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あの春の日に見た背中は、思っていたよりも近くにあった。
入学式から数日後、新しいクラスに割り当てられた自分は、
窓側のいちばん後ろの席に座っていた。
外の光が静かに差し込むその場所は、
なんとなく安心できて、気に入っていた。
背中を預ける壁が近くにあることで、少しだけ気が楽になる。
新しい環境、新しい人間関係。
誰とも深く関わらずにいられたらいい、そう思っていたはずだったのに――
ふと前を見ると、
教室の真ん中あたり――前の方の席に、見覚えのある後ろ姿があった。
黒くて、さらさらとした髪。
まっすぐな背中。
数日前、駐輪場で見かけた、あの人だった。
そのときの情景が、急に胸の奥で再生される。
夕暮れの光に包まれながら、自転車を押していたその人は、
周囲の喧騒とは少し違う、静けさを纏っていた。
誰かと笑い合っていたわけでもないのに、不思議と、目を引いた。
思わず息をひそめてしまったのは、
目を合わせたわけでも、声をかけられたわけでもないのに、
胸の奥が、ざわっと波立ったからだった。
名前はまだ知らない。
教室で何かを話している声も、遠くて聞き取れない。
でも、自分の視線は気づけば、
何度もその背中を追っていた。
気づかれたらどうしよう。
でも、見ないふりをするのは、もっと苦しかった。
なぜそう思うかもわからないまま、気になって仕方がなかった。
その人が何を考えているのか、
どんなふうに笑うのか、
そういうことが、知らないはずなのに、知りたくなっていた。
そんな自分の様子なんて知らないまま、
隣の席の子が話しかけてきた。
「ねえ、この授業の先生、誰か知ってる?」
少し驚いたけれど、自分は小さく首を振った。
その子は笑って、じゃあ調べてみよっか、と言ってノートを開く。
その笑顔は、なんだか春の日差しみたいだった。
ほんの少し、心が緩んだ気がした。
新しいクラス、新しい空気。
少しずつ日常が始まっていく中で、
教室の真ん中のその人だけが、
どうしても、特別だった。