第三十三話 「魂情」
開かれたプレハブ小屋の入口より見える、紅色の煙で満たされた部屋。そこに立つ人影がだんだん濃くなり、こちらへ迫って来るように見えた。これが、青海先輩をグチャグチャにするため柄を使ったばかりに起きてしまった「想像の暴走」というのだろう。
「ほこちゃん、あんたが想像してたやり投げ選手が、今からあんた自身に襲ってくる。 早く逃げなさい」
勇ましくそう言い、私のすぐ前に立って人影へ刀を構える青海先輩。青緑色に光る刀身と瞳孔は神秘的で、妖怪のような怪しさがあった。
先輩が言うあの人影が、私に迫って来るのなら。
先輩を巻き添えにして今度こそ、グチャグチャにできるのではないだろうか。
「来たわよ! 早く逃げてほこちゃん!」
先輩の顔が後ろにいる私へ軽く向き、近距離で叫んでくる。しかし、そんな言葉を無視し、むしろ先輩の背中へさらに近づくべく、ゆったり歩く。
「早く逃げて!」
私が距離を詰めたからなのか、それとも先輩がさらに張り上げたのか、一層声が大きくなった。それでも、止まったり引き返したりすることなく歩く。周りの時間が、少しだけゆっくりになっているような気がした。
「ねえ早く!」
先輩はだんだん声高になり、焦り始めていた。それでも、焦ったり怖気づいたりすることなく、巻き添えにするという目的のために歩く。
「早く!」
恐ろしさや焦燥感が最高潮に達したのか、顔が悲哀に満ちる先輩。そんな様子をよそに、先輩の両脇に腕をくぐらせる。
「何考えてるの!?」
その刹那、甲高い音と主に火花が散る。
先輩の足が地面からふわりと持ち上がったかと思うと私の足も地面から離れ、黒いアスファルトの地面へ二人で共倒れしてしまった。
私の上に乗った先輩の頭から血らしい液体が流れることはなく、代わりに外はねの長い髪が顔を覆い隠しただけだった。私が羽交い絞めにしていたにも関わらず、手首を器用に動かすことで刀身を顔の前に持ってきて、なんとか人影からの攻撃を防いだのだろう。
「離してほこちゃん! 立ち上がれないって!」
それでも、私は離さない。もがいて振り解こうとする先輩に対し、腕に精一杯力を入れ、先輩の体を抑えた。
「あんた、何考えてるの? 想像の暴走に襲われちゃうんだよ!」
もがきつつ、訴えかけてくる先輩。目には少しばかりか涙が浮かんでいた。
「ええ、襲われるんです。 それに先輩も巻き添えにするんです」
「は? 自分の命を犠牲にしてでも、あたしの命を奪いたいの!?」
「そういうことです」
その時、アスファルトをゆっくり転がる硬い音が右耳から聞こえてきた。
右を向くと、先ほど先輩が防いだであろう紅色の槍が間近にあり、鋭い槍頭が私の眉間へ向いていた。もう少し頭の位置がずれていれば、確実に私の眉間をえぐっていただろう。
部室で矛を先輩に向けた際、先輩は怖気づいて素早く後ずさっていたが、今のように硬い地面で横になって先輩を羽交い絞めにしていなければ、確かに遠ざかりたくなる。それくらいの恐ろしさだった。
その槍が、柄尻を何かに引っ張られるように小屋の入口へ引きずられ、視界からフェードアウトする。
槍が向かった先を見ると、そこにいたのは頭が無い、女性らしい体つきの人だった。赤く艶のある肌の上から深い紅の陸上ユニフォームを着用し、露出している脚部や腕回り、おなか周りは引き締まっている。
「ウソ……」
想像の暴走の姿に、思わず声を漏らす先輩。先輩を抑えている私も、赤い鬼とも見える奇々怪々な存在に対し、直前で先輩の声が聞こえていなければ思わず叫びそうだった。
一方で鬼の方は、いつの間にか足元に引き寄せられていた槍を手に取り、再び先輩へ目掛けて構えてしまった。
鬼からこちらまでは、距離にしておよそ五メートル。もしこの至近距離で槍を放つのなら、助走なんていらないだろう。二人まとめて即死は確実だ。
なら、いっその事やってくれ。
もう一度、先輩を巻き添えにする覚悟を決めて先程以上に締め付けたその時、先輩の力が抜けてしまったようで、思った以上に抑えつけやすくなっていた。先輩は、もう諦めたみたいだった。
だが、違和感を感じる。先輩の性格ならば諦めずに最後まで必死にもがきそうだが、今は投げ出したように力が抜けているのだ。その方が巻き添えにしやすいので、素直に喜んでも良いかもしれないが、先輩なりに何かを考えていそうな気がする。
試しに先輩に話しかけて、頭で何を思いついたのか伺ってみる。
「どうしたんですか先輩、諦めるだなんてらしくないですけど」
「諦める?」
希望に満ちた様子で聞き返してきた。やはり、先輩なりの考えがあるみたいだ。
先輩はさらに言葉を続ける。
「あたしが諦めるワケないよ。 そんなこと、今まで部活で一緒にやってきたほこちゃんが一番知ってるでしょ?」
その表情は、私には都合が悪い意味で覚悟が決まっているようだった。
「ほら、来るよ。 そんなに巻き添えにしたいのなら、しっかり掴まって」
先輩が呼びかけた一言で、違和感は確証に変わった。私に羽交い絞めにされて寝ているうえに、想像の暴走に狙われたこの状況を打開できるような秘策を絶対に閃いている。あの言い方からして、先輩を抑えつけていることがむしろ好都合なのだろう。
なら、いっそのこと離すべきか。
いや、離してしまったらそれこそ巻き添えにできなくなる。だからこのまま抑えているべきだ。
だが、ただ抑えるだけではダメだ。抑え方を変えないといけないだろう。しかし、先輩が何を閃いたのか分からない以上、どう変えるべきか分からなかった。
考えるのは、きっぱり諦めてしまった次の瞬間。
強くアスファルトを踏みしめる音がした。
赤い鬼が槍を構えていたうえで飛び上がっていたのだ。
その右手から、槍が離れてゆく。
遂に、やってくれるのだろう。
「蛇高速射」
先輩は、そう叫ぶ。
この言葉、さっきも聞いた気がする。
あのときは、プレハブ小屋の部室から次の瞬間には外に出ていたような。
ということはまさか。
気づいた時には、もう遅かった。
地面から離れた背中は、天を向いていたのだ。
どういう訳か、先輩は私をおんぶするようにして立ち、羽交い絞めされて不格好な体勢ながらも構えた刀で槍とせめぎ合っていた。
絶対に先輩ごと私を貫こうと、地面に落ちたり弾き飛ばされたりせず、空中で意地を張る紅い槍。
そうはさせまいと、槍がこれ以上進むのを一向に許さない、青緑に光る先輩の刀。
まさに貫けないものはない矛と、防げないものはない盾がぶつかっているようで、両者が火花を散らす。
しかし、若干槍が押している様子であり、先輩の背中に伝わってくる心臓の鼓動や息遣いから、身体も限界になりつつあるのが分かった。
そのまま限界を迎え、槍ごと貫かれるのは目に見える。あともう少しで、先輩に打ち勝つことはできないものだろうか。
そう考える私をよそに、先輩はより強く刀を握りしめ、こう叫んだ。
「魂情!」
文字通り何かの根性が入ったのか、刀身が青緑から深い紺色に光り始め、周りから感じる気迫もより強くなる。前までは押され気味だったのが、だんだん持ち直し、槍を少しずつ遠ざけ始めたのだった。
もしここで一旦先輩を抑えるのをやめて、先輩の態勢を崩すことができれば、この逆転を許さないことができたかもしれない。
しかし、手を放そうとすることができない。目の前の槍が恐ろしいのか、それとも火花か。どちらにせよ、頭ではもう覚悟できているのに対し、体を動かすことができず、じれったかった。
「ッタァー!」
先輩がさらに気合いの一声を入れると、紺色の斬撃によって槍は遂に弾かれた。金属でできているのか、大きな固い音と共にアスファルトの上をはねた後、虚しく転がっていった。
さて、大本の鬼のような者はどうなったのかと見上げると、いつの間にか消えており、紅の煙も晴れつつあった。
「ほこちゃん、大丈夫?」
先輩はおんぶする体勢をやめて背筋を伸ばし、背中で羽交い絞めにしている私を地面に降ろそうとする。想像の暴走が消えた以上、先輩を抑える意味はもう無いので、つま先からゆっくり地面に足を降ろした。
あのとき、なぜ体が動かなかったのかよく分からず、やりきれないような何かが湧き上がっていた。
私を降ろすと先輩は疲れ切った様子で後ろを振り返る。するとどういう訳なのか、顔を合わせるなり、せめぎ合ってやつれていた顔色がさらに青ざめていった。
「どうしたんですか、そんなギョッとして」
「どうしたも何も、顔がその、赤黒くなってるよ」




