欠陥品
残酷な描写があるので、嫌な方は読まないでくださいね。
僕は水野圭。18歳、男。何処にでもいる、普通の人間。平凡で、特徴のない、普通の。
僕と言う人間は、きっと人より弱く出来ているに違いない。きっと欠陥品なんだ。
それは小さい頃から、僕と言う人間を定義付けしてきた言葉だ。言葉によって概念が形作られると言うけれど、その言葉によって、僕は形作られてきたのかも知れない。他でも無い自分自身によって。
その言葉を呟くと、自然と納得出来たんだ。人より上手く出来なくても、欠陥品だから仕方ないと。言い訳なのは分かっている。でも、人より優れている人間に、人より劣る人間の気持ちなんて分かるだろうか。
何とか私立大学の文系の学科に入学して、一人暮らしを始める。忙しい日々を過ごしていた時だった。君と出会ったんだ。君は僕が仲良くなった友人の友達。笑顔が可愛い、ショートヘアが良く似合う目元がぱっちりした女の子。野田凛
僕はと言えば、人の視線が怖くて、前髪で目を隠している陰気な男で。なぜ君が、僕に話し掛けてくれたのか、分からなかった。友達の友達だから?
あれは、入学して暫く経った五月後半ぐらいの事。
「計算苦手なんだよね…。どうしても早く出来ないんだよ。僕は欠陥品かも知れない…。」
また、いつもの様にそんな言葉を呟く。
確か、街中に溢れている数字を足したり引いたり、かけたり、割ったり、友人の何人かで遊んでいた時だった。すぐに答えられない僕は、笑われて落ち込んでしまったんだ。
小学生の頃からそれだけは苦手で、計算に人の倍の時間がかかる。ずっとコンプレックスだったんだ。苦手意識は、僕からやる気を奪う。克服出来ない自分にまた、やっぱり僕はといつもの言葉を呟く。
「あなたが欠陥品だと言うなら、そうかも知れないけれど。計算なんて、そんなもの、計算機に任せれば良いのよ。」
君は何でもない事の様に言う。僕のコンプレックスを笑い飛ばす。
「ふっ、それもそうだね。」
可笑しくて笑えたんだ。
「じゃあ、私も欠陥品だね。」
「どんな?」
「絵が下手過ぎる!壊滅的な出来栄えだと良く言われるの。」
「絵なんか描けなくても、困らないよ。」
「ふふふ、そうでしょ?私もそう思う。」
そんな事を笑いながら言ってくれたのは、君が初めてだったんだ。君は完璧な人間などいないと言う。誰も彼も欠陥があるから補い合うのだと。
君は何故だか、こんな僕を好きになってくれた。目が綺麗だなんて、初めて言われたよ。僕も君が好きだったから、付き合う事になったんだ。
どうして君は、僕を好きになってくれたのって聞いたら、弱いからだと言われた。自分を強く見せたい人が多い中で、僕は違って見えたのだと。
それを聞いた時、微妙に落ち込んだんだけど、君が好きになってくれたなら、結果オーライかなって思えたんだ。
君って変わってるねって言ったら、よく言われるのとまた笑う。
君の笑顔は、僕の中で一番尊いものになったんだ。いつのまにか。
スマホのメモ機能で、琴線に触れた言葉を書き残す様になったのは、いつからだっただろうか…。本を読んだり、人の話す言葉を注意深く意識する様になって。自分で思い浮かんだ言葉も書き残す様になった。
僕はいつも強い言葉を探している。一言でイメージが広がる様な言葉、美しい表現を。
大学のベンチに座って、風が樹々を揺らす音に耳をすます。新緑の木漏れ日の下から、樹を見上げた。キラキラと美しくて、空の青とのコントラストが美しい。
こういう、自分の感性が高まっている時は、いい言葉が浮かぶ。僕はそれを掬い取る。ひとつひとつ、組み合わせて遊んだり、繋げたり…。
ある日、君に僕が詩を書いていた所を見られてしまった。スマホに集中していて、君が近づいて来た事に気付かなかったんだ。
「何書いてるの?」
「…詩。」
見つかってしまったので、仕方なく正直に答えた。
「見せて。」
「…嫌。」
「何で?」
「何でって、恥ずかしいから。」
「見せて。」
手を差し出して、にっこり笑う君に勝てる僕じゃない。
「…はい。」
僕は溜息をついて、スマホを手渡した。
「…凄いね。こんなの良く書けるね。」
君はスマホに目を落としたまま、そんなことを呟く。
「こんな下らない世界でも、綺麗なものがあって、それを見つけて詩にしてる。黒い感情も悲しい想いも、綺麗に置き換えてみせられるって、言葉って凄いよね…。」
「ペンは剣よりも強しって言うもんね。」
「うん。だけど武器として強力だから、使い方が大切なんだよ。諸刃の剣なんだ。」
ネットには、人を傷付けるための言葉が溢れている。相手が見えないからこそ出来る、意気地なしの武器だ。パソコンやスマホの向こう側に居るのが、血の通った人間だという想像力すらない人間の、何て多いことか…。
人を傷付けるつもりの奴らの方がマシだろうか。自分を正義だと信じ込み、人を叩く事を良しとする。盲信ほど怖いものは無い。ただ、人を叩く事で得られる、脳内の快楽物質に踊らされてるだけだと、気付いてすらいない馬鹿な奴ら。
だけど、そうじゃない人も居るんだ。人を包み込む様な、優しい言葉だってあるんだよ…。同じ武器なら、誰かを守るためや楽しませるために使った方が良いじゃないか…。
ネットに投稿してみれば良いと君は言う。誰の目にも触れないのは勿体無いと。ただ、好きで作っていただけだ。誰かに届けたいだなんて思っていなかった。
君は共感してくれる人が、いるかも知れないと言う。誰かの心を打つかも知れないと。
君の熱心さに負けて、投稿してみた。すぐに反応が返ってくる事は無かったけれど、たまに、感想を言ってくれる人もいる。それが凄く嬉しかった。
だけど、批判される時もある。そんな時は落ち込んでしまう。真っ当な評価ではなく、ただの八つ当たりの様な言葉。内容も何もあったもんじゃない、ただのストレスのはけ口の様な。
何処にでも、人を傷付けて笑う奴がいる。知っていたはずだ。この世界が綺麗なものばかりで出来ていないことなど…。だから、生きるのがこんなに苦しいのだと…。
僕は自分の弱さを痛感した。だってこんな事で傷付いて、心から血が溢れる様に、ドス黒い感情で満たされているのだから…。この黒い感情を、どこに吐き出せば良いのか分からなかった。
もしかしたら、僕を傷付けた人間も、誰かに傷付けられた人間かも知れないんだ。そうやって、弱い者、弱い者を探して、負の連鎖が起こるのかも知れない。最下層の人間は抗う事すら許されないのかも知れない。そう思うと、何て悲しい世界なんだろうと思ってしまう。
こんな世界で生きていかなければいけない苦痛で、目の前が暗くなる。息苦しくて堪らない。
どうしてこんなに苦しいのだろう?どうしたら、楽になれるんだろう?
何度自分に問いかけただろうか…。
関わらなければ、苦しくないのかも知れないけれど、一度知ってしまった快感を無くす事など出来なかった。誰かに届いているという実感が、快感となって手離せなくなっていた。批判した相手は、僕をターゲットに決めた様だった。自分の弱さを見透かされたみたいに。そういう奴ほど、嗅覚は鋭い。
そしてどんどん、黒いものが澱の様に僕の心に溜まっていく。吐き出す先を見つけ出せずに…。
君が僕の家に来た時に、一緒にレポートを書いていた。二人のキーボードを叩く音が、部屋の中に漂っている。
別の講義のレポートを纏めておこうと、クリアファイルから紙を取り出す。完成して打ち込んだ文章を、図書館でプリントアウトしておいたものだ。
「…っ痛。」
ああ、こんな薄っぺらいものでも、手は切れる。紙で切れた血の滲む指を、ぼぅっと見詰めた。
それが、何故だか僕を表している様だった。簡単に傷付いてしまう、人より弱い僕を。
きっと、乗り越えられる人もいて、それが出来ない人もいる。僕は後者かな…。
僕の様子を見詰めていた君が、心配そうな顔をする。
「ねぇ、嫌ならやめても良いと思う。私が余計な事言ったから…。」
そう言って彼女は俯いた。何が言いたいのか、分かる。彼女はネットに投稿するのを、やめたら良いと言っているのだ。
「大丈夫だよ。」
僕は作った笑顔で君に笑いかけた。
「…大丈夫な顔してないよ。」
「……。」
「ねぇ、私に何か出来ることはない?」
「出来る事?」
「何でもいいから。圭が気が晴れる様な事。」
「気が晴れる?」
自分の血を眺めていたからだろうか…。君の柔らかそうな白い腕に、刃を立ててみたいと思った。赤い血の色が白い腕に映えて、綺麗だろうななんて。君はいつも眩しくて、それ故に僕との対比でどんどん自分が惨めになるんだ。
でも、そんな事を言える訳がない。僕は言葉を飲み込んだ。
「凛、大丈夫。ありがと。」
セックスをした後も気の晴れない僕を、君は心配そうな顔で見詰める。心配させてるとは、思っていても自分の感情がコントロール出来ないんだ。
身体だけは大きくなったのに、心はちっとも大きくならない。何てチグハグなんだろう。君は僕より小さくて弱いのにのに、心は僕より大きくて。やっぱり僕って駄目だななんて思ってしまう。
沼の中にはまっていく様に、気分が沈み込む。黒いものがヘドロの様に溜まっていって、どうすればいいのか分からない。
黒い感情は出口を見つけ出せずに、僕を蝕んでいく。全部めちゃくちゃに壊してしまいたい。僕も誰かを傷つけてみたい。そんな自分の感情に、吐き気がする程、嫌悪感が募る。
君がいつもの様に僕の家に来た。本棚を眺めて、星の写真集を手に取った。
「あ…。」
気付いた時には遅かった。君に見られてしまったんだ。切り刻んで無残な姿の写真集を。
「…これ、どうしたの?」
悲しそうな瞳の君を直視出来なくて、目を逸らした。
「…僕がやったんだ。」
「どうして?あんなに好きだったじゃない。宝物だって言ってたのに…。」
美しいもの、好きなものを愛しむ気持ちが僕にはあるのに、傷付けてしまいたいと思う相反する感情が抑えられないんだ。
「…好きだから、傷付けたくなる。君のことだって、傷付けたくなる時があるんだ。その写真集みたいに、カッターナイフで切り刻みたくなる時が…。」
こんな僕を蔑んでくれて良い。僕にとって君は綺麗すぎて、きっと合わないんだ。だって目も合わせられないんだから…。
部屋を沈黙が支配する。時が止まっている様だった。どのくらい、そうしていただろうか…。
「私は、圭になら傷付けられても良いよ?」
君は僕を真っ直ぐに見詰める。
「…良くないよ。」
「良いんだよ。私が良いって言ってるんだから…。」
君は僕にペン立てに刺してあった、カッターナイフを握らせて、左腕を差し出した。
恐る恐る、君の白い腕に刃を立てる。赤い血が滲む。目の前がクラクラする。
誰かを傷付ける事が、こんなに気持ち良いなんて…。だから、僕も、きっと同類なんだ。人を傷付けて笑っている人間と同じなんだ。最低だと見下していた奴らと、僕も一緒なんだ…。
それは酷く僕を落ち込ませて、同時に楽になった瞬間だった。自分が最低だと認める事で、確かに何かが楽になったのだ。それは、自分が欠陥品だと定義付けするのと、似通っていたかも知れない。
それは何度目だっただろう。
どうして君は拒絶してくれないんだろうか。拒絶してくれたら、きっとやめられたのに…。
君の腕に滲む血、その滴り落ちる赤色を見て、心が高揚する。苦痛に歪む顔を見て、支配欲が満たされる。
そして、拭い去れない罪悪感。君の腕を切った筈なのに、自分の心を切った様に感じてしまうのは何故だろう。
「ああ、ごめんね…。」
そう言って、傷の手当てをして君を抱き締めた。痛いだろうに…。どうして君は僕の腕の中に居るの?他にも男はいっぱいいるのに。君の腕に増えていく傷が、僕の何かを満たして、何かをえぐる。
なんて言えば良いんだろう…。僕たちの関係は。こんな危うい二人の関係が、いつまで続くのか…。どうして君は、僕のこんな黒い部分を受け容れてくれるの?
傷つける事でしか満たされない、こんな最低な僕を…。
「お前、アイツに甘え過ぎだろ?良い加減にしろよ。」
苛立ちを含ませた声で、友達の蓮が言う。彼女の腕の傷に気付いたらしい。蓮も僕なんかと友達を続けてくれている、大切な友人なんだ。彼女と共通の友達だから、見て見ぬ振りは出来なかったのだろう。
「アイツはお前を心配してる。壊れてしまいそうだって言ってた。本人が良いって言っても、…アレは駄目だと思う。」
彼の表情は真剣だった。勇気を出して忠告してくれてる事を、ありがたく思う。
「そうだな…。本当に甘え過ぎだ。」
そう言うと、蓮は僕を見て痛ましそうな顔をする。本当にいい奴だ。僕には勿体無いくらいの、友人だ。その友人が、心配してくれている。二人の危うい関係を。
やめたいと思っているんだ。だけど、やめられない。そんな自分が情けなくて仕方ないのに、最低だって分かっているのに…。
僕は、いつか君を殺してしまうかも知れない…。そう思うと、怖かった。自分自身が、一番怖い…。
どうすればやめられるんだろう…。腕でも縛れば良いんだろうか?一人の部屋で、考える。
ふと、窓に目をやれば、そこには虫の死骸があった。何処からか入り込んでしまって、外に出ようとして力尽きたらしい。
ああ。そうか。簡単な事だったんだ。
僕がいなくなれば良かったんだ。
そうすれば、君を傷付ける男はいなくなる。どうして、そんな単純な事に気付かなかったのか…。やっぱり、僕は欠陥品なんだ。
自分の手首を切って、湯船に張られた水に浸す。
倦怠感と、妙な安堵感が僕を支配していた。これで僕は君を傷付けなくて済むんだ。
透明な水に赤い血が揺蕩う。それが混ざり合うのを、ぼぅっと見詰めていた。
目を開けていられなくて、そっと瞳を閉じた。脳裏に君の笑った顔が浮かぶ。こんな最後なら、悪くない…。遠くでスマホが鳴っているけど、もうどうでもいいや…。
誰かが僕を呼ぶ。虚ろな意識の中で、確かに感じる。
誰かに揺すられて、引き戻される感覚がした。
「やだ!お願い、何処にも行かないで…。」
君の涙に濡れた瞳が目に入る。どうして泣いているの?
君を傷付ける男は消えるのに…。
「一人にしないで!お願いだから!」
「…一緒に死ぬ?」
「違うの!生きて欲しいの!」
「…こんな世界で生きていたくない…。」
「こんな世界に、負けないでよ…。歪でも、外れても良い。弱い事の何がいけないの?私はそんなあなたが好きなのに…。お願いだから、生きるのだけは、やめないで。」
ああ、君は強いな。僕なんかよりよっぽど強い。だけど、弱い部分も知ってるんだ。君が悔しそうに泣いていたのを知っている。
僕が居なくなったら、君は…駄目なの?こんな僕でも君は良いの?
倦怠感を押さえ込んで、君の頬に手を伸ばす。お願いだから、泣かないで…。
「…笑って。君が笑ってくれたら、僕は生きられる…。」
君は僕の手に自分の手を重ねた。無理して笑う君の、本当の笑顔が見たい。それが、一番大切なものだった筈なのに…。
僕達の小さな世界。君と僕とが笑えたら…。それさえ守れれば、後はどうでも良い。どうでも良いんだ。
そんな事に今更気付くなんて…。周りがどんな下らない世界だろうと、愛しい人と手を繋いでいられるだけで良かったんだ。
単純な事。ただそれだけ。
こんにちはさきちです。
最後までお読み頂いて、ありがとうございます。
この話は私の黒い部分を詰め込んだので、胸焼けされた方がいらっしゃるかもしれません。
そういう方にはお口直しに、絵本を紹介したいと思います。この話を書いていた時に、思い出した絵本です。
おーなり由子さんの『ことばのかたち』と言う絵本です。図書館などで見かけたら、手に取って見てください。美しい本ですが、同時に身につまされる内容です。ご興味があれば読んでみてください。
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