第六十五話 「リッケンバッカーベース」
しばらくすると、店長さんはあるものを抱えて店の奥から戻ってきた。
弦が四本しか張っておらず、普通のギターより竿部分が長めなそれは「ベース」と呼ばれるものだった。特に店長さんが持ってきたものは、中心のオレンジ色がボディの淵へ向かうにつれ赤くなっていく色合いをしており、左上から摘まんで引き延ばされたような形をしていた。
「これが、グレコによって作られた、リッケンバッカーベースの日本製コピーモデルです」
キャラメルの名前のような言葉を出しながら店長さんは軽く説明しつつ、ベースを抱えながら大きなスピーカーの前に置かれた丸椅子へ腰かけると、スピーカーとベースをケーブルでつなぎ、たくさんあるスピーカーのツマミをすべて12時の方向に揃えていく。
遂に最後のツマミも12時を向いたところで、店長さんはスピーカーの上に置かれたピックを摘まみ、演奏を始めた。
いままで楽器の演奏というとハイテンポで音が多いヤマブキ・イエローのエレキギターしか聞いたことが無かったが、対して店長さんは遅めのテンポで、落ち着いた音を奏で始める。
その低い音は、体の表面から中の心臓までくすぐるように心地よく揺らしてくれて、つられて思わず踊り始めそうになってしまう魔力があった。
イエローのギターのように、耳をつんざく激しい旋律も目立って良いが、店長さんのように、人をノリノリにしてしまう落ち着いた旋律は縁の下の力持ち、という感じがあって良いと思えた。
それに、もしイエローと違う楽器を始めたら、イエローの音に多様性を作る、という形で彼を支えられそうな気がした。
僕が始めるべきなのはギターではなく、ベースかもしれない。
店長さんは一通り弾き終えると、携えたベースを見つめる。赤い色合いも相まって、まるで小さな太陽を膝にのせているように見え、視界の中で鮮明に輝いていた。
叶うなら今すぐに買いたくてたまらず、こんなことを聞いた。
「あの、これって値段はどれくらいなんですか?」
「これは確か……」
そう言うと店長さんは身に着けた作業用のエプロンのポケットをまさぐり、値札を取り出して書かれた数字を確認する。
「55,000円です」
今まで貯めたお年玉やお小遣いのおよそ1.5倍ぐらいの額で、とても買えそうになかった。
「もし、お小遣いが足りなくて買えないのでしたら、こんな方法はどうでしょうか」
その後あたりが暗くなった頃、再び家に着くなり、母に対して僕はこうお願いした。
「来年や再来年はお年玉なしでいいから、ベース買って欲しい!」
まさか一日に二回も土下座することになるとは思わなかったが、自分の誠意を示すためなら軽いものだった。
これは、店長さんから教わった方法で、名付けて「何かを得るためには何かを犠牲にする戦法」。誠心誠意込めながら、文字通り何かを犠牲にすることで何かを買おうとする戦法だ。
「ベース、飽きて辞めたりしない?」
いぶかしげな声色の母の声が聞こえてくる。
「はい!」
対して僕は、家中に響き渡るくらいにはっきりと返事した。
「……ねえママ、盾がこんな風にお願いするのは、余程のことなんじゃない?」
陸上部の練習から帰宅した矛子が、アイスを頬張りながら、見かねた様子で外野から母へ物を言う。
それを受けて、遂に母はこう言った。
「まあ、確かに矛子の言うとおりね。 今、お父さんに連絡するから、お父さんがいいって言ったら、明日買いましょう」
こうして翌日、僕は店長さんに勧められたリッケンバッカーのベースに加え、店長さんがお勧めしてくれたベース用の「アンプ」と呼ばれるスピーカーやケーブルを購入し、遂にこのゴールデンウィーク、ベースを始めるに至った。
母を納得させるための案を作ってくれた店長さん、そして普段イタズラを仕掛けて僕をおちょくるものの、あの時ばかりはいいことを言ってくれた妹に、感謝してもしきれなかった。
「さて」
自分の部屋でそう呟くと、僕はベースを携え、赤の柄を手に持ちながら目を閉じて想像する。
これから、このベース片手にイエローと文化祭のステージに立つなり、あるいは音源作りを手伝うなりして支える未来を。
そして、僕が変わっていく未来を。
目を開けた頃、赤の柄の刀身部分はベースのソケットに挿せるような端子の形に変化していた。




