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ただ見つめることしかできなかった恋は……

作者: ぷよ猫

 王女になんて生まれたくなかった!

 イリーネがそう思うのは、たとえば朝の身支度をしているこんな時だ。


「姫様には緋色のリボンがお似合いなのよっ」


「まあ、クリスタ! 今日は黄色のドレスなんだから、トパーズの髪飾りに決まってるじゃないの」


「黄色ぉ~? ピンクのほうが可愛いわよ。ガブリエラったら、ほーんとセンスないんだから」


「なーんですってぇ! あのドレスには、リリロン地方の希少なレースがあしらわれているのよ? センスがないのはクリスタのほうよ」


 キンキン声で言い争うクリスタとガブリエラは、イリーネの侍女だ。

 一年前までは乳兄弟のパウラが専属侍女だったのだが、結婚退職してしまった。

 クリスタは王妃()の実家の親戚筋の娘、ガブリエラは宰相の親戚筋の娘である。王妃、宰相の親戚とはいえ、両名の家格は子爵家と低い。

 だから少しでも良縁を得ようと箔つけのために、こうして王女の侍女をしているわけだけれども、張り切りすぎて何かと騒々しいのだ。

 ちなみに王女の衣装をめぐり口論しているのは、夜会のドレスではなく普段着のデイドレス。つまり、毎日この光景が繰り広げられている。

 男爵令嬢にすぎなかったパウラが、外交を担う名門バール侯爵家の令息に見初められたとあって、後に続けとばかりに主人のイリーネに気に入られようと必死だ。


(でも、まあ、パウラの場合は男爵家とはいえ、わたくしと一緒に育ったから礼儀作法も教養も高位貴族と遜色ないのよね)


 将来、侯爵夫人となってもやっていけるだろう。

 そんなことをぼんやり考えていると、


「姫様はどちらがいいですかっ?」


 黄色と薄ピンクのドレスを手にした二人の矛先がこちらに向いた。

 くわっと今にも食いつきそうな勢いの侍女たちにたじろぎながらも、イリーネは自分の希望を伝える。


「ええっと……たまには、青なんてどうかしら?」


「却下です!」


 二人の声が揃う。

 赤やオレンジの暖色系より、ブルー系の落ち着いた色味がイリーネの好みだ。

 しかし、流行に敏感なクリスタは「今年の色は、ピンクです!」と断言し、ガブリエラは「王族はいつも華やかでなくっちゃ」と勝手な持論を主張する。

 

「そ、そうよね。どっちでもいいけど朝食の時間に遅れるから急いでね」


 あっさりと戦線離脱するのは、面倒くさいから。

 やっぱり今日もダメだった、と予想通りの展開に辟易する。ただ、青いドレスが着たいだけなのに。

 王女として命令すればこの場は片がつくけれど、たかがドレス一枚に高圧的だとか、我がままだとか、後々、王妃や宰相からチクチク言われたくない。かといって、どちらかを選ぶのも業腹だ。

 パウラがいてくれたら「侍女たるもの、主人の希望を優先すべし」と厳しく指導しただろう。

 けれど、どうせ結婚までの腰かけなのだ。それに、彼女たちよりも先にイリーネの嫁入りが決まった。

 隣国への出立まであとわずかだ。その間、荒波を立てずにやり過ごせればいい。


「姫様、失礼します」


 クリスタの声掛けの直後、イリーネの柔らかなハニーブロンドの髪がブラシで梳かれていく。ハーフアップに整えられ、緋色のリボンが結ばれた。

 どうやら薄ピンクのドレスに決まったらしい。ガブリエラがドレスに合わせて赤い靴を用意している。

 彼女たちのコーディネイトは、イリーネのくるんとカールした長い髪や澄んだ空のような青い瞳と相まって、この一年間ですっかり『可憐な王女』のイメージを国民に定着させた。

 最近では積極的に慰問の予定が組み込まれ、行く先々で「心優しい」と枕詞までつくようになった。

 これはきっと、宰相あたりが『王家イメージアップ大作戦』をゴリ押ししているからに違いない。

 民衆の人気は、とっても大切だ。

 王家の求心力が問われている今は、特に。



 三か月前のこと。

 王女になんて生まれたくなかった!

 そう叫びたくなるほど唐突に、イリーネの縁談が決まった。

 隣国ザイツへの嫁入り――国の都合によるものだ。

 本来であれば、ザイツ国と縁組するのは王太子である兄のハルトムートのはずだった。来春アナベル王女が学園を卒業するのを待って、王太子妃として迎える予定だったのだ。

 しかしハルトムートが、やらかした。


 その日、イリーネはめずらしく父王の執務室に呼ばれた。何事だろうと駆けつけてみれば、王妃まで同席し不穏な空気を醸し出している。

 

「ええぇっ、お兄様が婚約破棄されたのですかぁぁ?」


 ハルトムートの不貞を理由にアナベル王女と破談になったことが両親から告げられ、イリーネは驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた。

 

「うむ。ハウアー伯爵の娘と交際していたらしい。ヒューゲル侯爵の息子を隠れ蓑にして頻繁に会っているのをザイツ国に見つかった。どうやら監視がつけられていたようだ」


 ヒューゲル侯爵の令息ルーカスは、ハルトムートの側近の一人で宰相の長男でもある。

 将来、国政を担うべく育てた息子とその右腕による裏切り行為に、国王と王妃は青ざめている。


「まさかあの子が、こんな事をしでかすなんて……」


「お母様……」


 イリーネは、声を詰まらせてハンカチを握りしめる母親の背中をそっとさすった。


「宰相は息子を廃嫡すると言っている。とりあえずハルトムートは、離宮で謹慎させた。廃太子にするかどうかは……貴族会議次第だな。生半可な処分では国が割れるだろう」


 それほどの失態である。

 ザイツの国力は、このイシュル王国をはるかに凌ぐ。

 魔道具の動力源である魔法石の産出国であり、その世界シェアは七割に近い。当然、この国の魔法石もザイツ産である。

 魔道具はシャワーや照明、空調、農耕機など、生活のありとあらゆるところに浸透していて、輸入が止まれば国民の暮らしが立ち行かなくなるのだ。

 更に近年、イシュル王国では魔道具開発に力を入れており、そのため良質な魔法石の安定的な確保が喫緊の課題だったのだが、アナベル王女との縁談により解決した経緯がある。

 要するに、絶対に敵に回してはいけない相手ということだ。

 それを国政に携わる王太子がわかっていないはずがない。自身にザイツの監視がつくなど、予め想定してしかるべきことだ。なのに浮気をするなんて――王族として自覚が足りないと責められても仕方がないだろう。

 

「もしお兄様が廃された場合、やはり次期国王はクルト様ですか? ザイツ国側はなんと言っているのです?」


 王弟にあたるライゼンハイマー公爵の長男クルトは、イリーネの婚約者候補の筆頭だ。ほぼ決まりと言ってもいい。王位継承権を持つクルトを王とするか、もしくは自分の王配として国を治めるか。ここに呼ばれたのはそういう話かもしれないと考え、イリーネは父王に問うた。


「それがだな……」


 急に歯切れが悪くなった。視線を彷徨わせ、助けを求めるように国王は妻を見ている。

 すると王妃が夫の意を酌み、思い切ったように口を開いた。


「ザイツ国側はあなたを娶りたいと言っているのですよ。もともとあの国は、ハルトムートではなくイリーネとの縁組を望んでいました。それをバール候爵がアナベル王女を王太子妃にと説得してくれたのに……全部無駄になってしまったわ」


「目的は水、ですか」


 すとんと腑に落ちて、イリーネはポツリと呟く。

 強国ザイツが、平凡なイシュル王国と縁組する旨味はない。だが、この国には彼らが欲しているものが一つだけある。

 イシュル王家の血筋に現れる「水魔法」だ。コップ一杯分の水を出す簡単なものから、身体を洗うクリーン魔法など、いろいろある。

 その中でも特に「雨降らしの魔法」は雨の少ないザイツにとって価値があり、自国とイシュル王家の血を交えたいと考えているのだ。

 しかし「雨降らしの魔法」は莫大な魔力を消費する最上級魔法のため、現在イシュルではイリーネしか使えない。ゆえにイリーネは、他国に嫁入りすることはせず、生涯国にとどまることが決まっていた。

 

「おまえを寄越すならハルトムートの件は目を瞑る、と。慰謝料も請求しないし、誰が王太子になろうが関知しないそうだ。それどころか魔法石の輸出を増やしてもいいとまで言っている」


 幸いイシュル国には雨が降るので、魔法石の輸出が増えるなら、貴族たちを説得するのも難しくはないだろう。

 どちらにせよイリーネはザイツ国へ嫁ぐしかなく、ハルトムートは処分を免れる……そういうことだ。


「わたくしはザイツ国の王太子に嫁ぐことになりますの?」


 自然と零れた疑問に父王の顔が強張った。


「い、いや……あちらの王太子には既に婚約者がいる。マシュア国の第一王女だ」


「さすがザイツ、王太子妃も大国からの輿入れなのですね。では、わたくしの相手は公爵家か侯爵家の令息ということになりますか」


 ザイツ国に王子は一人だけだ。側妃制度もないから、残るは王家に連なる貴族への嫁入りということになる。


「……貴族じゃない。国王のフェルナンド陛下だ。おまえは王妃になるのだ」


 予想外の答えに、イリーネはポカンと口を開けた。

 ザイツ国の王フェルナンドは三十八歳で、イリーネより二十歳も年上だ。子は王太子のトリスタンとアナベル王女の二人。五年前に病で王妃を亡くしている。

 政略結婚としてはあり得る年の差ではあるけれど……。


「えええええっ~?!」


 広い執務室に、重苦しい空気を切り裂くような叫び声が響く。

 国王と王妃は、娘の大声に耐えかねたのか指で両耳の穴を塞いだ。


(お兄様がヘマしたせいで、わたくしは親子ほど年の離れた方と結婚するのっ?)


 王女なんて、自由がない。

 見てくれだけは、蝶よ花よと育てられた深窓の姫君。

 だけど思いどおりになることなんて、なんにもない。

 国のため、民のため、王家の矜持のため。

 あっちこっちに気を遣い、結婚相手はおろか、好きな色のドレス一つ選べやしないのだ。

 イリーネはこの時、それを痛感した。

 



 ※※




(まさか、国を出ることになるなんてね……)


 侍女たちのすったもんだの末に薄ピンクのデイドレスを身に纏ったイリーネは、食堂で家族と朝食をすませたあと、いそいそと王族専用の図書館へ向かった。

 自室とは反対方向なのだが、散歩がてら遠回りして戻るのが日課だ。公務や嫁入り準備に追われる日々でのわずかな自由時間。何より館内二階の閲覧室の窓からは、騎士の鍛錬場が望めるのだ。

 この時間は、王宮警備を担当する近衛騎士たちが身体を鍛えていることが多い。

 イリーネは胸の高鳴りを抑えきれず足早に窓辺に寄り、かつて命を救われた黒髪の騎士の姿を目で追った。


 ――イザーク・エクムント。

 

 男爵家の次男だ。

 四年前、お忍びで城下町に行った際、刺客に襲われたところを助けられた。彼の腕には、イリーネをかばって切られた傷が今もくっきりと残っている。

 この時の功により近衛隊長にまで出世しているが、それでも王女を娶るには身分が足りない。

 身分云々以前に、イザークはイリーネの想いを知らないし、知らせるつもりもないのだが……。

 王族である以上、政略結婚に否やはない。

 好いた相手と添い遂げるなど、夢のまた夢だ。

 婚約者候補だったクルトも王家の血筋で比較的魔力が多いという理由で選ばれたにすぎず、二人の間に恋情はなかった。

 それでもいいとイリーネは思っていた。

 こうして遠くから、時どきイザークの姿を見ることができるのならば。

 けれども、もはやその願いすら叶いそうにない。


(はぁぁ~、わたくしは、あの腕の傷になりたい……)


 肘から手の甲にかけて切られた傷跡は一生残るだろう。

 自分のせいだ――けれど嬉しい。

 二人の間に消えない絆のようなものを感じるから。

 それは完全に恋する乙女の発想だ。

 我ながらどうかしていると自嘲しながらもイリーネは、部下と剣を交えるイザークを熱視線で眺めていたのだった。

 


 そして出立の日は刻々と近づく。

 近頃は、お茶会にて令嬢たちと最後の別れを惜しむことも多くなった。

 今朝もまた図書館の二階の窓の前に立ち、イリーネは思う。

 あと何回、彼の鍛錬姿をこの目に焼きつけることができるだろう。一度か、もしくは二度か。

 イザークは鍛錬場の片隅で筋トレ中だ。

 揺れる濡羽色の髪とオニキスの瞳。涼しい顔をしているけれど、額に汗をかいている。


(拭ってあげたいっ……!)


 思わずハンカチをぎゅっと握りしめた。

 そして、イザークの飛び散る汗の一滴さえも見逃すまいと瞬きを止める――。

 

「あら、イリーネ殿下ではございませんか」


 突然、横槍を入れたのは、ハウアー伯爵令嬢のコルネリアだ。

 無防備なところに後ろから声を掛けられ、イリーネの肩がビクリと跳ねた。


(ビックリしたぁぁ! もうっ、脅かさないでよ)


「ごきげんよう、コルネリア嬢。お妃教育は順調ですか?」


 にこやかにイリーネが問えば、途端にコルネリアは渋面になった。

 順調だったら朝からこんなところにいない、と言いたげである。


 婚約破棄されたハルトムートは、辛うじて廃太子を免れたものの貴族たちの顰蹙を買った。

 ザイツ国からお咎めがなかったとはいえ、その代償に「雨降らしの魔法」の使い手であるイリーネを差し出す結果になったからだ。

 結局、宰相の長男ルーカスは王太子を諫めなかったとして廃嫡され側近を外れた。

 当然、浮気相手のコルネリアに対する風当たりは強い。さりとて想い合う二人を無理矢理引き裂くのも外聞が悪く、貴族会議でもめた末に『結婚するなら王太子妃に足る能力を示すべきだ』との結論に達した。現在、何名かいる婚約者候補の一人として、お妃教育を受けている最中だ。

 婚約者候補たちには一流の教師陣が付けられ、王族専用であるこの図書館の使用が認められているので環境はいい。しかし、勤勉ではないと噂のコルネリアには、能力を示すどころかお妃教育を修了することすら難しいだろう。

 

「ドラリス語が苦手で、授業の前に単語集を探しに来たんです」


 コルネリアが肩をすくめる仕草を見て、こりゃダメだとイリーネは判断した。

 ドラリス語は妃ならできて当たり前。基本の基である。外国の来賓をもてなす際には、この言葉が使われることが多いので必須なのだ。

 このままいけば才媛と名高いギンスター侯爵家の三女が、将来の王妃の座を射止めそうだ。


「……ドラリス語の棚はあちらですよ。頑張ってくださいね」


 左側の本棚を指差して教えると、コルネリアは「ありがとうございます」と素直に礼を言う。


「それはそうと……」


 コルネリアが窓の外の騎士たちに目をやり、くすんと笑った。


「イリーネ殿下も、ああいうものに興味がおありなのですね」


「なっ……!」


 イリーネが羞恥で赤面しそうになるのを堪えている間に、コルネリアは「失礼します」とくるりと背を向けて去っていく。

 確かに騎士に憧れる令嬢は多い。

 多いけれども――。


(そうやってすぐに頭に浮かんだことを口にするから、妃にふさわしくないと言われちゃうのよっ! そもそも婚約者のいる殿方に手を出すなんて呆れちゃうわ)


 感情がそのまま顔に出るうえ、軽はずみな行動と浅慮な発言――これでは妃は務まらないだろう。

 悪気がないから余計に始末が悪い。


「……お兄様の恋も前途多難ね」


 イリーネは小さなため息を吐くと踵を返した。

 



 ※※



 

 イリーネがハルトムートに声を掛けられたのは、翌日の朝食後のことだった。

 昨日コルネリアと鉢合わせしたばかりなので、このまま部屋へ戻ろうかと迷いながら食堂を出たところを追いかけてきたのだ。

 

「図書館へ寄るんだろう? 私も行くよ」


 タイミングがよすぎるので、コルネリアが何か言ったに違いない。

 決定事項のように半歩先を進む兄を見て、今さら「自室に戻る」とも言えずイリーネも歩を進めた。

 

「お兄様、ハウアー伯爵令嬢から何を聞いたのかは知りませんが……」


「コルネリアはね、頭はよくないが妙に勘が鋭いところがあるんだ。侮らないほうがいい。出立時の護衛の選別を密かにしているのだと説明しておいたから、話を合わせておいてくれ」


「ありがとうございます。でも……ただ見ていただけですよ。それだけです」


 ハルトムートの足が止まった。

 まっすぐな視線で射られ、イリーネはすべてを見透かされたような気分になる。パウラにすら秘めた恋だ。知られるはずは……ない。


「わかっているよ。だが、警戒は必要だろう」


 どの口が言うのだ。どの口が。

 イリーネは冷静さを失い、兄に怒りをぶつける。


「お、お兄様には言われたくありませんっ。お兄様さえしっかりしていればっ……わたくしは……」


「ごめん、イリーネ。私が迂闊だった。茶会で会うだけなら問題ないと思ったんだ。誓って、二人きりだったことは一度もない。気の置けない会話が楽しくてね、まさか不貞を疑われるとは予想だにしていなかった」


 なかなか婚約者を決めようとしないルーカスに引き合わせようと、彼の妹が屋敷に招いたのがコルネリアだそうだ。

 縁結びに躍起になる妹に困り果てた側近を慮り、軽い気持ちで茶会に同席したのが始まりだった。

 殊の外会話が弾み、二度三度と顔を出しているうちにそれが普通のこととなっていった。王太子のハルトムートにとって、政務と関係なく過ごせる息抜きの場だ。しかし、それも結婚までだと心得ていた。

 

「不貞ではなかったんですね。それなのにザイツ側は納得しなかったんですか?」


「釈明はしたけど、特定の令嬢(コルネリア)と何度も会っていたのは事実だと突っぱねられてね。仕方ないよ」


 それに彼女に好意があるのは本当だ、とハルトムートは打ち明けた。


「え、と……天真爛漫な方ですよね。あれで妃が務まるとは思えませんけど」


()()がいいんだよ。自分を大きく見せようと気負わなくてすむ。妃は無理だろうね。本人も望んでいないし、しばらくしたら候補を辞退するだろう。その時になったら私も身の振り方を考えるよ。幸い従弟のクルトは優秀だし、魔力も高い」


 その言葉でハルトムートが身分を捨てるつもりなのだとわかった。

「不貞で婚約破棄されて失脚した元王太子」

「落ちぶれた元王太子」

「国王に切り捨てられた――」

 口さがない人々の格好の餌食となるのが目に見えている。


「お兄様は……」


 それでいいのですか? ――そう言おうとして口を噤む。

 自ら王籍を抜けることで、王家の求心力を取り戻そうとしているのだと気づいたからだ。

 その代わりコルネリアを娶るつもりなのだろう。王太子の浮気相手のレッテルを貼られた彼女に、この先碌な縁談はない。年の離れた男の後妻か、修道院か。

 王太子の座にないならコルネリアとの結婚を反対する理由はない。適当な爵位と領地を与えられ、静かに暮らせるはずだ。兄はそれを望んでいる……。

 イリーネの考えていることを察したようにハルトムートが頷いた。


「どうか許してほしい。おまえには申し訳ないが」


 妹だけが犠牲になる。それを気にしているのだ。

 だが、責められない。

 イリーネだって、さすがにもうわかっている。

 

(わたくしたちは、ザイツ国にしてやられたんだわ)


 破談理由は、イシュル王国の有責とするためのこじつけだ。

 ザイツ国は、元からイリーネを手に入れるつもりで、虎視眈々とチャンスを窺っていた……。アナベル王女をこの国に嫁がせるつもりなど、毛頭なかったのだ。

 最初から素直にイリーネが縁組していれば、こんな事にはならなかった――。

 

「謝らないでください。わたくしは、お兄様の幸せを願っています」


「ありがとう」


 ハルトムートは、妹の優しい口調に安堵した表情になる。そして、再び歩き始めた。


「ザイツは怖い国だ。よもや冷遇されることはないと思うが、『雨降らしの魔法』を政治利用されないように、くれぐれも気をつけるんだよ」


「はい、用心します」

 

 イリーネは、図書館の前に着いたところでハルトムートと別れた。少し迷ったが、せっかく来たのだからと入口の扉を押す。

 シンとした館内を二階に進んだところで、つと立ち止まった。

 コルネリアがいたからだ。



 コルネリアは、閲覧室の端っこの席でドラリス語の本のページをめくっている。

 イリーネは息を殺して、じっとその様子を観察した。

 艶やかなブルネットの髪、豊かな胸の肉欲的な身体。アンバーの瞳は長いまつ毛に縁どられている。

『男を誑かす悪女』『派手好き』などと、よくない噂が囁かれているのは耳に入っていた。なるほど、あの美しい切れ長の瞳で流し目を送られたら、誰だってその気になるというものだ。

 しかし今、机に向かうあの真剣な眼差しはどうだろう。

 姿勢を正しページの隅々にまで目を走らせるコルネリアには、微塵の軽薄さも感じられない。

 勉強よりも宝石を好む恋多き伯爵令嬢。それが彼女に対する世間の評判だったはずだ。なのに、身に纏うドレスは飾りのないシンプルなもので、宝石など一つも見当たらなかった。


(わたくしは、彼女を誤解していたのかもしれないわ)


 妃になるほど優秀ではないことは、ハルトムートも認めている。でもだからといって、勤勉ではないとは言い切れないのではないか。

 それに宰相の娘――ヒューゲル侯爵家の令嬢が兄のためにと紹介した女性だ。噂どおりの悪女と決めつけるのは、いささか早計であろう。

 イリーネは意を決して、ゆっくりとコルネリアに近づいていった。


「こちらの本がわかりやすいですよ」


 一冊の教本を差し出すと、コルネリアが驚いたように顔を上げる。「ありがとうございます」と本を受け取り、パッと嬉しそうな笑顔を浮かべた。


「中等教育までしか受けていないので、授業についていくのが難しくて……助かります」


「中等? では王立学院には入学なさらなかったの?」 


 この国の貴族は、中等教育までを家庭教師に習い、十五歳になると高等教育にあたる王立学院に通う。余程のことがない限り貴族は高等教育まで終えるのが普通だ。学院に通わず家庭教師がついていたイリーネも、卒業試験だけは受けている。


「当時、運悪く領地が災害に遭い、金銭的に窮していたので断念しました。ですが、こうしてお妃教育の機会に恵まれたので、せめてドラリス語と経済学を学べたらと思いまして」


 コルネリアは進学の断念を嘆くわけでもなく、逆に無料で学べてラッキーと言わんばかりの満足顔で答える。

 彼女が高等教育修了を前提としているお妃教育についていけないのは当然だ。

 貴族会議の面々は、それを承知のうえであの結論を出したのだろう。はなから彼女を王太子妃に据えるつもりなどないのだ。

 イリーネは、そんなコルネリアを不憫に思う。


 よくよく話を聞けば、ずっと領地で親の手伝いをしていたそうだ。ところが、そろそろ婚約者を見つけて来いと父親に命じられ、今シーズン初めて夜会に出席することとなった。

 それは、娘自身で気に入る相手を見つけてほしいとの親心だった。没落寸前の伯爵家には、身体目当ての『エロ爺』の釣り書きばかりで、まともな縁談が一つもなかったからだ。

 しかし社交場でもコルネリアの容姿は肉欲を孕んだ視線で見られ、絡まれることが多かった。誘いを断るたびに不名誉な噂が流れたがどうしようもない。

 ある日の夜会でエスコートをしていた兄とはぐれてしまい、危うく部屋に連れ込まれそうになったところを助けてくれたのが、ヒューゲル侯爵令嬢のアルマだ。

 事情を知ったアルマが頻繁に茶会に招いてくれるようになり、ルーカスやハルトムートと交流を深めるに至ったという。


「王太子殿下の浮気相手と呼ばれるようになるなんて、自分でもビックリですよ」

 

 そう言って、コルネリアはカラカラと笑う。


「笑っている場合ですか! 貴族令嬢にとって致命的な醜聞なんですよっ」


 イリーネは、バンッと両手で机を叩いて憤る。

 コルネリアには、この事態を避けられなかったはずだ。没落寸前の伯爵令嬢が、宰相を務めるヒューゲル侯爵家の令嬢の誘いを断ることなどできないのだから。

 散々な目に遭っているのに、どうしてケロリとしていられるのか。


「今さらですよ。そういう噂にも、もう慣れました。碌な縁談がないのは元からなので以前と大差ないんです。私よりもハルトムート殿下やルーカス様のほうが大変でしょう」


(うわ、自分より他人の心配をするなんて、めちゃいい人! 婚約者のいる殿方に手を出したなんて思って、ごめんなさいっ。あなたは何も悪くないです)


 イリーネは、コルネリアを色眼鏡で見ていたのは自分もだと反省する。

 幸せになってほしい。

 もしお妃教育を無事に修了できれば、あるいは――と、あり得ない未来に期待する気持ちがムクムクと湧き上がった。


「コルネリア嬢は、王太子妃になるつもりはないのですか?」


 と一歩踏み込んだ質問に、率直な答えが返ってきた。


「私には分不相応です。田舎者のせいか貴族同士の駆け引きは苦手ですし、悪評のある私ではハルトムート殿下の足を引っ張ってしまうでしょう。あの方の足枷にはなりたくありません。親が帰って来いと言ってくれているので、早めに勉強を終わらせて領地へ戻るつもりです」


 そして次の瞬間、「あっ!」と声を上げ、授業に遅れそうだと慌てて場を辞していった。

 やはり王太子妃は無理、か。

 しかし、ドレスの裾を翻すコルネリアの顔が、くしゃっと悲恋の痛みに歪むのをイリーネは見逃さなかった。


「お兄様をよろしくお願いしますね」


 もう見えなくなってしまった後姿に呟く。

 さて――手紙でも書きますか。

 兄の恋が実りますようにと心を込めて。




 ※※




 数日後――。


「おう、あとは任せとけ。要するにハルト兄とそのお色気伯爵令嬢(コルネリア)をくっつければ、俺もラーラちゃんと結婚できるってことだろ?」


 イリーネの手紙を読むなり、従兄のクルトが喜び勇んですっ飛んできた。彼はラーラが大好きだ。

 ギンスター侯爵家の才媛ラーラは、王太子妃候補の筆頭と目されている。

 ハルトムートが王太子を退く決意をしたので、次期王太子にクルト、その妃がラーラとなる可能性が極めて高い。ゆえに、クルトの口元はゆるみっぱなしだ。

 

「くれぐれも頼みましたよ? わたくしは最後まで見守れないので。何かあったら十歳までおねしょしてたこと、ラーラ嬢にバラしますからね?」


「うわ~、やめてくれ! それだけはっ」


「知られたくないでしょう?」


「大丈夫だ、上手くやる。イリーネは、ザイツでのんびり俺たちの結婚報告を待てばいいさ」


 何度も念押ししてクルトの言質を取ってから、イリーネはやっと紅茶のカップを口に運んだ。

 兄の恋を応援しようと決めたのだが、出立の日が目前に迫っているためクルトに協力を仰いだのだ。

 腹黒い一面もあるが、彼は優秀だ。これで一安心だろう。


「それより、イリーネは災難だったな」


 ザイツ国へ嫁入りする件のことである。

 イリーネは、親子ほどの年の差に同情的な目を向けられることはあっても、こうして誰かにはっきりと言葉にされたのは初めてだった。


「あら、わたくしの婚約者候補を外れて喜んでいるのではなくて?」 


 ムスッとして言い返せば「それはそれ、これはこれだ」と返答される。

 

「どうも腑に落ちないんだよなぁ。ザイツは、なんでイリーネを欲しているんだろう?」


 クルトは腕を組み、首を傾げた。


「それは王家の血に『水魔法』を入れたいからでしょう?」


「前王の時代ならともかく、現王のフェルナンドは魔法に頼るタイプじゃないよ。子が生まれても、雨を降らせるほどの魔力持ちとは限らないだろ? そんな不確かなものに期待していない気がする」


「もしかして、わたくしをこき使うつもりなのかしら? 過労死なんて嫌だわぁ。タダ働きなんてもっと嫌。死んだら絶対に化けて出てやるんだから」


「仮にも王妃にそれはないだろ」


「じゃあ、ほかに理由、あります?」


「それはわからんけど」


 クルトは悩ましげに眉を寄せた。しばらく考えてから諦めたように「案外、フェルナンドのおっさんがイリーネに惚れてたりして」なんぞと軽口を叩く。

 イリーネは、それはないと顔をしかめた。

  

「わかりました。とにかく用心して、用心して、用心しまくります!」


 そう高らかに宣言する。

 

「うん、まあ、警戒するに越したことはないな。そうだ、久しぶりに稽古につき合ってやるよ。今なら誰もいないだろう」


「ええっ、今からですかっ! えーと、ほら、お菓子がまだ残っていますよ? また今度にしましょうよ~」


「いいから、いいから」


 抵抗むなしくイリーネは、善は急げとばかりに腕をひっつかむクルトに、騎士鍛錬場へと引きずられていった。



 刺客に襲われて以来、イリーネはクルトのアドバイスで水魔法による護身術を稽古するようになった。

 水で防御の膜を張ったり、放水圧で攻撃したり、敵の足を滑らせたり――自身の魔法でできることは存外多かった。

 軍籍にあり、水魔法の扱いに長けたクルトは、武芸にも活用していて慣れている。放水と剣の両方で戦うこともめずらしくない。

「こういうのはな、ズルでもなんでも勝てばいいんだ、勝てば」とクルトの鍛錬方法は、かなり自己流だ。

 

「もっと細かく。水圧を一定に保て」


 静かな鍛錬場にクルトの凛とした声が響く。

 イリーネの指先から勢いよく発射される水玉(みずだま)は、数メートル先の木製の的の中心めがけて飛んでいった。

 放水魔法は、こうして矢のように的を射たり、水量を多くして的ごと吹っ飛ばすことができるので攻撃に便利だ。

 決して暇ではないクルトが従妹の鍛錬ために時間を割くのは、彼なりにこの結婚を心配してくれているのだとわかる。

 辞めたパウラ以外に腹心のいないイリーネには、それが何よりありがたかった。

 二人はしばらく、稽古に集中した。


「ふう。あら、もうこんな時間」


 気づけば、もう夕刻が迫っている。

 つい白熱しすぎて備品の的を三枚も割ってしまったので、報告のため帰る前に鍛錬場の管理事務所へ向かう。

 イリーネが平然と歩いている横で、クルトは疲れた顔をして「相変わらず、魔力量がハンパねえな」と呟いている。

 管理事務所に入ろうとした瞬間、建物の陰から女性の怒鳴り声が響いた。


「責任取ってもらいますからねっ」


 あまりの剣幕にイリーネとクルトは顔を見合わせ、足を止める。

 王宮の敷地内にあるこの騎士鍛錬場は王族の居住エリアに近く、誰でも入れるわけではない。少なくとも、女性が声を荒げる場所ではないはずだ。

 

「ですが……彼女とはお互い合意の上で――」


「妹は妊娠しているのですよ! 子どもはどうするつもりなの?!」


(に、妊娠?)


 つい、イリーネは耳をそばだてる。

 騎士は女性にモテる。エリートの王宮騎士ともなれば、目の色を変えた令嬢たちにいつもキャアキャア言われている。彼らの中には複数の女性と交際したり、トラブルになることもあると聞く。

 

「それ、本当に俺の子なんでしょうか」


 相手の男が開き直った。

 女性は「なんですってぇぇ!」と怒りをヒートアップさせる。

 それから「貴族の娘の純潔を奪っておきながら」だの「そんなつもりじゃなかった」だのと、激しい攻防戦が始まった。

 クルトは、はぁとため息を吐き、頭をボリボリと掻いている。それから「……ったくイザークのヤツ、しょうもねえな」と物陰で言い争う二人に近づいていった。

 イリーネも慌てて後を追う。


(イ、イザーク? 今、イザークって聞こえたんですけど?)


 まさか――。

 しかし、男の顔がはっきり見える位置までくると認めざるを得なくなった。

 彼はイザーク・エクムントだ。女性は王太子妃候補の一人、ドスタル伯爵の令嬢ハイデマリーである。お妃教育のため登城していたのだろう。


「二人ともやめないか! 王女殿下の御前であるぞ」


 クルトの一喝でハッと我に返った二人は、諍いをやめて頭を下げた。

 ハイデマリーは「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません」と謝っている。

  

「おおよその事情は察した。私も彼の上官としてこのまま放置はできない。よって後日、話し合いの場を設けるから、二人とも今日のところは帰りたまえ」

 

 クルトが重々しい口調で告げた。すれ違いざま、顔面蒼白になっているイザークに「しばらく謹慎していろ」と耳元で命じている。そして、その姿が見えなくなってから「ドスタル伯爵令嬢」と呼び掛けた。


「あとで事情を聴かせてもらうことになると思う。あなたがここにいるということは、伯爵はこのことをまだご存じないのだろう? 残念ながら、彼は女癖が悪い。以前赴任していた町に、妻同然の平民女性と子どもがいる。ほかにも複数の女性がいて、一夜限りとなると数え切れないだろう。そこを踏まえて今後の希望を聴かせてほしい。できる限り叶えよう」


 妻同然の平民女性……子ども……。イリーネの脳天に衝撃が走った。

 さっきから情報量が多すぎて頭が追いつかない。


(それは、つまり……イザークは子持ちの女ったらしで、ハイデマリー嬢の妹君を妊娠させちゃったうえに、責任逃れをしようとする最低男ってことなのっ?)


 呆然となっている間にも、ハイデマリーがクルトの部下に伴われて帰っていく。


「あの、イザークは……女癖が悪いのですか?」


 場が収まって、ようやく発した言葉がそれだった。

 従妹の恋心など、まったく知らないクルトは朗々と語る。


「ああ、仲間内では有名だよ。あ、そうか、イリーネは彼を知っているんだっけ。四年前のあれだって王女のお忍びとは気づかずに、街で偶然見かけたパウラをナンパしようと狙っていたそうだよ。だから、護衛よりも早く駆けつけられたんだ」


「でも、助けてくれましたよ……傷まで負って」


「あん? あれはあいつのミスだぞ。後ろから取り押さえれば簡単だったのに、わざとカッコつけて刺客の前に立ちはだかったんだからな。助けたことには変わりないから、隊長に出世はしたけど」

 

「…………」


「いくら注意しても女性トラブルが絶えなくてな。いつか何かやらかすとは思っていたけど、あの勇将と名高いドスタル伯爵の愛娘に手を出すとはねぇ。バカというか、節操がないというか――」


「……」


「ま、クズだな」



 翌日、イリーネはショックで寝込んだ。





 ※※





 イザークに対する想いが、ガラガラと音を立てて崩れていく。

  

『助けてくれてありがとうございます。怪我……お大事になさってください』


『勿体なきお言葉でございます。あの日、この身を盾に王女殿下をお守りできたことは、私の誇りです』


 これが四年前、お礼を言うために騎士団へ訪れた際に、たった一度だけ交わした会話だ。

 イザークのキリッとした端正な顔がほころんだ瞬間、イリーネは恋に落ちた。

 誇りだと気遣ってくれたことが、素直に嬉しかった。

 彼こそが、理想のヒーローだと思った。

 それなのに――すべて虚像だったなんて。

 クズ男……。

 あんなに彼を見つめていたのに、何も見えていなかった。

 これが失恋の痛みなのか、それともイザークに対する失望なのか、イリーネにもわからない。

 人生が終わってしまった、そんな気がする。

 イリーネは、途轍もない喪失感に襲われ動けないでいた。


 ふかふかしたベッドの中は、極上の癒しだ。

 ぬくぬくと微睡む。

 二日目になって、イリーネの状態を知ったハルトムートが見舞いにやってきた。

 頭まですっぽりと布団にくるまり出てこようとしない妹を兄が労わる。


「クルトと鍛錬したんだって? きっと疲れたんだよ、ゆっくりお休み」

 

 心なしかウキウキしているように感じるのは、コルネリアに勉強を教えるようになったからだろう。この数日間、朝の図書館には、イリーネではなくハルトムートが通っている。二人は着々と愛を育んでいるようだ。


「姫様、温かいスープをお持ちしましたよ」


 ハルトムートと入れ違いでクリスタが、かぼちゃのポタージュを運んできた。

 途端にお腹がぐうと鳴る。元気はなくともお腹は空くのだ。


「そういえば、ガブリエラは?」 


 イリーネはベッドの上でかぼちゃのポタージュを匙ですくいながら、朝から姿を見せない侍女の行方を尋ねた。今日は二人のいつものやり取りがないので静かだ。


「バール侯爵家のパウラ様のところです。ザイツ国とその周辺国の最新情報をまとめてくださったので、それを取りに」


「さすがパウラね」


 バール侯爵家は代々外交を担ってきたので、他国の情報に詳しい。パウラは王女が嫁入り先でも困らないようにと気を利かせてくれたのだ。

 イリーネの胸がじんわりと温かくなった。


「それだけじゃないんですよ。私とガブリエラがザイツ王宮に行っても恥をかかないようにと、いろいろ教えてくださるんです。正直、あちらの作法には自信がないので助かりました」


 クリスタは感涙している。

 一方、戸惑ったのはイリーネだ。


「へ? あなたたちは、この国に残るのではないの?」


「何を言っているんですか。私たちは姫様の侍女ですよ? ついて行くに決まってます。私たち以外に、誰が姫様のお世話をするんですか」


「だって、侍女は結婚までの腰か……」


 腰かけではないのかと、うっかり口が滑りそうになる。

 すると、クリスタの瞳がキラリと光った。


「そうですよ? いい縁談を世話してもらうのが私の目標です。せっかくなので、ザイツ国で結婚相手を探すのもありかな~と思いまして!」


 クリスタは、より一層のやる気をみなぎらせている。

 それもいいのかもしれない、とイリーネは思う。

 ザイツは大国なので、王妃の侍女ともなれば良縁も得やすいだろう。


「頑張って。そうね、青いドレスを着せてくれたら協力してあげてもいいわ」


 イリーネが片目を瞑って提案すると、クリスタが自信満々に胸を張った。


「お任せください、姫様。来シーズンの流行は鮮やかなブルーですから!」


 互いにクスクスと笑い合う。

 

 スープを飲み終えた頃、両手いっぱいに資料を抱えたガブリエラが帰ってきた。


「朗報、朗報ですよ、姫様!」


「ちょっと落ち着いて。一体どうしたの?」


 イリーネは、興奮しているガブリエラを宥める。

 その間にクリスタが資料を受け取り、机の上に置いた。 


「先程、パウラ様から聞いたんですけど、ザイツの国王は、かなりのイケオジらしいです」


(い、いけおじ?)


 イリーネはキョトンとする。クリスタに「カッコイイおじさまのことですよ」と耳打ちされたので、それの何が朗報なのかと首を捻ると、二人がじれったそうな顔になった。


「不細工よりイケメンの方がいいに決まってるじゃないですか~」


「そうですよ、姫様! 性格の悪さは調教すればいい。お金がなければ稼げばいい。だけど顔は変えられないんです」


 クリスタとガブリエラに力説されてタジタジになる。勢いに押され、それもそうかと納得してしまうのであった。


(それにしても調教って……!)


 なんと、たくましい。それに、なかなか強かだ。

 前向きな明るさに導かれるように、イリーネはもぞもぞと布団から出た。


「起きるわ。なんだか寝込むのもバカらしくなってきちゃった」

 

 う~んと大きく伸びをする。

 次の瞬間、弾かれるようにクリスタは「湯あみの用意をしてきます」とバスルームに駆け込み、ガブリエラは着替えを取りにクローゼットへ向かう。「姫様が、元気になった!」と嬉しそうに笑いながら。



 結局、イザーク・エクムントは、両家の話し合いの末、ドスタル伯爵令嬢ハイデマリーの妹と婚約した。騎士を辞め、今後は伯爵家の領地の仕事をする予定だ。

 社交デビューしたばかりの娘を強引に誘った挙句、妊娠させてしまったイザークへのドスタル伯爵の怒りは凄まじく、話し合いの席で剣を突きつけたほどだったという。

 イザークの信用は地に落ちていたが、未婚での出産は外聞が悪いためドスタル伯爵は二人を一緒にさせることにしたのだ。その代わり、自身の手元に置き監視する。もちろんイザークに自由はない。もしまた問題を起こせば、今度は確実に()()()()だろう。

 エクムント男爵は、息子の不始末に平謝りするしかなかった。

 妻同然だという平民女性は、既に結婚していたことが判明した。イザークが近衛隊長に昇進したあと、二年以上も音信不通だったため、見切りをつけて新たなパートナーと家庭を築くことにしたそうだ。子どもは夫の子として育てている。彼らには男爵家から相応の養育費が支払われることとなった。

 

 ザイツ国へ出発する直前に、クルトからその報告を受けたイリーネは、自分の恋が過去のものになっているのを感じた。

 彼の名前を聞いても、結婚するのだと知っても、もう胸がしめつけられることはなかったからだ。

 ただ遠くから見つめることしかできなかった恋は終わったのだ。




 ※※




 そよ風が吹く晴れた日の午後。

 イリーネを乗せた馬車がザイツ王宮の門をくぐる。

 国王フェルナンドは、わざわざ馬車寄せまで足を運び、イシュル王国の姫を出迎えた。


「これは可愛らしい姫君だ。ようこそザイツへ、我が花嫁殿」


 流れるような所作で恭しく花嫁の手にキスを落とし、白い芍薬(ピオニー)の花束を差し出す。ふわりと甘い香りが広がった。

 フェルナンドの怜悧な美貌に、その場にいた御付きの者たちの目が釘付けになる。誰もが呆けたように動きを止め、物音すら聞こえない。

 

(こ、これがイケオジの破壊力……!)


 紺碧の瞳と目が合った瞬間、優しく微笑まれ、イリーネの耳が朱に染まった。


 白いピオニーの花言葉は『幸せな結婚』だ。

 フェルナンドが意図してこの花を選んだのかどうかはともかくとして、その後、二人は仲睦まじい夫婦となる。

 だがしかし、この時のイリーネには、フェルナンドに溺愛される日々が待っていることなど知る由もない。

 実はこの結婚は「水魔法」も「雨降らし」もまったく関係がなかった。

『案外、フェルナンドのおっさんがイリーネに惚れてたりして』――クルトのこの冗談めいた予想が当たっていたと判明するのは、もう少し先の話である。

 尚、イシュル王国では、ハルトムートが王太子の座を辞してコルネリアと結婚し、民衆の間で『真実の愛』を貫いたと話題になった。そのあとに王太子になったクルトも、ラーラを娶り望みを叶えることとなる。

 侍女のクリスタとガブリエラは、ザイツ国の貴族と結婚。念願の良縁をつかんだが、退職することなくイリーネに長く仕えた。

 ザイツ国とイシュル王国は、末永く友好関係を築いた。

 イリーネは夫のフェルナンドにデロデロに甘やかされながらも、両国の発展に尽したという。


  



 

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