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1.『春待ち茶』

 翌朝。

 茶屋の裏手にある、小さな平屋で目を覚ました。


 木の床は冷たく、畳の匂いが鼻をくすぐる。障子から差し込む朝の光はやわらかく、外からは鳥のさえずりと、風に揺れる竹の音が聞こえた。

 ここは、老婦人が長らく一人でずっと暮らしている場所らしい。昨夜は、老婦人が炊いた白飯と味噌汁、漬物を出してくれた。それらの食材がどこから運ばれるのか、どこで足しているのかは不明だが、味は確かなものだった。質素だが、胸にじんと染みるような味だった。


 井戸水で顔を洗い、ふと洗面台の古びた鏡に目をやる。

 そこに映った自分の顔を見て、思わず息を呑んだ。


 ――これが、自分の顔……?


 昨日見た記憶の中の少年とはまるで違う。

 頬に刻まれた浅い皺、少しやつれた目元。髭の剃り跡が青く残り、年齢は……三十代半ば、といったところだろうか。


「……ずいぶん、時間が経ったんだな」


 誰に言うでもなく呟く。答えは、鏡の中の自分が知っているのかもしれない。


 ❖❖❖


 その後、茶屋に戻り、老婦人に教えられながら掃除や湯を沸かす準備を手伝った。

 ふと、疑問が口をつく。


「……こんな森の奥に、客なんて本当に来るのか?」


 老婦人は手を止めて、こちらをじろりと見た。


「……失礼な子だね」


「だが婆さん。こんなところに客なんて滅多に来ないんじゃないか?」


「婆さんじゃないよ!お姉様だよ!」


 ぴしゃりと叱られ、思わずたじろぐ。

 だが、その顔はどこか楽しげで、茶目っ気すら感じさせる。


「……お、お姉様?」


「そうさ。ほら、ちゃんと言ってごらん」


「……お、お姉様……」


「よろしい」


 満足げにうなずいた老婦人――いや、お姉様は、ふっと微笑むと、湯気の立つ急須を手に取った。


「まあ、そんな失礼な口をきいても、客はしっかり来るのさ。この茶屋はそういう場所だからね」


 そう言って時計に視線をやり、


「――そろそろ、最初のお客が来る頃だよ」


 と、含み笑いを浮かべた。


 その直後。


 ――カラン。


 戸口の小さな鈴が鳴り、茶屋の扉が静かに開いた。

 霧の白さの向こうから、一人の女性が姿を現す。


 ベージュのコートに、花柄のワンピース。

 おそらく今の自分と歳が近いように見えるその女性は、柔らかい雰囲気を纏いながら、ゆったりとした足取りで入ってくる。


「……いらっしゃい」


 老婦人がにこやかに迎えた。


 女性は軽く会釈をして席に腰を下ろし、

「『春待ちの茶』を」と、穏やかな声で告げる。


 ――その声を聞いた瞬間、胸がざわついた。

 どこかで聞いたことがある気がする。だが、思い出せない。


 老婦人が茶を淹れ始め、ふとこちらを振り返る。


「ほら、味見してごらん」


 差し出された茶碗を受け取り、恐る恐る唇をつける。

 淡い緑の茶に梅の香りがふわりと広がった、その瞬間――


 視界が、揺らいだ。


 ❖❖❖


 視界が揺らぎ、次に瞬きをしたとき――そこは、満開の桜が咲き誇る丘の上だった。


 春の風に花びらが舞い、空はどこまでも青い。

 傍らには、一人の女性。麦わら帽子に白いワンピース――昨日、花畑で見たのと同じ姿だ。

 その手は温かく、小さな少年――かつての私の手を優しく包み込んでいる。


 二人は並んで立ち、桜の木を見上げていた。


「……きれいね」


 女性が、どこか儚げな声で呟く。


「うん!」


 少年姿の私は無邪気に頷き、花びらを追いかけるように笑う。

 女性は、しばらく黙ったまま桜を見上げ、それからふと呟いた。


「……あと、何回……この桜を見られるんだろうね」


「……え?」


 少年が振り返る。


 その言葉の意味がよく分からず、ただ首を傾げると、女性は微笑んだ。


「何度でも……見たいけどね」


「何度でも見ようよ!」


 少年は真剣な顔でそう言う。


「ずっと、ずっと見よう!」


 女性は、その言葉に小さく笑い――しかし次の瞬間、胸を押さえて咳き込んだ。


「っ……けほっ……!」


 その手から、赤いものが滲む。

 花びらの淡い色の上に、鮮やかな血の色が落ちる。


「……お母……さん……?」


 少年の声が震えた。

 女性は苦しげに微笑んだまま、震える手で少年の頭を撫でる。

 少年は必死に母の手を握った。


「いやだ……お母さん、行かないで……!」


 女性は苦しげな笑みを浮かべながらも、そっと少年の手を包み込む。


「……大丈夫。泣かないで」


 桜の花びらが、春の風に舞い上がり、視界を覆っていく。

 その向こうで、女性の姿が徐々に霞んでいく。


「……お母さん!」


 少年が叫ぶと同時に、温かな手が指先からふっと離れ――


 次の瞬間、目の前に広がるのは、茶屋の木の天井だった。


 ❖❖❖


「……はっ……!」


 荒い息をつきながら、茶碗を持つ手を見下ろす。震えている。

 頬を伝うものに気づき、思わず指で拭うと、それは涙だった。


「……今のは……母さん……」


 口にした瞬間、記憶が一気に押し寄せてくる。


 母は――あの年の冬、病に倒れて、そのまま……二度と桜を見ることはなかった。

 病室の匂い、白いシーツ、弱々しい笑み。

 最期に握ったあの手の感触まで、すべてが鮮やかによみがえる。


「……母さん……」


 声を押し殺すように呟いた瞬間、膝の上に涙がぽとりと落ちた。

 向こうの席に座る女性――あれは間違いなく、数十年前に病で亡くなった母だ。

 忘れていたはずの温もりが、胸の奥を容赦なく締め付けてくる。


「……あんたが配膳しな」

 老婦人の静かな声に、はっと顔を上げる。


「え、俺が……?」


「そうさ。彼女が何者なのか思い出したんだろう?」


 戸惑いながらも、小さな丸盆に茶碗をのせ、両手で抱えるようにして持つ。足が自然と母のもとへ向かう。

 震える指先で茶を差し出し、かすれた声を絞り出す。


「……『春待ちの茶』です」


 母はにこりと微笑みそれ。受け取ると、そっと湯気に顔を近づけ、一口。

 懐かしむように目を細め、そして――こちらを見た。


「……大きくなったね」


 頬を伝う涙が、静かに光る。

 その言葉を聞いた瞬間、堰を切ったように胸が熱くなり、視界が滲んだ。


「……母さん……っ」


 声にならない嗚咽をこぼすと、母は立ち上がり、あの頃と同じように、優しく頭を撫でてくれた。

 温もりが、確かにそこにあった。


「……よく、頑張ったね」


 母の声は柔らかく、耳元でそっと囁くようだった。

 撫でる手の温かさが、張り詰めていたものを一つずつ溶かしていく。


「……長いこと、一人で頑張ってきたのよね……それだけで、十分よ。あなたは十分すぎるほどよくやってきたわ」


 その言葉で、堰を切ったように涙が溢れた。理由は分からなかった。今の自分には何かを頑張ってきた記憶なんか何ひとつも残ってはいないのに。母と花を見た思い出と、晩年の様子しか覚えてないのに、それでもなぜだか胸は苦しかった。

 声にならない嗚咽を何度も繰り返すうちに、母は微笑み、静かに身を離す。


「……ありがとう」


 それだけを言い残し、母は懐から小さな包みを取り出し、老婦人へと差し出した。

 包みは、淡い光を帯びて消える――それが何だったのか、言葉にはできない。


 老婦人はそれを受け取って頷き、


「また、桜が咲く頃にでもおいで」


 と穏やかに告げる。


 母は一度だけこちらを振り返り、柔らかな笑顔を見せ――霧の向こうへと消えていった。


 しばらく呆然と立ち尽くす自分に、老婦人が声をかける。


「……今払われたのは、未練だよ」


 その言葉に、ようやく視線を向ける。


「あんたの母親の未練はね――あんたと、もう一度花を愛でることだったんだ。あの人は、ずっと春を待っていたのさ」


「……春を……」


 そう呟いた瞬間、ふと視界の端を白い何かがよぎった。

 振り返ると――。


 茶屋の窓から、ひらり、と桜の花びらが舞い込んできた。

 一枚、また一枚と、風もないのに次々と漂い込み、空中を静かに彷徨う。


 この森に桜の木など一本もないはずなのに。


 指先に触れた花びらは、ひどく柔らかくて――ほんのりと春の匂いがした。


 胸の奥に、じわりと熱いものがこみ上げてくる。

 気づけば頬を伝う涙が、花びらに落ちては静かに消えていった。


「……母さん……」


 掠れた声が漏れる。

 もう、あの人はどこにもいない。けれど――たしかに、ここにいたのだ。

 この桜が、それを教えてくれる。


 老婦人は湯飲みを片付けながら、静かに言った。


「……ほら、花びらは嘘をつかないよ」


 窓から舞い込んだ桜は、いつしか床に降り積もり、やがて霧に溶けるように淡く消えていく。

 残ったのは、胸の奥に灯る小さな温もりだけ。

 深く息をつく。少しだけ、体が軽くなったような気がした。


 老婦人はそんな自分を見て、にやりと笑う。


「さ、泣くのはそこまで。……仕事に戻るよ。次のお客が来る前にね」


 茶屋の外では、相変わらず深い霧が森を覆っていた。

 その白さの向こうに、次なる誰かの足音が、かすかに響いている気がした。

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