第九十二話 「この曲を体感して欲しい」
ただ一人、席で脚も腕も組むトラコは、僕たちの演奏に感心した様子ではなく、むしろしかめていた。彼女との隔たりがかなり分厚く感じる。
しかも、トラコは両隣に座る彼女自身のバンドメンバーにも、今だけは図らずも隔たりを作ってしまっていた。両隣の楊木くんとセミロングの女子が盛り上がってくれるほどに、彼女の憎しみが悲しいぐらいに目立つ。
僕とイエローの奏でる紫の炎を、イエローのことを憎むトラコにも両隣の二人ように体感して欲しくて、どうすれば彼女にも曲を楽しんでもらえるのかを、演奏中にもかかわらずいつの間にか考えていた。
たまに駅前でステージが開催されている時、ステージ上の人が手拍子のジェスチャーをしているのを見かけるが、ベースを弾いている以上、そんなことはできない。ましてやこの曲は今、ベースを弾かない部分が終わって二番の歌詞に突入してしまったので、手拍子のジェスチャーをするならば曲がだいぶ進んだ後の部分だろう。
なら、動いて客席に近づきながら弾いていくのはどうかとも考えた。しかしそんなことをやってしまうと、今ギターボーカルとして歌声とギターの声を届けるイエローの邪魔になりそうな気がする。
やるとしたら、一旦ボーカルが無くなる部分に入った時だ。
そして、今がその時だ。
練習時は不動の仁王立ちの体勢で常に弾いていたので、弾きながら動くことに慣れているはずが無かったので、何度か手元が狂った。そのうえ、歩くスピードのせいでリズムが崩れそうにもなる。けれども、一歩、もう一歩と、彼女たちの元に近づこうとした。
ただ、再びボーカルが歌詞の続きを歌い始めてしまったので、さっきの二歩をまた一歩ずつ辿り、自分の位置に戻ろうとする。たった二歩しか進めなかったうえに、いちいち戻らないといけないのがじれったかった。
あれよあれよと、二番の歌詞のうち、ボーカルが伸びやかに叫ぶサビの部分に差し掛かった。ここの部分はギターの音も比較的少なめになるので、今度こそ彼女たちの元へ近づくなら、今かもしれない。
イエローがシャウトしサビを始めたその時、もう一回一歩、また一歩と前へ出て行く。今度は曲のリズムに合わせながら歩いたので、ベースのリズムが崩れることは無かったうえに、先程よりも手元の狂いがしにくかった。
イエローがシャウトを終わる頃、僕はいつの間にか視聴覚室の教壇の端まで行きつき、遂に楊木くんとセミロングの女子のシャウトを浴びられた。ただ、ふと視界を手元から観客の方へ上げると、間近にあるトラコの表情は全く変わっていなかった。
その時、僕では彼女の隔たりを壊せないのだと悟った。
けれども、そんな悟りなんて次の瞬間には捨てた。曲が終わるまでずっとトラコがこのままなのは、トラコがイエローと一緒に憎んでいるであろう僕が言えたことではないかもしれないが、やっぱり辛すぎるのだ。
どうも諦めきれなかったので、ギターソロに差し掛かった時、僕は手元が不安定になりながらも教壇を降りて、トラコの目の前にまで動いた。さらに、ベースのメロディーが比較的簡単な部分になると、手元を全く見ずに弦を抑えながら、トラコと目を合わせた。
その時の僕はどんな表情をしていたのかは分からない。
ただひたすらに、視線を送り続けた。
隔たりを壊して、君にもこの曲を体感して欲しいと願う一心で、視線を送り続けた。
すると、彼女は恥ずかしくなってしまったのか、少し視線を背ける。そこには、ちょっとだけ笑顔があった。
にらめっこみたいな要領で笑ってしまったのかもしれないが、もしかすると僕が願った思いを受け取ったのかもしれない。
とにかく、ギターソロも終わり、さらには音源によるキーボードソロも終わって曲のシメに差し掛かった頃にはもう、トラコの隔たりは無くなっているような気がした。




