第八十九話 「この勝負を仕掛けたんでしょ」
「来たね、イエロー」
勢い余って視聴覚室の床に倒れた僕とイエローと、寅子は眉間に皺を寄せて睨んでくる。殺気立ったものが、彼女の目の中に浮かんでいた。
先ほどのセミロングの女子と彼女が話していたことから察するに、昨日イエローを見かけて憎しみをいきなり思い出したそうだが、まるで今までずっと恨んでいたかのような鋭く険しい目つきをしている。少しでも下手なことをすれば、胸ぐら掴んできそうな気がした。
セミロングの女子はというと、トラコの後ろで決まりが悪そうに、無言で佇んでいる。その時、視聴覚室内の前方にある準備室から、声が聞こえてきた。
「イエロー来たんですか?」
それはどこかで聞き覚えのあるような、男子の透き通る声。
「うん。 楊木、いくよ」
今、確かにトラコの口から楊木という言葉が聞こえたことに対し、驚きのあまり僕の耳がぴくついてしまう。
視聴覚室から出てきたのは、確かにメガネをかけた楊木くんだった。まさかこんなところで巡り会うとは思わなかった。
「楊木……くん?」
試しに声をかけてみるが、意図的にか、あるいはたまたまか、こちらの方に目を合わせてこない。すると何だか、自分がまるで関わりのない人にいきなり声をかける浮いた人のように思えてしまい、恥ずかしく、虚しかった。
あの時高校の裏にある森で、緑の柄の暴走から助けた確かな出来事が、現実で起きていない嘘に思えてしまった。大切な記憶のうち一つが形を無くして触れない幽霊になったようで、寂しく思えた。
一方の楊木くんはというと、弦が四本張られた深緑のギター、もとい深緑のベースを手にしていた。楊木くんに対するトラコの呼びかけからして、彼はトラコのバンドのベース担当なのだろう。
なぜだか、こんなことを口にした。
「楊木くんも、僕と同じベースなんだ」
それは、単純に何か共通点を見つけられて嬉しかったからなのか、それとも嘘になりつつあった楊木くんを助けた記憶をなんとか実感あるものに戻したかったからか、とにかく言ってしまった。
しかし楊木くんは僕の方をまるで見ず、イエローの方をちょっと見たかと思うと、視聴覚室の前方であらかじめ準備されている機材類のうちベースアンプの方へ静かに向かって行った。
完全に、嘘になってしまった。
「このバンド、もう変わったから」
楊木くんのことで僕が気を取られていたその時、トラコの容赦ない言葉が、イエローに向けられ始める。当のイエローはというと、トラコから必死に目をそらし、震え上がっていた。昨日「僕の赤の柄で守る」だなんて言ったのに、ここでイエローが傷つけられるのを守れないのは恥だと思い、なんとかイエローを勇気づける言葉を探す。
「イエローがいなくなってから、随分と色々できるようになったの」
対してトラコは、イエローへの恨みをつらつらと口にしてゆく。自分のドラムを台無しにしたイエローの存在が彼女にとってそれほどまでに憎いのか、あの時は無視するまでにとどまっていたらしいものが、なんとイエローの存在自体を否定し始めていた。やっていることが変わってないどころか、むしろ悪化していて胸糞悪く思えた。
その時、後ろから本能のささやきが聞こえてきた。本能は、こんなことを口にした。
「変わった変わった言ってるけど、イエローに対してやってること変わってないよ」
本能が口にしたはずが、いつの間にか僕自身が口にしていた。火に油を注ぐことを言ってしまったと思い、すぐに両手で自分の口を抑えるが、対してトラコは売り言葉に買い言葉ということで、怒りをあらわにしてこう返してくる。
「それ、どういうこと」
「変わったこと示したいなら、口よりもいい方法があるよ。 だから、この勝負を仕掛けたんでしょ」
本能はまたもや僕の口を勝手に動かし、視聴覚室の前方に置かれた機材やドラムセットの方へ、僕が指さすように操ってきた。
彼女は僕の指さす方へ振り向いて、そのうちのドラムセットを眺めると、再びこちらをにらみ返しつつ、言葉は何も言い返さずに視聴覚室の前方へ向かって行った。そこでは、いつの間にかセミロングの子がギターを携え、楊木くんと共に機材のツマミの調整を行っていた。
再び僕の体の主導権が僕自身に戻ってくると、どっと疲れが襲ってきた。まるで自分が嫌な人になったような気がして、気持ち悪かった。しかし、ふと隣のイエローの様子を見ると、震えが収まり落ち着いていた。
「ありがと、赤山」
彼は僕に目線を合わせず、前を向いたまま、そう言った。




