第三十五話 「ほこちゃんの命が、確実に危ない」
「もうやめてほこちゃん!」
「もう、やめてって!」
「ねえ! ほこちゃん!」
中学校の敷地内中に、矛子に対する青海さんの切実な訴えがこだまする。中学校の校門をくぐって中に入った僕と呉尾くんは、響いてくる必死の悲鳴を頼りに各校舎や建物へ続く道を走る。
一秒でも早く向かう最中、妙なことに気が付いた。僕の耳や胸を駆け巡り、呉尾くんにも聞こえているこの説得は、道中でたむろしている生徒や校舎の先生方にはなぜか聞こえていないようだった。その証拠に、生徒は気にする様子もなく勉強の話やゲームを続けており、先生が外に出て物騒な雰囲気で駆けつける様子も無かったのだ。
「皆、これ、聞こえて、ないのかな?」
呉尾くんが隣で走りながら、息切れしがちな声で僕に聞いてきた。
「みたいだよ、おかしい……」
「なんだか、昨日の、森のことを、思い出す」
昨日の緑の柄との一件を思い出す呉尾くんの走りは、だんだん右足を引きずるようなものになっていった。茨に縛られた際に負った傷は、今日になってもまだ癒えていないようだ。それでも何とか僕についていこうとする様子は痛々しく、申し訳なかった。
試しに、こう聞いてみる。
「ねえ呉尾くん、足、大丈夫?」
「ああ、気にするなって。 ここらで響いているはずの悲鳴が、ボクと盾にしか、聞こえないなら、お前一人よりも、二人で駆け付けた方が、心強いんじゃないのか?」
僕を勇気づけるためか、あるいは心配させたくないのか、カッコつけた口調で返してきた。敷地に入る前に自ら言った通り、命を救ってもらった借りを返すために最後までついてくるつもりなのだ。
しかし、呉尾くんは怪我しているうえに、体力を切らし始めているので、想像の暴走が起きているかもしれない場に彼と共に行くのは、心強いどころか危険である。
呉尾くんはそういった意味でも、ポンコツだ。
だが、それが彼の良さでもあるように感じられた。
現に、呉尾くんを心配したはずが、むしろ呉尾くんは力を分けてくれたのだ。それも、熱い覚悟からきているであろう力を。
どんなに絶望的なことがあっても、僕がこんなに魅力的な呉尾くんと友達になれている以上、必ず矛子を助けられる気がしてきた。
もしも、矛子がいたずらで僕から赤の柄を盗んだばかりに、赤の柄による想像の暴走に襲われていても。
もしも、矛子の心が蝕まれ、打ちひしがれていても。
もしも、矛子が取り返しのつかない状態になってしまっても。
それでも救い出せる。
僕は変われる。そしてこの地を守れるのだから。
自らの使命で必死になった僕は、僕のために勇気を振り絞ってくれた呉尾くんと共に校舎の間を駆けてゆく。
喉や肺がどんなに痛んでも
「おい盾! 妹の命を、救うんだろ!」
呉尾くんが肩で息をしつつも使命を思い起こしてくれた。赤の柄を持っていない中でこんな風に走り続けることは、中学の僕や一昨日の僕なら、諦めて歩みを止めることはなくとも、かなり辛かったに違いない。
臆病ながらも自分の言ったことに筋を通し、勇気を振り絞ってくれる呉尾くんには、感謝してもしきれそうになかった。
やがて、青海さんの声が一番大きく聞こえるうえに、空気中を強い金切り音が走る、グラウンドの近くのプレハブ小屋へ着いた。
「なんだこれ……バトル漫画の、世界に、入っちゃったのかな……」
近くの建物の壁にもたれて息を整えつつも、あまりの衝撃に声を漏らししまう呉尾くん。満身創痍な彼の言葉通り、現実と思えない戦いが繰り広げられていた。
そこでは、赤黒い肌の恰幅の良い女性が槍を片手に、青の柄の刀を持った青海さんと互角に渡り合い、赤や青緑の火花を散らしていたのだ。
「あの人達の、どっちかって、お前の妹、なのか?」
「いや、刀を使ってる方は僕の知り合いだけど、槍の方は、知らない」
槍の方、もとい黒い髪色でヘアスタイルがボブの彼女は、身長が大体160㎝の青海さんと比較すると、女性の体格は二回り大きく、190cmはありそうだ。しかし、その身に包んでいる体操服のサイズは彼女の体の大きさの割に小さいようで、臍が露出しており、半ズボンは長い太ももの半分ほどまでしか隠せていない。
一方で、妹の矛子に青海さんが何か叫んでいるのが聞こえて中学校の敷地に入ったはずだが、肝心の矛子がいない。まさか、青海さんが戦っているあの女性に何かされてしまったのか。
「青海さん! 何があったの!?」
槍と刀が激しくぶつかる音圧の中でも聞こえるよう、走って疲弊した肺と共に、焦りつつも最大限の大声で青海さんへ質問する。
「赤山、ちょうどよかった! 言いたいことがあるの!」
女性の猛攻に応戦しつつ、僕以上の甲高い声で懸命に返してきた目の前の青海さん。この状況で言いたいこととは、一体何なのだろうか。
「初めて会った時、罵ったり殴ったりして、ごめん!」
「え?」
意外な返答に思わず驚きを隠せず、喉の変なところを通った間抜けな声が出てしまった。
初めて会った時と言うと、公園で赤の柄を引き抜いた後、青海さんに悪いこと言われたうえに一方的に殴られ、青海さんの想像の暴走と戦った時のことだ。しかし、あの時は想像の暴走を倒した後、二回も謝ってきてくれたはずだ。なぜ再び謝るのか、よく分からない。
「いや、もう謝ってくれたのに……なんでまた一回謝るの?」
青海さんに素朴な疑問を伝えたその時。
「それで私が止まると思っているんですか? 先輩がやったことは、そんなことでは済まないんですよ!」
青海さんの後輩らしき女性が、口角を上方向や横方向にありえないくらい歪ませながら吐き捨てた。
「いい加減に、グチャグチャになれ!」
女性の激しい一言の後、狂犬を思わせる猟奇的な恐ろしい笑顔とともに、程よく筋肉がついた両腕から、青海さんをめがけて赤い一突きが繰り出される。
それは、ただでさえ痛む僕の肺を、さらに詰まらせるほど黒い気迫を纏っていた。昨日の痛みを経験して激痛に慣れていなければ、今頃倒れていただろう。
しかし、青海さんはそれに動じないどころか、腹部を狙う槍の攻撃に対して刀を冷静に一振りし、すんでのところでいなした。青緑に光るその瞳には、凛々しさと、薄く淀むように悲しさが浮かんでいた。
ところで、先程の青海さんとの会話、もとい叫び合いに気を取られていたため、あの女性は一体どんな人物なのか、そして矛子は一体どうなってしまったのかをまだ聞いていなかった。
まさか、青海さんの瞳に浮かぶ悲しみとはつまり、矛子に何かが起きてしまったということだろうか。
青海さんに聞いてみようとしたその時。
「分かっているわ、ほこちゃん! だからこそ、あなたのために反省するべく、あたしは生きる! 例えあたしを憎むあんたに、殺されそうになっても!」
先輩は気高く、自らの生を諦めずに正しく生きようとする意思を宣言した。
だが、それによって思いもよらないことを知ってしまった。あの力強そうな長身の女性が、かつては細身で平均的な体形の矛子だったのだ。
言われてみれば、顔つきはかつての彼女に似ており、その手の槍もよく見ると、赤の柄を引き延ばしたものになっていた。肌が赤黒くなっていることから、赤の柄の力が何らかの形で関わっているのだろう。
想像の暴走に襲われているのではないかと勝手に心配していたが、まさか姿を変えて青海さんと戦っているとは、思いもよらなかった。
青海さんと矛子が再び刀と槍を交え、しのぎを削りはじめた瞬間、僕はこう叫んだ。
「ねえ、矛子なの?!」
もしかしたら自分の悪い思い過ごしかもしれないと思い、今一度女性に叫ぶ。
「うそ。 ほんとに、いつの間に居たんだ、盾」
青海さんとせめぎ合っている最中の女性の口より、緊張した声が発せられた。それは紛れもなく、妹だった。
「矛子、何があったんだよ。 しかも、僕の知り合いの青海さんと戦うなんて」
何があって矛子が青海さんと出会い、こんな風に戦っているのかを聞くべく、彼女を怖がらせないように今度は優しい口調で質問した。
「……盾こそ、何で言ってくれなかったの?」
矛子は、今にも泣きそうになり、嗚咽に近い声を出し始めていた。
「言ってくれなかった?」
「そうよ、盾! 青海先輩に、殴られたりしたのに! 何で言ってくれなかったの!」
だんだん彼女の声に、鼻水をすする音も混じり始めている。
「……あるものを見つけられたからだよ」
「あるもの?」
「うん」
矛子は涙目になりつつも、槍で青海さんの刀を軋ませる。青海さんに対する恨みや、僕を心配している思いなどが混ざり合っていたのか、その両手は震えていた。
僕は一度、大きく息を吸ってから、情緒が不安定になっている彼女にも納得してもらえるよう、話を続けた。
「『想像を、幸せを実感するために使う』っていう夢と、『僕は変わって、この地を守る』っていう使命を見つけられたんだ」
「夢と、使命を見つけられた……? 酷いことされたのに?」
どこか腑に落ちないのか、鼻をすすりつつ聞き返してきた。
「そう。 確かに酷いことをされたけど、あの後、青海さんが生み出してしまい、青海さん自身に襲い掛かる『想像の暴走』っていうものから命を助けたんだ。 あれが無かったら、僕の夢は見つけられなかったと思う」
「青海先輩も、命を助けられていたんだ」
矛子が言う「命を助けられていた」という言葉には、重みがあった。そういえば、前に矛子はこんな話をしていた。小学生になりたてだった僕は、川でおぼれた矛子の命を助けたことがある、と。矛子の命を救ったのはあまり覚えていないが、矛子にとっては特別な意味があるのだろう。
「うん。 それに、青海さんと出会ったり、助け合ったりしたおかげで、他に気づけたこともあった。 自分の内面のこととか、なんで友達がいなかったかとか。 あと、この地を守るとはつまりどういうことか、自分が変わった先でどうなりたいのか、なんかも気づかされた」
ふと、話題に出てきた当人である青海さんに目配せしてみる。矛子とせめぎ合って険しい顔になりつつも、懐かしさを感じたのか、どこか微笑んでいるようにも見えた。
今思うと、最初の出会いこそは罵倒から始まって険悪な雰囲気だった。しかし、その後に発生した青の柄の想像の暴走や、黒の柄による想像の暴走との闘いなどを経て、青海さんと出会えてよかったと感じる。
「そうだったんですね、先輩」
そう言いながら矛子は、腕の力を緩め、青海さんとせめぎ合うのを止める。
「ええ、酷いことをしちゃったうえに、正直、助けられてばっかりな事もあった。 赤山には、申し訳ないことをしていたわ」
「けど先輩、その時はなんで、盾を罵倒したり、殴ったりしたんですか」
青海さんは刀を降ろし、少しうつむくと、重苦しく話し始めた。
「中学の林間学校の時に嫌な思い出があって……クラスで浮いてた子と仕方なく一緒にいたとき、半ば襲われるような接し方をされたのがトラウマだったの」
青海さんは僕の方を向くと、言葉を続ける。
「その子と、頑なに赤の柄を渡してくれなかったボッチのあんたが重なっちゃって……分かってる、どんな理由があっても、人を傷つけちゃダメだって。 だから、ごめん!」
そう言うと、深く頭を下げた。確かに、もしも僕が青海さんの立場なら、こんな風に考えてしまうかもしれない。
「盾はもう、ボッチじゃないよ」
後ろからそう言ってくれたのは、呉尾くんだった。ここに着いて二言か話したきり、何も口にしていなかったが、息を整えるためだったのだろう。その証拠に、息切れが収まっていつも通りの口調になっていた。
その時、どこからか石が砕けるような音がした。
「あなたは昨日、盾を一緒だった三人組のうちの一人ですよね?」
呉尾くんに対してそう言ったのは、矛子だった。青海さんと和解して落ち着いた様子から一変し、呉尾くんを睨むなり、先程の狂気的な様子に戻っているのだ。高身長のままであるのも相まって、威圧的な雰囲気が放たれる。
「盾に何があって、あんな傷ができたんですか?」
再び、赤の柄でできた槍を構え始めた。驚いた僕と青海さん、呉尾くんは、とっさに距離を取ってしまう。特に、臆病な呉尾くんの様子を見ると、顔を引きつって怖がっていた。
「それとも、あなた達が盾に何かしたんですか?」
また、硬い何かが砕けるような音がした。それも今度は、矛子から出ている音であるのがはっきり分かった。
そこで、彼女をよく見てみると、槍を持つ左腕には太い血管が浮き出ており、肘があり得ない方向に曲がっていたのだ。
すると先程の音は、矛子の骨が砕ける音なのだろう。もしや、矛子が普段と違うこの姿に変貌しているのと何か関係があるのだろうか。
「青海さん、そういえば矛子は、何があってこの姿になっているんですか?」
「……想像の暴走に憑依されていたのよ」
青海さんはいつの間にか再び刀を構え、思いつめた表情でそう言う。
「想像の暴走は確か、最後に使った人を襲うから、まさか」
「ほこちゃんの命が、確実に危ない」
青海さんから発せられたその言葉は、僕の頭の中で、何度も繰り返された。
ほこちゃんの命が、確実に危ない、と。
繰り返されてゆくたび、指先や頭から血が失せて冷えるような錯覚に陥ってゆく。
さらに、何かに堪えられなくなった呉尾くんが、震えながら叫ぶようにこう言った。
「よくわかんないけど、盾と、盾の知り合い、早く逃げよう!」
この時、僕はまだ知らなかったが、校舎の屋上より、とある二人組が屋上の金網にもたれながら僕たちの様子をみていた。
「想像の暴走は、肉体に憑依させることもできるのか。 ただし、肉体を蝕む諸刃の刃……」
独り言をつぶやく黒い長髪の男は、黒く裾の広い甚兵衛で全身を包んでいた。
「赤の柄ってやっぱりすごいでしょ、お兄さん」
ハツラツにそう言う白髪の少年は、白い甚兵衛を着た姿で、目を閉ざしている。
「そうだな。 確かに、欲しがるのも頷ける柄だ。 これなら、君が持つ問題も解決できるかもな」
黒甚兵衛の男と白甚兵衛の少年の手には、それぞれ黒の柄、白の柄が握られていたのだった。




