第四十二話 「剥戒無頼」
「ガボ! グボ!」
この右手が強く掴んでいるのがヒトミの手だと信じ、必死に彼女へ声を届けようとするが、黒の柄の男によって文字通り水のようになってしまったこの地中で、上手く声を出せなかった。
一方で手から伝わってくる彼女の様子はというと、特に激しく手や腕を動かさないまま震えており、冷たい水中でいくつもの泡の音を大きくこだまさせているのが聞こえた。冷静さを欠いて正気じゃなくなっているどころか、意識を失いかけていたのだ。
離れそうになってしまうヒトミの手を握り直すたび、なぜかは分からないものの、手を握る他に何もせず、目の前で彼女を失うのがだんだん嫌になってきた。
いつの間にか、手を引っ張ってヒトミの体を手繰り寄せ、抱きしめ始めていた。その体はまだ温かかったが、彼女の震えは一向に止まず、過呼吸でなのか胸が前後に大きく動いてあたしの胸を圧迫してくる。
ヒトミはまだ、ギリギリのところで命をつないでいたのだ。
そんな彼女を助けたい一心で、自分の両手でヒトミの両手を握りしめる。
「ヒトミ、あたしはここにいるよ」
心の中で半ば祈るように、あたしにくっついて過呼吸で暴れる彼女の胸の、さらに奥まで伝えるつもりで強く念じる。
肌を突き刺すように冷え切ったこの水中でも、それは熱く、
何もかもを飲み込む暗闇に包まれていても、それは輝く。
やがて、だんだんとヒトミの震えが弱まり、胸の動きが落ち着いてくる。
そして、何かを探るように右腕を動かした末、あたしの右手を握ってくれた。
さらにヒトミは両足を動かし始めると、片手であたしを抱いてもう片方の手はあたしの右手を握りしめたまま、上方向へ泳ぎ始める。
「「ぷはっ!」」
遂に、お互い水面へ辿りつき、再び空気を吸うことができた。
しかし、それはちょうど黒の柄の男の背後だった。
息の根を聞きつけた男は気味悪くこちらを振り返るとともに、細長い腕で持っているその緑の刃を、あたしの首元へ振りかざしてくる。
直後、ヒトミと共に再び暗い地面の下へ潜った。
潜るのがもう半秒遅ければ、二人の首は跳ねていただろう。
現に、上からの一撃による金切り音が、真っすぐ耳へ刺さってくる。それくらいあの男は、あたし達に攻撃しようと躍起になっているのだ。
だが、刀身は地面の下にまで突き刺さってこない。地面を水にすることができても、柄の使用者や柄の刀身は水となった地面の中へ潜ったりすることができないみたいだ。つまり地面に潜っている時は、男からしたらどこら辺へ泳いでいっているのか分からず、不利なのだ。
これに気づいた時、とある反撃方法を思いついた。不意打ち攻撃し放題なこの状況を活かし、あの場所の下から不意打ち攻撃を仕掛ければよいのだ。失敗したとしても、さっきみたいにまた潜れば攻撃を喰らうことが無いので、傷を負ったり負けたりすることは無い。
再び震えが増してしまったヒトミの腕を引っ張り、あっちの方向へ泳ごう、と伝えようとする。しかし、手先も見えないくらい暗い水中なので、そんな身振り手振りだけではなかなか伝わらなかった。
結局、腕を引っ張って彼女ごと泳ぎ、目当ての場所まで動いた。
さっき水面から顔を出した時に位置を確認した限りでは、ここら辺のはずだ。
あたしは空色の光る刃を生成するとともに、心の中で技名を叫んだ
「剥戒無頼」と。
水面から突き出した刃は狙った通り、とある物へ攻撃を当てることができ、そのはずみでとある物は男の手から離れて地面へ落ち、沈み込んでしまう。
空色の刃で辺りを照らし、水中の不覚へ沈んでいくとある物を、何とか掴むことができた。
それは、緑の柄だった。
直後、もっと大きいものが水中に落ちてくる音が、重く響いてくる。
刃の光で照らし、落ちた物を探すと、ある者が見つかった。
長い背丈に長い髪で黒の柄を持った、上半身裸のそれは、まごうこと無き黒の柄の男だった。




