第二話 変異体の出現
布陣は、すでに整っていた。
リィナは後方で防御結界の準備に入り、メルクは気配を殺して木陰へと溶け、ミーシャは斧槍を構えたまま、獲物の気配を待っている。
まだ、敵の姿は見えない。
――だが、遅れて地面が鳴った。
ずしり、という鈍い振動が足裏を打つ。
次の瞬間、木々が軋む音がした。枝が折れる音じゃない。樹木が、内側から裂け出すような音だ。
「来るよ」
メルクの声が、木陰から低く飛ぶ。
幹が歪み、軋む音を立てて裂け、その内側から黒ずんだ肉塊が露出する。
樹木と四つ足の獣が無理やり縫い合わされたような異形だった。
太い枝は関節を持つかのように折れ曲がり、獣の前足めいて地面を踏み鳴らす。
踏み出すたび、腐葉土が跳ね、森が低く呻く。
裂け目の奥。樹液とも血ともつかない粘ついた液体の向こうで、濁った黄色の眼がこちらを捉えた。
「……うわ、これ。見た目からしてかなり厄介そう」
リィナは顔を引きつらせながらも、すぐに気持ちを切り替えるように息を整えた。
杖の先で、魔力が膨らんでいく。
「なっはっはっは! 久々に当たり引いたね!」
異形から漏れ続ける不快な軋み音を、ミーシャの笑い声があっさりと越えていく。
「当たりって言うな」
「だって楽しいじゃん!」
ミーシャは斧槍を肩から滑らせ、異形を威嚇するように振り回す。獣耳が小さく揺れ、尻尾が大きく左右に揺れている。
彼女は楽しそうに笑っているが、視線は獲物から一度も外れていない。
「ねーねー、ノアっち」
「なんだ?」
「もうさ、いっちゃっていーい?」
嬉々とした声だった。まるで、遊びの順番を待つ子どもみたいに。
俺は一瞬だけ、異形とミーシャを見比べてから言った。
「待て。合図で――」
最後まで言い切る前に、ミーシャが踏み込んだ。
小柄な体が地面を蹴り、斧槍が唸りを上げる。風を裂いた一撃が、異形の外殻を叩き割った。
――しかし。
「ミーシャ、戻れ!」
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
「えー? 今からいいとこなんじゃん!」
「戻れ!」
次の瞬間、地面が爆ぜた。
黒い触手が土を割って伸び、ミーシャのいた場所を薙ぎ払う。
紙一重。斧槍を引き戻した勢いのまま、彼女の身体が後方へ跳ぶ。
「やっばー! 今の、普通に死んでたかも!」
笑っている。
しかし、耳は伏せ、尾は強張っていた。
「おーい、のん気に感想言ってる場合じゃないよ」
メルクが、すでに背後へ回り込んでいる。
異形の死角から、短剣が閃いた。
しかし、手応えは浅い。
「……硬いね」
刃を引き抜きながら、淡々と続ける。
「これ、正面から削り合ってたらジリ貧。時間かけたら、こっちが先に干上がるわ」
リィナの杖先から淡い光が広がり、見えない膜のように俺たちを包み込んだ。
「結界、展開完了! でも、完全防御じゃないよ!」
「……了解」
このままでは、誰かが先に限界を迎える。
俺は一歩、前に出た。泥を飲んだような重苦しさが、胸の奥で渦巻いている。
「ここは、任せろ」
言葉にした瞬間、リィナの視線が一瞬だけ揺れたのが分かった。
俺は左腕を、ゆっくりと異形へ向けた。
布越しでも分かる。刻印が、まるで皮膚の下で焼けた鉄を押し当てられたように、じわりと熱を持ち始めている。
「ノア、それ……!」
リィナの声が強張る。
――やめておけ。
――また、同じことを繰り返すのか?
――お前はそうやって、一体何人の命を……。
誰とも知れない怨念の声が、記憶の底から響く。
俺は奥歯を噛み締め、浅い呼吸を無理やり整えた。
《沈黙の聖刻》。
本来は、剣誓騎士団の中でも、限られた者しか扱えない刻印。
魔素の流れを強制的に遮断し、対象の“魔法的な活動”を一時的に沈黙させる力。
普通の冒険者が使う類のものじゃない。
そして、俺が今さら縋っていい力でもない。
封じたはずだった。同じ場所へ戻らないために。
左腕は容赦なく、俺の罪をなぞるように熱く疼いた。
「……一度だけだ」
誰に向けた言葉でもない。
自分に言い聞かせるように、俺は呟いた。
「万象を拒む、銀の檻。終焉は等しく、静寂のみ。沈黙せよ、《サイレント》」
次の瞬間――
世界から、音が消えた。
異形の咆哮が、途中で途切れる。
樹木と肉塊が擦れ合う不快な音も、魔素のざわめきも、すべてが遠のく。
代わりに、流れが見えた。
歪に絡み合った樹皮と肉塊の奥。
魔素が、不自然に集束していく一点。
(……あそこだ)
核──この異形を"生かしている"場所。
世界に、音が戻ってきた。
「ミーシャ!」
「りょー!」
説明はいらなかった。ミーシャはすでに気配を察している。
「ねね、そこ叩けばいいんでしょ?」
巨大な斧槍を構え、獣耳がぴんと立つ。
「……ああ。全力で頼む」
「なははっ! まっかせろー!」
轟音。
咆哮。
そして――
「けものちゃんっ! ばいばーーーい!」
空気を引き裂くように、斧槍が振り下ろされた。樹皮を粉砕し、核を捉えた。
乾いた破砕音ではなかった。湿り気を帯びたような音と共に、内側から膨れ上がった圧力が、一瞬遅れて解放される。
――爆ぜた。
異形の胴体が、内側から弾け飛ぶ。樹皮と肉塊がばらばらに分かたれ、黒ずんだ破片が雨のように周囲へ散った。
異形の咆哮は、最後まで鳴き声にすらならなかった。沈黙の余韻を引きずったまま、魔素の流れが一気に崩壊する。
大きな影が、前のめりに傾ぐ。
ずしん、と。地面を揺らす音を最後に、異形は完全に動きを止めた。
森が、呼吸を再開する。
腐った空気が霧のように散り、重苦しかった圧が嘘のように薄れていく。
残されたのは、抉れた地面と、砕け散った残骸だけだった。
「なっはっはっは! とーばつかんりょー!」
ミーシャが斧槍を肩に担ぎ、満足そうに振り返る。
「どう? ちゃんと当たってた?」
「ああ。完璧だ」
そう答えた瞬間、左腕に鈍い痛みが走る。
刻印の光はすでに消え、代わりにじわりとした疲労が残っていた。
リィナが、結界を解きながらこちらを見る。
安堵したようでいて、それでも眉の奥には、はっきりとした心配の色が残っていた。
「ノア……その聖刻……」
「この程度なら、問題ない」
「……ごめんね、ノア。ありがとう……」
リィナは一瞬だけ言葉に詰まり、少し困ったように笑った。
「……無事で、よかった」
メルクが、異形の残骸を一瞥してから、肩をすくめる。
「はぁ……完全に想定外。素材採取のはずが、武器の修理費と洗濯費で、半分持ってかれるわ」
「えー! でも楽しかったからいいじゃん!」
「アンタは黙ってな」
そのやり取りを聞きながら、俺は周囲を見回した。
森は、もう静かだった。
さっきまでの異様な圧も気配も、確かに消えている。
――しかし。
灰鱗草の採取地。
そこに現れた、明らかに過剰な《変異体》。
「……帰ろう」
俺はそう言って、剣を収めた。
「報告は、きっちり上げる。……これは、放っておけない」
胸の奥に、小さな違和感が残る。
【登場人物】
ノア・フェルド
元エリート騎士、いまは普通の冒険者の青年。
パーティメンバーをまとめる人。
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リィナ・ハルト
魔法学者の少女。
結界と魔法で、みんなを守る人。
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メルク・ヴァランタン
シーフ担当、現実主義者の女性。
みんなの財布の紐を守る人。
⸻
ミーシャ・ヴァルヤ
半獣人の少女。
戦闘は強い、常識は弱い人。




