第三十七話 「矛子、もう大丈夫だよ」
死ぬ気がした。
想像の暴走に乗っ取られた矛子に、なんと左肩から左の胸筋半ばにかけて切られ、かなり血まみれになったのだ。肉体的にかなり限界だった。
それに、人とは思えないような真っ赤に染まった瞳の矛子を見たとき、彼女は想像の暴走の乗っ取りから元に戻れないのだと感じてしまっていた。だが、呉尾くんの決死の一言で最後に正気を取り戻させることができ、思わず安心しきってしまったのもあるだろう。
ところが、自分の息が止まるにはまだ苦しかった。
まだ僕は、息をしていたのだ。
「治った……?」
普通の女子だったのが、今は赤黒い肌の大柄な女性になっている矛子が、声をかけてくる。未だ痛々しいことに、想像の暴走の影響で首があり得ない方向に曲がり、腕が捻じれている。時折、痛みを和らげるためにゆっくり息を吸っては吐いていた。
いつの間にか閉じていた目をうすら開いてみると、昨日の緑の柄との遭遇時にできた傷はそのままに、切られていたはずの左肩や、矛子の槍を受け止めた手が治っていた。
「これ、どういうこと?」
先程の激痛が嘘だったかのように、声が出しやすい。もう痛みに悶える必要が無いのだ。
「もしかしてほこちゃんの想像の力が、赤の柄の力を引き出して、赤山を治した?」
あまりにもおぞましい光景を前に思わず固まってしまっていた青海さんは、気を取り直すと傍から考察をしていた。
先程の、体の中に何かが流れ込んでくるような感覚は、赤の柄の力が体に流れ込んでくる証拠なのだろう。
「すっげぇ、盾が治っちまったよ」
後ろで地面に尻もち着いていた呉尾くんが立ち上がり、僕の肩部分を物珍しそうに見てくる。先ほどの矛子に襲われる恐怖で泣いていたので、目元が腫れぼったくなっており、鼻からは鼻水が垂れていた。
一通りじろじろ見終わると、呉尾くんは改まった様子でこんなことを言ってきた。
「なあ、結局俺が一緒に来たせいで、かなり怪我負わせる羽目になってごめん」
「別に、大丈夫だよ。 呉尾くんと一緒だったおかげでここまで走ってこれたし、矛子が呉尾くんたちに対して何か勘違いで憎んでるのも分かることができた」
「……そう言ってくれて、ほんとにありがと~!」
するとなんと、何かに耐えきれなくなったのかこちらに抱き着いてきた。身長が僕より一回り大きいので、包み込まれるような感じになる。
さらに、今度は矛子の方に対して向くと、こうも言った。
「なあ、いい兄さんだよ! 昨日の今日で俺、助けてもらってばっかだし、」
本当にどこまでも素直で、憎めない。それが呉尾くんだった。
対する矛子は憑き物が取れたような顔をしており、もう憎んでなどいなかった。
しかし、次の瞬間、苦虫噛んだような顔をしたかと思うと自身の胸部分を抑え、崩れるようにその場へしゃがみこんでしまった。左手に持っていた赤の柄の槍は手放されて地面へ落してしまい、元の柄の状態に戻ってゆく。
「どうしたの、ほこちゃん!」
青海さんが矛子の方に駆け寄り、背中をさする。
いきなり何が起きたのかよくわからず、骨が嫌にきしむ音と共に息がどんどん上がっていく矛子の様子を、僕はじっと見つめることしかできなかった。
「もしかして、心臓がやばいんじゃ……」
「まさかそんなことが?」
呉尾くんが心配そうに言うと、青海さんが矛子の胸部分に耳を当て、心音を確認する。
「確かに心拍数が上がってて様子がおかしい。 想像の暴走で心臓まで蝕まれてるのかも」
呉尾くんの予想が見事的中してしまっていた。せっかく想像の暴走による意識の乗っ取りから解放されたのに、矛子が苦しんでしまうのは惨い。
その時、青海さんのみならず呉尾くんも矛子のところに行き、言葉をかけ始めた。
「おい、いい兄さんの前で死んじまうのかよ! 何てことしようとしてんだ!」
熱心にかけ続け、なんとか意識をつなごうとしていた。
しかしそんな行いは虚しく、良くなる様子はなかった。むしろ、矛子の姿が幽霊のように透き通り始めたのだ。
自分にとって憎い人を消したいと思ったばかりに、逆に矛子自身の存在が消えようとしていた。
ここにやってくるときにもわかった通り、僕や呉尾くん、青海さんなど、矛子が意識を向けている人にしか声が聞こえておらず、ほかの生徒に聞こえていなかったのはこの想像の暴走によって、矛子が消え去ろうとしていたからなのだ。
もしも想像の暴走によるものならば、青海さんの青の柄や矛子が落とした赤の柄で何とかできるのかもしれない。
「青海さん、柄の力で、矛子と想像の暴走を分離させることはできない?」
「できると思うけど、この状態まで来てしまった場合、ほこちゃんごと消えるリスクもあるの」
「そんな……」
一瞬、迷った。
しかし、このまま何もしていなければ矛子が消えてしまうのも時間の問題だ。ここで足掻かずにただじっと見つめるのは違う。
それならばと僕は、赤の柄を掴む右手を差しだした。覚悟を示したかったのだ。
「わかった。 それじゃ、柄を持った状態でほこちゃんが治った姿を念じて」
そうして、僕と青海さんはうずくまる矛子の下でしゃがみ、柄を差し向け、ただ、念じた。
元に戻るよう、苦しむ妹をひたすら見つめた。
耐えられず目を離したら、次の瞬間には跡形もなく消えるのではないかと恐ろしかったから。
一方の青海さんは目を閉じ、回復した矛子を想像することに集中していた。
呉尾くんは、矛子が意識を手放さないように彼なりの熱い呼びかけをしていた。時折、僕のことをほめる言葉が耳に入ってくるので、思わず恥ずかしさで僕の耳も熱くなる。
やがて、呉尾くんが息を切らし、矛子にかける口数が少なくなってきたころ。夕日の光交じりに赤や青の光の粒が、柄から出てきた。
それらは矛子になじんでゆくたび、矛子の姿が元に戻ってゆく。しかし同時に、触れることができるかどうか分からないくらい、矛子の姿がさらに透明に近づいていってしまう。
「矛子、消えないで」
僕の口が、漏らすようにつぶやく。
普段は快活ないたずらっ子ながら、矛子の抱え込んでいた憎しみに、僕は気づけなかったのだ。
どうか今からでも。
今だけでも。
いつの間にか、幸せな矛子をひたすらに想像していた。
そして、遂に報われた。
「ありがと、盾。 また助けてくれて」
そう口にしながら抱き着いてきたのは、矛子だった。
苦しみに悶える息遣いも、骨がねじれ砕ける音もなく。体格相応の体操着に身を包む、いつも通りの黒髪に少し褐色がかった肌の矛子がそこに居たのだ。
「矛子、もう大丈夫だよ」
どこかで言ったことがある言葉を、かみしめるように彼女にかけた。




