19
翌朝、目が覚めるとまだ部屋ではユーシリアさん、リュミ、アナスタシアさんが眠っていた。
起こさないようそっと支度を済ませ、外の厩舎へ向かう。
預けている馬の様子を見る。
飼い葉を足し、水を替え、近くに寄ってきてくれた茶色の馬の首を優しく撫でる。
2頭とも今朝も元気そうだ。
狭い厩舎にずっといるのも辛いだろうし、明日の朝は少し外に出してあげたい。
あとでユーシリアさんに聞いてみよう。
宿屋の扉を開け、中に戻った時、階段の途中から軽い足音がしてくる。
「はよー。もう働いてんの? まじめだなぁ」
フェリクスだった。
手を振りながらゆっくり階段を降りてきた。
「おはようございます。今日は引き受けてくださってありがとうございます。それと、昨日のお小遣いも…」
言い終わる前に、彼はにっと笑う。
「あれ? あれはさ、先輩からの愛だ!有り難く受け取っとけ。今日のことも気にすんな」
フェリクスさんは朝からいつもの調子で、逆にこちらの調子が狂ってしまいそうだ。
「ありがとうございます。えっと、では、行きましょう」
そう促すと、フェリクスは長机の前で立ち止まる。
「ちょい待ち。飯」
「え?」
「朝ごはん。しっかり食べてから。役所関係は待つからなぁ。腹減ってるとイライラ倍増すんの」
勝手に決めて、もうカウンターに向かっている。
「お前も食べてないでしょ?食べな。奢ってやるから遠慮すんな」
並んで座らされ、朝食が出てくるのを待つ。
私は時計代わりに窓の外を気にしてしまう。
「そんな顔しなくても午後には間に合うって」
出てきたのは簡単な朝食だった。
パンとナッツペースト、葉野菜に卵。
食べる手を動かしながら、フェリクスが言う。
私もパンに手を伸ばす。
パンがとても柔らかくて驚いてしまう。
ナッツペーストも甘塩っぱくて後を引く美味しさ。
食べていたら、少し心の焦りが落ち着いてきた。
「早く着きすぎるとさ、向こうがまだ機能してなくって二度手間なんだよ」
「……そうなんですか」
「そ。ゆとり、ゆとり」
へらっと笑う。
「焦っても、いいことないわけよ」
そう言って、豪快に平らげていく。
最後の一口を放り込んだ。
「よし、腹も満ちたし、行くか!」
私も急いで最後の一口を頬張る。
どこまでもフェリクスさんのペースだ。
それが、今は、頼もしく思えた。
カウンターに朝食の代金を2人分おき、フェリクスさんが伸びをする。
お言葉に甘えてご馳走になり、お礼を言う。
新入りさんには優しくするのさ、と笑って宿の扉に手をかけた。
宿を出て朝の通りに出る。
まだ人通りはまばらで、石畳の白さが眩しい。
たわいもない話をしながら歩く。
昨日演奏した曲の題名、リクエストを聞きに走っている私が転ぶんじゃないかとヒヤヒヤした話、アナスタシアさんの香水の強さは機嫌の良さと関係する話…どれも面白おかしく話すから、あっという間に目的地につきそうだ。
「公会所に行くのは、あれだろ?お前の…名前のさ」
通りを曲がったところで、さっきまでの歯切れの良さが嘘のように、もごもごと聞かれる。
どうしたのだろうか、と顔を見ると、いやぁ…とフェリクスが頭を掻く。
「俺にとってはさ、名前なんて大したもんじゃないんだよ」
石を蹴りながら続ける。
「呼ぶための音だし、誰かを区別するための目印、魔法が使いやすくなるための道具。あって当たり前のもん」
少しだけ、声の調子が変わる。
「でもさ。それって“ある”から言えるんだよな」
歩幅が少しゆるむ。
「昨日の夜、ちょっと考えたんだ。ないって、どんな感じなんだろうなって」
横目でこちらを見る。
「……正直、俺には想像しきれなくてさ」
へらっと笑うが、いつもの軽さは半分くらいだ。
「だからさ、今日ダメでも、俺は“まぁ、いいじゃん”なんて言わない。見つかるまで諦めんなよ」
真剣な眼差しで言われ、鼻の奥がツンとする。
どうして、まだ何者でもない私に、楽団の皆はこんなにも優しいのだろう。
私はまだ、何も返せていないのに。
「はい!諦めません」
泣きたくなる優しさに胸いっぱいの感謝を込めて、諦めないと笑った。




