第九話 剣を置く時間①
冒険者になってから、自由な時間は増えた。
その代わり、収入は減った。
それはもう、はっきり減ったと言っていい。
騎士団にいた頃の給金と比べると、帳簿を見るたびに現実を突きつけられる。騎士団では、任務の成否にかかわらず固定給金が保証されていた。
装備の整備も、宿舎も、食事も支給される。生きているだけで金がかかる、という感覚は薄かった。
冒険者は違う。
依頼がなければ、収入はない。
依頼が失敗すれば、赤字になることもある。
怪我をすれば、その期間は丸ごと無収入だ。
安定、という言葉からは一番遠い職業だと思う。だから、アイアン等級まで上がる必要がある。
受けられる仕事の幅を広げるため。
収益性の高い仕事を選べるようにするため。
貯蓄の底が見える状態から抜け出すため。
冒険者として生きていくには、夢よりも先に現実が来る。
そういう話を、メルクは淡々と口にする。ミーシャはよく分からないまま自信満々に返事をして、リィナは帳簿を覗き込んで少しだけ眉をひそめる。
そんな事情もあって──
俺は今、宿の手伝いをしている。
木漏れ日亭。
俺たちが長期で逗留している宿だ。フェルディア王国の辺境都市リューネスにいくつかある宿の、うちの一つ。
部屋代を少し割り引いてもらう代わりに、掃除や仕込み、薪割りや水汲みを引き受ける。冒険者の仕事とは、あまり関係のない作業ばかりだ。
だが、やらなければ生活は回らない。
つまるところ、俺たちの生活は"カツカツ"なのだ。
まだ朝靄が残るころ、宿の裏手にある井戸端に立っていた。
握っているのは剣じゃなくて、縄と桶だ。
滑車に通した縄を握り、ゆっくりと下ろす。桶が水面に触れる音が、静かな朝に小さく響いた。
冒険者になって、剣を振るう時間は減った。
代わりに、剣を置いてこうやって生活の営みをする時間が増えた。
俺は、この変化を気に入っている。
「ノア、今日の分はもう大丈夫だ。いつもありがとう」
井戸の向こうから、主人のグスタさんから声がかかった。
振り向くと、彼はすでに次の仕事に移ろうとしていた。
背は高くないが体つきはよく、無駄のない厚みがある。顔に刻まれた深い皺は年齢のせいだけじゃない。若いころから長く肉体労働に身を置き、身体を使い続けてきた人間のそれだった。
グスタさんは、多くを語らない。
仕事の邪魔になる言葉は一切口にしないが、必要なことは簡潔に伝える。だから、自然とこちらも背筋が伸びる。
騎士団にいたころ、こういう人間はいた。
長年の経験と勘で場を見切り、的確な指示を出す上官。
「わかりました」
そう伝えて、俺は宿の中へ戻る。
井戸の仕事を終えるころ、宿の中が少しずつ動き始める。
女将のベラさんが、厨房で朝ごはんの支度をしている。
「ノアくん、朝早くからありがとうね」
ベラさんは、ふっくらとした笑みが印象的な人だ。それだけで、場の空気が少しやわらぐ。
よく気がつく人でもある。
誰が疲れているか。誰が無理をしているか。誰が少し放っておいてほしいか。顔色や立ち振る舞いを見て、すぐに察してしまう。
グスタさんが"場"を見ている人なら、ベラさんは"人".を見ている人だ。
「あとはもう大丈夫だから、朝ごはんまでゆっくりしてて」
ベラさんの気遣いを受け取りつつも、俺は何となく落ち着かず、今度は箒を握る。
「おはようございます、ノアさん」
背後から、はきはきとした声がかかった。
振り向くと、娘のアンジェリカが立っている。
「おはよう」
「掃き掃除は、わたしがやりますから」
そう言って、俺の手から箒を引ったくる。
「ノアさんは、もう休んでてくださいね。じゃないと、わたしがやることなくなっちゃいます」
アンジェリカにそこまで言われると、さすがに引き下がるしかない。
「……わかった」
俺は空になった両手を見て、一歩引き下がる。
アンジェリカは十五歳。
年の割にしっかりしていて、宿の仕事も手際がいい。その一方で、今みたいに少し得意げな顔をするところは、ちゃんと年相応でもある。
リィナやミーシャとは年齢も近いし、話も合うようで、三人で何やらはしゃいでいる場面を見ることもある。
そういう光景を見ると、なぜかほっとする。
自分が、そういう安心の仕方をする年齢になっている自覚はちゃんとある。
アンジェリカの下には、オリンという五歳の弟がいる。
まだ手伝いができる年齢ではないから、今は宿の奥にいるはずだ。
朝食の時間になると、
「おっはよーー!!」
「おはよー」
「……ぉはよぉ……」
三人衆が、揃って階段を下りてくる。
最初の「!!」付きの挨拶がミーシャで、次の抑揚のない挨拶がメルク。最後の、もはや声になっていない挨拶がリィナだ。
三者三様で分かりやすい。
メルクはきちんと身支度を整えている。
髪もまとめていて、いかにも"もう仕事は始まっている"みたいな顔だ。
ミーシャは奔放な寝癖と寝巻き姿のまま。
元気だけはあり余っているらしく、階段を跳ねるように下りてくる。
リィナは「いまさっき無理やり布団から引っ張り出されました」と全身で主張している体だ。
目は半分閉じたまま、足取りもおぼつかない。両脇をメルクとミーシャに支えられて、ようやく前に進んでいる。
朝食を終えると、それぞれの時間が始まる。
リィナはまっすぐに自室へ引き上げていく。
メルクはその場で帳簿を広げ、パーティの収支管理を始めた。
ミーシャは元気よく外へ飛び出していく。ちゃんと着替えてから。
俺は等級試験を目前に控えているが、今日は特に予定がない。
――なら、それぞれの一日の様子を取材してみることにしよう。
まずは、今まさに目の前にいるメルクからだ。
「メルクさん、今は何をしてるんですか?」
自分で言っておいて、少しだけ首を傾げる。
改まって聞くようなことでもない。
メルクは帳簿から目を離さず、炭筆を走らせたまま答えた。
「見てわからない?」
「……収支管理」
「正解」
あまりに素っ気なく即答された。
俺は一瞬、"取材"という言葉を使った自分の判断が正しかったのかどうか考える。どうやら、この企画は思っていたより淡々と進みそうだ。
「どうですか、最近の収支は」
とりあえず、取材っぽい質問を捻り出した。
メルクはようやく手を止め、帳簿から顔を上げた。何かを諦めたような、それでいてこちらを静かに非難するような表情だった。
「悪くはないです」
「良くもないんですか?」
「はい。食費と消耗品は想定内。ただ、装備の修理費がじわじわ効いてきてる状況です」
「原因は何でしょう?」
「あなたとミーシャです」
「……具体的には?」
「あなたは剣を丁寧に手入れはしてるようですが、前提が騎士団の感覚です。想定されてる消耗基準が、冒険者のそれではありません」
「なるほど。ミーシャさんに関してはどうですか?」
「力加減を覚えない限り、支出の改善は難しいかと」
「他に対策は?」
「アイアン等級に上がれれば、定期依頼と下限保証が増えます。よって、収支の安定が見込めます」
「じゃあまずは、受かることが先決ですね」
「ええ。ですので、こんなことより他にやることがあるかと」
その瞬間、メルクの視線が一段、鋭くなった。
「取材、満足?」
「……かなり」
「じゃあ、どっか行って。邪魔」
帳簿に視線を戻したメルクは、それきり俺を見なかった。
どうやら、本当に邪魔だったらしい。これ以上続けるならば、今後の関係性に影響しそうだ。
俺は一歩、二歩と距離を取り、作業音だけが残る場所をそっと離れる。
――取材、失敗だろうか。
いや、収穫はあったはずた。
主に、現実の重さという意味で。
気を取り直して、次の取材対象へ向かうとしよう。
【登場人物】
ノア・フェルド
元エリート騎士、いまは普通の冒険者の青年。
みんなをまとめる。
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リィナ・ハルト
魔法学者の少女。
結界と魔法で、みんなを守る。
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メルク・ヴァランタン
シーフ担当、現実主義者の女性。
みんなの財布の紐を守る。
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ミーシャ・ヴァルヤ
半獣人の少女。
戦闘は強い、常識は弱い。




