第三十六話 「よかった……」
中学校の敷地内にあるプレハブ小屋の近くにて、人ならざる様子で僕らの方へ歩き迫ってくる、赤黒い肌の大柄な女性。赤の柄でできた槍を握りしめる左腕は、恨みや怒りが籠った恐ろしさと共に強く力んでいた。
それも、人間の範疇を超え、左肘が人間の可動域ではない方向へ曲がるほどに。
彼女の痛々しい左腕こそ、自らに憑依した想像の暴走の性質により肉体が蝕まれ、命が脅かされている何よりの証拠だった。
「よくわかんないけど、盾と、盾の知り合い、早く逃げよう!」
そう叫ぶ呉尾くんは僕の後ろへ隠れて尻もちついており、逃げ出せる様子ではなかった。
「逃、げ、る? あんたら三人が、私の兄に昨日何をしたのか、まだ聞けていないんですけど」
呉尾くんを始め僕ら三人を見つめる大柄な女性、もとい僕の妹は、逃がさないぞと言わんばかりの脅しをかけてきた。
まさか、矛子は青海さんに対してだけでなく、呉尾くんら三人に対しても何かの勘違いで憎んでいたせいで、想像の暴走を起こしたのだろうか。
さらに、僕らにいつ逃げられても良いように、彼女がこちらへ歩いてきながら準備体操がてら首回しをしたその時。再び何かが砕ける音が地面を伝って来た。嫌な予感がして彼女の首元を見ると、予感は的中してしまった。
左肘に続き、今度は首があり得ない方向へ動いていた。右方向に丁度直角に曲がっていたのだ。
これ以上刺激してしまったら、今度はどこの関節をあり得ない方向に動かしてしまうか分からない。できるだけ彼女が動かないようにしなければならないのだ。
ならなかったのだが。
「うぉらぁぁぁ!」
深い赤色の槍を持つ左腕が、無防備な呉尾くんの下へ振り下ろされてしまう。
ここでどうにか動いて、呉尾くんを助けなければ、昨日助けたことが無駄になる。
昨日が無駄になる。
ならば、僕が動かなければ。
「ウワァぁぁあ!」
次の瞬間、痛みに耐える叫びが僕の口から、そして血しぶきが僕の左肩あたりから噴き出した。
「赤山!」
青の柄を使う青海さんがそう叫ぶが、脚がすくむほどおぞましい光景に、これ以上何もできそうになく、固まってしまう。
それもそのはず。体を大の字に広げて呉尾くんの前に立ち、僕が代わりに生身の状態で矛子の攻撃を受けたのだ。今や大柄な体格の彼女から振り下ろされる槍の勢いを抑えるべく、両手も使って攻撃を受けたおかげで左腕が切り落とされるまではいかないが、槍の矢じりは鎖骨をも切って僕の両手も真っ赤に染めながら胸の半ばまで到達していた。
一方の矛子は、正気を失っているのか僕に刺さった槍を下へ進めようと、腕をさらに捻じれ折らせて音を立ててでも力む。
その瞳は人間のそれではなく、真っ赤に染まり、黒目部分が消え去っていた。先ほどの呉尾くんに対する怒りで、最後の理性を投げ出してしまったように見える。どうも元の矛子に戻せないことを感じ取れてしまい、一瞬絶望した自分が憎い。この地を守れるというのに。
「赤山! ほこちゃんの意識が想像の暴走に乗っ取られてる!」
文字通り骨を切られ、肉が断ち切られる痛みで、もう元の矛子に会えない絶望に対して返す言葉を発せなかった。
一方、意識が半ば想像の暴走に侵された矛子は、うめき声を上げながらさらに増して槍の矢じりを僕の胸からさらに下へ切っていこうとする。
痛みに悶える声からは、時折こんな言葉もまぎれていた。
「盾……いじめる……ゆるさない……」
「いっ、いじめてねえよ!」
裏返る声で、呉尾くんが思わず口答えしてしまった。
それに伴い、矛子の怒り混じりの唸り声と共に、僕の胸に刺さった矢じりがさらに切れ込む。そして矛子の両腕は、さらに捻じれてゆく。
しかし呉尾くんは、目の前の痛々しい光景によって絞り出された恐怖混じりに、言葉を続けようとする。
「むしろっ、お、おれは昨日っ」
何回か鼻水をすすり、息を整えたあと、再び口を開いた。
「盾に助けられたんだよぉ~!」
学校中に響き渡りそうなくらいの、耳につんざく叫びだった。
その時、矛子の手が遂に止まった。
「……私、盾を……」
元の人間のものへ戻った目は、腕や首の痛みと共に大切な人を傷つけてしまっていた恐ろしさで、強張って潤んでゆく。
「……死なないで!」
自分がしでかしてしまった事の大きさに耐えきれず、願望混じりの叫び声をかけてくる。
「よかった……」
他方、そんなセリフが僕の口から漏れると、何かがゆっくり、だけど解けてゆく感じがした。
胸から温かいものが体の中へ流れ出し、痛みが軽くなってゆくようで、心地が良かった。




