第1話 クエスト発生
前後の記憶も曖昧なまま、彼女は唐突に意識を浮上させた。
淡いクリーム色が辺り一面をおおっている空間に、肉体の存在を思い出せぬまま思考だけを虚ろに漂わせる。
『…………ここ……は?』
「ふふ。初めまして、藤堂苺花。
ここは私が現実世界と虚無の狭間に造り出した仮想空間」
艶めいた声と同時に彼女の目の前に姿を現したのは、腰まで届く虹色の髪を持つ、大層美しい女性だった。
全身に纏う極薄の衣の向こうに、彼女の豊満で魅惑的な肢体が透けて見えている。
同性すらも容易く魅了する色のある微笑みを与えられ呆然としていると、次に女性は自らをこう名乗ってきた。
「そして、私はこの宇宙と異なる次元に存在する世界において、星々の管理の一柱を担う者。
上位存在より与えられし名を女神フェロモニー」
『異なる次元……異世界の女神?』
苺花のセリフに女神フェロモニーはパンと両手を合わせて、さらに笑みを深くする。
「そうっ。さすがOTAKUと呼ばれる人種ね。
飲み込みが早くて助かるわ」
『……オタ……ク…………って、そうよ!
私、確か「はーとふる愛人」って鳩の乙女ゲームをプレイしてたはずなのに!
私の邪黄眼先輩はどこに行ったの!?
公式を無視して勝手にキャラクターボイスを鮎置さんで妄想して萌えまくってたのに!
ようやく心を開いてくれて、まともに会話が成立するようになってたのにぃーー!』
オタクという単語をきっかけに自我を取り戻し、ギャアギャアとうるさく騒ぎだす苺花。
そんな彼女へ、女神は呆れた眼差しを送る。
「その程度の理由で思考阻害の封印を破るなんて……この子、どれだけ末期なの?」
女神の呟きに反応して、苺花は意識を再び彼女の方へと戻した。
そして、肉体があれば絶対に奇怪な動きが付随していたであろう言いまわしで激しく叫ぶ。
『末期ぃーはオータクぅーの褒ぉーめコートバぁーッ!』
そんな発言にドン引きする女神を余所に、なぜか今の流れで冷静さを取り戻した苺花が淡々とした口調で彼女に問うた。
『……それで、一体この私に何の御用でしょうか、異界の女神フェロモニー様。
貴方様の愛人の1人に加われという話でしたら、私ってば案外女もイケる口なので喜んでしゃぶりつかせていただきますが』
「精神体だけの存在になぜか我が身の危険を感じるコワイ!
わっ、私は別に愛人なんかいらないわよ!
それを作るのはアンタよアンタ!」
『…………は?』
顔を青褪めさせ両腕で自分自身を抱える様にして後ずさる女神はさながら人間のようだ。
一気に親近感というものが湧いてくる苺花だったが、しかし、同時に聞き捨てならないセリフを聞かされて、彼女は口から疑問の声を漏らした。
なんとも言えぬ沈黙が場を支配する。
しばしの間の後。
ようやく気まずい時が過ぎ去り、そこから始まった女神の長ったらしい語りに苺花はじっと耳を傾けた。
1時間近くにも渡るそれを至極簡単にまとめるとこうだ。
『えー、つまり。
逆ハーレムを眺めるのが大好きな女神フェロモニー様を楽しませるために、私に貴方の管理するファンタジー世界へ移住し補正を駆使してソレを作れ……と』
「っそ。いくら好きでも、毎回同じようなパターンを繰り返されてちょっと飽きが来ちゃってね。
その点、各世界神の間でも有名な日本のOTAKUである貴方なら少しは楽しめるものを作ってくれそうじゃない?」
『日本のオタクが神々の間で有名……だと……。
というか、どこの暇を持て余した神々の遊び?』
「いきなり別世界で生きるのが不安ってことなら、私もそれなりにサポートさせてもらうし。
あなたみたいな人にとって、悪い話じゃないと思うんだけどなぁー」
その後、長い長い話し合いの末に異世界行きを了承した苺花。
1週間の猶予を貰い、様々な者と物への別れを済ませた彼女は、期待と不安を胸に生まれ育った地球から新世界へと旅立って行ったのだった。
「ビッチ女王に私はなる!」
~~~~~~~~~~
雀に似た鳴き声らしきものがあちらこちらから響き渡り、その騒がしさに苺花はゆっくりと覚醒した。
同時に仰向けに寝転がっていた身体を起こして首を回し、周囲を観察する。
どこを見てもまるでジャングルのように鬱蒼と生い茂っている木々。
ただし、彼女のすぐ背後には美しくも神秘的な湖が太陽の光をキラキラと反射させていた。
「……ここ……は?」
苺花の口から、澄み渡った空気のような透明で優しい声が落ちる。
『神聖キヒイブ共和国。大陸一の宗教国家ね。
その国の中心、神の寝床と呼ばれる森の最奥にある聖ニョダイ湖にいるわ。
ここが1番、この星にあって私の力の満ちた場所だから』
「あぁ。回答ありがとうございます、フェロモニー様」
脳内へ直接語りかけてくる声に、至極冷静に返答する苺花。
地球での猶予期間中、この行為にはすでに慣らされていたのだ。
『まずは後ろの湖で容姿の確認をしてはどうかしら?
プチ整形程度の変更は、今の内ならまだ可能よ』
無駄に日本文化の浸透した女神である。
「プチ整形の範囲が分かりませんが……まぁ、確かに確認は必要でしょうね」
言われるがまま、苺花は湖の淵に両手を着いて水面をのぞき込み……そして、次の瞬間、彼女は大きく目を見開いて息をのんだ。
肩甲骨の下辺りまで伸びたサラッサラストレートの亜麻色の髪。優しげな印象の緩やかなカーブを描く形の良い眉に、深く刻まれた二重瞼。長いまつ毛の下には聡明さを感じさせるライムグリーンの瞳が輝いている。すっきりと流れる高すぎない鼻と、薄桃色をしたツヤとハリのある厚めの唇。簡素な白いワンピースからのぞくシミ1つ無い乳白色の肌に、均整のとれたしなやかな肢体。年の頃は18程であろうか。
誰がどこからどう見ても、清廉でたおやかな美女がそこにいた。
しばらく湖面に映る己の姿を呆然と眺め続けていた苺花だが、ふと右側頭の髪を梳くように指を通して俯き、小さく肩を震わせ始める。
「ふっ……ふ……くっく……ふふふ……ふはっ、ふはぁーはっはっはっはっ!
トラトラトラァ! 我っ、美女化にっ、成功っ、せりぃーーーーッ!」
両拳を強く握り、勢い良く仰け反りながら天に向かい激しく笑い叫ぶ苺花。
湖の恩恵に預かろうと集まっていた小動物たちが、慌てた様子で森の奥へと姿を消して行く。
……何もかもが台無しだった。
そう。どれだけ外見が美しく変わろうが、中身は残念なオタク女のままなのである。
そんな不気味に笑い続ける苺花へと、女神は戸惑いがちに話しかけた。
『ええと、それで。どこか直す部位はあるかしら?』
「クックック……黒マテリア。これほどの出来に否を唱える者が果たしてあろうか!」
『あ、うん。無いならいいわ』
女神の方も、もうすっかり彼女の奇怪な発言に慣らされていた。
気を取り直した苺花が、軽く息を吐きながらのそりと立ち上がる。
「さて、と。納得いったところで、さっそく恋愛可能な知的生命体と接触をはかりたいけ、どっ。
とりあえず、この森はどの程度深いのでしょうか女神様」
腰に手を当て木々の隙間からのぞく青々とした空を眺めながら、苺花は小首を傾げて女神へと尋ねた。
それに対し、微妙にズレた回答で濁してくるフェロモニー。
『最大級の幸運を授けておいたから、あなたの世界でご都合主義と呼ばれるような出来事が次々と起こるはずよ。
気楽に好きな方へ歩き出しなさいな』
「ピューウ。さっすが女神様、フェロモニー様」
苺花は囃し立てるように口笛を鳴らして軽く指を鳴らしつつ、フェロモニーを不躾に褒め称えた。
女神はいちいち言動の不可思議な彼女に対し、スルーを決め込むことで平静を保とうとする。
「ふむ。では、オーソドックスに棒倒しといきますか」
返事が無いことなど全く気にも留めず、苺花は独り言を呟きながら行動を開始した。
コキコキと首を鳴らしつつ、警戒心も抱かず木々へと近付いていく。
「おおっとぉー、ちょーど良さげなのがあぁるじゃないの。
はぁ、よっこらしょーいち」
茂みの手前で発見した30センチほどの長さの木の枝をババ臭い動作で拾う苺花。
その枝の中央部を親指と人差し指でつまみ「ユリゲっラー」と呟きつつグニャグニャと揺らした後、ある程度平らに見える場所へと移動し、それを地面と直角にセットする。
「はい。べるむん、べるむん、べるむてぃか~っとくらぁ」
そうして苺花は、全く何の意味もない奇妙な呪文を唱えながら枝から手を放した。
スゥっと倒れたそれの示す先を視線で追い、ほぼ同時に元気良く駆け出す。
「っし、決まった! 湖へダイブッ!!」
ダッパァーーーーンッ!!
『光の速さで飛び込んだーーーッ!
ちょっ、少しは躊躇くらいしなさいよアンタ!?』
女神の心からのツッコミが聞こえているのかいないのか。
苺花は己の幸運補正を信じ、聖ニョダイ湖の底へと深く深く身を沈めていくのだった。