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路地裏に残っていたのは、石畳と自分の鼓動だけだった。
息を整えてから、急いで舞台へ戻る。
戻った瞬間、待っていた皆の空気が張り詰めたのがわかった。
「話せた?」
アナスタシアさんに聞かれる。
力なく首を横に振った。
「追いかけましたが、路地の行き止まりで消えました…蝶も、人も」
皆はそれぞれ違う表情をしていた。
「俺もさ、ローブ姿の人間は見つけたんだ。でもフード深く被ってて杖も持ってなくて…自信もてなかった」
フェリクスさんが悩みながら、唸るように言う。
「身のこなしを見るに老人ではなかったように思う」
エルドさんは別人ではないか、と言う。
「私からは見えなかったわ。行き止まりで消えたって…どういうことかしら」
ユーシリアさんも静かに続ける。
「同一人物かはわからない、でもローブを着ていて尚且つ、リネが追う前に、恐らく蝶に気付かれた。そして、逃げた」
周りを警戒してたってことだな、とセヴランが言う。
「なんだか気味がわりぃなぁ…」
「消えたってなにぃ…?」
ブラムさんとリュミが恐々と呟く。
「捕まえられなかったのは残念だが、逃げたってことはそいつはこの後は来ねぇだろう」
団長がいつもの調子でなんてことはないように言う。
「客が待ってる。今日もやるぞ」
そして短く言った、その言葉で皆が表情を引き締めた。
ここは野外舞台だ。
野外では音を出せば人が集まる。
もしかしたら、ローブを着たただの別人かもしれない。
追いかけた時に上手くまかれたのかもしれない。
悩んでも、時はすぎる。
夕暮れが空を染め始める頃、舞台の周りはお客さんで溢れかえっていた。
2日間の評判の良さがよくわかる。
客席は埋まり、立ち見席の後方も人で溢れ、橋や川辺、音が届く場所は至る所が人でいっぱいだ。
私は客席の端に準備してあった演者用椅子の上に立つ。
これだけ人が多いと喧嘩も起こることがあるそうで、今日は舞台袖ではなくユーシリアさんと私、2人で客席側で周囲の観察もする。
何か問題があったら赤い光を打ち上げて皆に合図することになっている。
どうか何も起こらず、誰もが楽しい時間を過ごしてほしい。
いよいよ演奏が始まった。
1曲目は昨日と同じ曲。
昨日も聞いた音が、今日は違って聞こえた。
同じ曲なのに、こんなに変わるのか。
音が空気に溶けて、広がって、遠くまで届いていく。
光の演出が入る。
昨日よりも光の色を多くして華やかさが増している。
夜空に弧を描く光に、いたるところで歓声が上がった。
子どもが親の手を引っ張っている。
年配の女性が口元を押さえている。
見ている顔が、全部柔らかい。
昨日は舞台袖から遠目に眺めていただけだった。
今日はすぐそばで、ひとりひとりの顔が見える。
皆の笑顔の先にある舞台作りに私も携われていることが嬉しい。
前半が終わると、歓声と拍手が重なる。
拍手の波がまだ揺れているうちに、フェリクスさんが客席へ向かって声を張る。
「さあ、次はリクエストいきますよ!皆さん私にアピールしてくださいね」
どっと笑い声とざわめきが広がる。
私はユーシリアさんの立つ方向に向かって光2回照らし合図した後、椅子から飛び降りる。
「行ってきます」
フェリクスさんの指名した人を探すべく、人の波へ踏み出す。
「これ!」「この曲まだ?」「昨日のあれ!」
人の熱が近い。
声が重なり、匂いが混ざる。
指名された人以外からもたくさん話しかけられ、今日はなかなか進めない。
——視線。
一瞬だけ、背筋がひやりとした。
振り向く。
けれど、あるのは笑顔ばかりだ。
帽子の男性も、肩車された子どもも、恋人同士も。
ローブ姿などどこにもいない。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせて、なんとか3曲リクエストを聞き、舞台上のフェリクスさんに曲名を届け終える。
客席横に戻り、再び椅子の上に立つ。
ユーシリアさんから光2回合図がくる。
ただいま、と私も2回合図を送ってリクエスト曲を聞きながら観客席を眺める。
音に集中する。
さっきの視線のことは忘れたふりをして。




