第五十六話 「静まりな」
「あれ、自分は一体……?」
白い爆風に飛ばされ、僕の前でうつ伏せになって転んだ先生は、ゆっくり起き上がる。白の柄の少年による洗脳から覚めたみたいだが、そんなことに安堵している場合ではなかった。
あの濃い白煙の先に、僕を襲おうとした先生によって生み出されし「想像の暴走」が獰猛に息を荒げているのだから。
四足歩行の生き物のようなシルエットが、こちらへ近づいてどんどん濃くなっていく。先生は堪らず裏返った声を上げて驚き、後ろへ後ずさりしたあまり、僕の足元にぶつかってきてしまった。
「うわぁ! あれ、赤山君、何でここに? それに、あれは一体何なんだ!?」
煙に隠されたものを震えた指で指しながら、続けざまにいろいろ聞いてくる。しかし、今は質問に返す余裕などなかった。どんな想像の暴走が来てもいいように、赤の柄を構え、気を引き締めるので精いっぱいだったのだ。
やがてそれは、煙を潜り抜けて姿を現す。
白くて分厚い毛皮で覆われた全高二メートルにもなる巨大な犬が、唸り声を口の中で籠らせつつ、こちらへ歩み寄って来た
むき出しになった無数の牙は乳白色ながら灰色のマーブル模様が入っており、大理石並みの硬さを思わせる。あれに嚙まれたらどうなってしまうのかと一瞬考えれば、脳裏に無残な赤い光景が思い浮かび、背筋が凍り付いた。
「へえ、柔らかくて暖かい犬だぁ!」
白の柄の少年は感心したように声をあげながら、いつの間にか犬の後ろ脚にしがみつき、目を閉じていながらも背中へよじ登り始めた。
想像の暴走は主に想像した人に襲い掛かる特性があるため、少年に襲い掛からないのは分かる。だが、巨大な犬が警戒心をむき出しているのにも関わらず、襲われる危険など顧みない無邪気な様子に、剣を向ける手先から嫌な寒気を覚える。
「赤山君、あれは一体何なんだ! それにあの子も!」
先生は恐怖のあまりに僕の足元で縮こまりながら、一層声を荒げ、訴えてきた。先生を安心させるために説明し、集中を途切れさせてしまうと、次の瞬間には自分と先生の命が奪われる気がしてならず、ただ無視することしかできない。
ところが、却ってこれが悪手となってしまった。
得体のしれない生物に、得体のしれない少年、得体のしれない状況に混乱した先生は、ひっぺり腰になりながら立ち上がると、僕の後ろを通り過ぎて逃げ始めた。
直後、犬は牙を見せびらかすように口を開けたまま、けたたましく先生の方へ駆ける。動くものを追いかける本能に、先生は狙われてしまったのだ。
「いいよ! やっちゃえやっちゃえ!」
犬の上に跨った少年が、純粋な笑顔と共に発する言葉一つ一つから、先生の命を玩具同然に扱っているのを感じ取った。何が彼をこんなにも歪ませてしまったのかと憐れんでしまう反面、腹のどこかが煮えたぎり、少年を痛めつけたいと思う自分がいた。
だが、そんなことをしてしまったら、今まで少年を歪ませてきた者達と、きっと同じになってしまうのだろう。
僕が討つべきは、人の心を忘れさせられた少年ではなく、意図せず生み出されて先生に襲い掛かろうとしている、あの犬だ。
「吾火威炉ォォォ!」
犬の迫力に負けないよう僕も声を張り上げると共に、刀身に纏った炎を巨大な火の玉にして振りかぶり、ありったけの火力を犬のおぞましい顔面へしっかりぶつけた。
一度火の玉が当たると、犬は熱さのあまり顔を離したりせず、むしろ根競べするよう顔を押し付けてきた。
あまりにも強烈な熱波が僕の眼や肌へ突き刺してくるが、目を離したら負けて押し倒される気がして、瞬きもしないどころか目力込めて犬を見つめ続ける。すると、犬が傷を負っていくさまが鮮明に映りこんできた。
犬の頭を包む透き通るような白い毛は火の玉が当たったところから黒焦げにされていき、さらにその下の桃色の皮や、骨も黒く焼かれて灰になっていく。
何とか抵抗しようとしたのか、大理石のような牙で火の玉に噛みつく仕草を一瞬見せるが、あまりにも熱すぎたのかすぐさま溶岩のようになって溶かされ、口から垂れ落ちる形ですべての歯を失ってしまう。
そうして犬の頭は当たったところから全て焼け、灰になって消えてしまった。犬は立ったまま、首無しになってしまったのだ。
思わず肩を撫でおろし、柄を持つ右手に付いた、頭部だった灰に一息吹きかけたその時。
周囲に降り積もる灰が犬の首元に集まり始め、再び頭部を作り始めたのだ。集まってくる灰に対し、慌てて剣を何度も振りかざして集まらないようにしていると、奇妙なことが起き始めた。首は三股に別れ、それぞれに先程より二回り小さい頭部が出来上がっていく。
そうして変に剣を振ったせいで、ケルベロスを作り出してしまった。
「やったぁ! 今度こそやっちゃえ!」
跨っている少年は、いつにも増して嫌なくらいに、さらに笑っていた。
その時。
「静まりな」
どこからか聞こえた一言共に、ギターソロの雨が辺りに降り始めた。はっきりと鳴り響く一つ一つの音に、ケルベロスの三つの頭はそれぞれ情けなく苦しむ声を上げながら、頭を振り回す。
声の聞こえてきた方向を見ると、山吹宅の二階の窓の枠に背中を預け、片足を窓の外へぶらぶらさせながらギターを弾く人物がいた。
ギターのソケットには、「黄」という刻印のレリーフが付いた、黄色い棒状の物が刺さっている。紛れもない、黄の柄だ。
黄色に黒のジャージ姿で、メタリック・イエローともいえる色のギターを抱えた彼を、僕は知っていた。
絶望していた矢先、差し込んできた光に、思わず叫ぶ。
「ヤマブキ・イエロー!!」




