第三十二話 「ちゃんを付けんなよクソハネ野郎」
「この赤の柄って、本当はあんたの兄が持ってるはずなんだよね……」
私の手に収まる柄を見せると、部活の情熱的な雰囲気と打って変わり、ひんやりと軽蔑した口調になった青海先輩。今の彼女と二人きりで居るプレハブ小屋の横長な部室が、気持ち悪いくらい冷たく感じられてきた。
先輩が柄を持っているから、兄を傷つけたであろう不思議な柄について質問してみれば、まさか盾と知り合いだったとは。しかも、先輩はこの柄が兄の物であるというのだ。これは、盾をいじめたあの三人のものじゃないというのか。
一方の先輩。右手を腰に巻いた青緑のジンベエに回し、左手をこちらへ伸ばしながら一歩、また一歩とゆっくり歩み寄ってきた。
まるでこっちに寄越せと言わんばかりの態度でありつつ、どこか落ち着いた様子。不思議なことに、今朝出会った白髪の少年と重なるものがある。それに気が付くと途端に気味悪く感じられてきた。
もし応じるように柄を先輩に渡し、盾に返されたりなどしたら、あの三人と何があったか探れなくなってしまう。盾に三人のことを聞いても隠そうとするのが目に見えるので、柄を渡すのだけは絶対にできない。
とはいえ、先輩は話の分かる人だ。目の前にいる先輩は部活の時の先輩と違うが、渡さない理由を言えば、納得してくれる気がする。
きっと、そうだ。
「……先輩、この柄で、私の兄は傷つけられたんです。 だから、なぜ傷つけられたのか分かるまで、兄に返すつもりはありません。」
「傷つけ……られた?」
その時、先輩の足取りは張り付いたように止まった。目つきは先程の軽蔑や部活の時の情熱とも違い、俯いてどこか暗くなり、生気が失せていた。さらに、足取りはだんだん左右にフラフラしていた。
「タイミング……今まで逃して……このこと隠してたけど……言うならもう……今しかない……」
意味不明なことを弱弱しくつぶやくと、なんと床の上で正座になり、そのまま土下座した。
「ほこちゃん、確かに私は三日前、この学校の近くの公園で、あなたの兄を罵倒した上に、喉を殴ったり、頭に平手打ちをしてしまった。 本当にごめんなさい!」
私の目の前で、部室中にこだまする声と共に、先輩ははっきりと謝罪した。
それは、私が気づかなかった盾のことについてだった。
盾は、昨日三人に傷つけられる前に、罵倒され、殴られていたのだ。
罵倒され、殴られていた……?
青海先輩に?
部活のOBとして陽気に手伝ったり、アドバイスしてくれたあの青海先輩が、
盾を
兄を
罵倒し
殴っていた
あんまりにもショックだったのか、私の足に血が通わなくなる感覚に陥り、立っていられなくなってきた。目も、ひとりでに潤み始めた。
「……ねえほこちゃん、それ……」
「先輩、何頭を上げているんですか?」
いつの間にか、右手の「赤の柄」の矛先が、先輩の眉間の方へ伸び、先輩の肌や白いセーラー服を真っ赤に照らしていた。
その時何処からか、割れた水晶がゆっくり床を動くような音がし始めた。音の出所を探ろうと先輩の後ろを見渡すと、妙なことに、青色の薄い光が壁に照らされていた。
再び視線を先輩に移し、先輩の仕業なのか様子を伺うが、特に変わったことはしていない。
今まで頼りにし、時に自分と仲良くしてくれた先輩を見つめるたび、盾を殴って快楽を感じる醜い様子が脳裏に浮かんでしまい、その髪型が、目つきが、鼻先が、全てがグチャグチャにしたくなるくらいに憎たらしく思える。
私の命をつないでくれて、大切な思い出をたくさん作ってくれた人が、理不尽にもこんな奴に傷つけられたと思うと、胸が押さえつけられて苦しかった。
ましてや、同じく私を助けてくれていた目の前の奴に傷つけられていたのだ。裏切られた気分も乗っかり、もう頭がどうにかなりそうだった。
目の前にいるのだったら、いっそのこと、ここでグチャグチャにしたい。
動こうとしたときには既に右手が矛を逆手に持ち替え、棒立ちな下半身に対して上半身はやり投げの構えを取っていた。
「本当に、ごめんなさい!」
燦然と赤く輝く矛の峰に驚いたのか、先程の謝罪以上に喚く先輩。怯えながら後ろに軽くのけ反り、スカートをこすらせながら素早く下がる速さはゴキブリといい勝負だった。顧問の先生から「走らせると凄い」と聞いたことがあったが、皮肉にもこの状況で実力を発揮していたみたいだ。自分も磨いてきた陸上のスキルを奴がこんな形で使うことに、軽い吐き気を覚えた。
「ほこちゃん!」
命乞いをするため、再び声を上げる壁際の先輩。その呼び方、その髪型の気持ち悪さと言ったらゴキブリに勝るのかもしれない。
とっとと、私の五メートル先から消えて欲しいと思った頃には、下半身もやり投げの助走をする体勢に入っていた。
「ちゃんを付けんなクソハネ野郎!」
自分のその言葉を合図に、少ない歩数、短い助走と共に、一筋の紅の光を手から離し、奴の眉間へ投げた。
瞬間。
「懇奴!」
先程まで泣きそうになって怯えていた調子はどこへ行ったのか。威勢の良い声が先輩の喉から発せられたかと思うと、矛は赤黒い液体ではなく、赤白い火花を、それも音も無く派手に散らしていた。
直後、時差で耳をえぐる金切り音が響いてきた。
飛び散る火花が当たらぬように手で顔を隠しつつ、矛先をよく見ると、矛は先輩の顔を貫けず、紺色に光る日本刀のような形の刃と文字通りしのぎを削っていたのだ。
どこからか出現した刀身が出ている場所を探るべく、刃に沿って視点を動かすと、なんと先輩の右手にある日本刀のような柄に行きついた。グラウンドにて、先輩のカバンがベンチから地面に落ちた際、中から転がり出た柄だ。
視点を刀身に戻すと、紺色の光がさらに濃くなったかと思えば、私が放った矛をなんと振り払った。
矛は深い紅の残像を描きつつ部室の壁に跳ね返り、こちらの足元へ転がってくる。
あまりにも神秘的な光景に、思わず心臓がいつもの倍うるさい鼓動を打っていた。それに対して先輩を見ると、これがいつものことだと言わんばかりの冷静な顔をし、なぜなのか瞳孔を紺色に光らせていた。
先輩はその場から立ち上がると、一切瞬きをせずに私の目を見つめ、真剣な口調で話し始めた。いつもと違って神秘的な光を漏らす先輩の目は、どこか人であって人でないような雰囲気があった。
「ほこちゃん、あんたの兄はこう言ってたよ。 『想像は幸せを実感するためにある』って。 そうさせるあたしも悪かったから、もう、やめて」
「……私の兄がいつそんなことを言ったんですか?」
突拍子もなく変なことを言い始めたので、すかさず地面の矛を拾い上げ、再び構えた。
「あたしが兄に、殴るのを止められて、その後に蛇の怪人とか黒づくめの不審者と戦った時。 あたしは確かにあなたの兄を傷つけたのに、兄は怪人や不審者から、私の命を助けてくれたの」
「……この期に及んで、見え透いた嘘ですか」
「いいや、あの時は本当に怪人や不審者がいた……ってほこちゃん、その矛」
「え?」
先輩の視線につられて矛を持った右腕を見ると、矛先からレンガ色の煙が出ていた。
「危ない! 蛇高速射!」
次の瞬間、立っていたはずの私は先輩に抱かれており、プレハブ小屋の外に出ていた。そして、先輩の柄はどうやら腰の左側にしまっているみたいで、私の右手にあったはずの矛は無くなっていた。まるでこの一秒だけ、高速で動いたようだ。
すると、小屋から風船が破裂するような音がした。
「そんな、『想像の暴走』が……ケガとか、大丈夫?」
「……は?どういうつもり!?」
先輩から離れるように地面に落ち、四つん這いになる私。抱かれた際、間近に迫った先輩の顔は前までならちょっと気まずい程度に感じていたかもしれないが、今となってははらわたが煮えくり返る思いだった。
先輩の目は、先ほどと違って今度は青緑色に光っている。「コン」と叫んで刀身を作った時には紺色になり、「ターコイズ」と叫んだ時には青緑色に光ることに、ある種の法則性を感じた。
そういえば先ほど、先輩は何か変なことを言っていたような気がする。
「……ところで、『想像の暴走』って何なんですか?」
先輩への憎しみが漏れ出してしまったのか、少しぶっきらぼうに質問する。
「さっきほこちゃんが持ってた柄が悪い使われ方をされたり、柄が持ち主に対して愛想を尽かしたりすると、逆に使用者に襲ってくること。 最後の使用者が想像したもので襲ってくるみたいだけれど、さっきは何を想像してたの?」
「やり投げ選手とか」
そう言った途端、金属が嫌らしく軋む音がした。プレハブ小屋の扉が開く音だ。
「うそ、まさか……」
先程から引き続き真剣な表情でありつつ、柄を持った右手を震わせ、出入口へ向く先輩。
紅色の煙が漏れる小屋の出入口からは、筋肉質な人影が写っていたのだった。




