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仮初を生きるもの  作者: 木南一果
呼ぶ声

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24

フェリクスさんは、帰り道も色々と楽しい話をしてくれた。


宿の主人がとんでもない大食いなこと、ある町で酒を飲みすぎて気づいたら裸で朝日を見ていたこと、団員のやらかした失敗談。


私も笑った。

声を出して、本当に笑った。


——それでも。



宿の扉を開ける時、フェリクスさんが立ち止まった。


「大丈夫か?」


心配そうな声。

私はうまく答えられなかった。

言葉が、喉の奥で引っかかる。

でも笑顔で頷く。


「はい」


フェリクスさんは何も言わず、ただ頷き返した。


扉を開けると、食堂は昼の匂いで満ちていた。

パンと煮込みの香り。

人の声。

皿の触れ合う音。


食欲は全くない。

それでも、食べないわけにはいかない。


テーブルに座り、運ばれてきた料理を前にする。

スプーンを手に取る。

口に運ぶ。

味はほとんど覚えていない。

無理やり手を動かし、口に入れ、咀嚼して飲み込む。



フェリクスさんは隣に座っている。

いつもより静かに、黙々と食べている。

時折、こちらを気遣うような視線を向けてくる。

でもうまく言葉にできない私はその視線に気づかないふりをした。


早々に食べ終える。

午後は、昨日とは違う演出の練習があると言っていた。

気を抜けない。

仕事をしたい。

なんでもいい。

今は、体を動かしていたい。



「フェリクスさん、本当にありがとうございました」



席を立ち、深く頭を下げる。

フェリクスさんは少しして、いつもの軽い調子で手を振った。


「気にすんな。また何かあったら言えよ」

「はい」


私は一度別れ、部屋に向かった。

階段を上る足音がやけに大きく響く。

部屋の扉を開ける。


中は誰もいないようで静かだった。


鏡の前に立つ。


そこに映るのは名前の決まらない私。


一瞬だけ視線を逸らす。


考えるな。泣くな。

今は仕事だ。


私は袖を整え、荷物を持ち、部屋を出た。




宿の扉を押す。


ミルダールの昼の陽射しは強く、石畳が白く照り返している。

汗が滲み、首筋を伝っていく。


胸の奥はまだ重い。

通りを歩く人々の声が、やけに遠く聞こえる。



名前


アンナ


マリア



頭から離れない。

歩きながら、何度も思考が戻ってしまう。

振り払っても、すぐに戻ってくる。


とにかく足を前に出し続ける。

石畳を踏む音だけが響く。


川の流れる音が耳に入ってくる。

気づけば、もう、橋まできていたようだ。

風が吹き、川の香りに包まれる。

胸の重さは消えない。


舞台が見えてくる。

皆が準備を始めている様子が見える。

楽器を調整する音が風に乗って運ばれてくる。

私も、早く仕事に取りかからなければ。


足を速め、舞台に近づく。


その時、頭上できらりと光るものが見えた。


次の瞬間。

無数の光の粒が、降り注いできた。



「っ」 



反射的に目を閉じる。

でも熱はないし、痛くもない。


恐る恐る、目を開ける。


柔らかい光。

まるで夏の雨のように、空から降り注いでいる。

舞台の上、客席の上、広場全体を包み込むように。


音が聞こえてくる。

管楽器の高音。

光が、その音に合わせて弾けた。

きらめき、散って、また弾ける。

空気が震えるような、澄んだ音色。

弦楽器の低音が重なる。

光が波のように広がり、ゆっくりと、うねるように流れていく。

温かい音が、体に染み込んでくる。



「……わぁ」



思わず、声が漏れた。

光が音楽に合わせて踊っている。

見上げたまま、動けない。


昨日とはまた違う、新しい光景。



「すごいでしょ?」



弾んだ声がして振り向くと、リュミがすぐそばで笑っていた。



「昨日の反応が良かったから、今日は少し派手にやるんだって」



もう一度、光を見上げる。

音に合わせて、形を変え、色を変え、降り注ぐ。



「空が暗くなってからの光の雨…楽しみだな」




光が、最後の一粒まで弾けて消える。


私はまだ見上げたままだった。


今、この光の中に、私はいる。


胸の奥に残ったのは、さっきまでとは違う感触。




私は息を吸い込んだ。

午後の練習が始まる。

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