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第五話 メルクの勘定

 リィナの部屋から戻っても、眠れなかった。


 左腕の刻印が疼いている。

 しかし、それだけが理由じゃない。


 目を閉じるたび、森の奥で感じた違和感が浮かんでくる。

 言葉にしようとすると、すり抜けていく感触。


 ――自然の暴走にしては、綺麗すぎるの。


 リィナの声が、耳の奥に残っていた。


 今まで普通じゃなかったことが、静かに日常へ溶け込んでいく。

 それは、霧が森を覆うのに似ている。最初は視界の端にあるだけなのに、気づけば足元も見えなくなっている。俺は、それを嫌というほど知っている。


 壁越しに、メルクとミーシャの部屋の扉が開く音がした。


 革靴の足音が続く。ほとんど聞き取れないほど抑えられた歩き方だった。癖なんだろう。いや、癖で済ませていい類の静かさじゃない。

 灯りの落ちた廊下を、気配がすべるように遠ざかっていく。階段を降りる音は、最後まで聞こえなかった。


 ――起きているんだろうな。


 俺は、何となくわかっていた。


 扉を開け、廊下に出た。

 リィナの部屋の灯りはもう消えている。まだ残っているかすかな気配を辿るように、足を運ぶ。

 

 宿の勝手口、少しだけ隙間が空いている扉の向こうに、ひとつだけ薄い気配がある。


 外は冷えていた。

 月明かりが、宿の裏手の路地を淡く照らしている。雑に敷かれた石畳の隙間から伸びる雑草が、夜露を含んで黒く光っていた。


 そこに、メルクがいた。

 背を壁に預け、膝の上に布を広げて、短剣を手入れしている。

 金属の擦れる音はほとんどしない。刃に油を引く指の動きが、静かすぎて不気味なほどだ。


 ――戦いのあとに、これをやる人間は信用できる。


 剣誓騎士団(ブレイズ)でそう習ったわけじゃない。経験で分かったことだ。


 俺は咳払いもせずに、わざと石を一つ踏んだ。

 彼女の視線がこちらを射抜く。


「……覗き?」

「見回りだ。今日は物騒だったからな」

「宿の裏路地で? 殊勝ね」


 余計な感情のない返答。声色はいつも通り、涼しい。


「眠れないの?」

「眠れないってほどじゃない」


 そう答えてから気づく。

 こういう少しだけ本音を避ける言い方をするところが、俺たちは意外と似ている。


 メルクは短剣を布で拭い、鞘に戻さず、膝の上に置いたまま言った。


「刻印、痛む?」

「……少し」


 聞き返さない。余計な慰めもしない。

 彼女は、ただ淡々と事実だけを突きつける。


「じゃあ、なおさら寝なよ。明日、鈍ったら困るでしょ」

「お前が言うと説得力があるな」

「当然。こっちは"生活"がかかってるから」


 "生活"。そう言い切るところがメルクらしい。


 月明かりを浴びる彼女の横顔は、普段より少しだけやわらかく見えたが、その気配はいつでも退けるよう、佇まいに隙はなかった。


「ミーシャ、寝たか」

「ああ。今夜は早い」

「そりゃそう。あれだけ暴れたんだから」


 メルクは、短剣の柄を指先でとんとんと叩いた。まるで帳簿の端を揃えるみたいに。


「……アンタさ」


 唐突に、メルクは言った。


「今日みたいな案件、嫌いでしょ」

「嫌いだ」

「即答なんだ」


 少しだけ、口元が笑う。

 それが嘲りじゃないことは分かる。奇妙な同意の色があった。


「騎士団は、こういうのが日常だったんじゃないの?」

「日常、というより――仕事だった」


 俺が答えると、メルクは「そう」とだけ言った。


「こっちは違う。騎士団みたいに、“ついで”で命を張らない。採取は採取。討伐は討伐。危険が増えるなら、その分の条件が必要」

「……金勘定の話か」


 俺が言うと、メルクは首を横に振った。


「金勘定“だけ”の話じゃない」


 彼女は短剣を持ち上げ、刃を月にかざす。

 銀の光が走って、すぐに消えた。


「割に合わない」

「今日のは、たしかに割に合ってない」

「でしょ?」


 言い切って、そこで一拍。


 メルクの指が止まった。

 ほんの一瞬だけ――あまりにも小さくて、見落としてもおかしくない。


「前にね」


 ぽつりと、言葉が落ちた。


「“割に合わない”って言葉を、ちゃんと使えなかったことがある」


 それ以上は、続けない。

 いつものメルクなら、ここで切って終わりにする。けれど今夜は、夜が少しだけ人を甘くするのかもしれない。


 俺は、聞き返さなかった。

 代わりに、同じくらいの温度で言う。


「それで、何かを失った」

「……そう」


 短い肯定。喉の奥で潰れるみたいな声。


 メルクは短剣の刃を布で包み、今度は柄を丁寧に拭き始めた。汚れを落とすというより、思考を整えているような動きだった。


「止める役が必要なのよ」


 彼女は言った。


「前に出る人がいるなら、なおさら」

「……俺のことか」

「他に誰がいるの。無意識に前に出る癖、抜けてないよ」


 図星だ。俺は息を吐く。


「お前は止める役だって?」

「そう。止める。測る。見切る。戻す」


 言葉が、柄を磨く動きと同じテンポで並んでいく。


「それができないと、善い人から先に死ぬ」

「……善い人、ね」


 俺が呟くと、メルクは一瞬だけ目を伏せた。


「うちの父が、そういう人だった」


 声が、少しだけ低くなる。

 暗さはない。芯の通った低さだった。


「正しくて、清廉で――それで、騙された」

「ヴァランタン……いい家の名だ」

「“だった”ね。ヴァランタン家は」


 月明かりを受けて、彼女の瞳にかすかな光が宿る。

 表情は変わらないのに、言葉だけがたしかに刺さった。


「父は、誰かの汚名を晴らそうとした。親友のために」

「親友」

「そう。……信頼は、重たい足枷になることもあるの」


 それだけ言って、メルクは口を閉じた。

 全部を語らなくても、伝わるところだけが伝わった。

 ――それで十分だ。


 沈黙が落ちる。

 夜風が、路地の隅の木箱を小さく鳴らした。


 俺は、ようやく言葉を探して口を開く。


「……それで、お前は金の話をする」

「そう。金は嘘をつきにくいから」


 メルクは短剣を鞘に滑り込ませ、かちりと音を立てた。


「でもね。勘違いしないで」


 彼女は顔を上げる。

 揺れのない視線が、まっすぐに俺を捉えた。


「私が守りたいのは、金じゃない」

「……じゃあ何だ」

「“善い人が損をしない”こと」


 言い切る。

 メルクのそれは、信条だ。祈りにも近い。

 俺は、少しだけ笑った。


「それは……思ったより、いい理由だ」

「でしょ。割に合う」


 メルクは肩をすくめる。

 いつもの調子に戻っている。戻れる強さが、彼女の強さだ。


 そして、もう一つ。


「ノア」

「なんだ」

「今夜の話、ミーシャにはしないで。あのコ、変なとこで気にするから」

「わかった」


 メルクは頷き、出入口に手をかけた。


「寝な。刻印が疼くなら、なおさら」

「お前も」

「ん。おやすみ」


 そう言って、彼女は宿の中へ戻っていった。


 扉が閉まる。

 路地に残ったのは、夜の冷えと俺の浅い呼吸だけだった。

 それでも、不思議と胸の奥は少し軽い。


 ……ああ。


 気が抜けた途端、喉の奥から小さく息が漏れた。自覚する前に、欠伸がひとつこぼれる。


 夜風が冷たい。さっきまで冴えていた頭が、ゆっくりと重さを取り戻していく。

 左腕の疼きも、いつの間にか意識の底へ沈んでいた。

 ――沈んだだけで、消えたわけじゃない。


 俺は宿の灯りを見上げる。

 あの中には、眠っている仲間がいる。

 止める人も、考えすぎる人も、笑って踏み出す人も――今は、同じ屋根の下だ。


「……今日は、ここまでだな」


 誰に言うでもなく呟いて、俺は扉を押した。


 布団に身を沈めると、意識は次第にほどけていった。

 ――明日も、頑張ろう。

 誰かの言葉を、胸の奥でなぞりながら。

【登場人物】

ノア・フェルド

元エリート騎士、いまは普通の冒険者の青年。

みんなをまとめる。

リィナ・ハルト

魔法学者の少女。

結界と魔法で、みんなを守る。

メルク・ヴァランタン

シーフ担当、現実主義者の女性。

みんなの財布の紐を守る。

ミーシャ・ヴァルヤ

半獣人の少女。

戦闘は強い、常識は弱い。

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