Ready -2-
五日前
零シティ内の中心部にほど近いウルフ・リンバルド枢機卿の屋敷は高い塀と緑の木々に囲まれていた。
枢機卿の執務室の窓は、暗くかげった空を切り取る。枢機卿はその窓の前にたたずみ、背中で両の掌を組んで、小さな空を見上げている。
「そろそろ一雨欲しいものだ……」
低く、がさがさとしわがれた声でそう言うと、後ろを振り返った。
七十近い老齢でありながら、大柄な体格に背筋の通った立ち姿。
部屋の入り口近くで控えているレッドスコーピオンの長であり、遠縁にもあたるアルフレッドに席を勧めると、自分もテーブルを挟んでその向かい側に腰を掛ける。
「何か不都合はないか?」
と、アルフレッドに問うと、彼は腕を組み少しだけ考えるように目線を動かし「今のところは……」と、微笑した。
「叔父上には感謝をしています。なにか、俺たちに出来ることがあったら言ってください。テラでの最後の仕事になるかも知れませんし」
正式には叔父と甥というよりも、もう少し遠い間柄にはなるのだったが、アルフレッドは二人でいる時はリンバルドのことを叔父と呼んでいた。
リンバルドは快活に笑った。
「宇宙に行ったからといって、縁が切れるわけでは無かろう? これからも期待しているよ」
そうは言ったが、実際に何かを期待しているわけでは無い。そんな叔父の気持ちが伝わったのかアルフレッドの笑顔が濃くなった。
それと同じころ、地球から最も近い距離にある宇宙ステーションの中でも二人の人物がテーブルを挟んで対峙していた。
数ある宇宙ステーションの中でも最も古い歴史を持つそれは、建設当初は第一ステーションと無機質な名前で呼ばれていたが、今現在は「ウーラノス」という名が与えられていた。ガイアの息子にして夫、天空の王の名だ。
そのウーラノスの中の、一般の人間が立ち入ることを禁じられている中枢部分の応接室に、テラへの帰還を明日に控えたヴェルヌ王子は腰を掛けている。彼の向かいに腰を掛けているのは宇宙連合議会ナンバー2であるところのイワノフ議長だ。小さな飾り気のない部屋だったが壁面の強化ガラスの先には漆黒の宇宙が見え、星々の輝きが小さく華を添える。
「兄上に、よろしくお伝えください」
イワノフが静かに言った。
「ぼくにできるだけのことはします……でも……」
兄のジュールとよく似た面立ち。その中で兄の物よりも濃く青い瞳がさまようように揺れた。
「ヴェルヌ王子」
煮え切らない様子のヴェルヌにイワノフは言葉を重ねた。
「連合は各ステーションや惑星を緩やかにまとめてはいるが、強制力のある組織ではないのです」
淡々とした口調で続ける。
「連合の総意としてはテラのテラ教による統治を認めてはいます。しかし、個々の星の中にはそれを良しとしないものも多い。わたし達のふるさとを、テラ教のみが我がものとしていると考える勢力もいるのです。ジュール殿下がそれに歩み寄るような姿勢を示されなければ、その勢力がどう出るか……」
細く矍鑠とした体をブラウンのスーツに包んだ初老の男が放った言葉は、落ち着いたものいいとは裏腹にヴェルヌの心を抉る。
「彼らは、零シティに住む人々がその他のアウトサイドの人々を抑圧していると考えています。そして、それはあながち間違いではない。あなたも、それを承知しておいででしょう?」
「……はい」
ヴェルヌはイワノフから目を逸らすと、小さく答えた。
「連合からの親書を無視するような態度に出れば、ふるさとテラをテラ教より解放する、そう唱えてテラへ侵攻するものがあっても、我々は手をだせません」
いったん戦火が切られれば、どんなに力の差があるとはいっても、そう簡単に決着のつくものではない。犠牲が出れば、根深いしこりも残る。テラは激しく疲弊するだろうし、連合とて無傷とはいかないだろう。だから、イワノフのようなものが、何とかジュールとの対話に持ち込もうと躍起になっているのだが、兄のジュールは全く連合に反応を示さない。
「私も、出来る限りの手は尽くしたいと思っておりますが、兄は私に対してもかたくなな態度を崩しません」
テラを出てから今日まで、ヴェルヌから兄にあてた手紙は幾度か出されたが、兄から返事が来ることはなかった。プライベートはもちろん、公式なものも全てだ。連合の意思、テラの置かれた危機的な状況。なぜ、あれだけ賢い兄が一切動かないのか……。それとも、動けないような何かがあるのか。
「あなたがジュール殿下を想う気持ちは分かっているつもりですが、ドゥシアス三世が崩御されれば、この時とばかりことは動き始めるでしょう。今回あなたに託した親書を受け取って下さらぬとあれば……」
────リミット。
「その時は、ヴェルヌ殿、あなたが行動を起こしてくださると信じております。私の力の及ぶ限り、テラへの武力行使をのぞむ勢力を押えましょう」
そう言うと、イワノフは連合からの最後の親書をヴェルヌに託し、退室していった。
テラを取るか、兄を取るか。
誰もいなくなった一室でヴェルヌはしばらくの間虚空に目を泳がせて呆けていた。まるで生きるか死ぬかを迫られているようだと思い、口元から小さな笑いが漏れた。
時が動こうとしている。
父によって抑えられていたものが、吹き出そうとしている。どんなにきれいに継ぎ足したとしても、出来てしまうその継ぎ目の隙間から、きっとすべては綻びてしまう。
ぼくは、兄が好きだった。
と、今度は泣きたい気持ちになったが、乾いた眼から涙はこぼれなかった。
幼いころ。公務に忙しい父。子どもたちには関心のない母。侍女も護衛もいたが、彼らはその勤め以上にヴェルヌに関わってくるわけでは無かった。その寂しさ、切なさを教えそれを埋めてくれたのは年の離れた兄のジュールだった。幼いヴェルヌにとって、この世で一番近しく大きな存在だった。
兄は、ヴェルヌに、いつも言って聞かせていたことがある。
「お母様から、お茶に呼ばれるようなことがあったら、必ず教えてくれ」と。
小さいころは、お茶に呼ばれるどころか、プライベートでは目も合わせてくれたことはない。公務で会うときは、美しくて優しい顔で、微笑みかけた母。あこがれはあったかもしれないが、母に対してそれほど恋い焦がれるような気持ちはなかった。普通の母親とは違うのだと、うすうす察していたし、その寂しさを埋めて余りあるほどの愛情を兄が注いでくれていたからだと思う。
心細い夜に手を握ってくれるのも兄。本当に欲しかったプレゼントをしてくれたのも兄。お話を読んでくれるのも、汚れた顔を拭いてくれたのも……。
そして、今から十年前。ヴェルヌが六歳。兄のジュールが二十歳の時に母親のエリーゼは死んだ。事故死だといいう発表だった。
花に埋もれた母の死に顔は見たが、事故で負った傷は見ることはなかった。
母の死んだ日。ヴェルヌは初めて母親に「一緒にお茶をしましょう」と、部屋に呼ばれていたのだ。
兄に報告することにヴェルヌは何のためらいもなかった。逆に、兄の言いつけを守るという行為に、喜びすら覚えた。
ジュールはその報告を受けると、少しだけ顔色が悪くなったようにヴェルヌには思えた。それでもすぐ笑顔になって「ありがとう。良く報告してくれたね。今日はお兄様がお母様と大事な話があるから、明日、三人でお茶にしましょう。お母様にもそう言っておくから……」
それが、最後だった。
母はその日のうちに死んだ。
兄はあの日から、ヴェルヌに優しくしてはくれなくなった。
混乱したヴェルヌをすくったのは、その日からヴェルヌのガーディアンとなったシルヴァだった。
その頃は、ジュールが構ってくれなくなったことが悲しくて仕方がなかった。意味が分からなかった。大きくなり、母のうわさや兄のうわさを聞く。
疑惑が、その頭をもたげ始める。
────母を死に至らしめたのは、兄ではないのか?
何故? ぼくが母に誘われたから。兄は母を殺したかったのか?
いや、ならば、もっと早くに殺したのではないか? 恨んでいたはずだ。なのに、なぜ、待った?
いろいろな思いが渦巻き、本当の答えを隠していく。
兄が母を殺した直接の引き金はなんだ?
そこまで考えると、それは、自分が母に誘われたからだ。と、また最初に戻る。
ゾクリとした何かが、全身を走り抜けた。
では、自分が誘われなければ兄は母を殺さなかったのか?
誘われたことを兄に言わなければ?
兄は、ジュールは、ぼくを守ろうとしたのだろうか?
母が幼い弟をも自分の世界に引きずり込もうとしていると思った時、最後の一線を越えたのだろうか?
自分とジュールとの間に出来た血にぬれた一線に、ヴェルヌはなすすべもなく、伸ばした手は繋がれることはない。
暗い窓を見た。星々がさざめいたが、心は空っぽなままだった。




