二章
青いペンキを隅々まで塗ったような、澄み切った青い空。ふかふかのクッションのような、のんびり動く白い雲。心地よく頬を撫でる、優しいそよ風。ポカポカと、布団のように暖かい日差し。整列しながら花びらを散らす、色とりどりに咲く花。
これらが身近にあるだけで、どれだけ心が休まるか。見ているだけで穏やかな気持ちになり、すべての事を丸投げしたい衝動に駆られる。私の言葉に頷くように、周りの花が上下に揺れた。
嗚呼、ここが至福の地か。ここで寝られたら、どんなに幸せか。こういう時ばかり、私は一般人になりたくなる。変わってくれる人なら、いつでも募集してますよ。
空を見上げると、澄み切った空に吸い込まれてしまいそうな、小さな鳥の影を見つけた。
平和だな。ずっとこんな時間が続けばいいのに。
「呆けるのはいいですけど、仕事を終わらせてからにしてください」
だが、相変わらずの上から目線の声で現実に引き戻される。
「別にいいじゃん。少しは休ませてよ」
「まだ始まってもいませんよ」
呆れる雪姉を横目に、私は着慣れていないせいで浮いているように感じる服の裾を、指でつまんで持ち上げた。丸投げした私にも非はあるが、似合っていない気がする。この服を着た時の妹の芝居じみた褒め方が、脳裏から離れない。
今の私は妹に見立ててもらった服を着ているうえに、目元が隠れるように帽子まで被っている。
長い黒髪は帽子にまとめていれているため、首元に風が当たってそわそわする。ばれないようにという配慮なのだろうが、視界が狭まって落ち着かない。気が付くと、右手で帽子のつばを押し上げている。
「……んで、今回の目的は?」
久しぶりに外に出てきたのに、やることが仕事だなんて……。
半ばうんざりしながら聞くと、丸めた細い指をあごに当てながら少し唸り、言葉を選ぶように口を開く。
「国民アンケートと言いますか……百聞一見にしかずです。行きましょう」
ワンピースではなく白いパーカーを着ている雪姉が、颯爽と歩きだす。それを見て、言いようのない憤りが湧き出る。
「様になってるからいいけど、何で私の時だけ怒るのさ」
「仮にも王女様ですよ、貴方は」
理由になってねーよ。どうせ身分はばれないようにするんだから、いいじゃないか。心の中で舌を出す。
城の裏口から延びている道。幅が広く、多くの人が行き交っている。何でも、城へ物資を運ぶために整備された道なのだそうだ。なるほど、運ぶのが大変そうな荷物を運ぶ人がちらほらと見える。これを進んでいくと、ひらけた場所に出る。
丸い大きな噴水を中心に円形に広がっているこの場所は、この国の中で一番大きな『休憩所』だ。正式名称ではないが、他に言い方が無いからこう言っている。
中心から何本か、レンガで舗装された道が外側へ出ている。その道によって、行先が変わってくる。
丸く囲むように家がたくさん建っていて、所々から洗濯物の洗剤の匂いがしたり、子供の元気な声が響いていたり、おいしそうなご飯の匂いがしたり……。一言で言うと、平和だ。
「詳しく言うと、王女様に対して国民がどう思っているのか、聞き取り調査をします」
「なるほど」
「この一週間聞き込みをして、それを政治にどう結び付けるか、レポートを書いて提出していただきます」
「どうせそうなると思ってたよ」
ケッと吐き出すようにそう言うと、辺りを見渡す。どうせなら、噂話を知っていそうな年齢層に聞きたい。と、いかにも知っていそうな人たちがいた。噴水に腰かけている三人の女性に近づいて行く。話に夢中で、あと一歩のところまで来ても気づく気配が無い。
こんな面倒くさい事、とっとと片付けてしまおう。人と関わるのは、どんな場面であり面倒だ。
彼女たちが大声で話していた内容に耳を傾けると、洗濯用の洗剤はどれが一番効果があるだとか、息子が低い点数のテストを持って帰ってきただとか、そんな事を話していた。話の切れ目が見つからない。どうするべきかと悩んでいるうちに、隣の雪姉が口を開く。
「あの、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
雪姉がお構いなしに、夢中で話している輪の中に割って入る。
最初は怪訝そうな表情を見せていたが、新聞記者だと嘘を吐くとそれを信じ、さっきよりも声を高くして話し出した。頭から覗いている耳が、ピンと立っている。記者だと信じているからか、少し興奮しているようだ。
それらを聞き終わった後、私は疲れでぐったりとしながら街路樹の木陰に避難した。あれから、十分は優に超えていただろう。あの人たちにしてみればそれでも短かったのかもしれないが、我慢の限界だった私は半ば強引に話を断ち切った。
私のあの噂以外は何の情報も得られなかった。だが、予想を反するものにぶち当たったのだ。
その後、マシンガンのように放たれる話。あれはすごかった。口だけが別の生物になってしまったのではないかと、本気で疑うほどに。国民は大変な思いをしているのだなと、つくづく思い知らされた。
先ほどの話に加え、物価が高くなっているだの、自分の息子が育ち盛りで出費がヤバいだの、四方八方に伸びていく話題に始終恐れ戦いていた。「なぜその話題からそっちへ行く?」と困惑した回数は、両手だけでは足りない。
だがそれもどこ吹く風で、雪姉はさっきと同じように飄々と佇んでいた。白いパーカーが陽射しを反射していて眩しい。手招きすると、同じ木陰に入ってきた。
「なんでそんなに元気なの……」
「あんなのは、適当に聞き流しておけばいいんですよ」
なんだか自分だけ損した気持ちになって、無性にむしゃくしゃした。なるほど、聞き流せばいいのか。
「では、まだまだ行きますよ」
「え、まだやるの?」
「大丈夫ですよ、あと五時間しかありませんから」
私の震え声を意に介する事も無く、すたすたと歩いていく。私はそれに必死になってついていくしかなかった。それなりに人が多く、少しでもよそ見をしていると見失ってしまう。全身真っ白な彼女を見つけるのは容易い事なのだろうが、この人ごみをかき分けて急ぎ足で進むというのは自分の主義に反する。雪姉はふと足を止め、人ごみのうちの一人に話しかけた。
「すいません。お話を伺ってもよろしいですか?」
「……なんでしょう?」
「記者の者ですが、三ヶ月後に行われる王女様の式典がありますよね。その事について、何かコメントを」
「あ、なるほど」
今回話しかけたのは、野菜などが入っている袋をぶら下げた若い女性だった。
しばらく考えた後、おずおずという風に口を開いた。意識しているのか、話しかけたときよりも声が大きくなっている気がする。親切だな、とふと思った。
彼女曰く、私は恐怖の対象らしい。
噂の事や、新たな政治が入ってくることへの不安などがその理由なのだそうだ。
それは尤もだな、と、私は妙に感心した。
「ご協力、ありがとうございます」
「いえいえ、お役にたてて良かったです」
彼女はぺこりと頭を下げて、その場を立ち去る。その姿を見送りながら、私は心の奥に引っかかりがあるのを感じていた。噂が予想以上に広がっている気がする。幼い頃は、城内だけで済んでいたはずなのに。
人の恐怖心を取り除くなんて、超能力じゃないしな……。
この時初めて、噂の事を厄介に感じた。発信源が誰だか、調べたくなった。やはり、宗教家か何かなのだろうか。この世界に、そんな概念が存在するはずがないとばかり思っていたのだが。やがて、雪姉が呟いた。
「噂、厄介ですね」
「だね。まあ、広まっちゃったものはしょうがないよ」
開き直ってそう言う私に、不満げな視線を送る雪姉。やはり、目は口ほどにものを言っている。
なんだかんだ言って、私の事を心配してくれているのだろうか。
だが、私の事を快く受け入れようとしている人もいるはずだ。根気よく聞き続けよう。
「お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「話を聞きたいのですが」
「話を聞かせてください」
――そんな私の意気込みは、見事に粉々にされた。当たって砕けた、というのか。もう粒子に例えられるくらいには、精神が摩耗していた。
待ち受けていたのは、聞く人の全員が私に対して快く思っていないという結果だった。正直、あまり芳しくない結果だ。噂の底力を目の当たりにした。目に見えない分、余計に性質が悪い。焦燥感が、胸に焼きついた。
私が落ち込むのは当然だが、それよりも落ち込んでいる人が隣にいる。この学習を提案した本人だが、予想以上に悪い結果に頭を抱えているようだ。私よりも頭が切れる分、余計に重く受け止めているのかもしれない。肩を落として、拳をあごに当ててずっと考え事をしている。黒い瞳も、心なしか泳いでいる。
「……無理矢理、別の噂を流せばいいのでは?」
帰路の半分くらいに来た時、不意に彼女はそう言った。思わず聞き流しそうになったその言葉を復唱し、整理する。そして、彼女の顔を見た。いつもの無表情だった。
「王女が悪魔かもしれないってだけでビッグニュースなのに……それ以上に衝撃的なニュースってある?」
呆れたようにそう言うと、耳を疑うような言葉が出てきた。
確かに、噂を遮る手立てにはなるかもしれないが。それこそ、有言実行しなきゃいけない事柄だ。
そんな責任感、私は持ち合わせていない。
ポカンと口を開ける私に対し、生き生きとした口調で続ける雪姉。
どうしてそんな提案が出てきたのか、私にはさっぱり分からなかった。
「同盟国と、婚姻を結びましょう」
「……いやいや、無理があるだろ」
やっと出てきた言葉が、それだった。目を見開いていたからか、瞬きをするたびに目がヒリヒリと痛む。眉根をもみながら、ため息を吐いた。目を開くと、西日の明るい光が地面を跳ね返り、突き刺さる。
それを聞いた雪姉は、なぜ? と目で訴えてくる。声には出していないのだが、そう聞こえた。以心伝心か。人の心を読めるようになったなら、噂も何とかなるかもしれないぞ。と、明後日の方向の事を考えながら、口では自分の言い分を答える。
「両親に許可取らないとだし、相手の国にも都合があるでしょ」
そう付け加えると、今度はそれに加えてため息まで吐かれた。呆れられているのは、もう分かっている。
間違ったことは言ってないと思うんだけどな。何だか理不尽な事を言われた気分だ。この反応が普通のはずなのに。
変わらない速度で歩き続ける雪姉の姿が、駄々をこねる子供と重なった。
いつもは現実的な事しか言わない彼女だが、自分の意見を押し通そうと無茶な事を言ってのける事がある。
相手を言いくるめられると確信すると、さらに強引に出る。それは半分脅迫のようなものだが、本人は至って普通に話していると思っているらしい。その矛先が貿易をしている国の人たちに向けられ厄介な事態になっているのを、何度も見た事がある。
それが成功すればいいことずくめなのだが……。この勢いだけ、何とかなって欲しいと切に思う。最近になって、「ああこの人はこういう人なんだ」と多くの人に理解していただけたのは、不幸中の幸いだろう。貿易を破棄した国が無かったのが、不思議なくらいだ。その事も雪姉が脅していたのかは、定かではない。
「早速今日、提案しに行ってきます」
この機動の速さも、問題の一つだ。
ほら、今私いい事言いましたよ? と言いたげな眼を見ても、褒める事は出来なかった。
これでもう少し計画性があれば。と思う方もいるかもしれないから、一つだけ言っておこう。
「近頃、敵国が不穏な動きを見せていると聞きます。武具や食料、火薬などを大量に購入しているそうです。威嚇ともとれる行動ですが、ここで油断するような国はないはずです。さらに強い同盟を組ませようと考えるのは自然な事なので、この話を出してから押していけば、すぐに折れてくれるかと。どうでしょうか」
講師のリーダー格の頭脳は伊達じゃない。
どのように押せば相手がひるむか、反論されるとすればどんなことを言われるかが瞬時に判断できる。
この国の参謀とも言っていい彼女の頭の中は、どの国も喉から手が出るほど欲しがっている重要な秘密と、主に私が欲している頭の回転の速さが詰まっている。
「……もう分かったよ、好きにしなさい」
結局、また私が折れた。
これから無茶な提案に引っ張られる、両親の顔が浮かぶようだ。心の中で、合掌。
「この案に了承してくれたのですね。さすが王女様」
一見無表情に見える顔だが、目からは安堵がにじみ出ていた。それを見た私は、今度こそ何も言えなくなってしまった。
太陽が地平線に近づくにつれ、目の前の影が伸びていく。
周りがオレンジ色に輝いている。すべてがオレンジ色に統括されていく。
「きれいだな」
誰にともなく言ったのだが、隣の参謀は聞いていたらしい。「そうですね」という同調する言葉が聞こえた。変な所で律儀だ。こういう面を見ると、王家に使える者なのだなと痛感する。
彼女は線が細い体を反転させて、眼下の街を見ていた。いつの間にか足は止まっており、私もつられて歩みを止める。
「代々、王家はこの景色を守るために尽力してきました。王女様も、努力してくださいね」
一言余計な事を言われた気がしてムッとしたが、感傷に浸っている雪姉に向かって言うのも憚られた。白いワンピースも夕日に染まり、今にも溶けて消えてしまいそうだ。なるほど、いま彼女に向かってシャッターを切れば、絵になるだろう。
今向かっている方を見やれば、薄暗くなっている空に、大きな城がそびえたっていた。見慣れているはずなのに、見るたびに足が竦みそうになる。それは、私が噂を気にしているからだろうか。
「ほら、帰るぞ」
一向に歩き出そうとしない雪姉に一言声をかけ、私は歩き出した。
もう一度上を見る。距離が近づき、顎を上に向けなければてっぺんが見えないくらいだ。腰を少し沿って見上げても、てっぺんは見えなかった。思ったより大きかったらしい。
城は変わらず、この国を統べる者の象徴として堂々と建っている。それを見た私は、歩幅を狭めてしまった。
今になって、私が女王になって本当に良いのか心配になってきた。誕生日の原稿に続き、今回のアンケート。思い浮かべるのは無理も無い。じりじりと何かが胸を焼き焦がす。
城下の町でこんなに悪い噂を広められてるんだ。昔よりも明らかに範囲が広くなっている。
こんなに快く思われていない中で王位継承されても、多くの住民は納得しないだろう。他国に対する影響もあるかもしれない。
それに、私には秀でた特技は無い。最低限の事は知っているが、それでも足りていないという事は痛感しているつもりだ。
あるとすれば体術だが、そんなの陣営の奥でどんと構えて指示するだけの王様が使う機会なんてないだろう。今現在でも使っている事には使っているが、城とは全く関係のない事だ。せいぜい、町の治安を少しだけよくしているくらいだろう。それだけで影響は出ない。政治にも。
生まれて来るなら兵士が良かったな。……と物思いに耽っていると、聞きなれた、門の閉まる音が後ろから聞こえた。どうやら、敷地内に入っていたらしい。
「では、早速お話してきます。同席されますか?」
いつの間にかついて来ていた雪姉が、横に並びながら訪ねてくる。話の中心となる人が同席しないというのもおかしな話だと思ったので、素直に頷いておいた。どうせ、両親が折れるのに三十分と掛からないだろう。ただ聞くだけというのなら、楽だし。ただ暇な時間を過ごすよりは、一方的な論争をながめていた方が面白そうだ。
そのまま庭園を通り、建物の中に入る。人工的な光がまぶしい。
出入り口であいさつをする使用人に会釈をしながら中に入り、突き当たりの壁にあるエレベーターに乗り込む。綺麗な装飾が施された、少し豪華なエレベーターだ。行先は最上階。移り変わっていく数字をながめながら、ポツリとつぶやく。
「本当に、大丈夫かな」
何がですか? と聞いてくる雪姉に、少し躊躇ってから答えた。これは私が一人で考えていた。だから、あんなマイナスな方向へと思考が向いて行ったのかもしれない。雪姉にアドバイスをもらえば、何かしら合点は行くだろうか。そんな淡い期待も交じっていた。
帰り道で先ほど考えていた事を話すと、表情一つ変えずに前に向き直った。予想外の行動に、少し驚いた。
「今さらですか。そんな事は、五年前から考えていて然るべきことですよ」
いつもと同じ調子で答えられ、私はしょんぼりと肩を落とした。言ってくることも正論なので、返す言葉が無い。
突き放されたようにも感じたが、その事に関しては仕方のない事だと思った。いずれこの国を総べるようになれば、万事を自分で解決しなければならないことは分かっている。
雪姉なりに、環境に慣れさせようとしてくれているのだろう。そう思っておく。そうでなければ、町中で粒子と化した私のメンタルがさらに粉々になってしまう。彼女の瞳を見ても、真冬の湖のように静かだった。いつもは不気味に感じるそれが、今回は好都合だった。
チン、と可愛らしい音が聞こえて、エレベーターの扉が開く。最上階に降り立つと、見計らったように扉が閉まり、階下へと降りていった。目の前には、木製の大きな扉。
「……失礼します」
「失礼します」
最初に私、次に雪姉の声が、目の前にある扉の奥に投げかけられる。返事はないが、私は無遠慮に扉を開いた。もう何度も見ている。使用人によっては扉の前でしどろもどろしている人もいるようだが、「そんな必要はないのに」といつも思う。彼は、まどろっこしいものを何よりも嫌う。
煌びやかな部屋の奥、本が何段も積み重なり、さらには床にまで雪崩込んでいる机で作業している人影が見えた。
「おお、凛か!」
その人影は私達に気づき、近づいてきた。
私の名前を呼ぶ彼は、私の父親――そして、国王だ。また趣味の歴史環境の研究をやっていたらしい。
王と呼ぶに相応しい筋骨隆々とした体躯から見ると、猫ではなく熊のようだ。
茶髪に爛々と光る金色の目が、その印象をさらに濃くさせる。私が彼から唯一受け継いだのは、金色の目だ。
今にも取って食われそうな本人を前にして、敬意ではなく畏怖によって思わず尻込みをしていた者を何人も見てきた。
怖がらないのは、私たち家族と肝が据わっている雪姉くらいだろう。私が物心ついた時から、雪姉は父の隣にいた。
落ち着き払った態度のまま、雪姉が口を開く。
「少々、ご相談がありまして」
それを聞いた父は、苦笑いを返してきた。雪姉が突拍子もない事を提案するときの、決まり文句。
毎度毎度のことに、そろそろ慣れてきたらしい。そしてその脇で、私は毎回、耳を傾けるのだ。論争が始まる直前の、張り詰めた空気。
「雪さんがそれを口にするときは、大抵途方もない事を言うからなあ」
頭の後ろを掻きながらそう言う父に、キョトンとした顔で応じる雪姉。どうやら自覚が無いらしい。
コホンと咳払いを一つして、例の婚姻の話を始めた。
しばらくして父が滝のように流れる意見を前に両掌を出して遮ったのには、驚いた。
「いつもは最後まで根気強く聞くのに」
そう言うと父は真面目な顔をして、予想だにしていなかった事を話し始めた。年頃の娘の前で。ありえない事を。
それを聞いた私は、まず自分の耳を疑った。
自分の耳が正常だと分かった後、今度は自分の父親の頭を疑った。
父は自分と同じ事を考えていた雪姉に賛辞を送ってから、今度は私の方に向き直った。私の目の前に鏡を置けば、間の抜けた顔を自覚して直せただろうに。
ただただ唖然とする私の前で、もう一度ゆっくりと口を開く。
「もうすでに、同盟国とは婚姻を結ぶように約束してある。相手は美少年だったぞ?」
ニヨニヨと笑う父親を前にしてこんなに殺気だったのは、あとにも先にもこれっきりだろう。
私は困惑を通り越して、冷静になっていた。
「娘の意見も聞いてよ」
「それは悪いと思っていたんだが、状況がこれだからな……敵が攻めて来る前に間に合わせたかったんだ」
王としての発言を前に、私は渋々頷いた。
政略結婚として子供を使うのはよくある話だと頭で理解していても、煮え切らない怒りが腹の底で沸々と湧いていた。なぜ自分を脇に置いて話を進めるのか。せめて話がまとまった事くらい、報告してくれてもよかったじゃないか。文句ばかりが頭から浮き出る。
こればっかりは何と言おうが、後の祭りだ。今から何を言っても、どうしようもない。
そう腹をくくった私が次に目星をつけたのは、最後の一言だった。
――美少年?
「そ、その……相手は誰?」
自分から食いつく形になるのを悔しく思ったが、それよりも好奇心の方が勝った。
いや、生涯共にするんだし、知っておかなくちゃ駄目だから聞いたんだ。それくらい、当然の事だろう。王家でも。一般人でも。それに、父が選んだ人がどんな人なのかも気になる。
決して「美少年」という言葉に引かれたのではない。断じて違う。
必死に首を振りながら聞いたのは、父の冷やかしの声と、相手の情報だった。
相手は同盟国の狐の人だそうだ。新密度で言うと、ただ貿易をしている国よりもワンランク上。貿易以外にも、軍事同盟など様々な約束事を結んでいる。
狐というと、農業や工業が盛んな他、結構美形な人が多い事でも有名になっている。後者はなぜなのかは知らない。
相手国の王の息子で、体術よりも勉学が秀でているらしい。物静かで、物事はきっちりと運び進める。あと、美形。性格は雪姉とほとんど同じだろう。
……要するに、私とは真逆。
この国の政治云々の前に、パートナーと上手くやっていけるかが心配になってくる。ただでさえ人付き合いは苦手なのに。
どうしよう。女王になる前にこの国から離脱するかもしれない。
「まあ、仲良くしてやってくれよ」
父に励ましとも慰めともつかない声をかけられて、サッと私の頭に暗雲が立ち込めた。どうやら、これは撤回できないらしい。それを今さらながら悟った。
え、夫になる人にどうやって接しろと。
てっきりこの話は明日に持ち越されると思って、ゆるく構えてたのに。現実離れした現実から、目を背けたくなる。
「別に、いつも通りに接すればいいんじゃないんですか?」
彼女は一人で目を回している私を見て、何に悩んでいるのだと眉根を寄せる。何の気なしに言ったのだろうが、私にその発想は浮かばなかった。やはり、頭の切れる人が考える事は違う。
雷が落ちたかのように頭に衝撃が来た。
今更ですか。そう目で訴えてくる雪姉。
「いつも通りに接して、自分と合わなければ放っておけばいいじゃないですか」
雲がだんだん晴れていく。
解決策を見つけた私は、何に悩んでいたのかすら忘れそうになった。
このやり取りを見ていた父が、口を開いた。聞きなれた低音には、笑みが含まれている。表情も緩んでいる。
「雪さんが居れば、凛も安心だな」
それを聞くなり、私からフイと顔を背ける雪姉。
透き通った頬がうっすらと赤らんでいる。黒い瞳以外に色がつくのは、ごく稀だ。前回も、父に褒められていたと思う。日が灯るように、段々と色が濃くなる。
これは喜んでいる証拠だ。
「……お褒めいただき、恐縮でございます」
そう言って頭を下げる雪姉に、にっかりと笑いかける父。これがあるべき主従の関係か……。と、私は思った。
この国の上下関係は、あまりはっきりしていない。一応格付けはされているのだが、それでも他国よりはゆるい方だろう。
雪姉は私に敬語なのか上から目線なのか分からない言葉をよく使うし、私も父に改まって敬語で話すようなことはしない。
この国の大事な事は、多くを国王が決める。だが、民衆の意見に真剣に向き合っている様子も垣間見えていたりしているため、民主主義と独裁主義のチャンポンになっているのが現状だ。雪姉によると、これは先々代かららしい。
もっと不思議な事は、この現状について誰も疑問を持たない事だ。抗議も無い。クーデターらしきものも無い。国民は、ごく普通に受け入れている。
慣れって恐ろしい。
「……で、式はいつ?」
「来月だ!」
はしゃぐ子供のように元気よく発せられた言葉に、私はさっきと同じことを繰り返した。
まずは自分の耳。父の頭。もう一度自分の耳。何度も疑ってみたが、どちらも正常に機能している事しか解らなかった。
そして、もう一度口で繰り返す。喉の抑えが利かず、思わず大きな声を出してしまった。だが、そんな事は気にならない。今の私は、今年で一番アホみたいな顔をしていた事だろう。
「来月!?」
素っ頓狂な声を出す私を見て、父は大口を開けて高笑いをする。
来月? 今までこんな事一回も耳に挟んでないよ? いや、結婚が決まった事も秘密にしてたんだ。そりゃ式の事も隠される。
「本当は、式の一週間前までは秘密にしておこうかと思ってたんだがなあ!」
突拍子もない事を言う事にかけては、父が一番かもしれない。
いや、それにしたって一ヶ月前に告知とかないだろう。
式の段取りとか、どこで開催するとか、重要な事全て私そっちのけで話し合ってたって事か。
雪姉がこの事を言ってくれなきゃ心の準備諸々をする時間は更に減っていた事だし、不幸中の幸いというべきか?
……もう考えていたってしょうがない。
決まった事なんだし、どっしりと構えていよう。私はそう前向きに直った。大丈夫、物事は何とかなるようにしかならない。
すぐに開き直った私とは違い、隣では口を小さく開けた雪姉が空を凝視していた。
今ごろ頭の中は、言葉の理解するのと今後のスケジュールの事の二つで頭がいっぱいなのだろう。参謀とは面倒な役職だな。と、どこか他人事でそう思った。
数秒経ってやっと我に返った雪姉は、何か言おうとして口を開いたが、閉じた。我に返ったと思ったが、まだ困惑しているらしい。
口を開いて、閉じる。この動作を数回繰り返してから、深呼吸をして静かに言った。ようやく理性が戻った彼女の目は、不気味だった。本能が突然、警報を流す。
「王女様。これからのスケジュールは、この噂を広める事と式典の準備に費やしてもらいます」
目を爛々と光らせる雪姉を見て、静かに、ゆっくりと頷いた。
こんなにやる気に満ちている雪姉を、私は見た事が無い。
今後の睡眠時間を懸念しながら、私はこれからの予定を聞いた。
「こんなに急でも、予定は立ててあるんでしょ?」
「もちろんだ! 娘のためなら、俺は努力を惜しまないぞ!」
一週間後に貿易に関する協議という名目の顔合わせ。二週間後にもう一度時間を作り、二人の時間を作ろうとしていたらしい。
それ以降の予定も、私には何も聞かされていなかった。
雪姉は隣で、ポケットから取り出したメモ帳と鉛筆でメモをして、今後のスケジュールを練り直している。
「今回はもういいけどさ、大事な事はもっと早めに言ってよ」
鉛筆の先をあごに当てて考えている雪姉をチラ見して、ぷくりと頬を膨らませながらそう言った。これがもし使用人たちにも伝わってなかったら、城中を大混乱に陥れる事になる。
言ってて、嫌な予感がした。
娘の私にすら知らされていなかったのに、使用人たちにはちゃんと言ったのだろうか? いや、こんな時ばかり私の勘は本領を発揮するのだ。これが当たっているのだとすれば、豪い事になるが。どうか、外れていてくれ。
恐る恐る聞いてみると、予想が的中した。
「協議の予定は言ったが、式の事は知らせてないぞ?」
その言葉は、集中している雪姉に届かなかったようだ。届かなかったのが不幸中の幸いなのか、泣きっ面にハチなのか。私が思うに、この場合は後者だ。
言わなければいけない事なのだろうが、隣で必死に試行錯誤している雪姉の仕事を増やすようで申し訳ない。けど、自分で何十人ともいる使用人に言うのも面倒くさい。面倒事は嫌いだが、この場合自分に火の粉が降りかかることになるだろうか。いや、しかし
……もう放っておこう。結局この結論に至った。
事態を甘く見てしまうのは、この父の遺伝子によるものだろう。
「噂が広がれば、使用人たちも感づくはずだし……大丈夫だよね」
そう一人合点した。父はその言葉に大きく首を振って頷いている。同意見だと頷かれても、これっぽっちも嬉しくなかった。
それから作業が終わった雪姉と共に部屋を退出し、エレベーターに乗って階下に降りた。
エレベーターから出ると、そこには何も知らない使用人たちの姿。罪悪感が胸をよぎる。
だが、今ここで知らせれば、もっとややこしい事態になることは避けられないだろう。これは一種の正当防衛だと自分を納得させ、そのまま食堂に向かった。これは正当防衛。これは正当防衛。これは正当防衛……。
食堂の机にはもうすでに料理が置かれており、王妃――母がイスに腰かけて静かに食べていた。
雪姉は静かにここから離れ、自室の方に向かっていった。
「式の事、知ってたの?」
イスに腰かけ、使用人たちに席を外させてから、真正面に座る母に聞いた。
私が何のことを言っているのかすぐに合点がいったらしく、フォークを置いてほほ笑んだ。
黒く長い、歳を感じさせないほど艶やかな髪。
照明に照らされて光る、エメラルドグリーンの瞳。
幼い少女を連想させるほど若々しいが、この人も大概突拍子もない事を言ってのける。
それはこの人の天然さ故なのだが、ヘタすると父よりも性質が悪い。
「お父さんが、面白い事を、言うから、ね」
鈴のような可憐な声を響かせて、そう言った。
やっぱり母もグルだったか。
だが、驚くことはなかった。
母がそういう事が好きだと知っていたし、もうさっきの部屋の事で精神が摩耗しすぎていたからだ。
驚く余裕も元気も無かった。
ただただ疲れた。
「結婚、おめでとう。孫の顔を見れるのかと思うと、今から楽しみねえ」
いくらなんでも早すぎるだろう。
とうとう口をはさむ元気も無くなり、黙々と料理を口へ運んだ。
いつもの味付けだが、結構おいしかった。
モソモソと口に運びながら私が思い出していたのは、あの噂の事だった。
悪魔……ねえ。
肩書は悪くないが、民衆に不安を与えるようでは邪魔にしかならない。
放っておけばいつの間にか消えるだろう。最初の頃――私が幼い頃も、そう思っていた。
けどそれから何年か経った今でも、この噂は色濃く残っている。
父から受け継いだ金色の目。母から受け継いだ黒髪。もらって嬉しいはずのものが、最近は足枷のように見えてきて嫌だ。
嫌で嫌で仕方がないのに、取ることのできない足枷。
後ろから指を差されて、常に笑われているような感覚に陥ることも、何度かあった。
それでも無理に学校に行き、体と精神を壊したのが小学四年生のころ。学校ではなく、城で勉強することを決めたのがその一年後。
休憩時間のたびに体を動かすことに熱中して、今ではすっかりそれが武器になっている。
どんどん体術を見につけていく私を見て、なぜそれを振るえなかったのかと耳元で囁きつづける自分が生まれたのが、そのさらに一年後。
もうどうでもいいと諦めている半面、認められたいという願望もむくむくと湧いている事に気付いたのが、つい最近。
二律背反なこの気持ちに制御がつかなくなり、妹に自分の立場を譲らせようと画策した事もあった。
でも結局は言いくるめられ、今日に至る。
私は今も、噂の元凶を突き止めるような事もせず、自身の野望を膨らませ続けている。
ようやく気持ちの整理がついて来た今でも、思い出すと口の中が苦くなるような思い出だ。
……今食べているのは、使用人が苦労して作ってくれている夕食だ。
深く思い出すのはやめておこう。
サラダを突いている間に母は食べ終わったが、それでも私が食べ終わるまで席を立たなかった。
まだ湯気が立っていたスープを飲み干すまで、私達は一言も口を利かなかった。私が席を立つと、母も腰を上げる。
そして、顔を見合わせてクスリと笑った。
ゆったりとした足取りで食堂を出て行く母を追いかけ、すっかり暗くなった園庭に出る。
色とりどりの花が、風に吹かれて揺れている。品種などは分からないが、花特有の甘い香りが気に入った。
数分、母の横で歩いた。どこへ向かうでもなく、何を話すでもなく。
やがて中央の開けた部分で立ち止まった。
母はこちらをくるりと向いた。とても可愛らしい少女のように。
私達の間に、暖かい夜風が吹き抜ける。
花たちから元気をもらうように、時間が経つほどに、あれほどなかった気力が戻っていくようだ。
四季それぞれの旬の花があるおかげで、一年中花びらが尽きる事はない。
「……凛、この世界は、楽しいかしら」
何を訳の分からない事を。と思いながら、曖昧に頷いて見せた。
歴史書で読んだことがあった。昔、私たちの先祖は違う世界から来たという事を。
迫害を恐れて、この世界に逃げ込んできたことを。
その時に使った機械は、もう二度と使われないように破壊したと書いてあった。
そこまで考えたのと、母が意味深な笑みを浮かべているのに気が付いたのは、ほぼ同時。
暖かな空気が、急に冷たくなって背筋に忍び寄ってくる。
ここまで考えてから気が付いたのは、偶然だよね? 訳の分からぬ恐怖に駆られていると、母が先に口を開いた。
「楽しい世界は、どんな所だと、思う?」
自分の瞳孔が開いたのが分かった。手が痺れる程、爪が食い込んでいる。鼓動がやけに近い。
そんな私の反応を楽しむように笑った後、言葉をつづけた。
いつものゆっくりとした速度が、とてもじれったかった。
「自分が思う通りに、民衆の思考を捻じ曲げられる。そんな力が、お父さんにあるの」
そんな馬鹿な。
最初に思った事がそれだった。
「貴方に、それが使えるとしたら、どう使う?」
これは、テストなのだろうか。私が王女にふさわしいか、という。
真意を探ろうとじっと母の顔を見たが、何もわからなかった。
これは、やはり建前を言った方がいいのだろうか。雪姉なら、父ならなんというか。
認めてほしいという思いが強まり、私は嘘を吐いた。
それを聞いた途端、母は場内に向かって歩き出した。
こつり。足音を立てながら歩いていく背中から、少女のような声が聞こえた。
それを私は、気の遠くなるような気持ちで聞いていた。
「それは凛の本心じゃ、ないでしょ? 貴方なら、もっと素質のある答えをくれるはずよ」
異様な雰囲気だった。薄い霧が覆っているようで、母の本心が見えそうで見えない。空気を掴もうとしているようだ。
今までこんな事は何度かあったが、話の内容が重いだけに、不気味さが増した。
あの人には「正体不明」という四文字が、最もあてはまっている言葉だと思う。
しかしそのぬらりぬらりとした女性が、今まで私の身近な場所に居たのだ。
「……そんなの、何で分かるんだよ」
再び歩き出すと、そんな私を引き留めるかのように、一層濃い花の香りが風に揺れた。
不貞腐れるようにして呟く。
今にも消えてなくなりそうな、不確かな、けれど楽しげな足取りが遠くに見える。
生まれた時から、両親はこの国を総べる者と位置付けられていた。物心がついた時には、優しい面と、皆をまとめる国王としての面を見つけていた。
だが、実際にどんな政治を行って来たのかはあまり知らない。
知ったとしても、そこにヒントがあるとは思えない。
何も知らない状態だと知っていて尚、私に答えを求めた。
本心を言ったとしても、それはとても汚い言葉で、醜い考えで、とても実の親に言える事とは思えなかった。
「また、答える機会を、あげる、わ」
小さく、そう聞こえた気がした。
さっきの話で敏感になっていた耳が、さらに夜空に向かって立つ。
一際強い風が吹いて、花びらが夜空に美しく散り、腰まで伸びた長い黒髪が蛇のようにうねった。
一枚の花弁を目で追っていくと、漆黒の空に映える金色の月が、私の目を爛々と光らせた。
煌々と、月光の静かな、冷たい光に照らされる園庭の花を見た後、真正面を見据えた。
月の光とはまた違う、騒がしく、暖かい光。
その中に消えた影を見つけたと思うと、それは私をじっと見つめていた。
それは雪姉だった。
「……王女様、明日から頑張りましょう」
私にそれを言うためだけに、ここに来たようだ。
随分と気遣いができる教育係に笑いかけながら、私は言う。
「ああ。一国の主となれるように、しっかり支えてよ」
それを聞いた雪姉は、目をぱちくりした。彼女はおそらく、初めて言われた言葉を反芻しただろう。その言葉をやっと理解した後、照れくさそうに微笑んだ。