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仮初を生きるもの  作者: 木南一果
呼ぶ声

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23

職員さんが静かに言った。



「ご自身の記憶と照らし合わせて、どちらか心当たりはありますか?」



心当たり。

記憶。

私は2枚の紙を見つめた。



アンナ

マリア・シュタイン



どちらの名前も、何も響かない。

胸の奥に、何の感覚も呼び起こさない。

当たり前だけれど焦燥がつのる。




「……わかりません」




声が震えた。


「シュタインって聞き覚えは?母親の家名はわかるんだろ?」


「母の姓はシュタインではありませんでしたが、父の姓を登録している可能性もあるので、否定は、できません…」



フェリクスさんが眉を寄せる。



「そっか…あのさ。アンナって方、これは姓が登録されてないのか?」


フェリクスさんが職員さんに向かい質問する。



「ええ。保護名義の場合、家名を伏せることがあります」



なるほどなぁ、とフェリクスさんが唸る。

2件まで絞れたのにここから先に進めない。



「もう一度、見せてもらってもいいですか」



そう言って2枚の記録簿を見せてもらう。



文字を目で辿る。

生年月日。登録地。備考欄。


何度見ても、同じことしか書かれていない。

それでも、何か見落としがあるんじゃないかと思ってしまう。


インクの濃さ。文字の癖。紙の端の折れ。


些細なことにまで目を凝らす。

でも、何も浮かび上がってこない。


指先で紙の端を撫でる。


16年前。その時、私は産まれたばかりだった。

この名前が、本当に私なら——



フェリクスさんが横から覗き込む。

職員さんは黙って待っていてくれる。


でも、何もない。

手がかりが、何もない。



フェリクスさんが腕を組む。


「他に調べる方法があればな…」



「残念ながら、記録として残っているのはここに記載されている情報だけです。あとは……ご本人の記憶や、出生時の状況など、別の角度からの情報が必要になります」



別の角度。

でも、私には何もない。

沈黙が降りる。


カウンターに並んだ2枚の紙。


どちらかが、私かもしれない。

どちらでもないかもしれない。



「……ありがとう、ございました」


いくら見てもわかるわけがない。

私は深く頭を下げた。



「お手数を、おかけしました」



職員さんは申し訳なさそうに首を振った。



「お力になれず、すみません。もし何か新しい情報が見つかりましたら、またお越しください」



フェリクスさんも軽く頭を下げる。


「色々ありがとな」




私たちは窓口を離れた。


中央広間を横切る。

さっき来た時と同じ天窓。同じ光。


でも何かが違う。


重い扉を押す。

外の空気が顔に当たった。


眩しい。

さっきより太陽が高くなっている。

人通りも増え、外は昼の賑わいで活気が溢れていた。


石造りの階段。

両脇の町章の彫刻。


階段を下りる足音がさっきよりずっと重い。



広場の真ん中まで来たところで、フェリクスさんが立ち止まった。



「なぁ……調べる前より、気になるよな」



その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。



「……はい」



そうだ。

何も見つからなかったら、諦めもついたかもしれない。

でも、2つの名前が残った。残ってしまった。

どちらかが私かもしれない。

それとも、どちらでもないのか。


宙ぶらりんのまま。

答えは出ないまま。




「ひとまず。午後の練習もあるし、宿戻るぞ」


気持ちが切り替わらないまま、私はただ歩いた。

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