3
新しい制服にも、少しずつ慣れてきた。
朝のざわめき、昼休みの笑い声、教室に満ちる日常の音。
ほんの一週間前まで他人ばかりだったこの空間が、
少しずつ、自分の輪郭になじんでいく。
1限目の現代文。
先生の話を聞きながら、ノートの端に小さな線を引いていたら、
隣の席の子が覗き込んでくる。
「なにそれ、ラクガキ?」
「……集中してるふり」
「バレてるよ~」
小声で笑い合って、すぐまた静かに戻る。
そんなやりとりが、なぜか嬉しかった。
昼休みには、ふたりで教室の隅に座ってお弁当を広げる。
「今日、卵焼き焦がした」と友達が言う。
自分の方を少しだけ差し出すと、
「えっ、くれるの? やさし~」と笑われた。
ほんの少しずつ、関係ができていく。
それがうまく言えないままでも、
静かに続いていくことが、今の自分にはちょうどよかった。
でも、放課後になると、話は少し変わる。
チャイムが鳴っても、自分はすぐに立ち上がらなかった。
カバンの中から文庫本を取り出して、静かにページを開く。
誰もいなくなった教室は、どこか落ち着く空気に満ちている。
窓から射し込む夕日が、机の端をじんわりと温めていた。
ページをめくる指先だけが音を立てる。
何も考えずに読めるその時間が、少しだけ、自分をまっすぐにしてくれた。
「まだいたのか?」
入り口から聞こえた声に、顔を上げる。
担任の先生だった。
自分はほんの少しだけ笑って、
「……本、読んでただけです」と答える。
先生はそれ以上は何も言わず、「気をつけて帰れよ」と言って去っていった。
また静けさが戻る。
その空気が、自分にはちょうどよかった。
家に帰っても、こんなふうに本を読むことはできなかった。
テレビの音、足音、誰かの小さなため息――
些細なものすべてが気になってしまう。
だから、ここが、自分にとっての避難場所だった。
誰もいない教室で、誰にも気づかれずにページをめくる。
その時間があるだけで、
今日一日が、少しだけ救われた気がした。
本を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
窓の外はもう、夕暮れに染まりはじめていた。
カバンを背負って、校舎を出る。
駐輪場へ向かう足取りは、どこか名残惜しいようで、
でも、一歩ずつ帰りの現実へ近づいていく。
そのときだった。
視線の端に、見覚えのある後ろ姿が映った。
あの人だった。
教室の前の方の席に座っている――あの人。
駐輪場の少し離れた所で、誰かと会話をしているようだった。
一瞬、目が合いそうになって、
自分はすぐに視線を逸らした。
見なかったふり。
いつも通りのふり。
無言のまま自分の自転車へ向かい、
鍵を外して引き出そうとした瞬間、
チェーンが外れていることに気づいた。
しゃがみ込んで、手を黒くしながら元に戻す。
その間ずっと、心のどこかで
“まだ、あの人がそこにいるかもしれない”
そんな期待のような不安のようなものが揺れていた。
でも、自転車を起こして、ハンドルを持ち直して、
何となく顔を上げたときには――
もう、彼の姿はどこにもなかった。
夕暮れの風が、制服のすそを揺らした。
その音だけが、自分の心に残っていた。