リコール・マイ・ウィルパワー
小学生の頃に出会ってから、示し合わせたわけでもないのにどういう巡り合わせか中学、高校と一緒になった親友から、結婚の知らせが届いた。
式の招待状に、結婚相手と二人で写った写真が添えられている。大学受験以降疎遠になっていて、珍しく手紙が送られてきたと思ったら、これだ。彼は進学することなく彼の父親の会社に入り、ゆくゆくはトップを継ぐつもりでいるのだろう。何の目的も夢もないまま、なんとなくで進学した自分とは違っていた。
おめでとう、と素直に喜べない自分がいる。
いつまでも少年のままではいられないのだ。少しずつ現実を知って、夢も理想も少しずつ形を変えて、あるいは、萎んでしまう。
思えば、彼と出会った頃の自分も、何か大きな夢を抱いていたというわけではなかった。自分は、当時入院していた姉のことが心配で、ただ彼女のために何かしたかっただけだった。何をするにも彼は付き合ってくれて、そんな彼は、親の敷いたレールを走っているような気になるから会社だけは継ぎたくない、といつも口にしていた。
卒業を繰り返して、進学と就職で道を違えて、それでもどこかで彼とは繋がっているのだと思い込んでいた。
「とーやともう一度、話がしたいな」
彼のことを「とーや」と呼んでいたあの頃が、きっと一番自分の輝いた時代だったのだ。後ろから、彼が笑って付いてきてくれるだけで、どんなことでも成し遂げられるような気さえした。
これからは二人、今までと同じようには居られない。選べと言われれば間違いなく彼は、ただの昔なじみの男友達よりも、家庭を取るだろう。
折り畳み式さえなかったセルラーフォンの時代、暇さえあれば電話をかけて、学校で起こったこと、勉強の内容、下の学年のあの子が可愛い……そんな、明日学校で会って話せばいいような話題ばかりをだらだらと話していた。明るく話し上手だった彼は、こちらが話したい時はそれを察して黙って聞いてくれていた。
機種変更を繰り返し、今では携帯電話もスマートフォンだ。
あの頃のセルラーフォンは、どこに仕舞っているだろう。ふと気になって押入れを探し始める。携帯会社に引き取ってもらったわけではないはずだ。
実家から持ち出した荷物の中にあるはずだった。段ボールにそのまま仕舞いこんだ思い出が、次々と顔を出す。二人で遊んだ手作りのパチンコ、独楽にヨーヨー、あの頃よく被っていたキャップと、リストバンド……そういえばサッカーボールは、失くしてしまったのだった。
一番尊敬する人は姉で、一番信頼していたのは彼だった。
荷物に積もっていた埃が目に沁みて、それを左手で乱暴に擦った直後、懐かしい着信音が部屋に響き渡った。
スマートフォンの着信音でも、もちろん家庭用電話でもない。電池はとうに切れ、解約や会社の企業形態の変化などでもう通信はできないはずの、セルラーフォンの着信音だ。
段ボールの奥底で眠っていた、赤い塗装の剥げかけた携帯電話を恐る恐る、手に取る。電源が入っている。着信は未だ、鳴り続けている。
「……は、い」
通話ボタンを押して耳元に持っていくと、スピーカー部分からは少し高めの……少年の声が聞こえてきた。
「おお、やっと出たか! 強志、今何してる?」
この声を、自分は知っている。たった今、もう一度話がしたいと思っていた――「昔の」、彼だ。
そんなことがあるはずがない、と信じられない思いでいても、今ここで起こっていることが事実であり、真実だ。
「おーい、強志? 聞いてるかー?」
今ゲームでレベル上げしてんだけど、単純作業は暇でさあ、と続けられ、彼が中学生の頃の「とーや」なのだと知る。
「あ、ああ、聞いてるよ」
どういうわけか過去から掛かってきてしまったらしい着信に、都合の良い夢に違いないと思いながらも、今すぐに目覚めたいとは思わない。
「強志はレベル上げ得意だよなあ。俺こういうのかったるくてよー」
「面倒なら、しなきゃいいだけだろ」
「おっま、それ言うかあ!? 言っただろ、俺はストーリーが見たいんだよ」
「ああ、ラスボスまでどうやってもレベル七十は必要だもんな」
「そうなんだよなあ。だってのにストーリー進行だけじゃ七十まで到達しねえし、終盤になると経験値稼げる敵はいねえし、もっとゲームバランス考えろっての」
覚えている。確か、あのゲームは彼の自宅まで足を運んで、面倒だと言いながらクリアはしたい、なんて我侭な彼の代わりにレベル上げだけを手伝ってやったのだ。
「とーや、今度手伝ってやろうか」
するりと、「とーや」と呼ぶことができた。
「おっ、マジで!? やったね、これで俺は楽してストーリーを知ることができるわけだ」
彼のこんな開けっ広げなところも、とても気に入っていた。
「ところで強志、何かお前声変わってねえ?」
「あ……ちょっと今日、姉ちゃんとカラオケ行って歌いすぎたからかもな」
風邪気味で、と理由をでっち上げようとして、下手に体調を気遣われて通話が終わってしまうのは惜しかった。咄嗟に姉を引き合いに出したが、向こうの時代に矛盾はあるだろうか。彼との「普通」の会話を楽しみたいのだ。正直に、声変わりで、なんて言えるはずもない。
「ふーん、話すの辛くなったら言えよ」
「うん、大丈夫。ちゃんと喉の保湿はしてるから」
一瞬、会話が途切れて、それじゃあまた、となるのをひどく恐れてしまう。「あのさ、」そう切り出しても、何を話せばいいのか――何を話したいのか分からなかった。
「なーんだよ、どうした強志ちゃん?」
「……あの、さ、」
目を閉じれば、声に合わせてあの頃の彼が、目蓋の裏で笑っている。優しい笑みなんかじゃなく、意地の悪そうな、気を抜けば悪戯でも仕掛けてきそうな、それでいて人好きのする笑顔だった。
……もし、
「もしもの話なんだけどさ、」
「おー」
「おれか、とーやか、どっちかに好きなヤツができてさ。結婚するってなるじゃん」
「フラれなきゃあなー」
変わらず片手でゲームのコントローラーを操作しているのか、時折「よっ」だの「おわっ」だのと聞こえてくる。
「ちょっとずつ、大切なものとか、優先したいこととか、変わってってさ。子供ができたりして、むかし、……今みたいに、気軽に遊べなくなったりすんの」
「そーかもしんねえなあ」
「なんかさ、そういうの、来て当然の未来だけど……寂しくね?」
「うーん……げっ、回復死んだ」
回復死んだ、の言葉で彼がどのダンジョンでレベル上げをしているのか、大方予想が付いた。敵の数にもよるが、そうなってしまってはどうしようもあるまい。全滅覚悟で突っ込むか、前回記録をした地点まで、電源を切ってリセットするかしか道はないはずだ。
リセットで、今話している彼の元まで戻れたら、と考えて、それはゲームをプレイする者として考えてはいけないエルスだなと頭を振る。
リセットに意味はない。同じ行動を取るしかない――それ以外に選択肢が思いつかない人間がいくらリセットを繰り返しても、同じ未来にしかたどり着かないのだから。
「え、どうした?」
「ん?」
「回復死んだんだろ? 電源ブチ切り? 全滅まで行った?」
うっかり本音の一部を中学生の彼へ吐露してしまったことを恥ずかしく感じて、彼の呟きに乗る。ゲームについての話題に戻したつもりが、彼の一言で衝撃を受けた。
「ああ、逃げ切ったよ」
今度は恐怖ではなく、驚嘆の沈黙が訪れた。
「に……、逃げたぁ? って、そこの敵、回避成功率〇.〇〇〇六二パーセントとかじゃなかったか? 敏捷要員無しで逃げるとか、どんな奇跡だよ!?」
「おう、今俺も感動してるとこ。リアルラックの勝利ってやつだな!」
一か八かでやってみりゃ、案外簡単に起こるもんだな、奇跡って。……冗談交じりの声色で、続いた明るいその言葉。
胸を、突かれた思いだった。
「……でさ、さっきの話? なんだっけか、寂しいとかなんとか……」
彼が話を戻してきても、もう何も言葉が出てこない。
そうだった。二人で冒険ごっこをした時も、肩を並べてゲームを楽しんでいた時も、パチンコで柿を落とせるかだとか、一度きりの機会で入手確率の低いアイテムが手に入るかだとか、そんな小さな挑戦で溢れていた。
大人には、馬鹿らしいことに思えたかもしれない。けれど、自分たちにとっては、ひとつひとつがギネスに挑戦するかのような緊張と、展望と、その先への期待で溢れていた。
もう埃を理由に言い逃れなどできないというのに、こんな単純な想起が目に沁みる。
「寂しいって、大人になるのがってことか? 俺は早くR十八越えして、エロ本とか堂々買い漁れるようになりてえけど」
彼の話に耳を傾けるだけとなってしまってから、今のエロ本や、さっきのリアルラックの話について、笑い声すら出さずにノーコメントだったのはまずかっただろうか、などと考えてしまう。気を遣うような間柄ではなかったはずなのに、と思うと、また奥歯に力が篭った。
「……強志が言ってるのは、そういうことじゃねえよな。例えば今日みたいに、ゲームやってて詰んだら、携帯で今から手伝いに来いとか、そういう頼みがしづらくなるって話?」
「そんな感じ」
中学生らしい語彙で、それでも的確に、彼はこちらの話を理解してくれていた。彼の言葉が、柔らかい雲のようだ。
「そっか。強志は、そんな日が来たら、どうする? 俺と縁、切るか?」
「そんなこと! ……するわけ、ないだろ」
「俺も。じゃあ、お前が結婚して、仕事も家族サービスも忙しいって時に、「ゲーム手伝えよ」って俺が連絡してきたら、どうする?」
「どうにかして時間作って、会いに行く。当たり前じゃん」
「……なら、今と大差ねーんじゃねえの」
お前はどうなんだよ、と、聞けなかった。
先に結婚するのはお前だ。先に就職したのもお前だ。大事なプロジェクト抱えてるかもしれない時に、今からゲームで遊びましょなんて連絡、おれができると思うか。
「ま、生憎俺には今カノジョなんて居ませんし。結婚なんて当分先だから、寂しがりの強志ちゃんのお家に遊びに行って安心させたげましょーかね」
「えっ」
今から、会いに来る? 思考が一瞬で冷える。
どういうわけだか過去から未来へ繋がったこの携帯電話で、今時代の違う二人が会話をしているのだ。彼と同じ時代、つまり過去の自分はカラオケで喉を壊してなんかないはずだし、そもそも今現在電話なんてしていない!
「会って話したいこともあるんでね。じゃ、待ってろよ~」
焦りを覚えるこちらの胸中など彼が知る由もなく、電話は一方的に切られてしまった。
もっと話をしていたかったとか、過去の自分はどうやって彼の突然の襲来を乗り切っただろうかとか、手の中のセルラーフォンを呆然と見つめて考えるだけの十五分が過ぎた頃、突然インターホンが鳴った。
まさか、と胸が騒ぎ出す。
ここまで一片も疑わなかった自分が馬鹿らしかった。過去からの電話なんてあるはずがない、こんな、こんなタイミングで――、
来客用スリッパを蹴飛ばしそうになりながら玄関の鍵を外し、開けたドアの向こう。そこにいたのは、「現代の」彼だった。
全然優しくなんかなさそうな、意地の悪い、悪戯成功だと言わんばかりの、それでも、見ていれば無条件に安心してしまうような笑顔で……彼が、よお、寂しがりの強志ちゃん、と片手を持ち上げた。
「どーよ、俺のサプライズ」
久しぶりだなあ。彼が断りなく部屋へ上がりこんで、散り散りになったスリッパを行儀悪く足で返して履きながら、こちらに話しかけてくる。
あの電話は全部、彼のドッキリだった、ってわけだ。電話はともかく、使われていないはずのセルラーフォンに通話を繋げてくるとは、いったいどういうトリックなのか。
「ど……どこから、サプライズ……?」
「んー? そんなの、最初っからに決まってんだろ?」
「最初って……」
「結婚式の招待状からだよ」
さっき言っただろ、カノジョ居ませんってな。ケラケラ楽しげに笑い声を上げる彼と対照的に、こちらは絶句するしかない。
「ちょっ……何考えてんだ! じゃあ、結婚しないのか!? 同封された写真の、一緒に映ってたあの女の子は!?」
「伊里ちゃんに決まってんじゃん」
「伊里……ちゃん?」
鸚鵡返しで首を傾げると、彼は、何だよ知らねえの、と肩を竦めた。
「うちの会社と提携会社で開発してる女性型アンドロイド。機体に合うような良い人工皮膚が見つかったら、受付嬢やらせようと思ってな」
お前、ニュースも新聞も見てねえのかよ、先週から写真・映像付きですげえ報道されてるんだぜ。成績優秀良い子ちゃんだった強志はどこ行った! 彼の野次も右から左だ。
「じゃあ……じゃあ、携帯は」
「セルラーフォンとデザイン同じにして、まだ使えるガラケーとすり替えた」
似てただろ、この家に隠す時はお前の姉ちゃんに合鍵借りてな……世にも奇妙ななんとやらの、あっけない種明かしが続く。
「声が、昔みたいに高かったのは……?」
「リアルタイムで声色を変えるソフトなんて、漫画じゃなくても今時いっくらでもあるぜ?」
サプライズのつもりだったんだけどな、そんなに驚かれちゃ逆につまんねえじゃねえか。座るところのない一人暮らしのワンルームで、彼は遠慮なくベッドに腰を下ろした。
「……ば」
「ば?」
「バッキャロー!! どんだけおれが悩んだと思って……!」
これほど声を荒らげたのも、そういえばあれほど寂しさが溢れ出たのも、久しぶりだった。全て、彼が原因だ。
「でも、お前の本音、聞けたぜ」
笑顔を少しも崩さない彼が、こちらの大声にも何ら動じる様子もなく、サプライズを肯定する。
「……水城」
「苗字呼びとか、いつからそんなよそよそしくなったよ? 昔みたいに、「とーや」でいいんじゃね?」
「……うん……」
冒険ごっこで駆け回った野山も、部屋で熱中したテレビゲームも、消えたわけではない。これから消えてなくなるわけでもなかった。その延長上に二人が立っているのだと、その言葉でまたひとつ思い出す。
「で、だ。話があるって言ったろ。もうすぐK大工学部の院卒になっちゃう相変わらず学歴優秀なお前に、親友として頼みがあるんだけどな」
涙で滲む目は、もう隠すに隠せないだろう。ベッドに腰掛けたことでこちらを見上げる形になった彼が、ぐっと伸びをしてこう誘いかけた。
「俺んとこの会社来ねえ?」