。今日も資料作りが終わらずにこんな時間だ。疲れる。

 そんな帰り道の突然の雨。折り畳み傘も持たず、駅前で買った弁当屋のおかずが入ったビニール袋でしのいで走る俺が、それを見つけたのは何の因果か。明日は燃えるゴミの日だったか燃えないゴミの日だったかと目を向けたアパートの目前、ゴミ捨て場には、

 人が雨ざらしに捨てられていた。

「うわああ!?」

 酔っ払いか? 行き倒れか? 事故か? 怪我でもしているのか? 死んでいるのか?

 ゴミ捨てマナーがなってない(大家談)住民がいるせいで、夜中だというのに大量にゴミが詰まったゴミ袋が積まれており、その上に横たわる人。黒い袋の上に黒っぽい服だから気付かれなかったのだろうか?

 俺だったら気付いただろう。いや、だから気付いたのか。

 なぜならスカートから伸びた脚はまばゆく白く。

 皆まで言うまい。俺はその女性をさっと抱え上げた。

 いや。いやいや。やましい気持ちがあったわけではない。少しは状況を確認したのだ。

 服装。タータン・チェックのプリーツスカート。黒のニーソックス。見たことのないほどイカつい靴。

 黒を基調にしたブレザー。金属の飾りがいくつも施されている。

 そして頭部。雨に濡れる街灯を反射して光る金髪。

 呼吸の有無を確認しようと顔を見る。

 金髪の時点で想像はしたが、外国人だ。しかも、形の良いまぶた。長いまつ毛。すっと通った鼻筋。小さくまとまった口元。目が開いていなくてもわかる。こいつはドえらい美人だ。しかも、まだ年若い。

 外国人の少女を、雨降りしきる中に放置しておくわけにはいくまい。通報するにしても、この雨の中で待つわけにもいくまい。そう、心配して自分の部屋に上げようと思ったわけだ。

 一応声はかけて揺すったが返事はない。決心を固め、俺は美少女をお姫様抱っこで抱え上げた。

 残念なことに、俺の部屋はアパートの最上階、四階だ。人一人抱えて歩くには少し長い。でも、オートロックどころか玄関にドアすらもなく、ストレスフリーでそのまま階段を上がるだけなので、大きな荷物で両手が塞がった現状では、その点はありがたいことこの上ない。

 頭でも打っていては事だ、と気付いたのは二階まで上がりかけてからで、そこからはやや慎重に段差を踏み上る。

「ン、ン……」

 十分気は遣ったつもりだが、震動はどうしても伝わる。我が家目前、というところで少女が目を開いた。

 少女は長いまつ毛をシパシパさせてから、首を左右へ。

「ヌインラート……?」

 当然日本語ではないつぶやきを聞かせ、下、自分の足が宙から浮いていることを確認すると、

「……ヌエート!?」

 俺を見上げて目尻がキッと上がる。青い眼だ。青眼。そして、やはり美人だ。むしろ美人が過ぎる。目ん玉潰れそうだ。

「ウニグスペータ! ヌエート! レガニェン、メテレスタ! クアファリオラート? コルバロスペリナート!?」

 どぎまぎしている場合ではなかった。俺にお姫様抱っこされている状況を認識し、少女は暴れ始める。

「キュリバエート、ウニグスペータ!」

「わかった! 何言ってるかわからんが、まずは!」

 お姫様抱っこをやめ、鞄を右手に、少女を左腕に持ち替える。少女はわめき続け、離れようと腕で突っ張ってくるが、力は弱い。あんな所に倒れていたのだから、弱っているのかもしれない。

 だがここまで来たら乗りかかった舟。抵抗されるからといって、はいそうですかと解放してやるのも癪だ。俺にできることはやらせてもらう。

 通勤鞄から家の鍵を取り出す。鍵を開け、鞄と弁当屋の袋を持ち直し、少女を抱えたまま中へ。

 靴脱ぎ場としてのスペースしかない玄関で、まずは鍵をかける。靴を脱ぎたいところだが、少女が暴れていてはそれどころでは、

「…………イングエラーテ」

 ……なんかあっけに取られているのだが。そんなに気になる点があるだろうか? 廊下は掃除してあるし、ガス台も流しも使いっぱなしにはしていない。

 三歩で廊下を過ぎ、六畳一間の寝室兼リビングへ。

「ウニグスペータ!」

「わかった、わかった! 何とかかんとかペータ!」

 まずは少女を下ろす。いい加減に落とせば怪我をしそうなので、優しく。

 すぐさま抵抗、あるいは攻撃でも飛んでくるかと危惧していたが、少女は片膝立ちに姿勢を直しただけで、大人しくしていた。

「……あー、待ってて」

 逃げ出さないように、クマかイノシシにでも遭遇した時のように視線を逸らさず後退。風呂場のタオルを一枚、二枚取って、またそのまま前進。一枚を少女へ。

「ほい。拭いて」

「……ヌクアント?」

 ポカンとまたあっけに取られる少女。悪いか、学生の時から好きなバンドだ。マフラータオルくらい持っててもよかろう。常用するな? 三枚持ちだ。

 少女は置いて、俺自身も駅から濡れているので頭からスーツまでとにかく拭く。そうしているうちに少女も、俺とタオルに視線を何度か交互させて、自分の頭を拭き始める。

 服の湿り気は不快だが、まずは少女だ。警察にせよ病院にせよ、いきなり引き渡して責任逃れ、というのもどこか悔しい。何ができるのかと問われると、具体的な策はあまり浮かばないが。

 少女の顔を見る。少女もこちらを睨みつけている。

 まだ濡れそぼっている金髪は腰まで届こうか。乱雑に抱えたのに乱れもせず、恩返しの鶴が織ったばかりの布地のように規則正しく流れる金糸だけで、世の男達を振り向かせるに足る存在感だ。

 切れ長の青い眼は、自分を抱きかかえていた不審な男|(俺だが)を射殺すことに終始している。だが、その涼やかな瞳に殺されるなら、喜んで身を捧げる男は五万といるだろう。敵意は伝わるが、それを超えてなお魅了されてしまう。

 年の頃は17、8といったところか。大人と遜色ない美貌を持ちながら、わずかに子供っぽさを残す頬の丸みに、思わず手を伸ばしたくなる。そんなことをすれば噛みつきかねない剣幕だが。

 スカートから伸びた真っ白な脚。無駄な肉のない、しかし細すぎないそれも、上質な布地に包まれている腕も長いが、その分背も高い。170は優に超えている。モデルのようだ。

 それだけの特徴を見つけられるほどの時間を、互いに硬直で過ごす。こうしていても、雨に濡れた体が冷えていくばかりだ。

「…………あー。えー、ハロー?」

「…………」

 とりあえず、会話を試みる。まあ、英語圏の人ではないことは、さっきから話している言葉で想像はついていたが。

「あー、ボンジュール? グーテンターク? ブエノスアイレス? 違うな、これはアルゼンチンの首都だ……ブエノスディアス? チャオ? シェイシェイ? カムサハムニダ? ロシア語……挨拶わからないな……マーマ、ダースビダーニャ? モンゴル…ドルゴルスレン・ダグワドルジ……中東……? ファラオ、オシリス、セト……エジプト神しか出ない……」

 思いつく限りの言語で話しかけてみる。冷静になれば東アジア圏でなさそうなのは理解できるが、俺の脳内にある語彙はこれが限界だった。

「…………ヌクラント?」

 伝わらねえ……!

 使っている言語がわかったところで俺は喋れないので、この作戦はまず企画倒れだった。

 作戦を変えよう。俺自身を指差して、

「琢磨」

「……タクマ? ……ヌクラント?」

「私、琢磨」

 名付けてジェスチャー作戦。とりあえず名前だけでもわかってコミュニケーションが取れれば、多少のやりとりはできるようになるはず。今度は俺、

「私、琢磨」

 少女へと指差す。

「…………ワタシ?」

 少女が自身を指差す。そうそう! 俺は首を縦に。これは通じるのだろうか。

「……ワタシ。アーレン・ハーファーハイト」

「アーレン・ハーファーハイト?」

 指差し確認。少女は頷く。

「ワタシ。アーレン・ハーファーハイト」

「私、琢磨」

「タークマ!」

 少女、アーレン(暫定)も指差し確認。と同時に、表情をほころばせる。おう、ちょっとイントネーション変だけど、その可愛すぎる笑顔に免じます!

「ワタシ、アーレン! ワタシ、タークマ!」

 つい先刻までの抵抗が嘘のように、アーレンは明るい表情で自分と俺とを交互に指差して名前を呼ぶ。アーレン、タークマと。

 もしかしたら、言葉が通じないことが恐怖や警戒につながっていたのではないか。どんな事情があるかはわからないが、あんな所に倒れていて、彼女にも不安があったに違いないのだ。それがこのちょっとしたやりとりで解消されたのだとしたら、それだけでも力になれた気がしてくる。

 だが、ちょっと待った。

「ワタシ、タークマ!」

「違う!」

「フェッ!?」

 俺への指差しを握って止める。俺の指で再度確認する。

「私、琢磨」

「タークマ」

 うんうん、と頷く。そこはわかっているようだ。

 俺はアーレンを指差す。

「あなた、アーレン」

 指を俺へ。

「私」

 アーレンへ。

「あなた」

「アナタ?」

 アーレンが自身を指す。いや、と俺はその手を取って、まずアーレンへ。

「私」

「ワタシ」

 うんうん。そのまま俺へ。

「あなた」

「アナタ?」

 そうそう。

「ワタシ。アーレン。アナタ。タークマ」

「イグザァクトリー!」

 通じた! 母ちゃん、通じたよ!

「ワタシ、アーレン! アナタ、タークマ!」

 アーレンも笑顔だ。人に何かを教えてこんなに嬉しくなったのは初めてだ。

「いいぞ! イェイ!」

 思わずハイタッチを要求してしまう。それくらい通じ合った感覚がしたのだ。

 自分に向けられた両手の平に、アーレンは一瞬ポカン。まあジェスチャーが通じない国、通じないジェスチャーもあろう。

 しかしアーレンは反応してくれた。

 そっと両手を俺の手の平に伸ばし、開いた俺の指と指の間に、白磁の指を絡めてくる。手の平と指の、雨に濡れて冷えた温度が俺のそれに伝わってくる。

 宝石のような眼を俺に向けて細める。それだけで、それだけなのに、俺の心臓が高鳴り始める。

「いっ、いかんいかん!」

 こう見えても社会人。ペーペーだが社会人だ。こんな年端もいかないうら若き少女を相手に何をしている。うら若きとはどの程度までだろう。彼女は成人はしていないかもしれないが、俺とそう歳は離れていないのではないか。少なくとも中学生以下ということはないだろう。大学生に見えなくもないし、外国では合法の範囲かも

「いかんいかん!」

「イカンイカン?」

 アーレンも真似して首を左右にブンブン振る。それこそいかん。変な言葉を覚えてしまう。

「あー、アーレン?」

「タークマ!」

 指差し確認。そうではない。話を進める。

「私、琢磨。えー、ここ」

 床を指差す。場所、ということが伝わるか。

「日本」

「…………ニホン」

「ここ、ニホン。アーレン、は? 日本?」

 違うのは知ってる。ここが日本で君も日本? 違うよね、という論法だ。どこ? と聞いても通じまい。

「……ワタシ、トゥベロン」

 トゥベロン。国だとしたら知らない。おそらくそんな国はないだろう。

 現代っ子らしく、とりあえずインターネット検索にかけてみる。……紀元前かその辺に書かれた哲学っぽい話に出てくる人名しか出てこない。

「タークマ。トゥベロン、ココ?」

 窓を指差す。そこにあるとは思っていまい。どこへ向かえばトゥベロンへ行ける? そんなところだろう。

 俺は首を振る。

「イカンイカン?」

「違う」

 手をつけて振る。

 窓を開ける。四階なので、多少は通りも見える。深夜だというのにまだ人が歩いている。

「トゥベロン、無い」

「ナイ?」

「私、トゥベロン、知らない」

 街行く人を指す。

「トゥベロン、知らない。知らない。知らない、知らない、知らない」

 ネットでも出ないのだ。そこらの一般人が知る場所ではない。というか無いだろう。では彼女がどこから来たのかと問われると、上手い回答は出せないのだが。

「トゥベロン、ナイ……?」

 アーレンから表情が消える。

 しまった。要らんほど不安にさせてしまった。

「だ、大丈夫! 大丈夫!」

「ダイジョウブ……?」

 涙目で見上げられる。大丈夫を説明できるほどのジェスチャー能力はない。どうする。

「イェイ!」

 ハイタッチで誤魔化すしかなかった。

 それでもアーレンの気は少し紛れるようで、俺に手を伸ばしてくれる。

 そっ、と、上質な絹の指が俺の指の腹を撫で、包んでくる。

「いかんいかん!」

「イカンイカン?」

「違う!」

 手を離す。固まる。そうするとアーレンも同じポーズで固まる。そこへ、俺からハイタッチを敢行。パンッ、と音を響かせる。

「イェイ!」

 アーレンはポカン。次第に顔を赤らめていき、

「……タークマ? イェイ?」

 ハイタッチを要求。よしよし、やっとわかってくれたか。

 期待に応えて両手を広げて待つ。

 アーレンはサッと、しかし先程と同じように手を絡ませ、俺を窺い見る。

「……アーレン、イェイ、チガウ?」

「……あー。うん。違う」

 そういうことか。アーレンはサッと手を離し、顔を隠してうずくまる。

「ニェトラーテ……」

 多分、間違いなく、恥ずかしいってところだろう。

「だ、大丈夫。イェイ」

「……イェイッ」

 パンッ、と今度こそ乾いた音が響く。

「……ダイジョウブ!」

 そしてまた笑顔に。良かった。美しい少女には笑顔しか似合わない。

 彼女に笑顔が戻ったのはいいが、事態は進展していない。むしろ、彼女の国の大使館に連れていく作戦も不可能になり、後退している。

 窓から吹き込む風で寒さを思い出す。まだ服はろくに乾いていないのだ。

「アーレン。待ってて」

 一緒に立ち上がりかけるアーレンを手で制す。

「待って」

「マッテ?」

 ぺたんと座り込む。両足を同じ方に投げ出すいわゆる女の子座り。いつでも動ける膝立ちと違って、警戒を解いたと考えていいだろうか。

「タークマ? アーレン、マッテ、ダイジョウブ?」

「うん。大丈夫」

 どうやら『大丈夫=合ってる』辺りの認識になったようだ。学習した言葉を自ら使おうとする点を見れば、この少女、かなり賢い。しかも間違っていない。

 アーレンを待たせて探すのは服。できるだけ温かそうなもの。

「これでいいか。……アーレン。こっち」

 説明しながらは面倒なので、手を取って風呂場へ連れていく。服とタオルは脱衣かごへ。

 申し訳程度のバスタブがあるだけの風呂場だが、使わないよりはマシだろう。ちなみにトイレは別だ。

「シャワー。わかる?」

 シャワーくらいどこの国にもあるのではないか。バスタブに湯を張るのは文化の差があると聞くが。

 だがアーレンの国にはシャワーもないようである。俺が蛇口をひねって流れた水に目を丸くしている。

「……アーレン? 水」

 これ、と指差しながらの説明をまた始める。ミズ、とアーレンも繰り返す。

「水、温かい。ほれ」

 軽く手に当てて、温度を確かめさせる。

「フェエエエ……」

 温かい湯に触れて、途端にアーレンの姿勢が崩れる。完全にほっとした様子。

 あんな雨ざらしになっていたのだ。相当寒かっただろう。それをまず解消してやれなかったことを今更申し訳なく思う。

「アーレン。シャワーは、服、脱ぐ」

「フク、ヌグ?」

「えーと、これ、服。脱ぐ。こう」

 ワイシャツを裾から軽くまくってみせる。

「フェーテ! タークマ、アーレン、ヌグ、ダイジョウブ」

 やはり理解力が高い。今のだけでわかってくれ、

「待って! アーレン!」

「マッテ? タークマ? アーレン、ヌグ、チガウ?」

 上着を頭に被った状態で問い返してくる姿は滑稽だ。が、それ以上に、無駄な肉の一切ついていない腹部が、無防備なおへそが、むき出しになっているのは芸術的とさえ言えるというか逆に犯罪じみているというか、もう少し目線を上げれば、

「いかんいかん!」

「イカンイカン!?」

 なぜそれに激しく反応するかは解明できないが、バッと顔が現れ、おへそが隠れる。俺の心臓が安心する。

「アーレン? 服、脱ぐ。服、カゴ、入れる」

「イレル?」

 洗濯物カゴを見せても一発では通じない。もうこれ俺がやった方が早いな?

「脱ぐ、入れる」

 ワイシャツを脱いでカゴに優しく入れる。カゴを持ち上げ、

「外、置く。で、シャワー。大丈夫?」

「ダイジョウブ。フク、ヌグ、カゴ、イレル、ソト、オク、デ、シャワー。ダイジョウブ」

「待って。服、着る」

 危うく裸で風呂場から出てくるところだった。いや、そこまでの常識のなさはないかもしれないが。

「これ、服、着る」

『着る』に、ワイシャツを着直す動作を加えながら、押し入れから出したスウェット上下を示す。アーレンはうんうんと首肯。

「タークマ。アーレン、ダイジョウブ」

「待って!」

 服に手をかけたところで制止。俺が出ないのにやってどうする。

 風呂場から退場する。

「……アーレン。大丈夫」

「ダイジョウブ。フク、ヌグ」

 スッ、ズッ、と湿った衣擦れの音が始まる。お、俺も着替えるだけ着替えるとしよう。

 さっきのタオルでザッと体を拭き、サッと着替える。靴を履いたまま俺もアーレンも歩き回ったので、ササっと水拭き。

 よく手を洗い、米を量り始めた頃に、風呂場のドアが開く音がした。

「タークマ。カゴ、ソト、オク」

「おーう」

 洗濯機にかけてやろうと外に出させたのだが、先に米を炊いてしまおう。どうせ我が家の洗濯機には乾燥機能などついていない。干さなければ着られないのは同じなので、洗濯が多少遅れても仕方ない。

 米を研ぎ始めると、風呂場で反響した音がすぐ廊下に届いてくる。

「フェルグナーテ、ネイエスタントラーテ、ルニグフエスアータ♪~」

 ゆったりしたテンポのメロディ。アーレンの鼻歌のようだ。どうやら人類というのは、文化の有る無しに関わらず、温かい湯に当たると鼻歌を歌いたくなる性質を持っているようだ。

「たとえば~、米研げるだーけで、お米がー上手く炊ける~こと~♪」

 つられて俺も鼻歌。炊飯器を早炊きにセットし、ついでだからとキャベツをむしってサラダを作る。作るといっても後はトマトやキュウリをいい加減に切って皿に流し込むだけだが。

「タークマ。アーレン、フク、キル」

「おーう。唐揚げチンしとくから、……つってもわかんねえか」

 ズッ、スッ、と湿った衣擦れの音が聞こえてくる。ん? 湿った?

「アーレン!?」

「?」

 また頭洋服お化け状態のアーレンがこちらを見る(襟の奥から)。またもむき出しのおへそ周りは、さっきよりも瑞々しく、というか水滴がダラダラと流れていた。

「おま、タオル! 拭いてないのかよ!?」

「……アーレン、チガウ?」

 不安げに顔の前で手を左右に。う。

 確かに彼女は間違えている。が、怒鳴るほどのことではない。洗濯物が一つ増えただけだ。

 いかんいかん。これ以上、この少女に悲しい思いをさせてどうする。彼女とは相当文化が違う。なら、俺が教えてあげるしかないだろう。

「アーレン、シャワー、服の前に……アーレン!!??」

 アーレンはまだスカートのままだった。しかも、スカートの裾からはドボドボと湯が垂れている。

 こいつ、シャワー浴びたまま拭かずに服着ただけでなく、下半身脱がないままシャワー浴びてやがる!

 一体どんな文化の世界から来たのだろう。トゥベロンでは水浴びの習慣さえないのか?

「アーレン。服、脱ぐ、タオル、拭く」

「フク、ヌグ、タオル、フク……タオル、キル?」

 タオルを服の上から巻き始める。違う。

 かなり恥ずかしいが、百聞は一見に如かず。全部やって見せた方が早い。俺は諦めた。

「服。全部」

「ゼンブ」

 上も下も指す。で、

「脱ぐ。全部」

 脱いだ。全部。

「フェッ!? ター、タークマ!?」

「タオル。拭く」

 さっき使った自分用のタオルで拭いてみせる。

「フク? ……フク? フク?」

 顔を赤くしながら、アーレンの視線は自分の着ている服と脱いだ服、そしてタオルを行ったり来たりしている。

 あ。『服』と『拭く』が同じだから、混乱しているのか。

 ええい、こんなところで日本語のややこしさを実感するなんて!


 結局、『拭く』は『拭き取る』と説明してやり直させ(『拭う』と言い換えたら『脱ぐ』と混ざってしまい駄目だった)、ようやくシャワー問題が片付く。

 だいぶ遅くなってしまったが、食事くらい摂らなければ俺もアーレンも参ってしまう。

 アーレンは、しばらく押し入れで眠っていた俺のスウェットの上下を着ている。季節の変わり目、そろそろ出そうか、まだ早いかと悩んで押し入れの一番手前まで出していたので、ちょうどタイミングが良かった。

 シャワーをよく知らないくらいだ。部屋の中のものがいちいち珍しいのか、キョロキョロと辺りを見回している。それとも、周りを見るだけの余裕がようやく生まれたのか。

「アーレン。これ。ご飯」

「ゴハン……?」

 出せるものは茶碗に盛った白米とパックの中の唐揚げ、テキトーに刻んだサラダ、インスタントの味噌汁だけ。

「えーと、だな……米。唐揚げ、味噌汁、サラダ」

「コメ、カラアゲ、ミソシル、サラダ」

 指差し確認。当然、アーレンも確認しただけで、物珍しげに眺めている。

 得体の知れないものならば、実演してみせるまで。先程のシャワーコミュニケーションで学んだことだ。

「いただきます」

「イタダキマス?」

 手を合わせて、箸を持つ。まずは、米。一つまみ箸で持ち上げて、口の中へ。普段から心がけているわけではないが、幼子に教えるつもりで、一噛み、二噛み、小学校の給食さながらに30回噛みに挑戦してみる。

 しかし社会人にもなった少食でもない男がそんなかったるい口の動きを我慢できるはずもない。十回ほど噛んだら、味噌汁を少しすする。我が家では音を鳴らしてすすっても全く問題ない。インスタントなので、具はワカメに刻みネギと質素かつ少量だ。

 さて、今日の主役の唐揚げさんだ。良い時間、具体的には世間一般の夕食時に帰れれば、揚げたてアツアツのところにありつけた可能性もあり、その場合は唐揚げ様となるが、こんな深夜のメイクデブタイムではちょっと格落ちだ。それでも敬意を払わずにはいられない。

 チンはしたて、一口噛めばほんのりと肉汁が染み出してくる。当然三十噛みなんぞしていられん、すぐさま白米を口へ放り込む。唐揚げは飲み物、いつの間にか二個目までなくなっているではないか。

 三個目に手を伸ばしたいところを一瞬我慢して、サラダへ。今日はあっさり青じそ風味のドレッシングをさっとかけて、キャベツをバリバリ。ドレッシングやらマヨネーズやらは塩分がどうの野菜本来の風味がどうのとうるさい連中も世の中にはいるが、知ったことではない。ドレッシングをかけた野菜は美味い。それでいいじゃないか。

 それでもトマトが生でも美味いのは認めよう。ミニだが。そこいらのスーパーマーケットで買っただけのミニトマトがなぜこんなに甘くて美味いのか。それはトマトだからだ。う~ん、今の言葉、小学二年生の頃の俺に聞かせてやりたい。トマト残して昼休み潰してるなんて、人生を八倍損してるぞ。

 さて、舌がさっぱりしたので、再び唐揚げ様のサイクルに戻る。おっと『様』に格上げしてしまった。しかしそれも仕方あるまい。なぜなら、ここでドン! 七味マヨネ~ズ~! しかもこのマヨネーズ、隠し味がしてあるので美味くないわけがない! あ~、今日が木曜日であることを呪う! これが金曜日ならば、俺の手元にはダイナウルトラハイ缶があって、勢い余って二本目まで空けても許されるのに!

「……………い、イタダキマス!」

「おう! 召し上がれ!」

 さっきから物欲しげに俺の口元を見つめていたアーレンが、痺れを切らして箸を手にする。白飯、唐揚げ、味噌汁、野菜と手当たり次第に頬張っていく。あんな所に捨てられるように倒れていたんだ、腹も減って当然だろう。

 それからしばらく、俺もアーレンも、言葉を発さずに目の前の栄養を一粒残さず口へ詰め込んだ。


 いや。一度だけ言葉を発した。透明なパックの底から机の木目が見えて、

「ッ……! カラアゲ…………」

「…………アーレン。違う」

「タークマ……?」

「ドンッ!!」

「! カラアゲっ!! タークマ、イェイっ!!」

「イェイ!」

 二パック目に突入した時だ。


「寝る。ぐうぐう」

「テ。アーレン、ネル。グウグウ」

 擬音付きジェスチャーで次の行動を指示する。しかし擬音も含めて覚えていそうだ。今後は擬音を最小限にしよう。

「アーレン、ここ」

「テ」

 ベッドを指せば、ちゃんとその上に横たわってくれる。素直でいい子だ。どういう育ちをしてきたのか、少し興味が湧いてきた。

 いずれにしても、明日は仕事を休まなければいけないだろう。国がわからないから大使館は駄目だが、なら警察だろうか。アーレンのことをどこに申し出ればいいのか。問題は山積みだ。

「じゃあ、おやすみ。アーレン」

 まだ早いが、こたつを出しておけばよかった。片付ける手間が減るのに。仕方ないので、毛布二枚だけ引っ張り出して床に横たわる。

「タークマ。マッテ」

 いきなり毛布をはぎ取られる。カーテンから街灯がほんのり照らす薄明かりに、アーレンの整いすぎた顔が浮かび上がる。

「タークマ、ココ。アーレン、ココ」

 ベッド、床と指を向ける。名前と指示語だけで意味が伝わるのは、困ったような怒ったような彼女の表情のおかげか。

「タークマ、ココ、チガウ」

「俺が上だって? アーレン、違うぞ。アーレン、ここ。私、ここ」

 俺の返答を待つより先に、アーレンはベッドを降りる。片膝を床に着いて、まるでお姫様に誓いを立てる騎士のように、体を起こした俺を見つめる。

「ヌオイントエーテウントラート? エーフオッギインラーテ、イエクインジティカイアラーテ。レ、クオランシスミラート!?」

「アーレン、アーレン、待って! 分かった、OK、大丈夫! 私、ここ!」

 この剣幕で来られると、こちらに打開の術はない。とりあえず聞き入れるしかない。

 女の子を床に寝かせて自分がベッドに寝るほど畜生になりたくなかっただけなので、本人が気に入らないのを無理強いさせるほどの主義主張があるわけではない。申し訳ないから一緒に床に寝よう、というほど社会的制裁よりも性欲が勝ってもいない。

「おやすみ、アーレン……」

「オヤスミ、タークマ」

 俺がベッドに横たわったことに納得したのか、アーレンは頷いた。

 しかし、さっきは素直にベッドに横になったのに、今は床に座り、片膝を胸元に抱き寄せ、顔は俺にまくしたてた時以上に険しくなる。

 しばらくその顔を見ていたが、彼女は目も閉じず、窓と部屋の入口へ、視線を順繰りに送っている。俺を視界に入れたまま、のように見える。

 俺が顔がこちらに向いていることに気付くと、こちらを一瞥する。すると、すぐに柔和な表情に変わり、言い聞かせるように、

「タークマ。ダイジョウブ」

 そして、再び、警戒の色を目に宿らせる。

 返事をするでもなく、俺は彼女の様子を見続ける。

 俺はどうして彼女を助けたのだろう?

 助ける、と考えて、思い出す。俺が警備会社に就職しようと決めた理由を。

 そうだ。大事な『何か』を守りたかったんだ。

『何か』は思い出せないのではない。誰かにとっての『大事な物』を守る。それが俺が今の会社を選んだ理由……まあ、きっかけは多分、漫画とかアニメの影響だろうが。

 アーレンのことも、守りたかったのだろうか? あのまま雨ざらしではどんな危険が待っているかわからないし。

 とりあえず、『目の前で困っている人は放っておけない』ということにして、俺は寝ることにした。

 まだ名前しか知らない少女は、見張りのように首を動かし続けていた。


 ☆☆


「……いや、当日朝なのは申し訳ないですけど、こっちも突然というか緊急事態でして。とりあえず今日、警察に行ってみて、月曜には出られると思いますので……疑ってます?」

「――――ッ! タークマッ!?」

 起き抜けに発せられたアーレンの叫び声は、電話口の課長にも届いただろうか。そうであれば手間は減るのだが。

「あ、聞こえましたか。これで信じてくれ――なんでそうなるんですか!? はい。はい。よろしくお願いします。はい、失礼します。……アーレン? おはよう」

「タークマ、オハヨウ?」

 スマホを置いて、台所へ。朝餉の支度はもう済んでいる。

 俺が目を閉じる前と全く同じ姿勢のままで目を覚ましたアーレンは、しかし寝る前の異様な警戒態勢は解いたようだ。外国人モデルも真っ青の美少女顔で、こちらから漂っているのだろう料理の匂いを嗅いでいる。

  ぐう~~~~

「……タークマ。カラアゲ……チガウ。ゴハン?」

「……アーレン。その前に、顔洗え」

「ソノマエニ? カオアラエ?」

「顔。洗う」

 洗面所へ連れていって、実演。さっさと洗わせて、朝食だ。

「いただきます」

「イタダキマス」

 今朝はカリカリベーコン、レタス、トマトを挟んだサンドイッチと、ピーナッツクリームを塗りたくったトーストだ。

 ソ●トンは強い。強いは正義。

 俺は朝食は間違いなく米派なのだが(力の出が違う)、ソン●ンを塗りたくったトーストだけは別だ。中学生の頃、ピーナッツクリームをサンドしたクラッカーのお菓子が近くのコンビニに置かれなくなって、ソ●トンと普通のクラッカーで塗っただけ自作をしたくらい、ソン●ンは偉大。これならトースト三枚はイケる。

「タークマ……! エンデラカッテ、ナースンレノラーテ!」

 何言ってるか分からないが、目は輝いているので、俺と同じ気持ちなのだろう。アーレン、その感情はこう表すのだ。

「美味しい」

「オイシイ!」

 買い溜めしたパンを一斤食べ切ってしまった。今度から朝食にピーナッツクリームを使用するのは禁止しよう。

 パンと牛乳だけだったので、すぐに皿を洗って拭いていると、アーレンが神妙な顔つきで声をかけてきた。

「タークマ。フク」

 彼女の服は昨晩、洗濯機にかけた。乾燥機なんて物はないので、部屋干しするほかなかったが、美少女が直接身に着けていた衣服に触るのは抵抗があったのだ。自分でやってくれるのなら、ありがたいことこの上ない。

 しかし、シャワーも知らない異国の少女は、どのように服を干すのだろうか。

 まずは、普段の部屋干しのように、南側の窓の前に洗濯かごを置く。低い天井からは俺がDIYで取り付けた短い物干し用の棒が、乗用車の座席の上についている絶対掴まないだろう手すりのように下がっている。一般的な針金ハンガー数本と、洗濯ばさみがたくさんついたタイプも用意した。

 さて、アーレンは何を、どう使うだろう?

 まるで猿相手の実験のようで失礼極まりないが、結果は俺の予想の十倍斜め上だった。

 銀色の飾りが施された上着をふたのようにかごの上に広げると、アーレンは立ち上がる。両手指を大きくパーの形に開き、向きを揃えず顔の前へ掲げる。それを左手は時計回り、右手は反時計回りに動かし、また顔の前へ戻す。

 まるでステージに立ったダンサーの踊り出しのような動き、という感想はあながち間違っていなかった。洗濯かごをまたいで一歩踏み出し、両腕を大きく縦に広げ、さらにのびのびと振るう彼女の口から言葉が飛び出す。

「エート、ヌクラカリッキアート、エカラニメラーテ、イエヨベラーテ、ノンベリクワットナーテ、イェベリヨヌ、アラガータ。オバータ!」

 オリエンタルな部族の儀式のように飛び跳ね、叫ぶアーレン。美しい金髪少女が上下スウェット姿で。かなりシュールだ。

 最後は洗濯かごの上着に向けて言い放つ。

「…………」

「…………」

 ……が、当然、何も起こらない。

 彼女が相当違う文化圏から来たことはもう理解している。だから、あちらでは洗った服、あるいは脱いだ服にこのような儀式をするのだろうということは受け入れよう。だが、それでは洗濯物は乾かない。

「アーレン。服、干す。こう」

 ハンガーに重い上着の袖を通しながら簡易物干し竿にぶら下げる。

 アーレンの視線はこちらに向いていない。視線どころか、膝からくずおれて頭を垂れている。

「ヌオイント……!?」

 アーレンの失敗は今に始まったことではない。ハイタッチで手は握るし、シャワーは服を着たままで浴びる。

 しかし、この時ばかりは彼女にとって『失敗』ではなく、『想定外』だったのではないか。と後になって思う。


 金曜日だが緊急で有休を取って、今日は何をするか。最大の用事は『アーレンを相応の機関に引き渡して今後をお願いすること』だが、それよりもまずしなければならないことがある。

「アーレン。行くぞ」

「イクゾ?」

「外」

 アーレンの視線が出口へ。俺は干した洗濯物を見やる。その中に女性物の下着はない。

 なんとアーレン・ハーファーハイト、下着を履いていなかった。

 そういう風習なのか、趣味なのかは知る由もなし。どっちでもいいが、このまま誰かに引き渡したら、俺は美少女をノーパンで連れ回す変態になってこっちがお縄につくのではないか。

 その心配を払拭すべく、まずは彼女の下着を買いにいくのだ。

 よく行く衣料品量販店に売っているのは当然知っている。だが、よく行く店で女性物の下着を買うのは、何か嫌だ。いくら女性と一緒でも。その後買わなくなるのだから、ますます変な感じがしてしまうだろう。今後二度と行かない店がいい。

 思い立って調べたのは、一番近いランジェリーショップだ。幸い、電車で四駅の場所にあるらしい。

 なぜわざわざランジェリーショップ? うだうだ言ってたけど、もしかしてお前が行ってみたいだけでは? とお思いかもしれない。一理ある。

 知っている店で買うのが何か嫌だというのも本音だ。だが、しかし、それ以上に量販店でなくランジェリーショップを探したのには理由がある。

 アーレンは美少女だ。外国人はみんな美人に見えるというが、その中でも頭抜けている。そんな美少女に量販店の下着なんか着せたら、それこそ何か、こう、もったいなくないか? 見るわけではないが、そんな物を着ているという事実が! 君達は最高級のステーキ肉をエ●ラ焼肉のタレにたっぷり漬け込んで食べるのか!?

 話を戻そう。

 なのでまずは繁華街へ出かける。季節は秋。今週はやや冷え込む予報なので、やはりしまっていた上着を出す。住人|(俺だが)が服に頓着の無い人間なので、職場に着ていくコート以外には、好きなバンドのライブグッズで買ったウィンドブレーカーしかない。まあ、アーレンも同バンドグッズのスウェットを着ているので、むしろ合致したファッションになる。

「アーレン。服、上着。着る……アーレン?」

 美少女は、廊下を這いずっていた。

 物陰に頭を突っ込んだり、収納を戸の隙間からのぞき込んだり、落ちてる物や棚の物を持ち上げてみたり。何かを探しているようだ。我が家の収納物どころかシャワーも知らない彼女が何を求めているのかは皆目見当もつかないが。

 お尻を揺らして移動しているのがエッr、……彼女が欲する物が何なのかを知ろうと様子を観察していたら、玄関で動きが変わる。

 据え置きの棚の上に引っかけておいたビニール傘。アーレンはそれを取って、様々な角度から眺める。

 時に片手で剣のように構えたり、時に火縄銃で照準を狙うように掲げたりと、その道20年の鑑定人か、新しいオモチャを与えられたオタクのようだ。

 ただ、それを見定める眼は鋭く、遊びなどない。真剣そのものだ。

「アーレン? ちょっと貸して」

 傘を寄越すようジェスチャー。気に入ったようだが、使い方もわかっていないようだ。

 留め紐を外して、持ち手の上のボタンを一押し。ワンタッチ式なので当然、骨組みがパッと開く。

「フェッ!?」

 俺にとっては当然だが、アーレンにとっては不思議なこと。それもこの数時間で俺の常識になりつつある。

 開いた傘の仕組みを調べるがごとく、骨の中に顔を入れてまで傘を見つめる彼女を軽く制止して、使い方を手取り足取り(といっても一回で覚えるが)教えてやる。ついでに傘という名称も。

 ビニール傘を畳んで、縛って、厳かに左小脇に抱えて、

「タークマ、アーレン、カサ、イクゾ!」

「持っていくのか?」

 持つ、行く、と確認。雨が降る予報ではないが、雨の概念を説明するのは難しい。

「カサ、モッテイク。ヌアタラターテ、ノンフェカナーテテ」

 何といったかは分からないが、原語が出るのはアーレンが譲らない時だ。

 仕方ない。

 バンドウィンブレにビニール日傘を持った男女2人で平日昼間からランジェリーショップに行こう。


 アーレンを連れて電車に乗ること四駅、繁華街を歩いている。

 道中、切符の入れ方だったり電車に乗るタイミングだったりと、アーレンにレクチャーしなければならないので多少骨は折れた。しかし、見返りといおうか。道中もアーレンが下着履いてないと思うと……チガウ。何でも物珍しそうにキョロキョロ見回すアーレンに対して向けられるうっとりとした、あるいはその隣の俺に向けられるとげとげとした視線の数々。俺に一切の手柄はないが気分は良いし、ライブで買ったジャケット(別のツアーのだが)を二人して着てきた(他にないから仕方ないのだが)ので、ペアルックだ。いいぞお前ら、存分に羨ましがれ。

 そんな羨望の眼差しを受けながら、美少女と並んで歩く。

 だが良いことばかりでもない。

 アーレンの殺気が痛い。

 周囲のではない。アーレンが発するものだ。

 道に出るなり、まるで超サイヤ人のように、アーレンから今までにない気配、オーラと言おうか、何か物凄い雰囲気が漂ってくる。会社の先輩が別の部署の同期と出先で鉢合わせした時くらい険のあるオーラだ。

 思うに、昨日からそうだった。家に抱え上げた時はもちろんだが、打ち解けたと思えた寝る時でも、つんとした雰囲気だった。今は後者と同じオーラだ。

 出会いの時は不審な存在の俺への敵意だったろうが、今は違う(と思いたい)。

 周囲に対する警戒。昨夜もそうだったのだろう。おそらく、彼女の中で習慣になっている危険への意識。それにしても、露わになるほどの意識の強さは何ゆえか。

 彼女の生い立ち。トゥベロンという国。アーレン・ハーファーハイトを形作った背景には、何があったのか。

 一夜を過ごしただけの少女だが、関心を持たざるを得ない。と同時に、踏み込みすぎてはいけないということもわかっている。

 それよりも優先すべきは、彼女の下着である。


 さて、目当てのランジェリーショップだ。自動ドアにアーレンがビクッ!となってから入店する(電車でもやった)。

「あ。店員さん。すみません」

 入口近くで佇んでいる女性店員を見つけ、呼び止める。

「いらっしゃいませ。どういったご用向きでしょうか?」

 さすがに上品な接客である。これなら任せられそうだ。

「彼女に合うサイズの下着を上下二、三着ずつ見繕ってください。できれば安い方がいいのですが、見た目的に彼女に合う物優先で。あ、あと彼女かなり未開の地から着てるので日本の下着に不慣れなので、履き方着け方も教えてあげてください。1着はそのまま着て帰ります。外で待ってますから会計の時になったら教えてください」

「は、はい。かしこまりました」

 我ながら超早口になってしまった。だってなるべく早く退散したいんだもん。

「じゃ、アーレン。健闘を祈る」

「タークマ?」

 アーレンを店員さんに託して自動ドアの陰に隠れる。隠れよう、としたが、

「タークマ!」

「いででで!」

 手首を絞り取られる。

 千切れていないか己の手首を確認するが、アーレンが傘を持たない手でひねり上げているだけだった。いや、本当に千切れそうなくらい痛い。

 彼女にとっては、だけ、ではなさそうだ。瞳は警戒に吊り上がった形ではなく、群れから取り残された草食動物の赤ちゃんのように沈んでいる。

 そうだ。彼女は知らない土地に放り出されたばかり。昨日だって散々警戒心を露わにして、あれだけ会話を交わして、ようやく俺と打ち解けたというのに。

 それを初対面の他人に引き渡して、何を安心し切っているんだ俺は。

「あの……ご一緒に入られてはいかがですか? 試着エリアはダメですが、パートナーの方とご来店されるお客様は少なくありませんし」

 見かねた店員さんから提案される。アーレンの過剰な引き留めに若干たじろぎながらも、さすがプロだ。

「……ありがとうございます。そうさせてください」

「タークマ……」

 アーレンの表情が綻ぶ。気持ちをわかってやれなくてごめん。

 店に入ってからは店員さんに任せ、連れられるままに歩く。俺が気にすべきは値段だけだ。店員さんはアーレンの顔をじっくり鑑賞しながら、あちこちのコーナーを歩き回るが。

 その間もアーレンの表情は明るかったわけではない。

 ただ、店を出る頃には、母親と共に自力で草を食む草食動物の子供、くらいには落ち着きを取り戻していたように思う。

「ありがとございました。またのご来店をお待ちしております」

 もう来たくはないが……

 派手な袋ではないが、俺が持って変な目で見られるのも嫌なので、アーレンに自分で持ってもらっている。袋を手首にかけたその手で、俺の上着の裾を引っ張る。

「タークマ……アリガトウゴザイマシタ」

「? どういたしまして」

 何のことかはわからなかった。店員の言葉を真似しただけかもしれない。でも俺は、彼女は意味を理解して口にしているのではないかと思った。

 彼女のことはまだわからない。でも、できれば笑っていてほしい。


 第一優先課題はクリアした。にしても女性用下着って値段高すぎないかしら?

 電車で戻ること2駅。歩くこと数分。俺達は警察署に向かって歩いていた。

 もちろんアーレンを引き渡すためだが、俺は悩んでいる。

 下着店での件もあって、アーレンをすんなり他人に引き渡すことが可能なのか。そもそも引き渡したところで、彼女とまともに話をできるのだろうか。彼女の故郷がわかって彼女を帰すことはできるのだろうか。

 一方で、我が家に置いていたところで何も解決しないこともわかっている。解決の糸口を見つけるためにも、公的に動くことができる機関に相談はしてみるべきではないか。

 行ったり来たりの思考回路が回るうちに、警察署にたどり着いてしまった。

「タークマ、ココ……」

「ああ、アーレン。ここなんだけど……」

 一先ず入って話だけでも、と一歩踏み出ると、やはり、腕を取られた。

「マッテ……ココ、ダイジョウブ、チガウ。……イカンイカン」

 ゆっくり、ぎゅ、と。優しく、しかし強く体を引かれる。

 行動は似ているが、下着店の時とは違う。

 瞳にこもるのは不安ではない。同じ草食動物でも、子供のそれではない。肉食動物が近くに体を横たえているのを警戒する、親のそれだ。

 少ない語彙だが、俺に彼女の意思を伝えようとする必死の言葉。

『ここは危険だ』

 思えば俺はアーレンの事情を何も知らない。

 トゥベロンという国から来たということしかわからず、どうやって、どういった経緯で日本に来ることになったのか。

 極端な話、奴隷商人から逃げてきたのかもしれないし、クーデターが起きた国のお姫様で将軍の追っ手から身を隠しているのかもしれない。

 仮にそうした事情があるなら警察に行くとまずいことになる……まあこれは、漫画の世界まで飛躍した仮定だが、例えば不法就労していて、警察にバレると強制送還されるとか、あるかもしれない。

 それは漫画の読みすぎかもしれない。

 だが、アーレンにはそれを信じ込ませるだけの迫力があった。

 既に悩んでいた俺だ。この時点で、彼女の意思を捻じ曲げてまで、警察に頼る必要なんかないと思ってしまっていた。

 我ながら遊び心もなく、常識の型に嵌まった人間だと思っていたが、案外そうでもないらしい。

 良識ある人間ならそのまま警察に行くところを、俺はアーレンの手を引いて、駅へ引き返した。


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