笑み
「ただいま」
なくさないように旅行に行ったときに買ったキーホルダーがついた鍵でドアを開けてから治彦は妻、由美子に向け帰宅したことを告げる。
この言葉に反応していつもなら由美子が治彦を出迎えるためにリビングからトコトコと小走りでやってくる。結婚してからそれが途切れたことなどほとんどなかった。途切れるのはせいぜい由美子が帰省して家にいない時くらいのものだ。だが、治彦は確かに朝、由美子の顔は見ていたし、由美子も実家に帰るとは言っていなかった。それなのになぜか治彦が靴を脱ぎ、スリッパに足を入れても由美子がやってくる気配はない。
「由美子?」
治彦はそのことを不思議に思い、コートも脱がずに奥へと進む。目指すはリビング。
今日は天気がいい。だからきっと居眠りでもしてしまっているのだろう。由美子を起こしてやろうと思った。
昼寝していると夜眠れなくなるぞ、と声をかけてやろうと治彦はドアノブに手を伸ばし、そしてドアを開けた。
するとソファにも椅子にも由美子の姿はなかった。
「由美子? 買い物か?」
そう声に出してから治彦は脱いだコートとカバンをソファの上に置いてから由美子を探すために家じゅうを歩き回った。
治彦は由美子がリビングにいないが妙に落ち着かなかった。
リビングはもちろん、寝室だってキッチンだって覗いた。トイレだって電気がついてないのを確認してからドアを開け放った。それでも由美子の姿は見つからなくて、残すところは風呂場だけとなった。
風呂の掃除でもしているのか? と思い、一応風呂場の方も覗くことにした。
だが、治彦はそこだけはないだろうと初めから検討をつけていた。なぜなら由美子はなぜだか妙に風呂場を嫌うからだ。風呂に入るのが嫌いなのではない。家に誰も居ない状態で風呂場には近づかないのだ。治彦が家に居さえすれば由美子は治彦に一言かけて風呂に入る。それがなぜなのか、夫の治彦でさえ理由は分からない。ただ、いつからか由美子が風呂場を嫌うようになったとしか言いようがない。
だから、由美子がいるはずがないと風呂場は最後にしたのだ。今だって足を向けながらも治彦は由美子が風呂場にいるとは思ってはいなかった。
きっと買い物にでも行っているのだろう。買い忘れでもあって急いで買いに出たのだろう。と自分に言い聞かせてドアを開けた。
すると真っ白な床は色を変えていた。
黒に赤。ピンクに包まれた少しだけ黄色がかった白。
「あ……れ?」
治彦はおかしいと目を疑った。
だってそれは朝、家を出る前に見た由美子の服の配色と見事に一致するのだ。
黒をベースに赤いラインがところどころに入ったデニムパンツにクリーム色をした七分袖のTシャツ。そして一年目の結婚記念日に治彦の贈ったピンクのエプロン。
「由美……子?」
なぜ床に這っているんだ?
治彦は今の状況が理解できずにたたずんだ。
どのくらい経っただろうか。
「お母さん、今日のご飯なにー?」
「んー、肉じゃがよ」
「そっか」
外から聞こえる子供の、母親との会話で我に返った。
治彦は由美子の元へ駆け寄り、由美子の頭から少しだけ離れた位置に顔を下した。そして床をドンドンと手のひらで叩いて由美子に呼びかけた。
「由美子! 由美子!」
寝ていると信じたかった治彦は何度も由美子の名前を呼んだ。けれども由美子がその言葉に答える気配はなかった。
「きゅ、救急車、救急車」
治彦はリビングに行って固定電話を手に取る。手には汗が溜まっていて何度か受話器を落としてしまった。そしてその度に拾い上げてはまた落としてしまった。
治彦はとりあえず受話器を電話の脇に置き、番号を押そうとした。
「えっと、番号、番号は……」
けれども、救急車を呼ぶための番号がとっさに思い出せずにうつむきながら頬に爪を立てる。すると電話の下に番号のかかれた紙切れがあった。
それはひどく乱雑で。でも確かに『救急車』という文字と『119』という数字が書かれていた。
治彦はすぐに『119』という三つの数字に対応するボタンを押した。するとすぐに女性の声が聞こえた。
「どうしましたか?」
「妻が、倒れているんです」
治彦は女性に聞かれるがままに答えた。
それ以降治彦は自分が何と答えたかは覚えていない。けれども気付いた時にはすでに一人、病院の長椅子に座っていた。
「高崎さん」
「看護師、さん」
診療受付時間も終わり、治彦と治彦に声をかけた中年の看護師しかいない待合室。声はいつも訪れる時よりもよく聞こえた。
診察室から聞こえる注射を嫌がる子どもの泣き叫ぶ声も。
耳の遠くなった老人が看護師と会話する声も。
人が行きかって奏でられる靴の音も。
何もない。
あるのは2つの声だけ。
「妻は、由美子は……」
「先生がお呼びです。どうぞ中へ」
看護師に背中を支えられ力の入らない身体を持ち上げる。
白いドアを看護師がスライドさせればそこには1人の男の姿があった。
治彦の担当医の前田だ。
「先生、妻は……」
「とりあえずおかけください」
前田は治彦に丸い椅子に腰かけることを勧めた。看護師に支えられた状態でその椅子に腰をかける。治彦が腰かけたのを確認し、看護師は治彦から手を放し、一歩後ろへ下がった。
「先生……」
「率直に申し上げますと、由美子さんは今大変な状態にあります。今すぐにでも手術が必要です」
「え……」
「手術をしても治る保証はありません。それに手術後は何日か面会はできません」
「……手術をしないと由美子は元気にならないのでしょうか?」
「はい」
「そう……ですか。それでは先生、由美子をどうかお願いします」
目を見開いたまま固まっていた治彦は視点の定まらないまま口だけを動かした。そして再び看護師に支えられて診察室を後にした。
治彦と看護師の姿を見送り、診察室のドアがピタリとしまったのを確認してから、前田も部屋を後にした。
手には高崎由美子と高崎治彦。二人分のカルテをもって。
前田は受付まで行き、後ろに置いてある固定電話を手に取った。
電話番号はすでに暗記しているため何も見ずに10個の数字を入力する。プルルルと3度相手を呼ぶと、相手は受話器を取った。
「……はい。こちら田中電機でございます」
「前田だ。田中君、今、空いているか?」
「前田先生ですか。いつもどうもありがとうございます。今……は少し立て込んでいまして……」
相手の都合がわからなかったため治彦には『いつまで』という明確な日付は告げなかったものの今日にでも対応してほしかった前田は田中の返答に少しだけ眉間にしわを寄せた。受話器を握る手にも力が入る。
「……いつなら手が空く?」
思っていたよりも低い声が出てしまったことに前田自身も驚いた。けれども田中はそれを気にしていないようだった。
「あいにく早くて三日後になっちゃいますね」
「そんなに遅いのか……」
「どうやらバグが出回っているようで、うちだけじゃなくてどこの電気屋ももうてんてこ舞いですよ」
「バグ……か」
「大方反アンドロイド団体の仕事でしょうね。一般の人じゃ直すのは難しくて……」
「わかった。三日後にうちに来てくれ」
「かしこまりました」
前田は田中との通話を切り、後ろにある棚によっかかる。
前田の頭には田中の発した『バグ』という言葉が繰り返された。
『バグ』――人間でいうところの感染症みたいなものだ。
「……今後もこの手の患者が来るのか……」
前田もそれは仕方のないことだと理解はしていた。けれども何時までたっても慣れはしないものだ。
深く息をついてから後頭部をガシガシと掻く。
「コーヒーでも飲んで落ち着くか……」
売店はもう閉まっているが、自動販売機なら稼働している。診察室のデスクの中に入れてあるコインケースを取りに診察室へ戻った。
するとそこにはさきほど治彦を支えて診察室を後にした看護師が胸にカルテを抱えていた。
また二人分のカルテを。
「先生。患者様です」
「……ああ」
落ち着く暇もなく、次の患者たちがやってきたが対応しないわけにもいかない。
前田はコーヒーを諦めて再び席に着くことにした。
治彦が病院を訪れてから三日が経った日、田中は宣言通り前田の元を訪れた。
両手には色の違うジュラルミンケースが握られていた。服装はスーツ姿。
いつもは少し寄れた電気屋の制服を着ている田中にはぴっちりとしたスーツはとても違和感があるらしく、用意された部屋に入るや否やすぐにネクタイを外してからジャケットとワイシャツを脱いだ。そして看護師から受け取ったハンガーにそれらをかけて背中に大きく『田中電機』と書かれた黒い半袖姿になった。
「んじゃ、さっさと始めちゃいますね~」
田中はジュラルミンケースに手を伸ばし、すっかり医師の前田も見慣れてしまった御馴染みの工具を手に取る。
そしてベッドに横たわる患者の横に膝をつきながら、患者の腹部を探る。
前田はそれを確認してからすぐにカーテン越しのデスクに戻った。前田は自らが患者の家族たちに『手術』と説明したこの作業を見るのが苦手であった。作業中、医師には監視する義務があるが田中を信頼しているからと言い訳をしていつもすぐにカーテン越しのデスクに就いて書類整理をしていた。
「……うちのとこに来る客はまだいいですけど、先生のところに来る患者さんは大変ですね」
いつも通りカーテン越しで書類を整理していると工具をいじる音にのって田中の声がした。
田中の言葉は仕事が立て込んでいることの愚痴のような、前田を憐れんでいるような、どちらとも取れなかった。
「……理解している人もいるさ」
話を打ち切ろうと前田はそれだけを口にした。
するとすぐに田中は用意していたのかと思うほど早く返答を投げた。
「でもほとんどが違うんでしょ?」
「ああ」
用意していたわけではない。そんなことは前田にもわかっていた。それでもこんなにポンポンと話が続くことが恨めしかった。前田は止めていたボールペンを再び紙の上に走らせた。
だがすぐに前田の手は止まった。
「年々増えて今や職人を抱える病院まで出てきているくらいですからね」
「そうなのか?」
それは前田すら知らない内容だった。
前田は自分が担当しているこの『仕事』を苦手であっても、情報収集は怠っていないつもりではあった。
「はい。隣町の電気屋は店を閉めて、市内の大学病院勤めになりましたから。あそこはほとんどを修理で儲けていましたから、仕事内容は変わらないままで給料は電気屋してた時の三倍以上。もうウハウハだそうです。まぁ、うちもいろんな病院に懇意にしてもらって何とかやってますけど……っと先生、5台とも修理、終わりましたよ」
「……5人だ」
弱く、デスクに向かって呟くように発してからカーテンを開けた。
そこには先ほどまで寝ころんでいた患者たちが座っていた。
あるものは背中を丸めて。
あるものは足をブラブラと空中で浮かせて楽しんでいた。
前田は5人の患者を自分の目でよく確認してから田中の方へ振り返った。
すると田中は先ほど工具を出したジュラルミンケースとは違うものから白い封筒を取り出して前田に差し出した。
「じゃあ、しばらくはこれ、飲ませてください」
「これは?」
前田は渡された封筒の口から中を確認すると中には薬剤師が処方するカプセル型の薬と同じ形状のものが何錠か入っていた。
「油です。これとこれ、この二台はバグじゃなくて内部の機械の老朽化でした。長らくメンテナンスに出してなかったんでしょうね」
「……今度は定期健診をするように進めておくよ」
「定期メンテのお知らせ、みなさんに出してるんすけどね」
「『メンテナンス』じゃなくて『健診』だ」
「名前は何でもいいんです。俺らのやることは変わりませんから」
「……次も頼む」
「こちらこそ、どうぞこれからもごひいきに」
田中はワイシャツとジャケットを羽織ってからネクタイを締めた。そしてすぐに部屋を後にした。
「先生、患者様のご家族には連絡しますか?」
「いや、俺がしておくよ」
前田は手元にある複数のカルテの中から一番上のカルテを手にする。分厚いカルテの中にはその十分の一もないほど薄いカルテが挟まれている。
分厚い方のカルテには『高崎治彦』の名前。そして薄い方のカルテには『高崎由美子』の名前がある。
ただこの二つのカルテはケースの色が異なる。治彦のカルテは無色透明だが、由美子のカルテは青色のケースだ。そして小さなメモが貼られている。
『(アンドロイド) 本人の物は地下倉庫に保管済み』
前田はカルテを確認してから電話をかけた。電話の相手である治彦は呼び出し音が2回目に入ろうとしたころに電話を取った。
「高崎です」
「前田です。奥様のことですが、来週には退院できそうです」
「本当ですか!」
「はい。今日から面会もできます」
「! 今から向かいます」
「はい。お待ちしております」
受話器を置いてから一息つく。ふーっと長いため息を。吐いてすぐに後4件分電話をかけなければいけない事実で気が重くなった。
けれども、自分にできることはこれくらいしかないのだと前田は自分に言い聞かせて再び受話器を取った。
由美子を連れてきた治彦も他の4人にとってもアンドロイドは家族なのだ。
既に死んでしまった家族の代わりでしかなくても彼らにはもう『それ』に縋るしかないのだ。
初め、治彦にとって『それ』は由美子の形を模した『アンドロイド』でしかなかった。由美子が亡くなり、心を病んだ治彦に通っていた精神科の担当医の前田が紹介した機械。
けれどそれは時間を共にするごとに『由美子』へと、『妻』へと変わっていった。
そして治彦は思った。
「由美子が死んだのは夢だったのだ」――と。
「なあ、由美子。今日は外に食べに行こうか。お前が好きなビーフシチュー、二人で食べに行こう」
「ええ、あなた」
病室からは中年の夫婦が並んで出てくる。男の手には女性の日用品が入った大きめのカバンとアンドロイドの女性の手が握られている。
もう二度と熱を発することのできない由美子を包み込む治彦の顔には幸せそうな笑みが浮かんでいた。




