看護学生、鬱病になる。
私はこの春、看護専門学校に入学した。
高校生の頃は看護か保育か悩んだ時期もあったが、なんだかんだこの選択に間違いはなかったと思っている。
入学式のために教室から講堂へ移動する。
周りがみんな同じ中学の子や新しいグループに入っていくなか、私は1人誰にも話しかけられないでいた。
どうしよう・・・。
誰かに話しかけないと。
でもそんな勇気ないし・・・。
そんな時、私を救ってくれたのが友人の舞花だった。
私が振り向いた先にいて、目が合う。
数秒の沈黙の後、舞花が口を開く。
「1人?」
「同じ中学の子いなくて・・・」
戸惑っている私に舞花は優しく声を掛けてくれる。
「私もなんだよね!一緒に移動しよ?」
これを機会に私と舞花はどんどん仲良くなっていった。
その後、いろいろな子が話しかけてくれて私達は6人のグループになった。
その中でも私と舞花はずっと一緒にいるほど仲が良かった。
グループをつくる時はもちろん、2人組になるときもいつも一緒だった。
授業がどんどん専門的になり難しくなる。
テストも増えていく。
そんな時でも私達は一緒にいて、お互いの苦手を克服できるよう助け合った。
しかし、ある日を境に私達は一緒に行動することが減った。
何が原因かはわからない。
私は舞花が居てくれるだけでよかった。
そんな私を置いて舞花は他の子と行動することが多くなっていった。
家に帰って1人で考える。
「私、何かしたかな・・・」
会話がなくなったわけではない。
話しかければ楽しく話をすることもある。
しかし2人組では別々になり、次第に心は離れ離れになった。
しばらくすると初めての実習が始まった。
グループは先生が決めるので誰となるかわからない。
私はグループ発表の当日どきどきしながら張り出された紙を見る。
そこには仲の良いグループの子は1人もいなかった。
初めての実習でひとりぼっち。
私は耐えれるのだろうか・・・。
それから数日後、実習が始まった。
実習ではすべてが初めてのため、無我夢中で頑張った。
この実習の単位を落とすと2年生になれない。
それはつまり、仲の良い子達と離れてしまうことを指す。
それだけは避けなければならない。
それはいつの間にか、自分と患者さんのための実習ではなく、グループに置いていかれないようにするための実習に変わっていった。
1回目の実習は無事に終わった。
その後も舞花とはちゃんと話をできていなかったが、私はいつかできるだろうと後回しにしていた。
2年生になり、実習の回数が3回に増えた。
私達は慌ただしくも充実した日々を過ごしていた。
2年生最初の実習は無事に終わった。
しかしその頃から私の心には違和感があった。
私はこのまま看護師になる道を選んでいいのか。
勉強、実習に追われる日々が続き、疲弊していたことが原因だろう。
私はこのままの自分でいいのか悩み始めた。
「舞花に電話しようかな・・・」
私の相談相手といえばいつでも舞花だった。
舞花には何でも話せたし、いつでも最後には笑えていた。
私は舞花に電話をかける。
しばらく発信音を聞く。
「はーい。どうしたの?」
舞花の声に安心するとともに、鼓動が早くなる。
舞花の声の後ろからは騒がしい音楽とともに笑い声が聞こえてきたからだ。
・・・私はこの声を知っている。
私の友人グループだ。
結論からいうと、私は仲間はずれにされていた。
この日はグループの私以外のメンバーでカラオケに行ったらしい。
私は絶望した。
グループに声すらかけられなかったこと、舞花が私を呼んでくれなかったことに。
「あ、邪魔してごめんね。大丈夫だから。」
私は静かに電話を切り、声を殺して泣いた。
信じていた。
舞花を信じていた。
それを簡単に裏切る舞花に敵意さえ覚えた。
それから私はクラスで1人になった。
誰も助けてはくれなかった。
帰宅して自分の部屋に入る。
「どうしてこうなっちゃったのかな・・・」
呟いたところで答えなど返ってこない。
そのときひとつの考えが頭をよぎる。
『死にたい』
私は咄嗟に頭を振る。
それだけはしてはいけない。
命を扱う者が命を粗末にしてはいけない。
私はできるだけ考えないようにしてベッドに潜った。
しばらくすると人生3回目の実習が始まった。
今回ばかりはグループに仲のよかったメンバーが居ないことに安堵する。
「この実習を乗り切ったら舞花と話をしよう」
そう言い聞かせて実習に挑む。
しかしこれは叶わなかった。
正確には・・・叶えることができなかった。
私は実習中、時間が無いため睡眠時間を削り、時にはご飯を食べる時間さえも削った。
そして、ひたすら実習に向き合った。
提出物は絶対直しがあり、実習中は常に気を張っている。
そんな生活に精神がついていかなくなった。
私は毎日のように『死にたい』という言葉を繰り返していた。
そしてある日、気付いたらロープを手にしていた。
看護学生ということもあり、身体の仕組みはそれなりに理解している。
それが影響し、少しでも苦しくない死に方を考えるようになっていた。
ロープを手にしては放り投げ、拾い上げては放り投げる。
そんな生活が3日ほど続いた。
しかし、ある日私はついに耐えられなくなった。
「死んでしまおう」
そう決めるとそこからは一瞬だった。
素早くロープを吊るし、首にかける。
何度も考えた私なりの『死に方』を実践した。
目を覚ますと私は真っ白の部屋で横になっていた。
頭が痛い。
ここはどこ。
周囲を見回すと、ベッド脇で母が泣いていた。
私は自殺を試み、失敗したのだ。
それからは精神科に強制入院することになった。
私についた病名は適応障害と鬱病。
主治医いわく、環境に適応できなくなり鬱病が発症したとのことだ。
ショックを受ける母の横で、私は安心していた。
私は病気だったのだ。
決して私の精神が弱かったわけではないのだ。
私が悪いわけではないのだ。
私は病気をすぐに受け入れた。
というより、病気という事実に助けられたのかもしれない。
私は悪くない、病気だから仕方がないと自分に言い聞かせると安心した。
なにより、主治医や看護師に
〔あなたは悪くない〕
そう言われることが救いだった。
2ヶ月間入院して私は退院した。
鬱病とは薬の力を借りて向き合うことになった。
そして私は学校を辞めた。
それからの日々はあっという間だった。
学校を辞めることを決意した瞬間、肩の荷がおりたように感じた。
私はずっと辞めたかったのだろう。
この窮屈で自分を殺して生きていくことを。
それから私は普通に就職した。
鬱病とは今も付き合い続けている。
しかし以前のような窮屈な思いはない。
私はそのことにとても安心した。
死にたい・・・
でも死ぬことは許されない。
そんな窮屈な生活から私は1歩踏み出し、抜け出したのだ。
自殺は世間では許されることではないだろう。
しかし、私の逃げ道はそれしかなかったのだ。
もし話を聞いてくれる人が居たらまた違ったのかもしれない。
相談することができれば違ったのかもしれない。
それでも、誰にも言えなかったのは私だ。
しかし、それでもいいと今なら思える。
どんな逃げ道でも、逃げ道に代わりはない。
私は1度逃げることで自分を守ったのだ。
自分を守ることができたのだ。
周囲の人々から何と言われようとも、これが私だ。
病気との付き合いはまだまだ続くだろう。
しかし、私は病気という事実に救われたのだ。
それなら病気と言われてもいい気がした。
私の物語はここで区切りをつけることにしようと思う。
まだまだ人生は続くが、それはまた別のお話。
それではみなさま、お元気で。
読んでくださりありがとうごさいます。
人生いろいろと言いますが、本当にその通りですね。
何があるかわからないから不安。
だけれど、何があるかわからないから楽しい。
感じ方も人それぞれです。
拙い文章ですが、少しでも皆様の心に届きますように。