四章
やる気に満ちていた私はさっさと四、五人に噂の事を話すと、雪姉と一緒に近くにあったレストランに入った。
広い店内では人がまんべんなく席を占めており、ざわざわと話し声が聞こえる。
私達は丁度空いた窓側の席に身をすべり込ませ、メニューの中で目に付いたものを適当に頼んだ。およそ聞いた事の無いものばかりだったが、写真からしてそんなに不味そうなものはなかった。しばらくすると、店員が料理を机の上に置いて去っていった。
「婚約の事を話しすぎても私達が怪しまれるだけですし、そろそろ潮時ですね。今日のところはあと数人で終わりにして、そのあとは城内で勉強するとしましょう」
彼女はパスタをフォークに巻きつけながら、いつもの仏頂面でそう言った。
城で静かに生活していたのが嘘のようなとても楽しい雰囲気に包まれ、頬が自然と緩む。こんな大勢の人の周りで食事をするのも、初めての事だった。
心地よい喧噪を聞きながら、私はスプーンでドリアを掬う。
「……美味しい」
まだジュージューと音を立てていたチーズとライスを口に頬張ると同時に、目がキラキラと光るのが自身でもわかった。見た目は城の料理に劣るが、とてもおいしい。味が濃く、少し食べただけでお腹に溜まる。舌の奥が震えるのを感じて、舌鼓を打つとはこういう事なのだと知った。
こんな高カロリーなもの、城では絶対に出てこない。今のうちに堪能しなければ。
「城の中の料理の方が、栄養バランスも味付けもいいのですが……」
と、最初はぶつくさ文句を言っていた雪姉も、次第にフォークを口に運ぶ速度を速めていく。気に入っている証拠だろう。私を客観的に見たらこんな感じなのだろうかと、想像した。うん、ぴったり重なる。
無意識のうちにか、頭から飛び出た白い耳もぴくぴくと動いている。
しばらくそうして無言で食べていたが、不意に雪姉が口を開いた。
残りの一口を食べようとしていた私は、その動作を寸でのところで止める。
「ご婚約、本当におめでとうございます」
「えっ?」
「私もこれから、お二人を支えるためにさらに尽力させていただきます」
「何々、急にどうしたの?」
きっちり斜め四十五度で座礼をする雪姉を前に、私は慌ててその頭を上げさせた。
「どうしたの急に? 雪姉らしくないよ?」
要らぬ一言が思わず出てきたが、彼女はそれを意に介さなかった様子で、無言で頭を上げる。
その顔を見た私は、「あっ」と思わず叫びそうになるのを慌てて堪えた。
いつもぱっちりと開けられている目は伏せられ、下を向いている。
薄らと、水の膜も見えた。やはり彼女は、目だけで表情を訴えてきた。
「……そんなに悲しそうな顔、しないでよ」
「すみません。部屋を出た後の会話を聞いてしまいまして」
それを聞いた私は、やっと合点がいった。確かに姿が見えなかったとはいえ、彼女は廊下の奥に意識を集中させていたのだ。私が逃げ出した時に備えて。聞こえていてもおかしくない。
政略の駒として使われている私に、同情しているのだ。
「同情なんかいらないよ。これも仕方のない事だし」
ポツリと言って、最後の一口を口に放り込んだ。なぜだろう、あれだけ美味しいと言っていた物なのに、ほとんど味がしなかった。
「同情なんかじゃありません」
喉奥から絞り出したような声を聴いて、私は視線を上げる。彼女のこんな声を聴いたのは、大げさではなく、生まれて初めてかもしれない。彼女は、こちらをまっすぐに見ていた。喧騒が遠くなる。この場に二人しかいないんじゃないかと錯覚する。
彼女の瞳をじっと観察してみた。
「悔しいんです。お二人が引き裂かれるような状況になったとしても、私は何もできないでしょう。そんな何もできない自分が、ただただ忌々しい」
ウルウルと水面に揺れてきた瞳から察するに、嘘はついていないのだろう。
それを見た私が最初に思った事は、「阿呆らしい」という事だった。ああ、実に阿呆らしい。いつもの冷静で厳格な雪姉はどこへやら。
自分に何もできないと思っている事や、それを未然に防ぐという選択肢が無いと考えている事に、私はひたすらそう思った。
彼女の頭脳をもってすれば、引き裂かれるような最悪の状況に陥ることは、まずないだろう。
それに、参謀として父の右腕にもなっている雪姉の事だ。語彙力、文章の構築力は半端じゃない。他国相手の常套手段なのに、なぜ今に限ってそんな弱気になってしまうのか。
父を言い負かすくらいの事もできる。何なら、国民全員を打ちのめすことだって。彼女が本気を出せば、それくらいはできる。彼女だって、分かってるはずなのに。……言ってて寒気がしてきた。
彼女は、自身の事をまだまだ小さな子供だとでも思っているのだろうか。だとすればそれは間違いだ。肉体的にも精神的にも、立派な大人だ。大丈夫、雪姉ならなんだってできる。
今の事を口に出そうかと、一瞬思った。
だがなぜか口が開かず、結局その事は言えなかった。もう一人の自分が、必死に口を押さえる。
「……自分で気づかなきゃ、意味ないか」
頬を膨らませながらそう言って、近くを通りがかった従業員にパフェの注文をする。苺の乗った、私の顔くらいあるやつ。とてもおいしそうだった。
「ほら、早く食べなよ。私の分のパフェも半分あげるから」
「さすがに太るのでは?」
怪訝そうな眼で睨みつける雪姉の視線から目を逸らし、丁度目の高さにある窓から外を見た。
さまざまな色が道を行き交うのを見て、自然と笑みが零れる。
この人達を自分が支配するのかと思うと、高揚感で背中に寒気が走る。これが起きる頻度は日に日に増していき、今では二日に一度は起きるようになった。理由が本当に高揚感かというのは、まだはっきりしていないが。
父のように偉大になれるとは思わないし、民衆から向けられる視線の事を思うと胸が痛む。それでも自分がその立場に向かう時の事を考えると、胸が高鳴る。
「物欲って言うのかな」
「はい?」
「いや、この人達が自分の手中に完全に収まるのかと思うと興奮してさ」
「サイコパスですか」
「違うと思いたいんだけどな」
「国民を危険に晒すのは駄目ですよ」
「さすがに、そんなことしようとは思ってないよ」
その時、丁度パフェが机の上に置かれた。
「苺ですか。中々違和感がある……いえ、なんでも」
「ちゃんと聞こえてたぞ」
帽子の中で、ピクピクと耳を左右に揺らす。見えてはいないが、感覚ではちゃんと動いていた。
帽子が微かに動いたのを見たはずなのに、彼女は見て見ぬ振りをして、私が先ほど覗いた窓から外を見ている。
柄の長いスプーンを持って、カツカツと半分ほどを食べ尽くす。これも城では食べた事が無く、見るのも初めてだった。城でデザートというと、一品物のアイスや、せいぜい旬に合った果物のシャーベットが二つくらいのものだ。
上に乗った大きな苺や、バニラのアイスクリーム、板チョコを食べ終えて、随分とシンプルになった器を前に押し出す。
「はい、半分残した」
「……あの、生クリームとシリアルしか残ってないのですが」
「半分は残したよ?」
「…………」
諦めたようにため息をついて、黙々と同じスプーンでパフェのシリアルを掘り進めていく雪姉。それでも味は美味しいらしく、椅子の背もたれに白い尻尾がバシバシと当たっている。
もちろん、これはさっき世迷言を言った罰だ。
自分の事は棚に上げる形になったが、雪姉は満足してるようだし、まあいいか。私はそう開き直った。それを察知したのかと冷や汗をかくほどタイミングピッタリに、雪姉が顔を上げた。
「会計をして、再び調査と噂を広める事に専念しましょう」
食べ終えて手を合わせたと同時に、雪姉は素早く席を立ってレジへ向かおうと足を踏み出す。一切の迷いは、無い。
もうご褒美が無い事を悟った私は、しょんぼりと肩を落とした。
雪姉は私の腕を引き、さっさと店の外へ出た。
「今日で終わりなので、頑張ってください」
「……外での仕事はもう終わりかもしれないけどさ」
「……?」
首を傾げる雪姉に向けて、言葉を続けた。この真面目な仕事人には、少しの休養も必要だろう。そう思った。
「また料理、食べに行こうよ。美味しかったでしょ?」
「なら、今日の仕事で何か成果を上げたら考えましょう」
「……噂を広めるのに、それ以上の成果も何もなくない?」
「あるいは、現在のこの最悪な状態を打破してくれれば」
「万人に嫌われてるのに?」
つまり、考える気はないらしい。この嫌われている状態を回復できるはずもないし、面倒くさい。もう諦めるか。
私の腕をつかんで離さない彼女の腕は、何度も太陽にじりじりと照らされているにもかかわらず、相変わらず真っ白だ。そういえば、この人が日焼けしている所を、私は見た事が無いような気がする。
「とりあえず、聞き込みに行くか」
「はい」
私は適当な人に声をかけたわけだが、その人から意外な情報を聞いた。
「――狐の国の噂?」
私は、首を傾げながら聞いた。
例によって職業を騙って話しかけた人の頭には、黒い帽子が被せられている。
角ばった骨格に、仕事に着て行くようなスーツとネクタイ。私はその人を男性だと判断した。
「はい。なんでも、外国との貿易を始めたとかで……新聞記者なので、この手の話は耳に入りやすいんです」
帽子のせいで顔は見えなかったが、男性にしては高い声を聴いて違和感を覚えた。
「そうですか。ありがとうございます」
「はい」
そう言って、私達は街路樹の元まで来た。
……今日の会議では、そんな事は一言も聞かなかった。肯定も否定もしていなかったが、父が言った言葉であの人は折れたのだ。さらに言えば、言葉を選んだのは雪姉だ。情報を違えるなんて初歩的なミス、彼女がするだろうか。それに、会議をしていた部屋には記者は居なかった。
なぜ、会議の内容も聞いていない一般人がそんな事を知っているのか。
そういえば、裏で貿易をしていれば噂が流れると父が言っていた。
もしかしたら、その人たちによって噂が広まっているのかもしれない。それだったら、知っていても無理はない。割れながらいい考えだと思った。
「絶対違います」
考えた事をそのまま口にすると、あっさりと否定される。
その根拠は、曰く。レストランでそう言った類の話が一回も聞こえなかったという。そう言われれば、午前中に聞いた人達もそんな事は口にしていなかった。出てきたのは、私に対する負の印象だけだ。
食べている最中に耳を動かしていたのは、それが理由らしい。料理をおいしく感じたから、というのもあるはずだが、口にはしなかった。
外で聞き込みをしてからレストランに入るまで、時間はいくらかあった。会議が開かれるタイミングを狙ったのなら分からなくはないが、それにしては広がる時間が遅い気がする。
この国にプレッシャーをかけるなら、もうすでに広まっていてもおかしくはないと。戦略的に広めているのなら、なおさら。
「それに、目的が分かりません。なぜ、今なのでしょうか」
その言葉に私も頷いた。会議の内容は知らずとも、今日それが行われている事は知れているはず。
両国の親密度が深まっていると公言されていてもおかしくない状況の今、なぜわざわざそれをかき乱すのか。
どちらにも、利益は無いはずだ。
仮に利益が欲しいのであれば、黙っていればばれずに済み、そのまま貿易を続けられていたはず。
何か裏があるはずなのに、それが一向に見えない。隠さずにいると、何を得するんだ?
試しに、他の何人かに聞いてみた。すると驚いた事に、聞く人の誰からもその話を聞かなかった。
やはり、何かがおかしい。なぜ私たちにだけ、間違った情報を教えたんだ? 身分がばれたから? 変装は完璧なはずだ。雪姉はあまり表舞台に立たないし、容姿でばれる事はないだろう。
この町に得体の知れない化物がいるような気がして、ぞわりと寒気がした。この噂を広めないのは、なぜだ?
会議が終わって、昼時を過ぎた直後に。こういった推理は苦手なのに、なぜ考えなければ
――会議が終わった後?
何かに気付いた気がして、ちらりと雪姉の横顔を窺う。
もうすでに何かに気付いているようで、拳をあごに当てていたのを解いていた。長く細い腕が、重力に従って一直線になっている。
私と目を合わせると、力強く頷いた。次にやるべき行動を見据えている。やはり、こういうのは雪姉の方が向いている。
「先ほどの人に話を聞いてみましょう」
ぐるりとまわりを見渡すと、運よく人ごみに紛れて見覚えのある姿が目に付いた。
それを逃すわけも無く、私達は足早に近付いて声をかけた。
「あの、またお話を伺ってもよろしいですか?」
「え?」
まさか再び声をかけられるとは思っていなかったのか、素っ頓狂な声が聞こえた。顔は見えないが、おそらく声相応の顔をしているだろう。
雪姉は一歩前に進み、男との距離を縮めた。
「貴方、この国の者ではないでしょう」
「何を言っているのですか?」
怪訝な声で応じる男に対して、私達は眉根を寄せた。
今日会議に来ていた相手も、いくら同盟国相手とはいえ、丸腰で来ていたわけではないだろう。護衛も何人か連れて来ていてもおかしくはない。部屋には入れないが、叫び声ぐらいなら壁をすり抜けるし、駆け付ける事もできる。
会議の最中に城から出れば、同じ職業として働いている兵たちに怪しい目を向けられる。そりゃ仕事は警備なのだから、人目を忍んで立ち去る事は不可能だろう。
会議が終わった直後……任務から解放されたおかげで気が緩んだ兵士しか周りにいなければ、服を着替える時間も、外に出る隙もある。
この推理を男に話すと、鼻で笑われた。
「確かに、私は帽子で顔や耳が隠れていますし、疑われても仕方ありません。ですが、仮に兵士が外で情報を漏らしているとして、なぜ私だと?」
「私達は声をかけた時、新聞記者だと言いました。新聞記者と言えども、会社は何社もあり、それらのほとんどが商業争いをしています。民衆がいかにも興味を引きそうな情報を、そう安々と知らない人に漏らすのはどうかと」
雪姉の追撃を受けて、男はギクリと肩を揺らす。彼は足の向きを変えようと素早く身を反転させるが、雪姉の反応の方が早い。
前へ回って肩に手をかける彼女に、彼は狼狽えていた。雪姉の目がすっと細められ、相手を見つめる。針に糸を通すような眼光。私が抗議から逃げ出そうと画策するとき、よくあの目をしている。
私は時々来る人の肩を半身で避けながら、聞き耳を立てた。聴覚を研ぎ澄ませ、すべての意識を集中させる。これくらいの距離なら、聞き逃すことはないだろう。
昼過ぎという時間に快晴な空が相まって、外出している人がたくさんいる。
「え、あ、えっと、お役人さん……ですか? 私、逮捕されちゃいますか?」
明らかに震えている声が、騒然とした空気の中から辛うじて聞こえた。
無論、私達は警察ではないので捕らえる事は出来ない。ここで「実は警察でした」とか言って脅すのもいいだろうが、それだと今後の行動に支障が出る。耳がいいのは、周囲の皆も同じなのだ。
「いえ、確かに職業を騙りましたが、警察ではありません。ですが、貴方に指示をした人を教えて下さらなかった場合、問答無用で連れて行きます」
容赦ない雪姉の脅しに、彼は傍から見ても憐れなほど震え上がる。腰辺りを見るが、何もない。尻尾があれば、逆立っていた事だろう。
「い、言います! 言いますからどうか、連行だけは!」
必死な声色に、周りを行きかう数人が怪訝そうな目でこちらを見る。私も同じ状況に置かれていたら、振り返っていただろう。
彼女らはそんな事は気にもかけず、事情聴衆を続ける。
必死な二人には、周りの視線を気にして小さくなっている私の姿も見えていない。かと言って、知らんぷりをするわけにもいかない。
私は諦めて、しばらく銅像のように身じろぎひとつせずに立っていた。それで影が薄くなるわけではないが、周りをうろちょろする気も起きなかった。
「分かりました。では」
「……はい」
ようやく話が終わった時には、彼は息をするのもままならない程に怯えきっていた。
その様子に些かの同情が芽生え、私は会釈を一つしてから、城へ歩を進める雪姉の隣に駆け寄った。
彼女はちゃんと、この事を口外しないように釘を刺したらしい。その意味がちゃんと成すかどうかは分からないが。「あのビビり様から、当分は口をつぐんでいる事でしょう」と、雪姉。
この人が敵ではなくてよかったと、心底思った。あの眼光に射すくめられれば、誰でもあれくらいは震えるだろう。あんな冷徹な威圧は、この人にしか出せない。後ろめたい事が無くても逃げ出しそうになる。
城で話す時間が無いと言うので、道中で話を聞くことにした。あの恐喝の内容だ。
男から仕入れた情報は、彼女の考えの範疇にあった答えだったらしい。彼女は淀なく話し始める。要点だけが短くまとめられていて、とても聞きやすかった。時間はそんなに経っていないはずなのに、どうやって整理したのだろう。
私には思いついていなかったことなので、私は思い切り目を丸くした。
「ライバルの会社への情報操作?」
聞いた事をそのまま復唱すると、淡々とした返事が返ってきた。
つまり、私が男に話した推理は間違っている事になる。顔が熱くなった。頭で思考を巡らしていると、私が答えを出すのを待たずに口を開いた。
「つまり、嘘の情報を流してその会社の信用を落とそうと考えていたのでしょう。あのような人の多い場所であれば、同様の仕事をしている人を探すのも楽でしょうし」
「なんだ。心配して損した」
安堵の息を漏らした私とは逆に、雪姉は拳を顎に当てている。彼女が思考するときの癖。彼女が考え事をするところをあまり見ないので、本当に合っているのかわからない。が、この様子から察することは一つ。
まだ気掛かりな事があるらしい。私としては、これで解決したと思ったのだが。やはり、思考回路の壁は厚い。
「……大丈夫です。ほんの小さな事ですから」
私の表情から考えを読み取ったように、声をかけられる。いつもながら、思考が途切れた時を狙ったようなタイミングの良さだ。
曖昧に頷いておいた。私よりも頭が切れる彼女の事だ。よそ行きの微笑み。こうでもしないと、綺麗に笑えない。
「そっか。ならいいんだ」
彼女がそう言うのなら、信じようではないか。それを受け取った彼女は、気持ちを切り替えるように小さく手を叩いた。
「心配事が無くなったので、安心して勉強に集中できますね。来週にはまた顔合わせなので、粗相のないように」
いつもの鬼畜な性格に戻ったのを見て、思わずため息を吐く。
「分かってるよ、そんな事」
ほとんど無意識のうちに出た言葉に、雪姉は眦を上げる。スイッチが切り替わった音が聞こえた。全身の毛が逆立つ。これはやばいぞ。
静かなその動作に、私はびくりと体を震わせた。
「ほう、そんな事ですか。やる気が出ているのは良い事なのですが、事を楽観的に見過ぎるのはよくないですね」
先ほどの彼の二の舞だ。今の余計なひと言を見逃してくれるなんて優しさは、彼女にはない。これから行く先は、あの窮屈な部屋に確定された。
「あの、雪姉……今のは……」
私の弁解に聞く耳も持たず、ずるずると私を引きずるようにして歩みを速めた。私は泣く泣くついていく。この人ごみに紛れて姿を消そうかと考えたが、説教の時間が長引きそうなのでやめておいた。
気が付くと私は、いつものように机に突っ伏していた。
目の前の黒板には文字が羅列しているが、彼女が手に持っているプリントを解いていた私には、もう記憶に残っていない。
「――満点ですね。よくできました」
それを聞いた私は得意げな顔を作って、上げた。どうだ、もうこれで満足しただろう。と、上から目線の伝言も心中で添えて。
だが黒板と同じように黒い文字が羅列されているプリントを目に入れてしまい、思わず目を逸らす。
頭の中で、黒い渦がグルグルと回っている。いつの間にか、窓から差し込んでいた光も消えている。夜になっていた。一体、何時間机と向き合っていたのか。
天井についている照明だけが、この部屋を照らしている。老朽化という言葉を知らないこの電球は、今日も誇らしげに光っていた。改めて眺めると、目が痛くなる。昼間にはついていなかったはずなのに、いつ点けられたのだろう。
「では、今回はこのくらいにしておいてあげましょう」
恐怖を感じるその言葉を聞いて、冷や汗が頬を伝う。
もう駄目だ。
このままこの部屋に居れば、ノイローゼを起こしてしまう。いや、いっそのことそうなってしまえば、当分休養に時間が当てられるのだろうか。
「もう終わりだよね? じゃあご飯食べよ? ね?」
必死に縋りつく私を見て、雪姉はクスリと笑った。久しぶりに見るな、と思ったが聞き込みの直前にも見ていた事を思いだす。あの時とは違い、無性に腹が立つ笑いだ。
なぜ笑う。疲れ果てた今の私には、悪魔の顔に見えて仕方がなかった。
「これに懲りたら、あの時のような発言は控えてくださいね」
「しょうがなくない? 猫として生まれてきた人の性なんだよ、これは」
ぷくりと頬を膨らませると、人差し指で右の頬を突かれた。空気が抜けた頬をそのまま何度も突く雪姉の顔――おもに瞳から――は、怒りがにじみ出ていた。
「人生の一大事を、よくもまあ……夕食は抜きにしてもらいましょうか」
「え、今日は私の大好物の鮪の刺身だよ? それを知っててそう言うの?」
「はい。何か問題でも?」
しれっとそう言われても、ぐぬぬぬ……と唸る事しか出来ない。彼女はそれを見て満足したようで、動かしていた指を降ろして部屋の外に向かう。
「……行かないのですか?」
「……行くよ」
自分でも子供じみてるなと感じる声を出しながら、雪姉の後ろをついていく。まあ、まだ子供なのだからおかしくはないか。
彼女の姿に違和感を感じると思えば、いつの間にかワンピース姿に戻っていた。いなくなっていたのにも気が付かないとは、私はどれだけ無心で勉強していたのだろう。
食堂に着くと、そこでは両親がすでに食事をしていた。
後から来た私達に気付き、手のひらで席を示す。その席には、食事が二人分用意されていた。
雪姉が来ることを想定していたらしい。あるいは、最初から一緒に話をしようと決めていたのか。
困惑する雪姉の腕を引っ張り、席に座らせる。私の隣だ。
おずおずと席に座ったのを見て、私は早速食べ始めた。まだ温かい。ここで食べる料理は、意図的に冷えているもの以外はすべてが温かい。外気温に触れていないのかと、一瞬思ってしまうほど。
「どうだ? 準備は進んでいるか?」
「まあ、無事に進んでるよ」
「そうか、それは良かった」
二人の皿を見ると、あまり量が減っていないようだった。
「ああ、丁度二人を呼びに行こうかと話していた所だったんだよ」
視線に気づいた父が、そう言った。
雪姉はまず、式典に向けて私達がやっていることを事細かに説明した。それも、彼女の仕事だ。
噂を広めている事。輪をかけて勉強に励んでいる事。
今日の昼に聞いた事は話さなかった。また変な噂が立ち始めていたが今回は未然に防いだため、話す必要はないのだろう。
それと、私が民衆のほとんどに邪険な目で見られていることも伝えなかった。これには、雪姉の私情が一枚かんでいるだろう。私も両親にこれ以上心配をかけたくなかったので、特に口は出さなかった。
「なるほど。このまま任せておいてよさそうだね」
「雪さんは、とても、優秀だもの、ね」
二人からかけられた言葉に、雪姉は顔をほんのりと赤くする。
部屋の中に兵はおらず、私達が動かす食器の音だけが部屋に響いた。食事をしている風景に、他の人の姿はないように思う。家族の団欒、というやつだ。私が「窮屈で食べずらい」と言ったのはきっかけだった。
私は黙々と鮪の刺身を食べていた。
人間の好物はそんなに被らないと聞いたが、私達『種族』は例外だ。家族で好物が被るのはしょっちゅうな事だ。何なら、近所一帯で好物が被っている所もある。
国ごとによって、特定の食品だけが大量に輸入していたり消費されているのは、珍しくない。というか。すべての国がそうだ。
現に、私達の国では魚介の輸入額が他の食品の二倍にも三倍にもなっている。近年その数は増えていく一方で、留まるところを知らない。魚を取り扱っている店は、うなぎのぼりの好景気に小躍りをしている。
もちろんその分、しっかりと消費されている。
遺伝子を組み替えた事による副作用だという話もあるが、現在も真実は分からないままだ。遺伝子組み換えの基盤となった遺伝子も分からないのだ。当然ともいえる。頭の中でそんな事を思っていても、鮪は今日も変わらず、
「……美味しい」
醤油に切り身を付けて、口に運ぶ。美味しい。とても美味しい。
この一連の感動を繰り返した後、私は思わず呟いた。あのドリアとパフェもいいが、やはりこちらの方が口にあっている気がする。本能的に好む方はどちらかと言われれば、やはり私は鮪を選ぶだろう。
同じように夢中になっていた父が、この言葉を聞いて豪快に笑った。隣を見るが、ホッと息をついた。
さすがの雪姉も、父に注意することはできないらしい。
「来月に食事を共にする家族が一人増えると思うと、気持ちが昂るなあ!」
それを聞いて、私は一つ疑問に思った。素直に口に出す。
「お父さんって、私がもし結婚できなかった時の事とか、マイナスなこと考えないよね」
未来の事を考えるだけで頭の整理がつかない私とは、まるで正反対だ。
父はそれを聞いて、口を三日月型に歪めた。端で掴まれた鮪を見て、図鑑で一度見たヒグマを連想させる。
「おうよ。娘に悲しい顔をさせるのは、父親失格だからな!」
そう言って、最後の一切れを口に運んだ。
それを聞いた私は、じっとりとした眼差しで父の顔を見た。さっきとは違う事を言っているじゃないか。その視線に気づいた父が、不思議そうに見返す。心中の悪態に気付いていないらしい。ため息交じりに、言った。
「手札にするとか、不穏な事言ってたのに」
「確かに言ったが、あれを実現させる気は毛頭ない。安心しろ」
そう言われれば返す言葉も無く、私はまた黙々と食事を口に運んだ。親子の口喧嘩、およそ十秒で終結。世界一速かったんじゃないか?
王だからこその言葉の重み……というのか。威圧ではない、何かずっしりとしたものが乗っかっている。
父の言葉には、人を信頼させる力がある。近くで父の姿を見てきた私には、痛いほど分かる。
私も、いつかはそんな言葉を言えるようになるのだろうか。まず、私は民衆に受け入れられるのかが不安なのだが。
「ごちそう様でした」
私の食材になるために命を落とした生き物に手を合わせると、横からも同じ言葉が聞こえた。
雪姉は席を立って、お辞儀をし、部屋を出て行った。素早い動作で、あっという間に姿が見えなくなる。
「貴方も、部屋に戻ったら? 疲れている、でしょう」
その言葉に従い、私も部屋を出る事にした。言葉に間違いはない。確かに私は疲れている。早々に休んで、悪い事はない。
自室に入り、真っ先にベッドに飛びつく。
シーツがボスンと音を立てて沈み、跳ね返る。天井が近づき、離れていった。
「疲れた」
勉強の事もあるが、聞き込みの結果に一々過激に反応するのにも疲れた。
なぜ自分が――民衆から嫌われている自分が、玉座に立たねばならないのだろう。何度も繰り返し問うてきた疑問だ。答えはいつも出ない。
心が、気持ちが、抉られ、削られ、私を疲弊させていた。
その根源は、誰が流したかも知らない噂だった。最初は甘く見ていたはずなのに、真綿で首を絞められていくように、どんどん窮地に追い詰めていく。気が付いたら崖っぷちで、タイムリミットもある。それまでに、何とかできる問題なのだろうか、これは。
「……疲れた」
もう一度、同じことを呟いた。どうせ、誰も聞いていない。一人でいる時くらい、弱音を吐いても怒られないだろう。
それと同時に、睡魔が私に押し寄せてくる。
だがお風呂に入っていないし、歯も磨いていない。王女として、いや。女子としてどうなのだろう。だが、そんな事はお構いなしに睡魔は私を包み込む。
「もういいか」
面倒くさくなって、諦める事にした。明日すればいい。考える事を放棄すると、頭が真っ白になる。そしてそこに、ドブのような言葉が流れ込む。空っぽだった頭が、どんどん黒くなっていく。
――恐怖の対象
――正直、気味が悪い
――別の人に継いでもらいたい
今まで聞いてきた意見を反芻して、さらに惨めな気持ちになる。
私だって、出来る事なら別の人に継いでもらいたい。後継者なんて、私以外に居てもいいだろうに。なぜ嫌われ者の私が……。
学校で受けた視線を、その何倍もの人から向けられるのかと思うと、息が苦しくなる。その理由を示すように、枕に水滴が落ちた。その出所は、言うまでも無く瞳から。視界がぼやけ、歪んでいく。
本当に小さかったころは、無邪気にその日を楽しみにしていたのに。
今となっては、着実に近付いてくるその日に怯えている。怪物か何かに追われているように。
ふと、母が言っていた父が持つ力が脳裏によぎった。
自在に民衆の意見を変えられる力……冷静に考えてみれば、そんなものあるはずが無い。魔法でもあるまい。前にも書いたと思うが、この世界の創造主は現実主義者の人間だ。そんな非現実的なもの、作ろうとも思わないはずだ。そもそも、信じていたかどうかも分からない。
けど、もしあるのだとすれば、使ってみたい。使いたい。父から譲り受けたい。
みんなが私を受け入れてくれるように。慕ってくれるように。歩み寄ってくれるように。
本人に聞けば、その力を手に入れる方法を教えてくれるのだろうか。母が素直に明かしたのだから、隠す道理はないはずだ。彼女が嘘を吐くとも思えない。可能性はなくはないが、そう信じたい。
もしくは開き直って、あの悪魔のように暴れてやろうか。良い意味でも悪い意味でも、素直になるのは得意だ。
そういえば、あの悪魔の行く末はどうなったのだろう。呼び名だけに目が行って、その人自身の事は何もわからなかった。
本の最後の方にあったという事は最近の事だし、まだ生きていたりするのだろうか。だとすると、何処に居るのだろう。
それとも、抵抗虚しく処刑台にかけられたのだろうか。
私も、そんなふうになるのだろうか。玉座に座ったら、いつか。
両側から腕を掴まれ、無理矢理ギロチンへ続く階段を上らされている自分を想像する。民衆の不満を買い身に覚えのない罪を着せられたという、ありえない気もしない恐ろしい出来事を伏線に。
頭を固定され、周りを見渡すと、そこには観衆の喝采。
サーカスなどの芸を見るかのような、やはり好奇に満ちた目がぞろぞろと集まってくる。
黒く、輪郭のはっきりとしない影から色とりどりの目だけが見え、それが津波のように押し寄せる。
それに怯えて息をのんだ瞬間、首筋に冷たいものが当たり……。
――止めておこう。夢に出てきそうだ。
誰も分からない未来を案じたって、何の得にもならない。
省エネ主義の方針に背いてしまうではないか。一人でいる時こそ、誰からの邪魔も入らないからこそ、省エネというものは存分に発揮できる。今発揮せずに、いつ発揮するというのだ。
マイナスな方向へと枝を伸ばし続ける思考を、バッサリと切った。パラパラと言葉が穴の底へと落ちていく。
「…………」
いつの間にか、私は目を閉じていた。
深淵の奥に手を引っ張られるように、ゆっくりと、しかし確実に眠りに落ちていく。私は抗いもせず、それに従った。意識が暗転する直前、ポツリと一言。
「……おやすみなさい」