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0.『花惑茶』

 ――はぁ……はぁ……。


 吐き出す息が白く濁り、深い霧にすぐ溶けて消えていく。

 自分の荒い呼吸が、しんと静まり返った森の中にやけに大きく響いていた。


 ザク、ザク……。


 足元の落ち葉を踏みしめる音が、やはり不自然なほど耳に届く。まるでこの森には自分以外、誰もいないのだと示すかのように。


 どれくらい歩き続けているのか――分からない。

 気がついたときには、もう霧の中に立っていた。

 どこから来たのかも、どこへ向かっているのかも覚えていない。

 それどころか……自分の名前すら、思い出せない。


 私は……誰だ?


 ふと立ち止まった瞬間、森の奥から冷たい風が頬を撫でた。

 ざわりと枝葉が揺れる音。鳥も虫も鳴かない。

 ここは、生き物の気配のない世界のようだ。


 霧の向こうに、淡い光が見えた。


 ――灯り?


 息を呑み、ふらふらと光の方へ歩を進める。

 足音と心臓の鼓動だけが、静寂を切り裂くように響いていた。

 その灯りだけを頼りに、疲れ果てて小刻みに震える足を動かし続けた。


 やがて、霧の帳が少しずつ薄れ、光は輪郭を持ち始める。



 ――それは、小さな茶屋だった。



 古びた木造の建物は、瓦屋根がところどころ苔むし、軒先には柔らかな橙色の行灯が一つ、ぽうっと灯っている。簡素な木の看板には、ただ一文字、「茶屋」とだけ書かれていた。この森の奥深くで、これ以外に人の気配を示すものなどありえない。


 気がつけば、足は勝手に引き寄せられていた。戸口に近づくと、鼻先をくすぐる香ばしい茶葉の匂い。胸の奥に、ふと懐かしさのような感覚が芽生える。


 ――懐かしい? いや、そんなはずは……。


 戸を開けると、からん、と鈴の音が響いた。


「おや、いらっしゃい」


 奥から現れたのは、腰の曲がった白髪の老婦人。

 深い皺を刻んだ顔には、どこか温かい微笑が浮かんでいる。


「ずいぶんお疲れのようだねぇ。……まずは、腰をお下ろし」


 その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものがぷつりと切れた気がした。

 訳も分からず、勧められるまま席に腰を下ろすと、すぐに湯気の立つ茶碗が差し出される。店内を見回してみるが、私の他には客はいないらしい。


 湯気に混じる、ほの甘い香り。

 見知らぬ場所のはずなのに、胸の奥がなぜか温かく疼く。


「……これは?」


「『花惑茶』だよ。迷子の人には、まずこれがいい」


 老婦人はそう言って、やさしく微笑んだ。


 ――聞いたこともない名前だ。

 花惑茶?本当に茶なのか。

 湯気に混じる甘い香りが鼻先をくすぐるが、どこか現実離れしていて、妙に心をざわつかせる。


 差し出された茶碗を見つめる。

 淡い桜色の湯の中には、小さな花弁のようなものが浮かんでいる。

 毒なんてことは……。いや、まさか。


 老婦人は何も急かさず、ただ静かにこちらを見ている。


 喉が鳴った。

 茶碗を手に取り、唇を近づける。

 一瞬ためらい、そして意を決して一口――。


 ほのかに甘い花の香りが舌に広がった瞬間――視界が揺らいだ。


 ぐらり、と頭が揺れる。

 気づけば、目の前の光景は茶屋ではなくなっていた。


 ❖❖❖


 ……そこは、一面の花畑だった。

 薄紫や白の花々が風に揺れ、甘やかな香りが漂っている。

 その真ん中で、小さな少年がぽつんと座り込み、しゃくりあげながら泣いていた。


 ――誰だ?


 見覚えがあるはずもない。けれど、胸の奥が強く疼く。

 それが自分自身だと、理由もなく確信していた。


 少年は泥だらけの膝を抱え、顔を埋めて声を上げて泣いている。

 周りには誰もいない。花畑の向こうには、ただ果てしない森の影。

 迷子になったのだ、と悟る。


「……あ……」


 声をかけようとした瞬間――。




 ざわり、と花を分ける音が背後から響いた。

 少年が顔を上げる。

 花畑の向こうから、誰かが現れた。


 やわらかな日差しの中、影絵のように霞んで見えるその人影。

 近づくにつれて輪郭が浮かび上がり、麦わら帽子をかぶり、白いワンピースをまとった大人の姿が現れる。

 優しい笑みを浮かべ、その手を差し伸べると、少年の頭をそっと撫でた。


「……ここにいたのね。探したのよ」


 その声を聞いた瞬間、少年は泣きじゃくりながらその胸に飛び込んだ。


 ――ああ、この声を知っている。


 まるで、ずっと昔に聞いたことがあるような……温かく、包み込むような、思わず泣き出したくなる声だった。


 やがて、女性は少年の涙をぬぐい、その小さな手を取った。

 二人は花畑の細い道を、並んで歩き出す。

 握られた手が安心したように揺れ、少年は泣き腫らした顔に笑みを浮かべている。


 ――なぜだろう、胸が締め付けられるように苦しい。

 それでも、目を逸らせずにいた。


 遠ざかる二人の背中を、ただ黙って見つめ続ける。

 花畑を渡る風が、頬を撫でていく。


 ❖❖❖


 ……ふと、視界が揺らいだ。


 気がつけば、茶碗を握りしめたまま、あの茶屋の席に座っていた。

 湯気はもう消えかけている。


「……戻ってきたようだね」


 老婦人の声が静かに響く。

 胸の奥に残る温もりと、名づけようのない寂しさが、じんわりと沁みていった。


「……今のは、なんだ?」


 思わず声が震える。

 花畑も、少年も、あの女性も――あまりにも鮮やかで、現実のように感じられたから。


 老婦人は、微笑を浮かべたままゆっくりと答えた。


「記憶だよ」


「……記憶?」


「そうさ。あんた自身のものか、それとも別の誰かのものかは分からない。だが……あんた、記憶がないんだろう?」


 その言葉に、息が詰まった。


「自分が何者なのかすら分かっていないね」


 老婆の声は穏やかだが、その瞳はどこか鋭く射抜くようだった。


「そんな調子じゃ、この森をいくら歩いていたって、どこにも辿り着けやしないよ」


 返す言葉が見つからないまま、拳を膝の上で握りしめる。


「……だからね」


 老婦人はゆっくりと立ち上がり、棚から新しい茶碗を取り出しながら続けた。


「記憶を取り戻すまでは、この茶屋で働いていかないかい?」


「……ここで、働く?」


「ああ。もうあたしも歳でね、一人で切り盛りするのは骨が折れるのさ」


 老婆は苦笑いしながら、古びた茶杓を指先で転がす。


「もちろん、タダじゃないよ?」


 そこで老婆は、こちらをちらりと見て微笑んだ。


「働いてくれたら……一日一杯、茶をくれてやる。

 それを飲めば、少しずつ記憶を取り戻せるかもしれないよ」


「……働く、か……」


 言葉を繰り返しながら、視線を落とす。

 記憶がない。行くあてもない。自分が何者かすら分からないまま、霧深い森をさまようだけの日々――そんなものに意味があるのか。


 老婦人の言葉が、静かに胸に沈んでいく。


 ――記憶を、取り戻す。


 一瞬だけ、考えた。

 だが他に選択肢があるわけでもなかった。


「……わかった。ここで、働かせてくれ」


 そう告げると、老婦人はふっと目を細め、やさしく笑った。


「そうこなくっちゃ。じゃあ、今日からここはあんたの居場所だよ」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥にわずかな安堵が灯った気がした。

 名も知らぬ自分と、霧に包まれた森と、この不思議な茶屋。

 ――すべてはここから始まるのだろう。

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