第四話 リィナの定理
宿の廊下は、夜更けの静けさに包まれていた。
ついさっきまで、食堂はずいぶんと賑やかだった。
肉料理に温かいスープ、焼き立てのパン。俺は酒も進み、ミーシャは何度もおかわりをねだり、メルクはそれを横目で制しながらも、結局は全員分の皿が増えていた。
リィナも宣言通りにデザートをみんなに振る舞ってくれた。大変な一日を労い合うように、みんなが満面の笑みでそれを頬張った。
想定外の出来事を終えた日の夜だから、少し奮発しすぎた夕食だったかもしれない。
食後、リィナは「先に戻るね」と言って、研究のために自分で押さえている個室へ向かった。
メルクとミーシャは連れ立って相部屋へ戻り、階段を上がりながらまだ何か言い合っている声が聞こえていた。
その賑やかさが階段の向こうに消えると、宿は急に静かになる。
残ったのは、木の床が軋む音と壁越しにかすかに響く誰かの話し声だけだった。
俺も自分の部屋に戻った。
本来なら、ここで一日が終わるはずだった。
――変異体の討伐。
想定外ではあったけれど、全員無事だ。ギルドへの報告も済んでいる。
それでも、一向に眠気が訪れない。
久しぶりに発動した左腕の刻印が、妙に疼いているせいだろうか。俺は浅い呼吸のまま、夜をやり過ごしていた。
階下で水でも汲んでこようと、廊下へ出た。
すると廊下の奥、ひとつの扉の下から、細い光が漏れているのが目に入った。
(……まだ起きてるのか)
リィナの部屋だった。
研究者だから夜型、というのは知っている。
今日みたいなことがあれば、なおさら眠れないだろうというのも想像はついた。
少し考えてから、俺は踵を返した。
宿の主人は、まだ帳簿をつけていた。
「夜食?」
「ええ……何か余ってますか。スープとか」
理由は聞かれなかった。それだけで助かった。
湯気の立つ椀を受け取り、再び廊下に戻る。さっきよりも、足音を殺して歩いた。
軽く、扉を叩く。
「……リィナ。起きてるか?」
一瞬の間。
それから、中で慌てているような気配が伝わってくる。
「えっ? ノア? ちょっと待って!」
鍵が外れ、扉が開いた。
部屋の中は、明るかった。
羊皮紙、魔導器具、測定用の結晶、数式のような記号を書き連ねたメモ。
そして、その中心には小さな黒い結晶体――変異体の核。
「……やっぱり、起きてたな」
「う、うん。ごめん。ちょっとだけ、のつもりだったんだけど」
俺は黙って、椀を差し出した。
「これ、夜食」
「あ、ありがとう……! ちょうど、何か小腹空いたなって思ってたとこなの」
リィナは決まり悪そうに笑い、俺を部屋に招き入れた。扉を閉めると、廊下の静寂が切り離される。
椀を机の端に置いてから、リィナは一瞬だけ言葉を探すように視線を落とした。
「……今日、大変だったね」
「そうだな」
「ごめんね。依頼の後なのに、勝手に……」
言いかけて、彼女は視線を机の中央へ戻す。
そこにあるのは、変異体の核。
「少しだけ、確認するつもりだったんだけど」
そう前置いてから、リィナは続けた。
「……ね、ノア。もしさ。魔法が、もっと安全なものになったら」
リィナがふっと息を吐いた。
目元にはうっすらと疲労の影があるのに、瞳だけは冴え切っている。
「才能がないとか、怖いとか、失敗したらどうしようとか……そういう理由で、魔法を諦めなくてよくなると思うんだ」
言葉は静かだったが、迷いがなかった。
「魔法って、本当はもっと身近で、誰かを助けるためのものなのに、危ないもの、特別な人だけのもの、って思われすぎてる」
彼女は核から目を離し、机の上の数式や記号が書かれたメモを手に持った。
「だから、わたしは仕組みを作りたい。誰でも使えて、ちゃんと止まれて、ちゃんと戻れる魔法」
《魔法安全制御理論》。
それは彼女にとっての研究テーマであり、魔法に傷付けられたことのある人間なら、誰しもが望むであろう未来の可能性だ。
「もし魔力の流れを数値化できたら。発動条件を定式化できたら。……悲劇もね、減らせると思うんだ」
彼女は顔を上げる。
その声音は澄んでいて、揺らぎがない。
野心でも、誇示でもない。ただ、それを正しいと信じきっている強さだけが、そこにあった。
「昔さ」
リィナは視線を戻し、核を見つめる。
「大きな魔法事故の報告書を読んだことがあるんだ。被害者多数、再現不可、詳細不明……そういう項目が並んでて」
ほんの一瞬だけ、言葉が途切れる。感情を飲み込むような沈黙。
「最後はね、『原因不明につき調査終了』って書いてあった」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
「だから私は、知りたい。分かれば、防げる。数式にできれば、共有できる」
魔法とは、諸刃の剣だ。
正しく扱えば人の生活を支えるが、力が逸れれば、今日のように怪物を生む。
――それが人間であっても、例外じゃない。
俺は、《剣誓騎士団》にいた頃、そういうものと何度も向き合ってきた。それ以上を、ここで思い出す必要はなかった。
そういう現実そのものを、彼女は変えたいと言っている。
「……壮大だな」
「えへへ。そうかも」
リィナは照れくさそうに笑い、ようやくスープに手を伸ばした。
「こういうのってさ、最初は一人の変な人から始まったりするでしょ?」
その言い方が、どこか楽しそうで。
俺は思わず、口元を緩めた。
「変なのは否定しない」
「ひどい!」
小さく笑い合う。
部屋の空気は、さっきよりずっと軽かった。
しかし、リィナの視線が目の前の核を掴んだとき、そのトーンがわずかに沈んだ。
「……でもね。これ、少し変なんだ。魔素の流れを測定値として整理してみたんだけど……」
リィナは空いた方の手の指先で、紙に書かれた複雑な幾何学模様をなぞる。
「自然の暴走にしては、綺麗すぎるの。構造が整いすぎていて、まるで……誰かが書いた数式そのものを、そのまま形にしたみたいで」
リィナの指先が、わずかに震えた。
彼女が見ているのは、希望だけじゃない。
その奥にあるものを理解した上で、なお進もうとしている。
それは、とても強いことだ。
そして同時に、危うさも孕んでいる。
だからこそ、
「今日は、ここまでにしよう」
制するつもりはなかった。
それでも、声に力がこもってしまった。
「え?」
「続きは、明日からでいい。……今日は、いろいろありすぎた」
リィナはふっと力を抜き、「……そうだね」と頷いた。
核を布で包んで机の端へ寄せ、彼女は残りのスープを丁寧に飲み干した。
「おいしかった。……ありがとう、ノア」
「……ああ」
彼女は、やわらかに笑って見せる。
「ノア」
「ん?」
「明日も、頑張ろうね」
その言葉は、不安よりも前を向いていた。
「ああ。おやすみ」
俺は頷いた。
彼女の部屋の灯りは、しばらくして消えた。
俺は疼く左腕をさすった。
彼女は、理論を前へ進める。同時に、取り返しのつかない何かに触れてしまうかもしれない。
それでも今は――彼女が夢を語れる夜であることを、少しだけ安心していた。
【登場人物】
ノア・フェルド
元エリート騎士、いまは普通の冒険者の青年。
パーティメンバーをまとめる。
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リィナ・ハルト
魔法学者の少女。
結界と魔法で、みんなを守る。
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メルク・ヴァランタン
シーフ担当、現実主義者の女性。
みんなの財布の紐を守る。
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ミーシャ・ヴァルヤ
半獣人の少女。
戦闘は強い、常識は弱い。




