三章
――あれから凄まじい勉強に追い立てられるようにして時は流れ、気が付けば丁度一週間が経った。
私は正装に着替え、四人しかいない広い部屋で縮こまるようにして席に座っていた。こういった話し合いの場に同席するのは、久しぶりな事だ。雪姉に叩き込まれた作法を、今のうちに思い出しておく。
父も私の横で正装に着替え、不敵な笑みを浮かべている。さすが国王というべきか、とても落ち着いている。
「お久しぶりですね。相変わらずお元気そうで何よりです」
そう言って、相手の国の王が会釈してきた。頭を下げ、垂れてきた髪を指に引っ掛けてもどす。一連の動作に、一切の無駄が無かった。貴族なんだな、というのが第一印象だった。
耳までかかっている茶色がかった黒髪の短髪に、夕日を連想させる赤い色をした瞳。
他に私と異なる点を挙げるとすれば、私より一回り大きい、髪から飛び出た耳だろうか。同じく茶色だが、軽薄な雰囲気は感じられない。かと言って、重苦しくも無い。これが、国王の気品というものなのだろう。私もいつか、こうなる日が来るのだろうか。
「…………」
隣で私と同じくらいの年ごろの少年が、無言で座礼をする。
細身で背は私と同じくらい。同じく耳までかかった短髪の黒髪に、一点を静かに見続ける黒い瞳。
狐というだけあって、どちらの顔立ちも整っていた。いや、確かにそう思ったが、私が重視しているのは外見ではない。
彼は、私の噂に付き合いきれるほどの精神力を持っているのだろうか。
見て最初にこう思ったあたり、私も大層なお人好しだ。他人にまだ関心があった事に、少しの安堵。
パートナーとなる人が、万人に怪訝な目を向けられるような嫌われ者。まあ、こう比喩してもおかしくはないだろう。もっと具体的に表せば、一部の人を除いて怪訝な目を向けられるか目を逸らされる人。なんだか悲しくなってきた。
もし相手が私なら、婚約を破棄してもらえるように抗議の一つでもしていただろう。自国の風評被害は免れないだろうし、自身の精神が摩耗するのは嫌だ。
抗議をするのには結構な労力を使うが、その後に浪費する精神力の量を考えれば、使った方が良いと考えていただろう。今の自分とこれからの自分を、天秤にかけたというわけだ。
自分が悪いわけでもないのに同情や好奇の目で見られる事に、どれだけ自分の気が保てるか。私が相手に求めているのは、これだった。サディスティックの趣味はないし、無理に付き合わせようという気はさらさらない。それこそ、労力の無駄だ。
自分の体を壊してまで一緒にいて欲しいなんて思ってないし、どうせなら離れてもらってもいい。
殻を破ってするりと出てきた意見が指している本心を見つけ、会議の席で静かに息を吐く。
――自分が期待してから裏切られるのが、怖いのか。自分の心に問うと、すとんと何かが腑に落ちた。正解らしい。
幼い頃、学校で受けた仕打ちのような。
今となっても鮮明に覚えている。幼い頃の記憶の、数少ないうちの二つ目。あれを思い出すたびに、今でも虫唾が走る。
噂のせいでこの体を馬鹿にされ。畏怖の念を他人に植え付け。化物として罵られ。一言で言うと最悪だった。
自分の周りから一人二人と離れていく人影を眺めることしかできずに、ただただ泣いていた。
先代の教育係からは、気持ちを強く持っていないからだと追い打ちをかけられ、無理に学校に行かされた。それでも必ず体調を崩し、保健室へと通う日々。親に問題を気取られたのは、その頃だった。
身分を隠す必要もないだろうという親の意見によって、少しは落ち着くだろう、と考えてから落胆したあの時。
鋏で髪を根元まで切られた時の、背筋を絶え間なく流れる寒気。薄気味悪い笑い声。吐き気を催す蔑んだ笑顔。
目の前まで突き出された鋏から、自身の髪がはらはらと落ちていく。悪魔の象徴が。母から受け継いだものが。
人はこうして弱っていくのだと、私は身をもって体験した。あんなに憔悴しきったのは、間違いなくあの時限りだ。
もう相手の顔は思い出せないが、この記憶を遡るときにいつも伸びてくる、こんがりと焼けた小麦色の手だけは覚えている。女子だったか、男子だったか。それすらもぼんやりとしている。
「――では、今回の件ですが……この子をそちらに預けるというのは、本気なのですか?」
我に返ると、話は本題に入っていた。
まだ聞かされていなかったこの言葉に疑問を唱えようとした娘よりも早く、父が口を開いた。話をややこしくさせたくなかったからだろう。
「ああ。本気だ」
父の気性からか、敬語らしい敬語を使わない言葉。この二人は国王としての付き合いが長い。記者や使用人がほとんどいなかったりすると、こうして敬語を崩す時がある。立場を取っ払えば、まるで親友のようだ。
相手は顔に微笑を湛えた。本心は誰にも悟れないような、見た事が無い類の表情だった。
「手元に置くことで、変な噂を流されるかもしれませんよ?」
それを聞いて、私の背筋が凍った。つい先日まで、まさにその戦術を使っていたからだ。
噂を流すことも敵国を不利にする策略の一種だと、雪姉から聞いた。同盟が強化されたことを広げることで民の安心感を芽生えさせると同時に、敵国にプレッシャーを与えるためにやった事だ。噂の底力は、身をもって体験している。とはいえ、あまり気は乗らなかった。
「いや、大丈夫だ」
一呼吸置いてから、父は無邪気な笑顔を顔に出した。
「それに、もし俺が拒否をしても、そちらが無理やりにでも押し付けて来るだろう」
「……その自信はどこから?」
手のひらを上に向け、王が話を促した。父は勢いに乗って話しだす。その脇で、私は肝を冷やしていた。
「まず、貴方の国は工業と農業が発展しているようだな。それらが始まったのは随分と昔の事だが、今も昔も産業が二つしかない事に些か違和感を感じましてね」
私は頭の中で、事前に調べた情報の事を思い起こした。
確かに、目立った産業はこの二つしかない。
「そして第二に、外交に本腰を入れていない貴方が頼れる国が我々の国しかないという事だ。裏で貿易していたとしても、噂が流れるはずだからな」
これを聞いても、王の微笑は崩れない。
心の中でどう思っているのか探ろうと試みたが、結局わからずじまいだった。
まるで仮面でも付けているかのように、顔のパーツの一つも微動だにしない。不気味にすら感じる。
「私個人としては、最後の言葉が気になりますねえ」
「いや、俺の拙い推理だ。戯言だとでも思っていてくれ」
――耳が痛くなるほどの、沈黙。
顔を見据えているうちに、王が微笑んだまま微動だにしないのが怖い。今の話を聞いて、彼は何を思っているのだろう。無理だとは分かっているが、それでも腹の内を探ろうとじっと見つめた。人形を相手にしているようだ。雪姉や父は、見当が着いたりするのだろうか。
全く話に介入していない私が、なぜか緊張して体を強張らせている。手のひらに爪が食い込む痛みで、それを自覚した。
横目に父を見ると、堂々とした態度で椅子に座っている。
その理由をよく知る私は、縋るような気持ちで父を見るような事は無く、この話術を編み出した人物に怯えていた。
もし、この人が相手としての立場に居たら……。まあ、簡単に言いくるめられて、言いなりになっていただろう。金を搾り取られてしまってたり、人員が吸い取られたりなんかもされていたかもしれない。考えるだけで恐ろしい。
やがて、王が口を開いた。微笑は変わらず、口だけが動いている。やはり怖い。
「では、息子は渡しましょう。ですが、こちらの条件も飲んでいただきます」
「どんな内容だ?」
「我が国の衣類、紙、機械などを買い取っていただきます」
「資金集めですか?」
「はい、ついでに自国のアピールもしようと思いまして」
「いいでしょう」
二つ返事で了承したことに、私は驚いた。もう少し問答をしても良かったんじゃないか? 裏があるかもしれないのに。
こんなに快く承諾していい事なのかと、不安にすらなった。最重要なのは、自国にとっての利益ではないのだろうか。確かに、貿易によって仲は親密になるだろうけど……。
差し出された書類に流れるようにサインをした後、何事も無かったかのように席を立った。父の物差しによると、もう話は済んだらしい。
そのまま部屋を出て行こうとする父を追いかけようと続けて席を立つと、視線を感じた。
感じるままに視線を上げていくと、少年と目が合う。向こうがずっと、こちらを見ていた。
「あの、何か?」
「…………」
話しかけても何も反応が無い。
その横では、まだ微笑みを崩していない王が鎮座している。話し相手が離席したというのに、いつまで座っているのだろう。動く気配はない。だが、こちらが付き合ってこの部屋に居続ける必要もないだろう。
それに、この得体の知れない人と一刻も早く離れたい。
そう思った私は待つことを諦めて、今度こそ部屋を出た。
部屋から延びている廊下を歩いている最中、私は父に質問を浴びせた。先ほどの相手が出してきた条件についてだ。
「なんであんなに簡単に呑み込んだの? 雪姉の指示?」
「いや、それは俺が考えた。今回の提案では、少年を引き込むことを最重要事項としていたからな」
どうやら、父はこの話し合いの最重要事項をきちんと決めていたらしい。
それを聞いた私は、やはり自分でも考えていたんだなと、ひそかに胸をなでおろした。
この話術を父に伝授したのは、この国の参謀こと雪姉だ。台詞、語気、視線、あらゆることを父に伝えていた。
さすがに身分が下のため、同じ会議場にはいる事は出来ない。ならどうするか。他の人の口から言えばいい。
これを伝授されている父を見て、私は最初、父への尊敬の念が薄れていった。雪姉の頭が切れるのは知っている。父がこの国のあらゆることを決定する立場にいる事も知っている。だが、どうも納得がいかなかった。
これくらい、自分で考えろと。
だが、それが言えるほどの立場も、その代わりになるような案を考えつくような知識も、私にはない。頭を捻っても良かったのだろうが、それは面倒事に分類される。
だから父が決めた事なら、それに従おうと思った。面倒事を嫌う私が、そんな事を言ってもいいとは思えない。それに、私は今回の話し合いに直接口を出さない。私にとって今回の会談の意味は、婚約者と面識を取る事だ。それ以外の事をする必要はない。
まあ単に、それを言った事で生じる雪姉との口喧嘩による無駄な労力の消費を抑えたかったというのもあるが。
「じゃあ、あの人を引き込んでどうするの?」
質問を重ねると、思ってもみなかった答えが父の口から出てきた。いや、心の隅では思い当っていたかもしれない。
「今後の条件を破った際に、抹殺する」
それを聞いて、すぐに理由が思い当った。
「つまり、容易に条件を破らせないようにするため?」
「そういう事だ」
こんな発想がポンポンと出てくる父に、感嘆のため息を吐いた。凄い、これが王の考える事か。
それもこれも、自分の愛する国を守るため。
私には到底実行できない事だ。父がこう言ったからには、絶対にやるのだろう。そんな確信があった。
……だが自分の婿が殺された時、私は冷静で居られるのだろうか。ふと思った。先ほどまで暗い事を考えていたからか、思考回路がっそっちの方へ向かっていっている。
仮にも自分のパートナーを、自分の国のために安々と渡せるのか。それが気掛かりだった。
――いや、まだ結婚もしていないのにこんな事を考えるのは止めよう。悲しくなってくる。
互いの利害の一致による結婚はこんなものだ。
そう何度も思い直すが、私はなぜか、そう妥協することが出来なかった。一体、私はどのタイミングでこんなお人好しになってしまったのか。考え事をして黙り込んでしまった私を案じてか、父はため息をついて、
「いや、娘に聞かせる話ではなかったな」
少し低い声色で、父がそう付け足した。ガシガシと頭を撫でられ、髪が乱れる。折角会議のために整えたのに。
勉強で少しは学習していたつもりだったが、実際になって見ないと分からない事もある。当たり前の事だが、机上で考えた事がそのまま現実で起こり得るはずがない。
それが今日、感じた事だった。
机上で予想する事は誰でもできる。
それを行ったことで何がどうなったのか、先人が書き残した物を見て理解することもできる。
だが、それが結果以外で何をもたらしたのか。
それを感じ取るには、紙切れだけじゃ足りない。
自分が愛した人を殺されたという事実だけが残され、当事者が何を思ったのかは明記されないまま、後世の人に託される。託された人は、そこからどれだけの事を引き出すことが出来るのか。
当事者が不憫だとすら思ってしまう。
すると、もう一人の私が呟いた。面倒事は避けたい主義の、いつもの私だ。いつもの行動パターンにするために、思考を遮るために、囁く。考え事とは、労力を結構使うものなのだ。
――まあ、知らぬが仏という言葉もある。
「その時と場合に依るでしょ? 殺されないために努力するよ」
その悍ましい内情を知って自分もそうなるのかと怯えて思考能力を奪われるより、そうならないためにどうするべきかを考える思考の余裕を持たせておいた方がいい。そっちの方が、私らしい。
せっかくいい事を呟いてくれた分身の言葉に沿って、私は思考回路を変えた。と、父が大口を開けて笑う。
「さすが、俺の娘だなあ!」
「楽観的に考える事だけが取り柄なんでね」
「それに加えて、極度の怠け者だという事も知っているぞ」
……私が努力すると言った事を珍しがっているのは分かるが、城内で大声で言う事ではないと思う。父の言葉に、周囲にいた数人の使用人が振り返る。顔が真っ赤になるのを何とかこらえていると、急に父がつま先の向きを変えた。少し遅れて、そちらの方に体を向ける。
「じゃあ、俺はまだ研究があるからな。自室に戻るとしよう」
私は分かれ道で手を振りながら自分と反対の道に進んでいく父を見て、ため息を吐いた。これからまた講義があり、この廊下を進んだ先にある広間で雪姉が待ち構えているのだ。しばらく進行方向を睨んだ後、小さく息を吐いて歩き出した。
「……ちゃんと来ましたね」
大げさに目を大きくさせた雪姉を見て、私はぷくりと頬を膨らませた。
ここに来いと言ったのは貴女だろう。そんな私の心情なんか気にもせず、彼女は身を少し引いた。
「では、今日は噂を流しに行きましょうか」
いつもの白いワンピースを着た雪姉が私に手のひらを差し出し、自室に向かうように促す。私は手を乗せると同時に、またかとため息を吐く。
それを見た雪姉は、待ってましたとばかりに早口で魅力的な言葉を繋げた。彼女は、本当に飴と鞭の使い方が上手だ。曰く、
「今日は午前中から外に行けるので、お昼はお店で食べましょうか。何が食べたいですか?」
私にやる気を出させるのには十分な言葉。外には何度か出た事があるが、それでも未だやったことのない事があった。私が好きな外での授業にプラスして、好奇心がくすぐられる。
私は雪姉の術中にはまり、雪姉の手を引いて自室に駈け出した。
初めて城の外で食べる、ご飯――初めて聞く魅力的な言葉に引っ張られるように、どんどん足を運ぶペースが速くなる。
「雪姉、早く行かないと売り切れるよ!」
自室に飛び込んでからは早かった。その速さ、光の如く。
すばやく身支度を済ませ、昼食は要らないという旨を使用人の一人に話し、息つく間もなく裏口から外に出た。
空からは太陽が容赦なく私達を照り付けていたが、言葉に惑わされている私にはちっとも気にならない。幸い帽子があるので、気が付いたら熱中症になっていた、なんてことにもならないはずだ。多分。
瞬く間に噴水の広場に出た私は、早速噂を広めるために近くを通りがかった男性に声をかける。どうせ、昼食を食べる前に仕事をやれとか言うのだろう、彼女は。聞く手間も惜しく、私はすぐに取り掛かった。
「……全く」
数歩離れた所に居た雪姉は、声とは裏腹に子供のように笑っていた。白い肌に、太陽の光が反射している。
後で必ず、どこか美味しい店に行こう。私はそう思った。