第三十四話 「野生児なの?!」
「どうしたも何も、顔がその、赤黒くなってるよ」
私が起こしてしまったという「想像の暴走」を倒してから、先輩は気がめいったのだろうか。ただでさえ憎たらしい顔をさらに真っ青にして、妙なことを言い始めたのだった。
「私の顔が、赤黒い?」
「ええ、紅色の煙が顔とかに馴染んでいって、赤くなってる……」
言われてみれば、視界は少し赤みがかり、ぼんやりしているような気がする。
顔を確認するべく、鏡があるお手洗いに行くため歩き始めようとしたその時。振った腕の皮膚がいつもより赤っぽくなっていた。マラソンを走り終わって息が上がっている時ぐらいの赤さだが、一つ奇妙なことに、マラソンを走っていなければ、疲労で息が上がっているわけでも無いのだ。
この変化が腕や手だけならまだよかったものの、なんと露出している膝や脛にも起きていた。
赤みは、だんだん元ある褐色の肌を隠していき、より深い紅に染め上げてゆく。まるで、先輩がさっき倒した想像の暴走のように。
そのとき、右の二の腕辺りより、内側から何かが煮えて湧き立つような感覚がした。沸き立つと言っても勇気とかの感情ではなく、物理的にだ。
気になって右の半そでをめくると、腕が一回り太くなり、筋肉の陰影が濃くなってピクピクしていた。元の腕の太さを500ml入りのペットボトルくらいとするなら、今の腕は1L入りのペットボトルぐらいだ。
煮えて湧き立つ感覚は右腕だけにとどまらず、左腕に左右の肩、太もも、ふくらはぎからも伝わってきた。何が起きているのかを見てみれば、右腕と同様、筋肉が発達し、元よりも太くなっていたのだ。
先程までは主にマラソンに適した細めの体形だったので、この変化は明らかにおかしい。
「まさか、想像の暴走が『憑依』したの……?」
声を震わせつつ、怯える気持ちを殺して再び刀を構える先輩。いつもなら同じくらいの視線のはずが、なぜか今は先輩が見上げるような形になっていた。まさか、身長まで伸びているのだろうか。
もし先輩が言う通り、この変化は憑依によって起きたことなら、今度こそ、先輩をグチャグチャにできる。しかもさっきと違い、今度は巻き添えなどで自分の命を犠牲にすることない。
こんなにおいしい話、逃すわけにはいかない。
そう考えると思わず口角が上がり、にんまりとした笑顔を見せてしまう。
「先輩、さっきの続き、してあげますよ」
静かにそう告げる私の右手には、いつの間にか紅色の煙と共に槍が握りこまれていた。
「ほこちゃんの気が済まないのなら、全力で受け止めるわ」
対して、青緑に瞳と刀を光らせ、疲れた様子から一変して真剣な様子になる青海先輩。
かつて陸上部のOBとして尊敬していたが、その実、私の恩人である兄を傷つけた張本人。この力でこの世から消せると思うと、うずうずしてたまらなかった。
◇
「盾も中学校に用事があるだなんて意外だなぁ。 どこの部活のOBなの?」
「OBじゃなくて……妹がそこに通ってるんだけど、ちょっと妹に用事があって。 ちなみに呉尾くんは?」
「野球部だね。 あのときは部活が終わった後、先生にバレないように部室でスマホを出して、皆で野球中継を見るの楽しかったなぁ~! 画面に表示されてたB、S、Oの意味は未だによく分かんないけど」
いつもの帰り道から少し逸れた並木通りを歩く、僕と呉尾くん。隣を流れる川のせせらぎが、呉尾くんのほがらかな声と共に耳を癒してくれる。
昨晩、森での激闘の後に家に帰ってからというものの、スラックスのポッケに入れていたはずの赤の柄を無くしてしまった。自分が変わり、この地を守るために重要なあの赤の柄を、だ。しかも、寝坊した今日の朝に初めて気が付いたので、まさに寝耳に水だった。
身体が痛みながらも電車で登校する間、無くす心当たりをずっと考えていた。そして、ある一つの結論に至った。
「矛子のいつものイタズラなのでは」と。
思い返せば、矛子は昨日、スラックスになにか細工していそうな様子を見せていた。その拍子で赤の柄を見つけていても、何らおかしくない。
正直、あのいたずらっ子が持っていると思うと気が気じゃなかった。
だが、家に帰って妹である矛子の部屋に勝手に入り、赤の柄を探すのは気が引ける。そのため、直接妹に質問することにしたのだ。
「にしてもさ、そのほっぺの絆創膏、貼り換えないの? なんていうか、すっげー水色だよ?」
正論をぶつけてくる呉尾くん。
今朝、水色のコスメで顔を塗りたくられるうえに第三の目を付けられる、というドッキリを矛子に仕掛けられ、その影響で口の左右に貼った絆創膏もコスメで水色に塗られたのだ。
ご丁寧にも枕の横にウェットティッシュタイプのメイク落としを用意してもらっていたおかげで、肌に着いたメイクはすぐに落とすことができ、遅刻なんてことは免れた。しかし、時間的に、そして精神的に絆創膏を貼り直す余裕はなかった。
「その……怖いんだよ」
「怖いって?」
「剥がすと……その……」
剥がさない理由を言ってしまったら、ちょっと馬鹿にされそうな気がする。なんとなく負けたような感じになるので、それは嫌だ。
だが、ここで心を開かなかったら、関係を深くできないかもしれない。
「あ、分かった! 剥がすの痛いからでしょ!」
「……もしかして呉尾くんって、第六感がカンストしてない?」
まさか言い当てられてしまうとは。こっちの心を開かなくても、無理やり心をこじ開けてくるタイプの人間なのかもしれない。
こんなくだらない会話をしつつ並木通りを歩いていると、通りの左手に目的地である中学校が見えてくる。
妹とは中学校が同じなので、ここに来るのは一か月くらい前の卒業式以来だ。
あのときの放課後は、ひたすらに惨かった記憶がある。
周りは皆、親にお願いして友達同士で記念写真を撮るなり、お互い涙を流して別れを悲しむなり、グループを作って大人数でカラオケやボーリングに行くなりしていた。
一方で自分は誰からも誘われることが無ければ、誰かを誘えるような人間関係も無かった。かといって無理やりにでも他人のグループに入って一緒に楽しむのは、そこでもボッチになってしまうか、場の空気を冷めさせるのが目に見えていた。
他人と距離を詰めようとしては、同じ極同士の磁石みたく離れられてしまうのが常だったので、自分が会話できる距離には誰もいなかったのだ。
こんな風にクラスメイトとの人間関係が全く無かった故、卒業式で泣く気分にもなかった。
もし時を卒業式に巻き戻し、無理やりにでも泣くとしたら、どう足掻いても変えられない孤独が高校でも続く、という不安に対してだろう。仮に自分の痛みを訴えるための涙のほかに、誰かと別れるための涙も持ち合わせいても、それを外に出せるきっかけが僕には無かった。
「ねえ、なんか鼻水たらして泣いてない? 大丈夫?」
「え?」
いつの間にか鼻をすすれるほどの鼻水が漏れ出しており、目も赤ぼったくなっているのに気が付く。
「ってすっげー! 透明な細いネクタイができてるよ!」
「は?」
言われて下を見てみると、鼻水が青い自分のネクタイにかかりそうになるくらい、大きく垂れていた。慌ててポッケからティッシュを出そうと手を突っ込むが、中身のない空間を手探りするだけに終わってしまった。
こうなったら、呉尾くんから借りるほかない。
「呉尾くん、ティッシュ……」
「そうだったね、って、持ってきてなかったんだ!」
呉尾くん、せめてそこはポンコツではなくて欲しかった。
「え、うそ」
力ない言葉が、自分の口から漏れてしまう。
「けど、そこらへんの草で拭えばよくね?」
「野生児なの?!」
絶望している自分に対しておちゃらけた様子の呉尾くんで、半ば切れそうなツッコミをしてしまった。
何でまた言ってしまったんだ。
すぐさま後悔し、鼻水ごと口を抑える。思えば、こんな風に反応してしまい、喚くのが自分の良くないところなのかもしれない。
ああ、また人を白けさせてしまう。覚悟したその時。
「野生児って言っても、人間って元々猿だったから、野生みたいなもんだろぉ?」
白けなかった。むしろ小野くん、楊木くんと話していたときのように、笑いながら乗っかってくれた。
その時、心が重い何かから解放され、開いた気がした。呉尾くんとならもう、自分を隠さなくて良いのかもしれない。そう思えた僕は、自分で口を抑えるのをやめた。
「っておい、手に鼻水のレインボーブリッジできてて汚ったね! はやくほら、草、草!」
結局、道端から千切った青い草で本当に拭ってしまった。しかも道のベンチに座ってる呉尾くんをよそに、鼻水が垂れても良いように地面にしゃがんで拭うのだから余計恥ずかしかった。誰も通らなかったのが、せめてもの救いだ。
拭う直前、もしかしたら犬の糞尿などがついているのではないかとためらったが、背に腹は代えられないのだ。いや、十分に確認して綺麗そうな草を選んだが、本当に付いていたなら、腹を心臓に代えていることになるのではないだろうか。
「なあ盾、もしかしてお前が泣いたのってさ?」
まさか、それも言い当ててしまうのか、呉尾くん。
「花粉症か?」
さすがにそこまでは言い当てず、安心した。
途端、どこからか女性の叫び声が聞こえた。耳に突き刺さり、木に止まっていた小鳥の群れが去ってゆくほど、悲痛なものだった。
「なんか起きたのか!?」
呉尾くんはベンチで三角座りになり、うずくまる。
あの悲鳴は、目の前の中学校から響いていた。
中学校の方を向いたその時。
「ほこちゃん! 目を覚まして!」
この勇ましい声、間違いなく青海さんだ。そしてほこちゃんとは、おそらく矛子のことだろう。まさか、赤の柄で自ら起こしてしまった想像の暴走に、巻き込まれてしまったのか。
まずい。身近な人である自分の妹さえも助けられなくて、何が「僕は変われる。 そしてこの地を守れる」だ。
赤の柄が無いから変われない、などと言っている場合じゃない。妹の命がかかっているかもしれないのだ。なんとかしなければ。
「呉尾くん、ちょっと行ってくる」
僕が歩み始めた先は、中学校の校門だった。
今僕は赤の柄を持っていないため、青海さんの足手まといになるかもしれない。しかし、先輩は「目を覚まして」と言っていた。何か矛子に訴えているみたいだったのだ。それなら、矛子の親族である僕も先輩と力合わせて訴えれば、何か役に立つかもしれない。
「おい正気かよ!? 叫び声がそこから聞こえったってのに」
「……どうやら、僕の妹の命がかかっているかもしれないから」
「ったぁ~もうわかったよ! 盾に命救ってもらった借りもあるし、俺も行くよ!」
本当は怖がる彼を連れて行かないべきだろうが、勇気を振り絞って一緒に来てくれると言ってくれた呉尾くんが、何よりも心強かった。
しかし、この時は知らなかった。まさか呉尾くんの影響で勇気がもらえる反面、もっと危ないことになることを。




