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「さぁてと!何かお昼ご飯食べよ!」
リュミがパンッと手を叩きながら大きな声で言う。
空気を変えるように、2人の時間を進めるように。
川辺の湿った空気も、その音でほどけた気がした。
「腹が減っては、しんみりもできないってね」
強引に笑うその横顔は、いつもより少しだけ柔らかい。
さっきまでの辛さを一切滲ませない声音と笑顔。
その強さに、胸が少しだけ痛む。
心では泣いているはずなのに。
それでも立ち止まらない。
隠すのではなく、進むことを選んでいるのだとわかる。
私も小さく息を吐く。
「……賛成!行こう!」
2人で川辺の道を水車に背を向けて歩きだし、屋台の並ぶ通りへ戻る。
昼の匂いが一気に押し寄せてくる。
焼いた肉や魚の香ばしさ。
甘い果実の匂い。
リュミは迷いなく魚の串焼きを2本買い、片方を私に押しつけるようにして渡してくれる。
「食べよ!不安もさ、お腹いっぱいになったら消えるはず!」
「そんな顔してる?」
「してる」
即答だった。
思わず、苦笑する。
共に過ごしたのは、まだほんの数日。
それでも、表情があまり動かないとよく言われる私の内側を、リュミは迷いなく覗いてくる。
リュミの観察力だけでもないのだろうけれど。
もともと私は、表情を隠しているつもりはなかった。
ただ、顔に出ないほうが楽だっただけだ。
何も動かさなければ、何も問われない。
けれど旅に出てから、自分の頬や眉が思いがけず動いているのがよくわかる。
笑っている。
困っている。
揺れている。
驚いている。
隠れていてくれたはずの感情が表に出るのが、少しだけ腹立たしくて…恥ずかしい。
そんなことを考えながら魚にかぶりつく。
香ばしく、ふっくらしていて美味しい。
塩気が強いけれどそれが苦味と合っている。
道端の花や、水面の揺れや、風の匂いまで。
目についたものを気ままに話題にしながら、他愛もない会話を連ねて、宿へと歩いた。
宿に着くと、ちょうど荷車に大きい重い荷物が積まれているところだった。
私も細々としたものを抱えて運び出す。
荷車の軋む音に混じって、今日の曲順を巡る声が飛び交う。
ああでもない、こうでもないと皆真剣だ。
私は荷車を押しながら皆のやり取りを聞く。
石畳を越え、通りを抜け、荷車と一緒にそのまま舞台へ向かう。
午後の練習が始まる。
荷台から荷物を下ろし、楽器用の布を広げて準備する。
その後私はユーシリアさんと舞台前方へ向かう。
客席の並びを整え、飾り布や帯をかけていき、その後後方へ。
ユーシリアさんの声に従って灯りの位置を調整していく。
その後、練習が始まってから音の反響も確かめる。
左右、そして前後、全て確認を終えてから今日の演出に使うために、花びらを指先で解体するみたいに1枚1枚ばらしていく。
壇上ではリュミが音楽に合わせて踊っていた。
足さばきが軽い。
跳ねるたびに空気が切れる。
「……いいわね、今日」
ユーシリアさんが花びらをほぐす作業をしながら隣で呟く。
リュミはさらに回る。
「キレがあって、いつもより迫力があるわ」
音が重なり、踊りも美しく、歌声も柔らかい。
今日の演出もきっとお客さんは喜ぶだろう。
私も今夜の舞台が楽しみだ。
練習も終盤に差し掛かった頃だった。
アナスタシアさんの音が、ほんの少しズレる。
あれ?と思って舞台上の皆を見渡して気づく。
アナスタシアさんだけではない。
何か空気が変わった気がする。
ふ、と私の視線の先を白い蝶が舞う。
そしてその蝶々は私の視線を市場の外れへと誘導する。
「っ」
走り出す。
路地を曲がる。人をかわす。
でも。
蝶は、途中で消えた。
ふっと。
まるで初めからなかったように。
老人も。
立ち止まって、息を整える。
路地の奥には誰もいない。
石畳だけが、静かに伸びている。
店が続く道から1本ずれた路地裏の行き止まり。
私は、ゆっくり振り返る。
自分の鼓動だけが大きな音を立てていた。




