第五十二話 「そりゃお兄ちゃんだし」
その日、ヤマブキ・イエローに合わせる顔の無い僕は、彼がいつも通りライブをしているであろう中庭側にある正門を使わず、裏門を素早く通って帰った。
泣いて腫れぼったくなった目頭と、鼻水たらして熱くなった鼻頭という、顔の赤い罪の証を誰かに見られたくなくて、腕で顔を隠しながら学校最寄りの駅へ走る。
途中で息が上がってわき腹が引きつり、脚を動かすのがしんどくなる時もあった。
しかしなお、ひたすらに走る。顔から垂れ続け、引っ付いたものを向かい風で冷やし、吹き飛ばすためにも。
やっとの思いで駅に着き、電車の座席に腰を下ろす頃には顔の赤みもある程度収まり、半ばいつも通りな感じに戻っていた。しかし、一度顔に張り付いた泣き顔のせいで、いつもより顔がむくんで重く感じられる。
がら空きの車内というゆりかごに揺られ、背中に柔らかい夕日の温かみが広がっていくのを感じながら、僕の瞼は落ちていった。
瞼の裏の世界で、奇妙な光景が広がっていた。
「それ、あたしのなんだけど」
白甚兵衛を着ていて目を瞑った白髪の少年が、見た目に似合わない艶っぽい女声でこちらに語り掛けてくる。いつの間にか海パン姿になっていた僕も、見知らぬ少年も、木々に囲まれた川で水に浸かっている状況だった。
少年は小学四年生くらいの小さな背丈なので、身長170cmぐらいの僕からしたら見下ろして少年のつむじが見えるはずなのだが、この世界での僕は少年より頭半分ぐらい下の目線になっていたのだ。少年は腰までしか浸かっていないのに対して、僕は胸辺りまで浸かっていることが、少年より背が低くなっていることをさらに決定づける。
それに気のせいか、腕や脚が短く、手がいつもより骨張っていないように見える。水面に反射して見える僕の顔は、自分のアルバム写真などでよく見る、かなり幼いものになっていた。
なぜなのか、小学一年の頃に若返っていたのだ。
さらにこの時、右手に赤の柄を持っていた。小学生の頃というと、明らかに赤の柄を引き抜いたり青海さんと出会ったりする前であり、この姿の僕が持っているはずが無い。
どういうことか問いたくて口を開こうとするが、顎の骨が接着剤で固定されたかのように、まるで動かない。それどころか、だんだん膝や肘、首も動かしにくくなり、やがて体が完全に固定されてしまった。今動かせるのは、目だけだった。
一体全体、今の僕に何が起きているのか、まるで分らない。
「何が起きているのか、かぁ」
目の前の少年が、先程とは打って変わって見た目通りの幼い声でこちらに話しかけてくる。まるでこちらの心を見え透いているかのような一言で、冷たい川に浸かった下半身や胸のみならず、背筋を伝って首筋まで冷えてびくつく。
「そうだよ、たしかに君の心、見え透いてるよ。 これ使ってるからね」
少年はそう言いながら、懐から乳白色の棒状の物を取り出す。その尻の部分には金色のひし形のレリーフが付いており、レリーフには「白」と刻まれていた。
間違いない。少年は以前、妹の矛子が遭遇したという白の柄を使う者みたいだ。前に聞いたときは、その時矛子が持っていた赤の柄を奪おうとして来ていたが、今回も僕の赤の柄を狙っているみたいだ。
一体、何が少年である彼をそんなに駆り立て、赤の柄を得ようとするのか、意味が分からない。
「赤の柄はね、命を変える力があるんだ」
少年はこちらが内心思っていることに応じ、答えてくれた。
「僕こう見えて、本当はこんな姿じゃないはずだから……それじゃあ、もらうよ」
少年の手が、赤の柄の元へ伸びてきた。彼の言動の数々と、青海さんが前言っていたことから、この柄を渡してはいけないことだけは分かる。しかし、矛子が言っていたように彼の能力で金縛りに掛けられ、抵抗できそうにない。
いよいよ少年の爪が柄に触れようとしたその時。
「たすけて~!!」
どこからか、悲鳴が聞こえた。
耳をつんざくようなこの少女の声は、なぜか分かった。
目線の先では、水着姿で同じくかなり幼い妹が、川の中でも流れが速くて底が深いところで流されていた。小学一年くらいだった僕でさえ、比較的底が浅いこの部分で胸まで浸かるということは、僕より年下の矛子が底へ足を着けられるはずもなく、危険な状態だった。本人も不安のあまり、顔がぐしゃぐしゃになって泣きそうになっている。
「ほこぉ!!!」
たまらず僕は、叫んでしまった。
なぜ顎を動かせて声を発せられたうえに、膝や肘の自由が再び効き始めたのかよく分からないが、とにかく目の前で命が無くなるのを見たくなくて、必死に矛子の元へ水をかき分けて歩き、途中から泳いで向かった。
確かに流れは速かった。
でもそれ以上に、僕は素早く泳げた。
水中で一瞬、右手から赤い光が漏れ出るのが見えたので、きっと柄の力のおかげで泳げたのだと思う。
そして遂に矛子の体を抱え、川の端の浅瀬の方まで泳ぎ切った。ふと川を振り返ると、さっきの少年の姿はどこにもなく、代わりに少年が立っていた場所からは赤い光が放たれていた。
岸に上がると、矛子はひたすらに抱きしめてきたうえに、泣き声混じりにこんな言葉を贈ってくれる。
「ありがとう~っ、うっ、おにいっ、ちゃ~ん!」
「そりゃお兄ちゃんだし、矛子が危なくなったら助けに来るよ!」
いつの間にか、普段は全く言わないような幼気でカッコつけたセリフを、子供っぽい高い声で僕は言い放っていた。
「次は、色生ニュータウン、色生ニュータウン」
自分の最寄り駅がアナウンスされたことで、瞼の裏の世界から元の世界へ慌てて飛び出てしまう。
そこには、普通の光景が広がっていた。なんでもない、濃い夕日に照らされた住宅街の数々が、車窓に映るだけの車内。特に代わり映えのしない帰宅時の一コマだった。
ただ、居眠りで見た夢は変だったが。
夢に出てまでこんなことができるのはただ一つだけだと、ポケットからあるものを取り出し、様子を見てみる。思った通り、赤の柄は確かに赤く光っていた。きっと、罪人の僕に何かを気づかせたかったのだろう。
電車から降りた僕は、軽い足取りで駅から家へ歩いていく。ヤマブキ・イエローと再び顔を合わせても、どんな言葉を言えばいいのか、今の僕には分かるのだ。
その日の空は、一段と綺麗な夕焼けで彩られており、僕の影をも橙色に染めそうになる程だった。




