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ぼくの瞳が映すもの

作者: 湯上智之

 同級生でクラスメートでもある前田雪(まえだゆき)の体に、濃い闇が纏わりついていた。

 不気味で嫌悪を抱かせるモノなのに、当の雪には気にする素振りがない。

 当然だ。

 その闇は、本条卓(ほんじょうすぐる)にしか視えていないのだから。

 ヘビのようにうごめき纏わりつく闇に全身を覆われ、世界から隠離されたとき、その者は死ぬ。

 なぜ、こんな禍々しいモノが視えるのか?

 それは、卓にもわからない。

 近所の眼科から有名な大学病院で検査をしても異常はないし、特異点も見当たらなかった。

 ごく一般的な眼球だ。

 けど、その瞳が映す闇に、間違いはなかった。



 今放課後の教室に残っているのは、委員会の仕事をこなす卓と雪だけだ。

 告げるなら、今しかない。

 けど、踏ん切りがつかなかった。


(前田さん。死相が出ているから、気をつけたほうがいいよ)


 呑み込んで当然の言葉だ。

 けど、告げなくちゃいけない言葉でもあった。

 いまなお、雪の体は濃い闇に包まれている。

 しかも、すべてを塗りつぶさんと面積を増やしていた。

 この世に死神がいるなら、足元まで来ている。


 ごくっ


 卓はつばを飲み込み、口を開いた。


「前田さん。死相が出ているから、気をつけたほうがいいよ」


 雪の表情が強張る。

 当然だ。

 死ぬと言われて、喜ぶ人間はいない。

 それでも言ったのは、雪に纏わりつく闇が濃いから。

 もうすでに、雪の制服を覆い隠している。


「え!? それって口説き文句!?」


 なにをどう聞いていたのか、雪は思いっきり勘違いしていた。


「いや、違うんだけど……」

「なんだ。そうならそうと言ってよ。まさか、本条くんがあたしのことを好きなんて。いや~、久々にときめいちゃったな~。でもごめんね。あたし、だれとも付き合う気ないんだ」


 テレて後ろ髪を撫でる雪に、はにかみながら断られた。


「いや、だからね。違うんだ」

「なにも言わないで。わかってるから」


 卓を押し止めるように、雪が両手を前に伸ばした。


「大丈夫。だれにも言わないから」


 勝手に自己完結させ、雪は作った書類を持って足早に教室を出て行ってしまった。

 すぐに追いかけ廊下に出たが、雪の姿はすでになかった。

 これほど元気に動き回れるなら、病気ではないのかもしれない。

 ということは、雪が命を落とすのは、事故か事件だ。

 昔なら、万に一つの可能性を信じることもできた。

 けど……

 卓はまぶたの上から瞳を触る。

 特別な感触はない。

 けど、この瞳は死を視せる。

 矛盾する現実が、心を重くした。


「はあぁぁぁ」


 肩を落とし、トボトボ歩き出した。



 雪を追って職員室を訪れたが、すでに書類は提出され、雪の姿もなかった。

 あいさつを済ませ廊下に出た卓は、教室に戻るために歩き出した。


(げっ)


 歩き出した矢先、前方から面倒臭い女教師が姿を見せた。

 大きな声であいさつをすればうるさいと注意されるし、小さければ聞こえないと注意される。

 一番の対処方法は顔を合わせないことなのだが、今から方向転換したのではあからさますぎる。

 仕方がないので、窓際に寄り距離を取った。

 女教師が眉を動かしたので、卓は窓の外に目を向け、顔を隠すように下を見た。

 普段人気のないそこに、座り込む雪がいた。

 髪に隠れて顔は見えないが、それが雪であることは間違いない。

 取り巻く闇が、さっきと同じだ。

 いや、正確には同じじゃない。

 明らかに、濃さを増している。

 姿が見えなくなったとき……雪は死ぬ。


「前田さん!」


 窓から顔を出し、声をかけた。

 けど、反応がない。

 明るく人当たりのよい雪が、無視をするとは思えなかった。

 ということは、振り向けないなにかが起こっているのだ。

 慌てて駆け出した。

 女教師の注意する声が聞こえたが、足を止めることはしなかった。

 落ちるように階段を下り、転がるように校舎を飛び出した。


「ま、前田さん!?」

「見て、かたつむり」


 振り返った雪は、目をキラキラさせていた。


「はあはあはあ」


 乱れた息だけが口から漏れる。

 よく見れば、雪を包んでいた闇は、極端に薄くなっていた。

 見間違い……だったのだろうか?


「都会での生息数が減ったって言われてたけど、まだちゃんといるんだね」


 爪先で殻を触る雪の瞳は、慈しみに溢れているような気がする。

 けど、指で触らないところを見ると、昆虫などはあまり得意ではないのだろう。

 じゃあ、雪は何に愛しさを感じているのだろうか。


「で? なに?」


 突然訊かれ、卓はまばたきを繰り返した。


「呼んだでしょ」


 言われ、自分が来た意味を思い出した。

 けど、それは杞憂に終わったわけで……


「一緒に帰ろう」


 咄嗟に出た言葉が、それだった。


「いいよ」


 雪は笑顔でうなずいた。



「今日でこの教室ともお別れか」


 鞄を取りに来た教室で、雪がそうつぶやいた。

 黒板、教卓、クラスメートの机を撫でながら、自分の席に向かう。


「そうだね。明日から春休みだもんね」

「ううん。そういうことじゃないの」


 軽く答える卓に、寂しげな表情で、雪がかぶりを振った。

 ひょっとしたら、雪はすべてを知っているのかも知れない。


「前田さん」

「なぁに?」


 雪の声はあまりにもはかなく、えもすれば消えてしまいそうだった。

 ざわつく胸を、強く握った。

 雪と目が合う。

 笑みを浮かべていた。

 泣き顔を隠すような笑みを。

 なにか言わなければいけないのに、言葉が出てこない。

 どうすればいいのか、わからなかった。

 なにもできず立ちすくむ卓に、


「帰ろっか」


 雪はいつも通りの笑顔でそう言った。



「この学校ともお別れか」


 校門から校舎を眺める雪の表情は、先ほどと同じだ。


「残念ながら、春休みはそんなに長くありません。またすぐ来ることになるよ」

「そうかもしれないけど、未来はだれにもわからないじゃない? もしあたしが死んじゃったら、もう二度と来れないでしょ」


 努めて明るく振舞ったが、『死』という単語に、心臓が跳ね上がる。


「あっ、ごめん。本条くんは未来がわかるんだっけ」


 イタズラっぽく言う雪に、卓は眉を寄せた。


「だってあたし、死相が出てるんでしょ」

「ああ! あれね。あれはウソ。ジョーク」

「そうなの!? いや~、よかった」


 雪が卓の背中をバシバシ叩く。

 痛いけど、力強さに安堵した。


「そりゃそうでしょ。未来なんて、だれにもわかんないよ」


 その言葉にウソはなかった。

 卓に、未来を視る力はない。

 あるのは……他人の死を告げる闇を視る力だけだ。

 胸が苦しい。

 まるで、視えない闇に締め付けられているかのようだった。


「そんなことないよ。未来はわかるよ」


 雪の優しい声音に、呼吸が楽になった。


「はい」


 手を差し出された。


 …………


 反応できずにいると、にっこり笑った雪が、少しだけ手を持ち上げた。

 握手を求めるような仕草だ。

 卓はとまどいながら、その手を握った。

 伝わる温もりが、少しだけ恥ずかしかった。


「やっぱり。あたしが手を出せば、本条くんなら握ってくれると思ったんだ」


 空いている手でピースをしながら、雪が満面の笑みを浮かべる。


「ねっ、未来はわかるでしょ」


 あまりに魅力的で、卓は顔が赤くなるのを感じた。


「相手のことを少しでも理解していれば、その人がどう動くんだろうってわかる。超能力じゃないから全部は無理だけど、ちゃんとわかる。それって、素敵でしょ」


 前向きな雪だからこそ、出てくる言葉だと思う。

 そしてそれは、雪が多少なりとも、卓のことを理解していてくれているということでもあった。

 熱を帯びた顔が、温度を増した。


「よし。未来もわかったことだし、帰ろう」


 何度目かの『帰ろう』宣言で、卓たちは帰路についた。

 そのとき手が離れてしまったことが、少しだけ残念だった。


「ねえ本条くん。もし未来が知れるような超能力が存在するのなら、欲しい?」


 その問いの答えは決まっている。


「未来が視れても、ぼくにはなにも変えられない」


 何度となく闇に挑んだ。

 闇に覆われた人の後をつけ、事故から救ったこともある。

 けど、抗えたことはなかった。

 助けた人が、翌日の新聞に強盗殺人の被害者として載っていた時、そう悟った。

 そして、戦うのをやめた。

 視えないフリをした。

 傷つくのが嫌で、他人と距離を取った。

 仲間になりたいのに……闇に抗いたいのに……自分に嘘をついた。

 今だってそうだ。

 雪にすべてを告げ、最善を尽くすべきなのだ。

 けど、逃げた。

 上っ面の忠告をするだけで、本気で雪と雪を取り巻く闇と向き合うことを放棄した。

 孤立した卓を委員会に誘い、一緒に仕事をすることでクラスに馴染ませてくれた恩人である雪が相手でも、闇に立ち向かえない弱虫なのだ。

 夕暮れから夜へと姿を変え始めた空を見上げ、つぶやいた。


「ぼくは……無力だから」


 手を伸ばしても、なにも掴めない。

 空虚な卓では、なにもできない。


「そんなことないよ。本条くんは、無力なんかじゃないよ」


 雪の優しくて強い声が届く。

 空っぽの胸に、小さな温もりが灯った気がした。


「そう……なのかな? ぼくにも、なにかを変える力があるのかな」


 微笑むだけで肯定も否定もしなかった雪が、くしゅん、と可愛いくしゃみをした。


「大丈夫?」

「ちょっと冷えてきちゃった」


 風が冷たい。

 雪が手にはきかけた息も白かった。


「帰ろう」


 名残惜しかったけど、そう言った。


「ゴメンね。バイバイ」

「うん。じゃあね」


 遠ざかる雪の背中を見ながら、信じたいと思った。

 無力じゃない、という、雪の言葉を。

 自分にも、なにかを変える力があるんだと。

 少なくとも、胸の温もりが消えるその時までは。



「ただいま」

「お帰り。さあ、出しな」


 玄関を入ると、母が仁王立ちしていた。


「悪いね」


 学ランを脱いで渡した。


「い~え~、お疲れでしょうから、このくらいは当たり前ですわ……って違うわよ!」


 微笑み上着を腕にかけた母が、すぐさま床に投げつける。


「なにすんだよ!?」

「あんたがつまんないボケするのが悪いんでしょ」

「なに言ってんだ。そっちが勝手に出来の悪いノリツッコミしたんだろ」

「うっさいわね。そんなことより、早く通信簿出しな!!」


 恥ずかしさをごまかすように、赤面した母がやたらとでかい声で言ってくる。

 卓はカバンから出した通信簿を渡した。


「なにこれ!? 『()』と『(アヒル)』ばっか」


 母の感想に、今度は卓が恥ずかしくなった。


「う、うるさいな。いいだろ」


 赤いであろう顔を隠すため、自室へと逃げた。



 夕飯時リビングに入っていくと、


「はあ、前田さんのおかげで社交性が出たと思ったら、成績が落ちるなんて」


 食卓に皿を並べながら、母がグチってきた。


「成績と前田さんは関係ない」

「なら、勉強は手を抜いたわけだ」

「うっ」


 母の見事なツッコミに、小さくうなった。


「はあ、息子が初めて人を好きになったことを喜んでみたが、今度はそれが悩みの種になろうとは」


 食卓につき、黙って夕食を口に運ぶ。


「まあ、勉強だけできたころのあんたより、楽しそうに学校に行く今のほうが、親としては嬉しいけどね」

「そりゃどうも」


 ニヤニヤしている母に、卓はわざとぶっきらぼうに答えた。


「でも、ちょっとは勉強しなさいよ」

「うるさいな。悩みがあんの」

(こい)(わずら)いか。若いね~」

「うるさいよ」

「お~怖い」


 母が台所へと引っ込んでいく。


「まったく」


 食事を再開するが、母の好奇の視線が背中に突き刺さっている……ような気がする。


「ごちそうさま」


 早々に食事を切り上げ、席を立った。


「早く告白しちゃいな。でないと、だれかに先越されちゃうよ」


 母のエール? に、卓はコケた。



「告白……か」


 寝る間際、だれにともなくつぶやいた。


「好きなのかな? 前田さんのこと」


 自問自答してみる。


(少なくとも、なんとも思っていないってことはないよな。彼女のおかげで、クラスのみんなと仲良くなれた。感謝してる。けど、それを好意だと勘違いしていないか?)


 瞳を閉じると、雪が浮かんできた。


(浮かんでくるのは、前田さんなんだ)


 驚くと同時に、確信した。


「うん。前田さんのことが好きだ!」


 心の中の雪が笑った。


「あはは。バカみたいだ」


 勝手な想像に、卓も笑った。


「よし。告白しよう! そして、前田さんを救うんだ!」


 決意を固め、卓は就寝した。



 翌日。

 卓は委員会名簿に記された住所を頼りに、雪の家に向かっていた。

 激しい運動をしているわけでもないのに、胸のドキドキが止まらない。

 普通なら十分前後で着く距離なのに、今日は足が重く、なかなか進まなかった。


「今日は寒いし、やめようかなぁ」


 本日何度目かのセリフが、口をついて出た。


「だめだめ。今日告白するんだ」


 これも、本日何度目かだ。


「はあ~」


 自分の自信の無さに、ため息が漏れた。

 肩を落としトボトボと歩いていると、


「あれ、本条くん!?」


 知った声が聞こえた。


「えっ!?」


 顔を上げた先には、雪がいた。

 知らないうちに、家の前まで来ていたようだ。


「なにしてるの? こんなところで?」


 出かけるのか、雪は玄関前にいた。


「あ、ああ」


 私服姿の雪に、鼓動がいっそう早まる。


「それ、答えになってないよ」


 雪が歩道に出てきた。


「あ、ああ」

「そればっかだね」


 くすくす笑う雪に、見惚れてしまった。

 好きだと意識した途端、雪の笑顔がいままで以上に輝いて見えてしまうのだから、なんとも情けない。


「本条くん。今日ヒマ?」

「うん」


 思わずうなずいてしまった。


「そう。なら、一緒に行こう」

「へぇ?」

「さあ、出発っ~!」


 手をつなぎ、雪がグイグイ引っ張っていく。



 連れてこられたのは、病院だった。

 最初は検査かなんかで訪れたのかと思ったが、そんなわけはない。

 もし仮に付き添いが必要なら、赤の他人の卓ではなく、両親が同行するだろう。

 なら、なぜ病院なのか。

 答えは簡単だ。

 今の状況が、答えを示している。

 卓が居るのは、病院内に併設された遊戯室。

 少し離れたところで、小学校低学年位の少女とお手玉をしている雪を横目に、時折「キーッ」と奇声をあげながら、卓はパジャマ姿の子供と向かい合っていた。


「とう!」


 パジャマ姿の男の子が、低い滑り台から跳躍した。


「ダイナマイトキック」


 放たれたドロップキックをまともに受け、卓はその場に倒れた。


「死ね~!!」


 卓の上にまたがった少年が、容赦なく拳を振り下ろしてくる。


「痛い。痛い。ほんとに痛い」


 体を丸めて必死に防御するが、パンチの嵐が吹き荒れる。

 このままではマズイ。

 けど、どうにもできない。

 相手は子供であり、かつ病人だ。

 でも……痛い。


「はい。(けん)()くんの勝ちだからそこまで」


 雪が助けてくれた。


「ふっ、弱いな」


 鼻で笑われ、ちょっとだけ傷ついた。


「大丈夫?」

「なんとか」


 苦笑混じりに差し出された雪の手を取り、立ち上がった。


「少し休もうか」

「賛成」


 ここに来てから、かれこれ二時間弱経過している。

 その間ずっと子供たちの相手をしていたこともあり、さすがに体力の限界だ。


「拳多くん。お姉ちゃんたち、ちょっと向こうでお話してくるから、みんなと遊んでて」

「うん。わかった」


 元気にうなずき、拳多が駆けていった。



「はい、どうぞ」

「ありがとう」


 差し出された缶ジュースを受け取り、卓たちは休憩室のイスに座った。


「ゴメンね。いきなり連れてきちゃって」

「大丈夫。気にしないで」

「ありがとう」


 ジュースを飲みながら、遊戯室に目を向けた。

 離れていても、子供たちの楽しそうな表情と声が伝わってくる。


「でも意外だったな」

「なにが?」


 首をかしげる雪をさしながら言った。


「病院でのボランティア」

「え~!? ひっど~い!」

「あはは。ウソウソ」

「ほんとに~」


 雪が疑惑の眼差しを向けてくる。


「ほんとほんと。ウソじゃないよ」

「まあ、信じてあげましょう」

「さっすが。心が広い」


 卓の拍手に、雪が胸を張った。


「ねえ、本条くん。子供たちと遊んでみてどうだった?」

「疲れた」

「そう……」


 卓の正直な答えに、雪の表情が曇った。


「でも勘違いしないで。疲れたっていうのは、いい意味でだから」

「いい意味?」


 小首をかしげる雪は可愛らしい。

 けど、見惚れている場合ではない。


「正直言って、子供たちをナメてた。というのも、ここにいるのは入院や通院をしている子たちじゃない? だから、前田さんに一緒に遊んであげてって言われても、なんてことないって思っちゃったんだよね」

「そっか」


 雪がジュースを一口飲んだ。


「でもさ。いざ一緒になって遊んでみると、子供たちのパワーは健康な子と変わんないんだよね。むしろ、ここにいる子たちのほうが元気なんだもん。そりゃ疲れるよ」

「そういう意味で疲れるって言ったんだ」

「うん」


 うなずくと、雪の顔が明るさを取り戻した。


「よかった」

「そろそろ戻ろうか。子供たちも、前田さんのこと待っているだろうし」


 卓たちは残りのジュースを飲み干し、席を立った。


「捨ててきちゃうから、空き缶ちょうだい」

「ありがとう」


 缶を受け取り、ゴミ箱に入れた。


 ガタン!


 後ろで、なにかが倒れた。

 弾かれたように振り向くと、雪が倒れていた。


「どうしたの!? 大丈夫?」


 駆け寄り、助け起こした。


「し、心配しないで。ただの貧血だから」


 真っ青な顔の雪を、闇が包んでいた。

 闇は急速に濃さを増し、雪の姿を覆い隠していく。

 姿が視えなくなれば、雪は死ぬ。


「ちょっと待ってて。すぐに先生を呼んでくるから」


 卓は休憩所を飛び出し、ナースセンターに駆け込んだ。

 事情を話すと、看護師と医師がすぐに雪の治療にやってきた。

 診察室に運ばれていく雪を、卓はただ見送ることしかできなかった。

 雪が治療を受けている間、卓は待合室でひざを抱えていた。


(濃かったな。あんなに濃いのは、久しぶりに視たな)


 雪を包んでいた闇が、絶望を伝える。


(死ぬのかな?)


 答えは、闇が示していた。

 なにもできないまま……なにも告げられないまま……答えが視えてしまった。


(なんで……なんでこんな力があるんだよ! なんで、人の死なんか視れんだよ! 好きな人が倒れたのに……なんで、『生きて』っていう希望を抱けないんだよ!)


 卓は壁に拳を叩きつけた。


(なんで、こんな力があるんだよ)


 何度も何度も壁を殴った。


(ちくしょー!!)


 不意に、涙がほほを伝った。


「だれでもいい。なんでもいい。助けて」


 訴えても、だれも応えてはくれない。

 卓はヒザを抱え、泣きじゃくった。


「きみが本条卓くん?」


 どれくらい泣いたかもわからなくなったころ、女性看護師が声をかけてきた。

 力なくうなずいた。


「雪ちゃんが逢いたいんだって。逢ってあげてくれないかな」

「別れの挨拶ですか?」

「そうなるかもしれない」


 看護師は否定しなかった。

 絶望に視界が歪む。

 戦えない……抗えない……なら、せめて……雪の最後の願いを叶えよう。

 立ち上がり、よたよたしながら看護師の後をついて歩き出した。


「ここよ」


 示された病室に入っていこうとする卓を、看護師が呼び止めた。


「そんな顔じゃ雪ちゃんが悲しむから、笑顔で逢ってあげて」


 差し出されたハンカチで涙を拭き、卓は病室に足を踏み入れた。


「いらっしゃい。なんてね」


 ベッドに寝かされた雪は、いつもと変わらぬ笑顔でいた。


「ごめんね。倒れちゃったりして」


 上半身を起こす雪。


「でもここが病院だったっていうのが、不幸中の幸いだったね」


 闇の濃さが、雪の辛さを物語っている。

 けど、そんなそぶりは微塵も感じさせない。

 卓はうつむいた。

 死を前にしても影を落とすことのない雪を、直視できなかった。

 そして、溢れる涙を見られたくなかった。


「なにも……言ってくれないの?」


 不意に、雪のトーンが落ちた。

 反射的に顔を上げた卓が見たのは、笑顔だった。


「笑って」


 にっこり笑う雪のほほを、涙が伝っている。

 懸命に微笑む雪を抱きしめた。


「好きだ。前田さんの笑顔、強さ、優しさ。全部ひっくるめて、大好きだ。だから、生きて。お願いだから、生きて」

「ありがとう。でも、ごめんね。あたしもう死んじゃうんだ。だから、本条くんのお願いはきけないの」


 雪が卓の体を押し戻した。


「イヤだ! フラれるのも! 死んじゃうのも! イヤだ!」

「子供みたいなこと言ってもダメ。あたしは死」


 その先は聞きたくない。

 キスで唇を塞ぐと、雪が目を見開いた。


「好きだよ。雪」


 唇を離し、そっと(ささや)いた。


「ぷっ」


 雪がふきだした。


「本条くんって、キスしたら名前で呼ぶんだね」

「そ、それは」

「浮気調査は楽ね」


 世界一の笑顔で雪が微笑んだそのとき……小さな奇跡が起こった。

 卓は目をこすり、まばたきを繰り返す。

 間違いない。

 それはたしかに、起こっていた。


「大丈夫。これから先、名前を呼ぶのは雪だけだから」

「いいの? そんなこと言って。もしかしたら、いますぐ死んじゃうかもよ」


 イタズラっぽく言う雪に、卓は言い切った。


「死なないよ」

「わかんないよ」

「わかるんだ」


 少しずつ闇が薄くなっている。

 死が遠ざかっている証拠だ。

 でも、それを言っても信じないだろう。

 だから、こう言った。


「結婚しよう」


「……ええ!!??」


 雪が大きく目を見開いた。


「ほら驚いた。プロポーズすれば、きっと驚くと思った。ねっ。未来はわかるでしょ。相手のことを少しでも理解していれば、その人がどう動くんだろうってわかる。超能力じゃないから、全部は無理だけど、ちゃんとわかるんだ」


 …………


「それって、昨日あたしが言ったことじゃなかったっけ?」

「かもね」


 目が合った卓たちは、同時に笑った。


「雪。好きだよ。愛してる。だから、一緒に生きて」


 一瞬きょとんとしたが、


「うん」


 雪は元気にうなずいた。


「キスしよう」


 言いながら、雪を見つめた。

 大好きな雪が相手だから、未来はわかる。

 雪は瞳を閉じ、卓とキスをする。

 重なった唇が、未来を示していた。


 しばらくして……

 雪はこの世を去った。

 悲しかった。

 けど、それ以上にうれしかった。

 彼女を愛せたことが。

 彼女が愛してくれたことが。

 病室から出ることはできなかったから、デートはできなかった。

 けど、窓から見た景色。

 二人で話した未来。

 そして、二人で過ごした時間。

 そのどれもが宝物。

 触れ合った温もりが、彼女が存在した証。


 ぼくの瞳が映すもの。

 それは……

 死を告げる闇と。

 今も愛しく、色褪せることのない……

 彼女の笑顔。


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