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知らないことに愕然としていても、なにも始まらない。
理解できなくても、目の前にあるのなら、受け止めるしかない。
「これは、何なんですか?」
恐る恐る聞くと、団長は影と戯れながら、あっさり言った。
「運ぶやつだ」
「……以上?」
思わず聞き返す。
「こいつの主と契約しててな。便利なやつなんだよ」
「……契約してる、便利な運ぶもの……」
「おう」
説明は、それで終わりだった。
「ちょっと待って、それじゃ全然わかんないでしょ」
隣でリュミが声を上げる。
「動くけど怖くないからね、安心して。この子は道に沿って進める《影路》って呼ばれるものなの」
「…これ、生きてますよね?」
団長は、ほんの少し肩をすくめた。
「聞くより経験だ」
そう言って、影を軽く三度、踏み鳴らす。
影が応えるように、ゆるりと波打った。
次の瞬間だった。
歩いていないのに、世界がゆっくりと後ろへ下がっていく。
怖くはない。けれど、頭が混乱して、目が回りそうになる。
足を持ち上げる。
進んでいる。
少し強く踏み込む。
それでも、進んでいる。
地面の感触は変わらないのに。
歩いていないのに、進んでいる。
馬は慣れた様子で首を揺らし、鼻を鳴らしている。
荷馬車の車輪は、回らないまま、そこにあった。
体は進んでいるのに、心だけが置いていかれる。
「大丈夫、大丈夫だからね」
リュミが私の手を取り、繰り返す。
「乗ってるだけで前に進んでくれるから楽なんだけど、速くなると立ってるのは少し怖いかも。一緒に座ろう。この子、ちゃんと受け止めてくれるから」
あやすような声に頷く。
言葉は、もう出なかった。
リュミと並んで、影の上に座る。
影は速度を上げ、森の街道を滑るように進んでいく。
大丈夫だと言われても、木々が迫ってくる錯覚は消えない。
歩いてもいないのに、走っているみたいに、心臓が早鐘を打つ。
自分で歩いていないせいだ。
わずかに曲がるたび、身体の内側が一拍遅れて揺れる。
視界と感覚が、うまく噛み合わない。
「この水を飲んで。近くを見ないで、遠くを見るといいわ」
ユーシリアさんが、水の入った瓶を差し出してくれた。
うまく礼も言えず、ひとまず口をつける。
冷たい水が喉を通る。
それだけで、少し落ち着いた。
言われた通り、遠くを見る。
森の向こうに覗く空。
ゆっくり流れる雲。
視線を固定すると、不思議と揺れが気にならなくなる。
呼吸が、ゆっくり整っていく。
「…少し、ましになりました」
「よかった」
ユーシリアさんが微笑む。
「慣れるまで時間がかかるものよ。私も最初は吐きそうだったわ」
その言葉に、少しだけ救われた。
ユーシリアさんでも、そうだったんだ。
影は変わらず、進み続ける。
足元を見ると、影が静かに波打っている。
呼吸をしているみたいだ。
恐る恐る、手を伸ばす。触れると温かい。
影なのに生きている。
「不思議でしょう?」
リュミが隣で言う。
「最初は怖かったけど、今はもう慣れちゃった。この子、優しいんだよ」
そう言って、影を撫でる。
影が、少しだけ盛り上がった。
まるで、嬉しそうに。
しばらくすると、体が影の動きに馴染んできた。
視界の揺れも、気にならなくなる。
これが、旅なんだ。
知らないもの。
理解できないもの。
それでも、受け入れて、進んでいく。
影は、黙ったまま私たちを運び続ける。
言葉はない。
けれど、確かにそこにいる。
風が、頬を撫でた。
振り返ると、もう町は見えない。
森と、道と、空だけ。
「……さよなら」
小さく呟く。
フェリッシュ。
シャロン。
バーバラさん。
町長。
「ありがとう」
影は進み続ける。
音もなく、滑るように。
私の旅も、ここから始まる。
名前も、特性も、まだ分からない。
それでも——
「…頑張ろう」
前を向く。
道は長い。
でも、もう立ち止まらない。
前へ。
ただ、前へ。




