砂場
小学校三年生の夏休み。私があの男の子に会ったのは、確か八月の始め頃だったと思う。場所は、家から歩いて五分程度の場所にある小さな公園。園内の空気は蝉の声に満たされ、公園と道路を隔てる花壇は緑色というよりは、かなり黒っぽい、濃い色をしていた。私と同じか、少し年下くらいの子達が公園内を走り回って笑い声を上げている。小さい子に付き添って、公園まで来た何人かの大人たちは、夏の暑さにやや倦んだ様子でベンチに座って、子供達を見守っていた。
「遊ぼうよ」
その男の子は砂場の中から、私にそう言った。年は私と同じか、一歳年下くらい。全体的にかなり痩せて、小柄だ。砂と土埃に汚れた、茶色の半ズボンと青いシャツを着ている。私は、お気に入りの青いスカートが砂で汚れるのが嫌だったので
「砂場から出てきたら、いいよ」
と返事をした。その男の子は、ちょっと困った顔をして、結局砂場から出てくることは無かった。
その晩、お父さんが晩御飯のカレーライスを食べている時に男の子のことを話した。次の日には汚れてもいい服を出してくれることになった。私も、実は砂遊びが嫌いなわけではない。明日が楽しみだった。
翌日の三時過ぎ、件の男の子は昨日と同じ服を着て砂場に居る。
「遊ぼうよ」
昨日と同じ言葉で誘う男の子に、私は砂場の中に降りる事で答えた。その日は、日暮れまで一緒に砂場で遊ぶことにしたのだ。男の子は私に
「僕は、この砂場の中のどこに居てもいい自由があるんだ」
と教えた。
「砂場の外には、出られないの?」
と、私は聞いた。
「砂場に居なさいって言われたんだ。だから、お母さんが迎えに来るまで砂場に居るんだ」
そう言ってから、男の子は言葉を継ぎ足した
「砂場の中なら、どこに居ても良いんだよ。真ん中にでも、端っこにでも居られるんだ。自由なんだよ」
それは、私が考えもしなかったことだ。面白くなって、二人で一緒に狭い砂場の中に隙間無く足跡をつけてみた。
そんな遊びをしているうちに、日は暮れてしまう。男の子に、迎えはまだ来ないようだった。男の子の迎えが来るまで、一緒に居ようと思っていた私は、帰るのが遅くなってしまった。結局、私が男の子を砂場に残して家に帰ることにしたのは、いつもより随分遅い時間だった。
家に着くと、お父さんが少し怒っていた。出っ張ったおなかを震わせて、両手も大げさに振り回すので、怒っているお父さんはちょっと怖い。遅くなったことを謝って、今度からは帰る時間に注意する約束をして、ついでに砂場の男の子の事を、お父さんに話した。
「よく約束を守る素直でいい子」
というのが、お父さんの男の子に対する感想だった。その日のお父さんの晩御飯は、昨日のカレーの残りにコロッケをのせた、コロッケカレーだ。
さらに翌日の三時過ぎ、件の男の子は昨日と同じ服を着て砂場に居る。
「遊ぼうよ」
昨日と同じ言葉で誘う男の子は、昨日より少しやつれて弱っているようだ。
「調子、悪いの?」
と、私は男の子に聞いてみた。
「なんでもないよ」
と、男の子は答える。続けて
「そっちこそ、怪我しているよ。だいじょうぶ?」
と返してきた。私の額には、昨日ついた痣がある。
「なんでもないよ。転んじゃっただけ」
私は、答えた。
私も男の子も、今回は砂場に座って穴を掘って遊ぶ事にした。二人共に、昨日よりちょっと元気が無かったのだ。
「僕は、自由なんだ」
昨日と同じ事を、男の子は言った。そして
「例えば、砂場の砂を全部食べてしまうのも自由なんだ」
と続けた。流石に、それには賛同できなかった。私は
「砂なんて食べたらいけないよ。おなか壊しちゃうよ」
と止めた。
「わかっているよ。本当に食べたりはしない。ただ、食べられないし食べないだけで、食べちゃいけないわけじゃないんだ」
男の子は、掘りおこした砂の山を見ながら思いつめたような口調でそう言う。
「やめなよ。おいしくないよ」
私は心配になって、もう一度男の子に言った。心配ないよと答える男の子の、昨日より少しやつれた顔。それを見て私は、男の子は明日から暫く公園には来ないで家で休むかもしれないな、と感じた。
その日も、私は男の子を迎えに来るお母さんを見る事はなかった。お父さんとの約束を守って早目に家に帰る私を、男の子はじっと砂場の中から見送っている。真夏の西日を背にして、公園の中に佇む影法師となった男の子に、私は「さよなら」と手を振ってみた。影法師は手を振り返してから、砂の中に沈むように砂場にうずくまった。
家には早めに着いたのに、お父さんはなんだか不機嫌そうにしている。お父さんのお腹は震えて、腕はぐるぐる回っている。男の子の話をお父さんに聞いて欲しかったが、聞いてくれそうにない。今日のお父さんの夕飯は、とんかつだった。
四度目、午後になったら公園の砂場に行くのが最近の私の日課だ。男の子は、今回は砂場の真ん中に転がっていた。倒れていた、と言うほうが正しいのかもしれない。昨日と同じ服を着ていて、昨日よりさらに汚れ、昨日よりさらにやつれている。
「もしかして、お母さんが迎えに来てくれないの?」
私は、砂場に降りて男の子を抱き起こして聞いた。昨日の夜に、私の腕と脚に新しくついた痣が痛む。男の子は、薄く目を開けて私を見ると
「怪我、してるよ」
と掠れた声でささやく。
「倒れるほどじゃないよ」
と、私は返事をして男の子を座らせようとした。私の力では、脱力している男の子の上半身を持ち上げる事はできない。男の子は、改めて砂場の真ん中で仰向けに倒れる。男の子を起き上がらせるのを諦めて、私は訊ねた。
「ずっとここにいたの?」
「ずっとここで待っているんだよ」
「ご飯食べてないの?お水は?」
「僕は自由なんだ。この砂場からでちゃいけないだけで。食べなくても飲まなくてもいいんだよ」
昨日会ったときからおかしいとは、思っていた。でも、そんなはずはないと思い込んでいたんだ。私が公園から帰ったあとに、男の子に迎えが来て、家に帰ってご飯を食べる。それが当たり前だ。しかし、実際にはこの男の子は、ずっと砂場でお母さんを待っている。家に帰れずに、何日も。
私には、助けが必要だった。男の子を病院に連れていかなくてはいけない。公園には、大人も居る。小さい子につきそって来ているはずだ。助けてもらえる。私は顔を上げて砂場から公園を見回した。その日の公園には、他に人が居なかった。
泣きべそになって、私は公園の真ん中に走っていった。その場でくるくると回る。なんで人が居ないのか。いつもは、多くはなくても子供たち数人と付き添いの大人が居るのに。理由はすぐに分かった。公園の入り口で、怪訝な顔をして様子を伺っている大人が居る。子供を連れている、母親らしい。その大人は、じっと砂場のほうを見ている。そして、子供の手を引いて踵を返し、歩き出した。私が気づかなかっただけで、私が来る前にも来てからも、こういう人たちは居たんだろう。係わり合いになりたくないと考えている事は明白だった。
「助けて。助けてください。友達が倒れたんです」
私は、叫んで走り出した。それで、大人は立ち止まって振り返ってくれた。眉根に皺を寄せ、下唇をやや突き出して口をへの字に曲げた渋い表情で、私をじっと見ている。私が追いつくと、大人はしゃがみこんで私と目を合わせ、諭す口調で言った。
「あれは、よそのご家庭の事情なんだから口を出さないのよ。ご迷惑になるでしょう」
私はそれを聞いて本当に泣き出してしまった。涙声で、そんな場合ではない事、友達を助けて欲しいことを訴えたが結果は変わらない。
「もう、お嬢ちゃんもお家に帰りなさいね。あんまり、よその人の事に関わってはいけませんよ」
大人はそんな事を何度か繰り返し言ってから、立ち上がった。もうそれ以上は、私の話は聞いてはもらえないようだった。
そのまま、泣きながら家に走る。泣きながら帰ってきた私を、お父さんは私を叩いた。私が泣いてお父さんが叩く。腕を振り回して、私に痣をつける。いつもの事だけれど、今日は男の子の事が心配で話を聞いて欲しくて、大きな声で泣き続けた。最後に私はお腹を強く踏まれて、体を曲げて横たわったまま動けなくなった。今日のお父さんの夕飯は、天ぷらだった。
五日目、公園の入り口には縄が張られて入れなくなっていた。おまわりさんが、大勢で公園の中を行き来している。どうして、昨日ここに居てくれなかったのか。私は、目に涙をためてその光景をにらんでいた。男の子は、砂場の中に倒れたまま死んでいたと言う事だ。おまわりさんには、男の子について知っている事がないか聞かれた。私が、生きている男の子に会った最期の人間だからということだった。その時になって私は、男の子がこの数日の間、公園の砂場に居続けた事しか知らない事に気づく。私がおまわりさんに答えられる事が無いのと同様に、おまわりさんの方でも私に教えられる事はほとんどないようだった。子供だからと言う理由で、男の子についての質問はあまり多くなかった。最期に、おまわりさんは私の傷を心配してくれた。
「転んでぶつけただけです」
と、いつも通りお父さんに教えられた言葉を返す。疑う目で見られるのが嫌で、私は足早に公園から離れた。
おまわりさんに言わなかったことがひとつある。その男の子が自由だった事だ。きっと最期にあの子は自由に砂場を転がって、好きなだけ口に砂を頬張っていたんだろう。そう思うと、少し死んでしまった男の子に慰められる気がした。
家では、お父さんは機嫌が良さそうにしていた。今日はあまり傷が増えなくてすみそうだ。今日のお父さんは、ビールを飲んでから揚げを食べている。私は、帰り道でいつもより頑張ってとってきた何かの草とバッタを食べた。お父さんが食べてるようなのは食べられないけれど、私だってこのぐらいは自由に食べられる。公園に入れるようになったら、美味しくはないだろうけれど今度は砂場の砂も持ってこよう。私は、夜の砂場で砂を食べている男の子を思い浮かべた。ざらざらざりざりと砂を噛んで、手を口に当てて飲み込む男の子。飲んだあとは吐き出さないように、上を向いて荒い息をつくのだ。私にも、砂場の自由を少し分けてもらおう。そんな事を考えながら今日のご馳走のバッタを噛み潰した。
「自分でとってこられる物なら、何でも食べていい。お父さんに叩かれながら、いつまででもじっとしていていい」
私は、一人でそっとつぶやいてみた。私も、自由で幸せだ。




