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職員さんが静かに言った。
「ご自身の記憶と照らし合わせて、どちらか心当たりはありますか?」
心当たり。
記憶。
私は2枚の紙を見つめた。
アンナ
マリア・シュタイン
どちらの名前も、何も響かない。
胸の奥に、何の感覚も呼び起こさない。
当たり前だけれど焦燥がつのる。
「……わかりません」
声が震えた。
「シュタインって聞き覚えは?母親の家名はわかるんだろ?」
「母の姓はシュタインではありませんでしたが、父の姓を登録している可能性もあるので、否定は、できません…」
フェリクスさんが眉を寄せる。
「そっか…あのさ。アンナって方、これは姓が登録されてないのか?」
フェリクスさんが職員さんに向かい質問する。
「ええ。保護名義の場合、家名を伏せることがあります」
なるほどなぁ、とフェリクスさんが唸る。
2件まで絞れたのにここから先に進めない。
「もう一度、見せてもらってもいいですか」
そう言って2枚の記録簿を見せてもらう。
文字を目で辿る。
生年月日。登録地。備考欄。
何度見ても、同じことしか書かれていない。
それでも、何か見落としがあるんじゃないかと思ってしまう。
インクの濃さ。文字の癖。紙の端の折れ。
些細なことにまで目を凝らす。
でも、何も浮かび上がってこない。
指先で紙の端を撫でる。
16年前。その時、私は産まれたばかりだった。
この名前が、本当に私なら——
フェリクスさんが横から覗き込む。
職員さんは黙って待っていてくれる。
でも、何もない。
手がかりが、何もない。
フェリクスさんが腕を組む。
「他に調べる方法があればな…」
「残念ながら、記録として残っているのはここに記載されている情報だけです。あとは……ご本人の記憶や、出生時の状況など、別の角度からの情報が必要になります」
別の角度。
でも、私には何もない。
沈黙が降りる。
カウンターに並んだ2枚の紙。
どちらかが、私かもしれない。
どちらでもないかもしれない。
「……ありがとう、ございました」
いくら見てもわかるわけがない。
私は深く頭を下げた。
「お手数を、おかけしました」
職員さんは申し訳なさそうに首を振った。
「お力になれず、すみません。もし何か新しい情報が見つかりましたら、またお越しください」
フェリクスさんも軽く頭を下げる。
「色々ありがとな」
私たちは窓口を離れた。
中央広間を横切る。
さっき来た時と同じ天窓。同じ光。
でも何かが違う。
重い扉を押す。
外の空気が顔に当たった。
眩しい。
さっきより太陽が高くなっている。
人通りも増え、外は昼の賑わいで活気が溢れていた。
石造りの階段。
両脇の町章の彫刻。
階段を下りる足音がさっきよりずっと重い。
広場の真ん中まで来たところで、フェリクスさんが立ち止まった。
「なぁ……調べる前より、気になるよな」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「……はい」
そうだ。
何も見つからなかったら、諦めもついたかもしれない。
でも、2つの名前が残った。残ってしまった。
どちらかが私かもしれない。
それとも、どちらでもないのか。
宙ぶらりんのまま。
答えは出ないまま。
「ひとまず。午後の練習もあるし、宿戻るぞ」
気持ちが切り替わらないまま、私はただ歩いた。




