第五十四話 「吾火衣炉」
遂に、茶封筒に書かれたヤマブキ・イエローの自宅であろう一軒家の前に着いた。
表札に「山吹」と書かれたその黒い屋根の家は隣の1.5倍くらいの大きさがあり、デザイン自体は普通の家と変わらないながら迫力がある。色々機材を持っていたり、この家に住んでいたりするところから、親の稼ぎの良さがうかがえ、住む世界の違いを感じた。
時折部屋から漏れるギターのこもりがちな音をよそに、一旦茶封筒を鞄にしまい、何の変哲もないインターホンのボタンを押そうとしたその時。
横から僕の腰にめがけて、何かが思いっきり走りってきて、激突した。
何も身構えていなかったので、そのまま無残に地面へ転がり、肘や膝を強く打ってしまう。衝撃で関節の骨が強く震えたことで他の骨と擦れてしまい、激痛が走った。
地面で横になったまま、歯を食いしばってひたすらに膝や肘を抱え、呼吸を荒げながらも、体の向きを必死に変えて激突してきたものを見る。
そこには、ふくよかな白髪のおじさんが立っていた。
おじさんは、見たことのある顔をしていた。
ただ、前会った時から一変してゾンビよろしく白目をむいており、抜け落ちた優しさの代わりに静かな殺意で満たされていた。
「先生……?」
痛みで堪えつつも、口から微かにその者の名前を漏らしてしまう。
今朝、ヤマブキ・イエローが受け取っていない書類を僕に託した担任の先生が、そこに居たのだ。
思いっきり駆けて突進してきていたはずなのに、息を切らしている様子もなく、野生の獣のようにこちらをまっすぐ見つめている。前傾気味になって頭を少し突き出しており、その額は少し赤く腫れていたので、おそらくさっきは頭突きするような形で僕に当たってきたのだろう。
自分の息が少しずつ整い、再び立ち上がれそうになって地面から上体を起こし始めたその時。先生は上体を地面に近づけ、前傾姿勢をより深くし始めた。
僕が上半身を地面から離すほど、先生は腰をゆっくり曲げてゆく。
やがてフラフラしながらも、再び地面に臥さないように慎重に立ち上がった頃には、先生は両手を地面に付けて突進する前の暴牛のような体勢になっていた。
本当は赤の柄を使ってなんとか危機を脱したいところだが、例え様子がおかしくても、人に対して使ってしまうと想像の暴走が起こる可能性があるため、赤の柄を使うことは叶わないようだ。
いや、もしかすると使えるのかもしれない。
例えば何かされたせいで、暴牛のように野生の本能で動いているのなら、あの方法で切り抜けられる気がしてきた。
そうして、ブレザーの内ポケットから赤の柄を取り出すと、あの技の名を叫んだ。
「吾火!」
すると右手に持った柄から、刀身が伸び始めた。赤い鋼でできたような剣が炎をまとわせながら、刀身が長くなり、立派になっていく。
本来なら、これは赤の柄の刀身から出た炎を全身にも纏わせる技だが、今回は刀身だけに炎をまとわせるように想像し、さらにこうも叫んだ。
「吾火衣炉!」
さらにそこから、刀身から吊るされているような炎の幕を作りあげたと共に、先生が地面を蹴ってこちらに突進してきた。
すかさず僕は、刀身に付いた炎の幕を体から遠ざけるように器用に翻しながら、強く脈打つ心臓を左手で抑える。いざやってみると、本当にこの方法で切り抜けられるか、確証がだんだん無くなってきて緊張してしまったのだ。
だが遂に、先生は僕ではなく、翻していた炎の幕の方へぶつかろうとしていった。意図した通り、闘牛士のごとく上手く先生を避けることに成功したのだ。
先生はそのまま何事も無いかのように炎の幕をくぐり抜けると、その先の地面で躓き、頭から転げてしまった。
しかし、それでも先生は再び立ち上がる。
もう一度炎の幕を構えようとした瞬間。
「へえ、面白い使い方だね。 まあ、僕が言えたことじゃないけど」
幼い少年の怪しげなセリフが後ろから聞こえてくるが、振り返らなくても、誰が言っているのか容易く分かった。
昨日の電車で居眠りした際に夢に出てきた、白い柄の少年だ。




