92.
「舞。何があったんだ。……まさか、脅されたのか」
舞は顔色一つ変えず、眉ひとつ動かさなかった。
何も知らないまま、一詩が自分を憎んでくれるなら、それでよかった。
「一兄。五年前とはもう何もかもが変わってしまったわ。私は昔の、あなたの幼馴染だった頃の舞とは違うの。今の私は、ただの化け物よ」
そう言って舞は、冷酷な表情で右手を振り上げる。
一詩はその様子を静観していたかと思うと、ふっと微笑んだ。
「いいよ」
浮かぶ笑顔は、昔と何一つ変わっていなかった。
舞の手が、空中でぴたりと止まる。
「お前がそれを望むのなら、俺の竿を斬ればいい」
「一詩兄さん」
「他に方法がないんだろ」
全てを受け入れる瞳に、舞は言葉を飲み込んだ。
一詩は舞の腕を引いて自分の胸に引き寄せると、そっと髪を撫でた。
「ごめんな。お前のこと、変わったなんて言って」
舞は目を見開いた。
「俺は何にも分かっちゃいなかった。どんなに綺麗になっても、ひどい奴らのせいで心を殺してしまっても、舞は何一つ変わっちゃいなかったんだ」
一詩の手が舞の小さな指を撫でる。
「こんなに小さな手で……ずっと辛い仕事をしてきたんだな。俺は何にも知らずにアメリカにいて、助けてやるどころか、お前の苦しみに気づきもしなかった。ごめん。ごめんな……舞」
一詩の声が涙に曇る。
舞は腕を引いたが、一詩は離さなかった。
「やめて一兄」
一詩は微笑んだまま、舞の手を引き寄せる。
「きっとお前は、昔のように大切な何かを守るために西へ東へ奔走していたんだ。それでもどうにもならなくて、俺のところに来たんだ。
なら、俺がすることは決まってる。
竿の一つや二つ、舞のためなら惜しくない。それで舞が助かるなら、救われるなら安いもんだ」
舞は感情の高ぶりが、右手に力となって溢れだすのが分かって戦慄した。
このままでは、自分は一詩の竿を斬ってしまう。
「お願いやめて!」
一詩は力強く微笑んだ。
「舞。幸せになれよ」
一詩の手は舞の右手を導き、悲痛な慟哭が夜にこだました。




