一章
人が悪い噂を鵜呑みにするというのはよくある話だ。人を統括している人。自身の立ち位置を気にしている人。そういった人たちにとっては、これ以上厄介なものはないだろう。嘘だ嘘だとわかってはいるが、心の奥底では疑心が芽生える。
それは自然な事だと思うし、悪い事だとも思わない。他人が口出ししても、何の意味も無いだろう。一度疑ったものをこれと決めつけるには、結構な覚悟がいる事だ。
そもそも私は面倒事が嫌いだから、その事に口出ししようとも思わない。
私の国でも、然り。やはり悪いうわさが広がっていた。
その噂の内容は、黒毛に金色の目をした猫は、悪魔から生まれた猫だというものだ。その組み合わせの猫は、何と比喩されていたか。……そうだ。悪魔だ。
私はまず、その噂の発信源がまともな人か疑った。
この世界に悪魔は居ないから、悪魔から生まれたという部分で無理が生じる。この世界は、現実主義者の人間たちが創造した世界なのだから。
だが、もしかしたら……。という可能性も捨てきれない。
私はその噂を聞いたその日に、まず小一時間鏡の中の自分を見続け、次に両親に「私はどこから生まれたの?」という馬鹿丸出しな疑問を投げかけた。
前者では、黒く長い髪と、無駄に眩しい金色の目をした自分の顔が映ってるだけ。鏡の奥で。眉をしかめて微塵も動かずに凝視している。
頭の両端には、ぴょこりと出ている小さな耳。年相応な小ささの耳が、時折ぴくぴくと動いている。取り外し不可能。自身の種族を証明するのに必須のアイテム。もちろん、色は変わらない。鏡越しの自分の耳は、いつまでたってもそこに鎮座していた。
金色の目は珍しくはないが、この黒髪とセットになっている事で皆の恐怖を煽っている事は、幼いながらに感じ取っていた。見る目が違う。腫れ物にでも触るような接し方をされているのは、もうずいぶんと前からだ。
後者の結果は言うまでもないだろう。両親がそれぞれ自信を指さし、曰く「私達からよ」と。
私は少々落胆し、その日は早い時間にベッドに潜り込んだ。いつもはタイミングなんか気にしないが、この日ばかりはなぜか覚えている。それほどショックだったのだろう。幼い子供の空想が打ち砕かれたのは。
数少ない幼い頃の記憶だ。
――目を覚ました私は、自分の体長の数倍はある天井を見つめた。見慣れた景色。いや、景色なんて美しい言葉で表せるものではないか。ともかく、体を起こす。手を組んで上に引っ張ると、肩辺りから軽快な音が聞こえた。
懐かしい夢を見た。あのころの記憶を思い出すのはいつ振りだろうか。あまりすっきりしていない頭を働かせ、今日一日の予定を思い出す。ええっと、午前中はずっと勉強だったか……。気が重い。
ベッドから起き上がった後は、広く豪華な照明で照らされている食堂へ向かい、そこで朝食をとる。味は美味しいのだろうが、健康に配慮された味の薄いそれを、私は美味しいと感じなくなっていた。子供のころから、何度も食べた味。どれとどれが一緒に出てくるかも覚えてしまった。
周りにはスーツやメイド服を着こなした使用人がおり、甲斐甲斐しく私の世話をしてくれる。腫れ物扱いは相変わらずだが、それも最近になってなんとも思わなくなった。大人の対応、というやつだろうか。他人に興味が無くなったとかではないことを願おう。
これが私の日常。一般の人から見た非日常。
何も不便は無く、すべてが充実している。
この豊かな生活をさせてくれていることに感謝はしている。だが、私はこの日常に少し嫌気がさしてきた。嫌気、というより退屈だろうか。そっちの方が感覚的には近い気がする。
一定の時間が来れば、その都度場所を移動し、その都度勉強をする。この家に生まれてきた私の、逃れられないものの一つ。そして、私が最も苦手とするものだ。
勉強の内容は、この国の歴史や特徴、護身術、外交の基本的な考えから、身の振り方のマナー、これら以外にもたくさんある。
「では、今回は政治の――」
「現在の同盟国とは非常に友好的であり――」
「この食事をするときは、この道具を――」
知識を頭に詰め込んでいると、いつの間にか一日が終わっている事がほとんどだ。
よく表面からしか見ずにこの生活を羨ましがる人がいるが、代わってくれる人がいるならぜひとも代わっていただきたい。半日と待たさずに代わって差し上げよう。
休憩は昼食を取った後しかないので、夜になると何も考えずに寝てしまう。それが常だった。
せめて地獄が来る前に心を落ち着けようと、私は無意識のうちに中庭に足を運んだ。時間が来れば引きずってでも入らされる勉強専用の部屋から、少しだけでも遠ざかりたいという気持ちもあった。それなら敷地外から出れば良いのだろう。前に出て行ったことがあった。即座に見つかり、勉学の時間が二倍に増えた。
目を細めてしまうほど眩しい朝日に照らされていたのは、朝露に濡れた赤、ピンク、白。夜中に雨が降ったのだろうか。そう思って地面を見ても、ぬかるんでいなかった。花壇に水やりをしたのだろう。
母と使用人が丹精込めて育てた花たちが、スポットライトを当てられた役者のように誇らしげに咲いていた。
この中庭の花は母が選んだものがほとんどで、花壇を埋め尽くすだけでは足りないのか、入りきらなかったものは植木鉢に植えて花壇の側に置いて育てている。そして、それらをすべて世話しているのも母だ。
前に一度、花の種類は何があるのかと聞いてみた事がある。すると宝物を自慢する少女のようなはしゃぎようで、聞いた事があるものや、一度も聞いた事が無いようなものまでつらつらと暗唱していった。
デイジー、ポピー、金魚草、ペチュニア、サルビア、ニチニチソウ、スプレーマム、コスモス、パンジー、葉牡丹……。まだまだあった気がするが、そこまで覚えていない。これで、ほんの最初の部分だけだった気がする。
私も、何となくこれかな? という感覚で見ており、名前と花の形が一致しない。そもそも熱意が無ければ、あんなに花を集める事も、毎日欠かさず世話をすることもできないだろう。面倒事が嫌いな私がその類の熱意を手に入れるのは、その熱意は空の上の雲をつかむように無謀な事だ。まるで正反対の母を、私は尊敬していたりもする。育て方もそれぞれ違うのに、よく続けられるよなあ。と、私はここを見るたびに思う。
石畳が描く曲線を、灰色のレンガで出来た丸い花壇を一つ一つ見ながら呑気に歩いていると、背後から誰かが近づいてくる気配がした。
およそ見当がついて落胆しながら振り向くと、太陽の光が目に飛び込んできた。いや、正確には違うな。太陽を反射した光なのだろうが、それでも目をくらませるのには十分な光だ。
遠い場所から来ている太陽の光と、至近距離からのまるで蛍光灯のような光とでは、目を傷めつける力の加減は違ってくる。目を瞬かせ、顔を逸らす。瞼の裏で、白い光の塊が分散していった。
二、三回瞬きしてから、ため息を吐いた。もう時間か。
私の予想は、こんな時ばかり本領を発揮する。冷蔵庫の飲み物を飲まれた時や、筆記用具に細工をされた時も本領を発揮していた。到底くだらないときにばかり、私の第六感は本気を出す。ひねくれたものだ。
城壁に埋め込まれた時計を見上げる。
「……あと五分あるのに、早くない?」
そう言うと、いつもの調子で淡々と答えた。
「移動時間を含めると、丁度良い時間になるかと」
それを聞いた私は、さらに大きなため息をついた。こうなればもう逃げられない。渋々彼女の後に続いた。
そんな事がとうの昔に思いやられるほどに頭に知識を入れた私は、机に目を回して机に突っ伏していた。知恵熱で頭ががんがんする。室内の温度は適温だったはずなのに、今の私にとっては少し涼しいほどだ。体の養分を、すべて頭脳に吸い取られたような気分だ。
この人の授業は、いつもいつも容赦がない。一時間三十分ほどのこど場の羅列。それらを一文字でも聞き逃せば、鉄拳が飛んでくる。
「あー、疲れたよー」
視線を上げると、チョークを持つ手を動かしている、白いワンピースに身を包んだ女性が見えた。
この時間の、いつもの風景だ。机に伸びた私に、平然として表情一つ変えない彼女。
「午後の授業キャンセルできない?」
「では、講義を再開させていただきます」
「えー、無視?」
さらさらした銀髪に、頭の両端にある白い耳、透き通るような白い肌と、彼女は何から何まで真っ白だ。もしここに雪が積もっていたら、見つけるのに数時間はかかっていただろう。色とりどりのあらゆる風景の中、いつも彼は浮いて見える。でも当の本人はそんな事を気にしておらず、いつも凛としている。季節に例えるなら、冬一択だろう。
私はこの人を「雪姉」と呼んでいる。もちろん、これはあだ名だ。この城の中でも、彼女をそう呼んでいるのは私くらいなものだ。もっとも、彼女の名前を気安く呼べる人の数も少ないのだが。
本名は容姿に似合った「雪」という名前だが、私の授業をほとんど請け負っており、かつ私の姉が欲しいという願望も相まって、そう呼んでいる。私には妹がいるだけだ。こんな堅物の姉が居ても息苦しいのだろうが、あだ名がついたおかげで少しは和らぐ。気がする。
この人の表情や話す言葉はどれも事務的で、つまらないと思う事が多い。
ためになるのは確かなのだろうが、機械相手に勉強しているみたいだ。尋ねられたことは「はい」か「いいえ」でしか答えない。そこに感情なんてものはなく、白紙のようにまっさらだ。
教科書も見ずに黒板に向かって、まるで写しているかのように迷うことなく文字を書いていく。
チョークを動かしていた手を止め、すっと横にずれる。
そこから現れたある一文に目が釘付けになる。今まで見た事が無く、およそ見当もつかないような言葉。十四回も繰り返し、もはやその日を待ちわびる事も無くなったその日。かっちりとした文字によると。「十五歳の誕生日」。
「今回は、王女様の誕生日についてです」
あと三ヶ月もあるのに? と疑問に思ったが、説明してくれるだろうと思い、口を閉じた。
「代々、王家の者の誕生日には式典が催されていましたが、今回もその例の通りです。ですが、今回は今までと勝手が違います」
「……嫌な予感がするなあ」
感じたことを率直に言って、黒板を斜め読みする。その中に見つけてはいけない文字を見つけてしまった。
「今回は王女様の十五歳の誕生日ですので、スピーチの原稿を書いていただきます」
思わず視線を机の上にずらすと、そこにはすでに白紙の原稿用紙が陣取っていた。見慣れたそれが差し出されれば、やるべきことはただ一つ。勉学の中でも、一番やりたく無いものだ。
逃げられない事を察した私は、雪姉に無駄な抵抗をするよりも、早く原稿を終わらせた方がいいという考えに行きついた。面倒事を後手後手に回すくらいなら、即座に終わらせてしまおう。数年の年月を経て私の思考回路が矯正されたのも、彼女の思惑どうりなのかもしれない。
渋々鉛筆を取って、何を書こうか考える。
とりあえず、適当な文でも考えておけばいいだろう。
「言っておきますが、有言実行できなかった際、大人になるまで授業を受けてもらいますからね」
「それはその時と場合に」
「守ってくださいね?」
無表情でそう言われると、何だか怖くなってくる。無言の雪姉から目を逸らす。あの人の目は、自分の胸のうちまで覗いていそうで苦手だ。無表情だから、なおさら。
睨みつけるような視線を受け流しながら、私は鉛筆を走らせる。さて、何を書こうか。
現在私が直面している十五歳の誕生日だが、スピーチを書くのには理由がある。
十五歳――王の子孫が、王座を受け継ぐ権利を与えられる歳。
学力、体力ともに、成人した者に追いつくのが十五歳らしい。
そこで、王位を引き継いだらこの国をどのようにしたいかなどを、民衆の前で発表しなければならない。民衆の信頼を得るため。有言することで、不安を取り除く。指標を明確にするため。云々。それなりに意味があるようなのだが、私には意味が無いような気がする。十五歳になるからといって、こんな義務を付けなくてもいいじゃんか。
と内心毒づいていると、雪姉の凛とした声が聞こえた。
「基本的な学習能力はとても良いので、自身を持ってください。あと二枚、頑張ってくださいね」
「……言われなくてもそのつもりだって」
講師のリーダー格というだけあって、雪姉は私を転がすのに長けている。
彼女の授業は苛烈な場合が多いが、時折こうして励ましたり、自由時間をくれたりする。この絶妙な飴と鞭のさじ加減のおかげで、私は授業をさぼらずに居られると言ってもいい。
褒められて悪い気はしない。鉛筆の進む速さも、二倍にも三倍にもなっている気がする。
今回も良いように転がった私を見て、雪姉は満足げにほほ笑んだ。
「終わった」
「意外と速かったですね」
短く言葉を交わして、手元の原稿を掻っ攫う。目を細かく動かし、舐めるように読んでいく。本当に読んでいるのかと疑いたくなるほど、速い。
添削している間、私は彼女の瞳を見た。いつもより開いているのは、集中しているからなのだろうか。
黒い瞳。彼女の、唯一色がついている部分だ。
すべてを見通しているのではないかと疑うほどに鋭くなる時もあれば、幼い子供を遠くで見守るかのように慈愛に満ちて優しくなる時もある。不思議な目だ。……まあ、私は毎回その眼に転がされているわけだから、少しの嫌悪感も無くはないのだが。
彼女の内面を面に出してしまう部分でもあるその瞳に、私は興味を持っていた。
こんなに瞳で喜怒哀楽を表す人を、私は見た事が無い。言葉に出すでもなく、少しでも目を逸らせば消えてしまうのではないかと錯覚してしまうほど静かだ。
「特に添削する部分はなさそうですね。あとは自由時間でどうぞ」
「おー、やりぃ!」
ガッツポーズをとる私を見てから、彼女は「あ、そうでした」と言葉を付けたそうと口を開いた。そのわざとらしさに、眉根を寄せる。同時に二つ悪いニュースを伝えると、目に見えて私はやる気をなくす。なので、面倒事は数回に分けて伝えるのだ。彼女が時々使う手札だ。
「予告しておきますが、来週から外出する授業が増えます。なので、服装をきちんと見立てておいてください」
「……了解」
私は服に疎い。今身に着けている服装だって、使用人が見立ててくれたものだ。それだって、センスがいいのか悪いのかもわからない。無地のパーカーに、デニムでいいと思うのだが。私が疎いのは、面倒くささもあるからなのかもしれない。
これは私のプライドにかかわる問題だが、妹に見立ててもらおう。
あいつなら流行にも敏感だし、これくらい喜んでやってくれるはずだ。
パーカーにデニムという服装しか知らない私は、外出先で雪姉に叱られるよりはましだと思い込むことにした。
服装の問題を解決した私は、この時期に外出するという事に些か疑問を抱いた。
別にこの国は平和そのものだし、何も勉強する事なんて――
「では、時間になったので移動しますよ」
「え、早くない? もうちょっとゆっくりしたかった」
不意にかけられた声に思考を遮られてから、私は何について考えていたのか忘れてしまった。
忘れるほど些細なものなら、忘れても何も支障はないだろうと開き直り、ひらひらと揺れる白いワンピースの背中について行った。
――移動した先は、図書室だった。
部屋の中央には、長椅子とその上に積まれた数冊の本があった。
「次は歴史なので、この本を読んでおいてください。最後の十分で問題を出しますので」
「これ全部?」
「何か問題でも?」
有無を言わせない言葉に怖気づき、素直に読み始めた。
この部屋は、出入り口の扉以外の全ての壁が本で埋め尽くされている。
この部屋の広さも大したものだから、内蔵されている本の量も半端ではないだろう。
それらから抜き取ったと見られる数冊のうちの一冊に手を伸ばす。
「これ挿絵とかないのか」
「あるわけないじゃないですか」
「さっきまでの優しさは何処へ……」
本を読み進めていくと、それはこの国の出来事を事細かに記した本だった。
この国――猫の国が建国されたる数十年前から書いてある大まかな年表の近くに、起こった事件などが羅列してある本。
重要そうな所だけ眺めてればいいかと思い、パラパラとページをめくっていく。雪姉は問題を作るためにどこかに行っているのか、姿は見えなかった。だだっ広い部屋に、ページをめくる乾いた音だけが虚しく響く。
しばらくして、とある事件に目が留まった。
「悪魔の殺人事件……」
ポツリとつぶやいたその中二病がかった言葉に、少しの熱がこもった。
これを聞いて最初に頭に出てくるのは、小さいころから現在まで囁かれ続けている噂だ。
悪魔による事件があるのなら、散々私の事を噂していたやつの言う事も正しい事になる。
そのページを熱心に読んだ結果、私はまたいつかのように落胆した。
内容は、罪で終身刑にかかろうとした男が、気が狂ってその場にいた人たちを殺してしまったという事件だった。
その男を悪魔と比喩していたというだけで、悪魔が犯した事件というわけではなかった。
となると、その男の容姿が私と似ているという事か?
この文献にはそこまで書かれていなかったが、そういう事なのだろうと予想した。
悪魔に生まれた子供というのも、なかなか格好いいと思ったんだが。
現実に引き戻された私はまたパラパラとページをめくっていたが、すぐにページが尽きてしまった。
どうやら、結構最後の方に書いてあったらしい。
肩を落として、他の本も読んでみる。地理、マナーなどの事が書かれた本ばかりで、面白い事は何一つ書かれていない。
唯一自分の興味の示している体術の本も、無い。なんだ、つまらん。この図書室にある本を、全部ボロボロに引き裂いてやる方が数倍は楽しいぞ。
ぐるりと見回して、ため息を吐いた。
古書特有の紙の匂いが鼻腔をくすぐる。もう問題なんてどうでもいい。
このまま寝てしまいたい。
雪姉に怒られると分かっていても、この眠気は抑えようがない。
ああ、ダメだ。
瞼が――くっつく――
「寝たら平手打ちしますよ」
ぞくりと背中に悪寒が走り、私は飛び起きた。
「え、あ、いつ戻って来て……」
後ろでは、雪姉が仁王立ちになってこちらを睨んでいる。手元には、数枚の紙が抱えられていた。
「今戻ってきたんですけど、そんな調子で問題が解けるのですか?」
「あ、いや、これは不可抗力というか……」
私の言い訳も聞かずに、一人で納得したように手を打つ雪姉。
「あ、全部解ける余裕があるから寝てたのですね。では今から解いてもらいましょう」
そう告げるや否や、本の上に紙を叩きつける。
「…………」
私は何も言えず、涙目になって問題に向き合うしかなかった。