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美化された記憶の備忘録

作者: ひつじ

連載物のサイドストーリーとして書いたものなので、変な終わり方をしています。

それでも読んでいただけると嬉しいです。

そのうちその連載物もアップできればと思っていますが、すみませんいつになることやら。


【転校 (序章)】

 中学三年で初めての転校。不安と希望で胸がいっぱい、と言いたいけど、希望なんて微塵も無く、本当に単純に純粋に不安だけで、その不安に胸も身体も押し潰されそう。

 不安? 不安だけ? 違う。それだけじゃない。複雑に入り混じった感情の内側で煩悶する。その中でも、諦め、そう諦念の方が今の自分に言い聞かすには解りやすい。変わってしまった私が私を突き放す。こんなはずじゃなかったと、戻ることができない時間を嘆く。だからこそ、過ぎ去った時間に縋る。


 この学校の噂は聞いている。同じ市内の中学生なら南中のことを知らない生徒がいないと言っていいほど有名。その悪評にはいつも男子の名前が並ぶけど、女子の方もそれなりに高名で、街でその制服を見かけたら、とりあえず避けるようにと言われていた。そんな学校に転校するなんて、まさか自分がその制服を着ることになるなんて、全く持って思いもしなかった。

 子供の転校なんて親の都合だけでしかないから、意見や反論なんて言えるわけもなく、只々従うしかない。自分の親がなんでこの学区に引越しをしたのか、この学校のことをどう思っているのか聞いてみたい。

 こんなことを言うと、『聞けば?』と言われるけど、今の私は、両親とそういう会話ができるほど仲が良くない。世間一般的に言えば私は単純にグレていた。

 グレるなんていっても、誰にでもある思春期の第二次反抗期なのだけれど、なぜ自分がこんなことになっているのか自分でも理解ができない。素直でいい子だったはずなのに。全てのことに反抗しなければいけないような気になって、単純に「はい」と言えなくなって、全てがどうでもよくって、どうしようもない。そんなわけのわからない感情をもてあましている。でも、決して悪さをしようとしているわけではなく、人に迷惑をかけようなんて露ほども思っていないし、それはいけないことだと、頭では理解している。

 だから、髪の毛を染め、眉を剃り、化粧をして、スカートを短くする。そう、『誰にも迷惑かけてへんやん』 そんなつまらないセリフが免罪符となるように。

 前の学校では疎まれ避けられる存在だったけど、この学校に来て自分以上にツッパてる奴がいる。ほんまもんがいる。こんな奴らの中でカッコだけの私は、どう振る舞って良いのかわからない。

 その学校への登校初日。私から何か匂いでも出ているのだろうか。その日、一番に声をかけて来たのは、髪を染め、眉を剃った、いかにもな見た目の女子だった。

「なぁ、上田ってどこから来たん?」

「東中」

 声をかけてきたその子の顔が見えるほどに目線を上げることができず、腰に置かれた手にマニキュアが塗られていることだけを知った。


 彼も転校して来た時ってこんな感じだったのかな? 不安でオロオロしてたのかな? そんな風には見えなかったけど、実際はどうだったんだろ? 今の私よりずっと堂々としていたように見えた。何も怖がっていなかった。すぐに友達を作って楽しそうにしていた。 ん? 本当に?

 そんな彼との二年間を思い出してしまった。


【転校生】

 小学五年生の一学期の始業式が終わり、クラス替えで新しいクラスメイトが揃う五年二組の教室に戻ってきた。四年生の時とは違うクラスメイトに皆が慣れない教室の中で、彼はしれっと自分に充てがわれた席に座っていた。彼以外はなんとなく見たことがあった気がするが、その男子は私の記憶では、四年間この学校で目にしたことがない。それはそのはず、彼は五年生の新学期から新たに入ってきた転入生だった。

 授業がある学期内での転入生が、担任から紹介され教壇で自己紹介する光景は、どこの学校でも見ることができると思う。しかし春休みに引っ越して来た児童は、何事もなかったかの様に、前からそこにいたかの様に席についていて、担任から特別に紹介もなく、全員が順番に行う自己紹介に混じってあっさりと紹介が済まされた。

 そんな区切りのいいところで転入してきた彼は初めての登校だと思えないくらいに溶け込んでいる。クラスの誰かと話をしていた訳でもなく、ただ席についていただけなのだけれど、ずっとこの学校にいて四年間一緒に過ごして来た旧友のように見えた。

 私の彼に対する第一印象はそんな感じで、なんだかいつのまにかそこに居て、目立つことなく馴染んでいたので、出会いにインパクトなんて全くなかった。他のクラスメイトもそう感じていたに違いない。

「純子ちゃ〜ん。何ぼーっとしてるん?」

「あ、うん、別に。何?」

 彼のことが気になってたわけでもなかったが、二つ後ろの席のルミちゃんからの呼びかけにちょっと遅れて答えた。

「今年は同じクラスやな」

「うん。よろしくね。マミちゃんは?」

「双子は一緒のクラスにはならへんみたいやで。竹田んとこもそうやんか」

「ふーん」

 このやり取りはクラス替えのたびのお約束。ルミちゃんもわかってこたえてくれている。

「ぎゃっ、また上田の後ろか。お前のポニテ邪魔やねん。黒板見えへんやんけ」

 そんなわけないやん。

 二人の間で騒いでいる頭がいいのに言動が残念な小畑を無視して、前に向くように座り直した。


 始業式の日は、転校生だという属性だけがほんのちょっぴり気になった気がした彼が、親の仕事の都合で転校してきたどこにでもいる転校生が、私の残り二年間の小学生生活を豊かにしてくれるなんて思いもしなかった。そんなことを想像することができていたなら、自分が好きになれたかもしれない。

 そうやって始業式の日からそこに居た彼は、当たり前だけど次の日も普通に登校して自分の席についていた。

「なぁなぁ、本多って、いつ転校してきたん? 四年の時はおれへんかったやんな」

 昨日は遠慮していたのか、彼に興味を持った男子が今日になって声をかけているところに、聞き耳を立てた。

「この学校に来たんは昨日からやけど、引っ越して来たんは二ヶ月前くらい」

「それまでどこに住んでたん?」

「おんなじ市内やけど、西の方。引っ越した時に転校する予定やったんやけど、学年変わる時の方が、キリがええからって親に言われて」

「へーそうなんや、友達になろな。前の学校でなんて呼ばれたん?」

「普通に、ヒロカズって言われてた」

 いつものことだが、男子はすぐに誰とでも仲良くなるなぁ、なんて窓際の席からその光景を眺め、またすぐに校庭の向こうへと目を移した。

 私はあまり友達とワイワイするのが得意じゃなかったので、休み時間は本を読んだり、窓の外をぼーっと眺めたりすることが多かった。別に友人が少なかったわけじゃなく、むやみに騒ぐのが好きじゃなかっただけ。

 一学期は名前順で席が決まっていたので校庭側の窓際になることが多い。外を眺めて過ごすにはこれ以上ない席が、充てがわれる。学年が上がった一学期はほぼ無条件に窓際を確保できた。小学校も高学年に上がると、教室も最上階の三階へと上がり、窓からの眺望も格段に良くなった。二階に教室があった四年生の時は、そばを流れる川の堤防の向こうは見えなかったが、三階まで上がると川の向こう岸に広がる畑や、ユニチカの工場まで見える。背の高いマンションがないこの地域では学校が一番高い建物だ。一つ上の階に上がった教室からの眺めは、自分がなんだかちょっと偉くなったような気にさせてくれた。

 でも、二学期になると、必ず席替えがある。うちのクラスはくじ引きでそれを決めることになった。校庭側の窓際になれる確率は約六分の一。密かに祈ってくじを引いたけど、当たらなかった。結果は廊下側から数えて二列目の真ん中辺りという微妙な位置になった。

「まぁそんなとこでしょ。それに秋は廊下からの景色がいいんだよね」なんて自分に言い聞かせ、悔しさを紛らした。そのため休み時間は廊下に出て窓から外を眺めることが多くなった。


【指】

 席替えで決まった場所にぼちぼちと慣れてきた二学期のある日、昼休みの校舎の裏で彼を見かけた。そこは校舎に沿って長く続くフェンスがあり、そのフェンス脇には雑草が生い茂り、それに混じって少しだけ赤いオシロイバナが咲いている。そこは掃除の時間に、焼却炉に行くため通り過ぎる子がたまにいるだけで、あまり人が近づくところではない。学校で一番さみしい場所と言える。

 三階の廊下からそのフェンスの先にある穂を垂らした稲の広がりを見下ろしていると、その人気のない場所に彼が現れた。

「あんなとこで、何するんやろ?」

 思わず口に出してしまったそんな疑問を解決すべく、暇な昼休み、彼を観察してみることにした。

 彼は周りを気にすることなく校舎に背を向けて立つと、右手を空に向けいっぱいに伸ばし、人差し指で空を指した。さながら何かの競技で優勝したことを誇示しているかのごとく、その体勢を維持している。維持していると言うより、その格好のまま動かない。彼の指差す先を見ても青い空と、気持ちよさそうに仲良く並ぶウロコ雲以外何も無い。彼の顔は指差す方向を見ているわけではないようで、後ろから見る限りは正面のフェンスを見据えているようだった。そんな動かない彼を、私も動かずに見下ろし続けた。

 さほど時間は経っていなかったと思うけど、あまりに動かない彼に益々興味が湧き、近くに行って何をしているのか確かめようと、理由を聞いてみようと、外階段を降り校舎裏に出た。そこにいた彼は上から見ていた時の体勢を崩さず、指を突き上げ、正面を見据えている。私は彼にゆっくりと、なるべく音を立てない様に近づいた。

 どんなに足音を殺しても砂利の上を歩くと音は出るもの。人が近寄ってきたことはバレているに違いない。それでも、彼は動こうとしない。

 左後方から彼との間を詰める。その距離が三メートルほどになり、声をかけようとした瞬間、彼は突き上げていない左手を私に向け伸ばし、手首を上下に振った。

(ん? こっち来いということかな?)

 そう思いもう少し近づくと、こちらに目を向けることなく彼は囁くほどの声で私を誘った。

「おいで、ゆっくり、静かに」

「何してるん?」

 彼の声に合わせて囁くように訊いた。

 彼は突き上げた右手をゆっくり見上げる。それにつられるように私も彼の指先に目を向けた。

「っ」私は危うく出そうになった声を押し殺し、目を見開いた。

「可愛いでしょ」

「うん」

 彼の指先には真っ赤なトンボがとまっている。羽の先を下に向け、そこで休んでいる。トンボには表情が無いのはわかっているけど、うっとりと彼の指先に全てを預け、くつろいでいるように見える。

「私にもできるかな?」

 トンボの方から寄って来て、指にとまっていることが何だか羨ましく思い。虫が嫌いではなかった私は、そんなことを口走ってしまった。

「頼んでみるわ」

 そう言った彼が伸ばしていた指をクイッと曲ると、真っ赤なトンボは彼の指を離れた。

「は? 頼んでみるって、何言うてるん?」

「純ちゃんにもとまるように頼んだから、ほら、指上げて」

 馬鹿馬鹿しいと思うより先に言われるがまま、さっきまでの彼と同じように右手の人差し指を突き上げた。

 音もなく近寄ってくる使いかけの赤鉛筆。私の指の近くでなんだか迷っているみたい。

「じっとして」

 耳元で囁かれた声が優しく漂う。頷く私に驚いたのか近づいたトンボは少し離れる。手を上げ続けることは結構辛い。彼が、下がってきた私の肘を支えてくれた。洋服越しとはいえ、男子と体が触れ合うなんてかなり恥ずかしかった。もしかするとトンボより赤い顔になっていたかもしれない。

「じっと」

 恥ずかしさを我慢しつつ、今度は動かないよう気をつけた。すると指先近くで空中に静止していた赤トンボが、ゆっくりと私の指をつかんだ。なんだかくすぐったい。繊細な柔らかい糸でできているような六本の足が、指先を囲むように触れている。

 赤トンボがピクッと羽を震わすたびに指先にほんの微かな振動が伝わる。それは今まで感じたことのない優しさだった。ゆっくり上を向き、赤トンボと目を合わすと、首をかしげる仕草で何か意志を伝えようとしているように見えた。

 そよそよと吹く秋風が一瞬強く流れた。赤トンボは風に飛ばされまいと、私の指を掴む足にクッと力を込めた。ほんの些細なことだけど、頼られている嬉しさが、庇護欲を高める。もう一度赤トンボと目を合わせると、また首を傾げ、何か言っているみたい。

「そろそろいい?」

「あ、うん」

 肘にあった彼の支えがなくなると、腕が揺れ、それを合図に赤トンボは指を離れた。

「ありがと、こんなん初めて。可愛いけど、ちょっとくすぐったかったわ」

 私の言葉を笑顔で聞く彼の目は、指から離れた赤トンボを追っているよう。私にはたくさん飛び交うトンボの中で、今まで指に留まっていたのがどのトンボなのか区別なんてつかなかったが、どうも彼にはわかっているみたい。その赤トンボを目で追いながらまた不思議なことを言った。

「あの子、純ちゃんのこと気に入ったって。もう一回とまらせてあげて」

「え? あっ、うん。ん? あの子?」

 トンボのことをまるで友達のように言う彼に答え、私は指を上げようとするが、腕を掴まれ止めたれた。

「ううん。今度はブローチ」

「??」

「腕下ろしてじっとして」

 今度は早かった。彼がそう言うと、刹那、赤トンボが私の胸に留まった。白いブラウスの胸ポケットに真っ赤なブローチのように留まった。上から見下ろすその子は、また首を傾げる様にクリッと捻った。

「可愛いやろ」

「うん、可愛い」

「そろそろ休み時間終わるから行こ」

「でも、これ……」

「大丈夫、まだ飛んで行かへんから。そこが気に入ってるみたいやし、とまらせといてあげて」

 二人して歩き出し体が揺れるが、その子は胸から離れようとしない。窓ガラスに映り込む私の胸ポケットには赤トンボのブローチがついている。このリアルなブローチを誰かに自慢したいけど、見渡す視界の中に友達は誰もいなかった。

 校舎の入り口で前を歩いていた彼がこちらに振り向き、膝に手を当て前屈みになった。私が立ち止まると、彼が私の胸に顔を近づけた。まるでトンボと会話をしているみたい。彼は指でチョンと赤トンボの背中を突くと、その子は私の胸を離れ、稲穂の垂れ下がる田んぼへ向けて飛んで行った。名残惜しくその子のことを目で追いかけたけど、他に飛び交う仲間たちと混ざり、戻ってくることはなかった。

 我に返って校舎の中に目を戻したが、すでにそこには彼はいなかった。私は慌てて校舎の中に駆け入り、階段を見上げた。

「待ってぇな。なぁなぁ、ほんまにトンボと喋れるん?」

 言っている自分が可笑しくなり、クスっとうっすら笑い声が出てしまった。

「うん。でも、話せる子と、話せへん子がいるんやけどな」

「嘘やぁー」

「うん、嘘。トンボ語なんか喋れるわけないやん」

 どっちが嘘なのかわからなくなった。あんな偶然が何度もあるものだろうか、それとも本当にトンボが彼のいうことを聞いてくれたのか。当たり前だが会話なんてできるわけないし、偶然なのだとわかってるけど、そうとは思わせない彼の言動に不思議な魅力を感じた。

「あの子、純ちゃんのこと好きになったみたいやで、男の子やったもんな」

 ニコニコ話す彼のそんな言葉が、ますます私を悩ませる。

「ほな校舎の入り口で、トンボに何したん?」

「あれな、こっから先は人のエリア。入ったら出れへんようになるで、って言うてん」

「ほんなら?」

「いやや、純ちゃんに付いて行くって、駄々こねたから、あかんでって、無理やり離してん」

 もう、本当にどっちが嘘かわからなくなった。でも、赤トンボに掴まれた指先に伝わった優しさと信頼は、擽ったさと共に小さくても素敵な思い出となった。


【校舎裏】

 それから数日が経ったある日、登校した彼が自分の机にガラクタを並べだし、その散らかった机の隅に千切ったノートの切れ端を置いた。

 そこには『一つ百円』と書かれている。

 あれ以来、彼のことを『不思議キャラ』として見ていた私は、その行動に驚くことはなかったが、他のクラスメイトは今朝開店したばかりのガラクタ屋さんに興味津津で、彼の机をあっという間に囲んだ。私もそこにとりあえずという感じで混じってみた。

「何売ってるん?」

「ここにあるもんどれでも百円」

「めっちゃ高いやん。こんなん百円もせえへんで」

「百円無かったらこれでええで」

 そう言って広げた彼の掌には、黒くて丸い何かの種の様な物があった。

「これ一個百円ってことでええで」

「何これ? なんかの種なん?」

 周りにいた女子が彼より先に声を出した。

「それオシロイバナの種やん。そんなん百円もせぇへんやん」

「うん。そう。学校に来るとき咲いてる花がそろそろ種つけるから、それ持ってきたら1個百円ってことで、ここで使えるねん」

 何とかゴッコの好きな年頃。私はその延長だと思っていた。男子ってアホやな、ガキやな、なんて思っていたのだけれど、これが何故だかクラスのブームになる。

 次の日も彼が登校と同時に机に店を広げると、登校途中で拾ってきたと思われるオシロイバナの種と、彼の机の上にあるガラクタを交換する奴が現れた

 その次の日には彼と同じ様にガラクタを机に並べる男子もいた。レートは同じでオシロイバナの種。ただその次の日から違ってきた。オシロイバナの種だけでなく、朝顔の種もそこに加わる。それは一個五十円の換算。朝顔の種二個でオシロイバナの種一個分となる計算だった。

 日が経つにつれ、男子だけでなく女子の出店者も出始めた。基本的にはバザーで、身の回りの不用品を必要としている人に売ることになる。不用品と言ってもそれなりに使えるものも多く、女子の出す店には興味をそそられる物が沢山並ぶ。私も登校途中でオシロイバナが咲いている辺りを通るので、黒い種を集めて登校することが日課になっていた。

 しかし、よく考えて下さい。種は無尽蔵と言えるくらいに存在し、青天井に増えていくことでインフレが起きます。買う物が無くなっていきます。レートが上がっていきます。それと大事なことはその種をどうするのかということを誰も考えていなかった、ということです。

 間違い。彼以外、誰も考えていなかった。彼だけがそれを知っていた。ということ。

 売る物が無くなり、ブームが去ろうとしている頃、彼が種を集めたみんなに声をかけた。

「その種、いらんかったら頂戴」

 必死になって種を集めていた男子も女子も、もちろん私も、オシロイバナの種と朝顔の種を持て余していた。ブームが去ると、必死で集めていた種は、まるで魔法が解けたように、特別な意味も価値も持たないただの『種』に戻ってしまった。もちろんオシロイバナの種なんて大量に持っていても何にもならないことはわかっている。私だけでなくクラス中の誰もがそう思っている。その種を引き取ってくれるというのだから有り難いことだった。誰も文句も言わず、何一つ疑うこと無く、彼に種を全て渡した。

 クラスの皆は、まぁゴッコ遊びの延長で楽しくやれた、と思っていただろう。でも、私にはそうは見えなかった。トンボの日以来、彼のことを何かと観察してしまっていた私は、絶対に何かあると思った。彼が何か企んでいる、またそれを隠していると思っていた。が、結論から言うとこの時は何も無かった。単純に彼は袋いっぱいのオシロイバナの種と朝顔の種を手に入れただけだった。そう見えてしまった。そして自分が浅はかだったと一年越しで思い知ることになる。

 覚えているでしょうか? あのトンボの日のことを思い出して下さい。一年後の六年生の二学期、彼が指を突き上げていたあの場所が、あの雑草だらけの場所が、フェンス沿い全てがオシロイバナでいっぱいになっていたんです。

 トンボの日は雑草だらけで、その中にオシロイバナが咲いているのは知ってはいたけど、それはほんの少しだけ、こんなに沢山は咲いてなかった。でも今はフェンス沿いにずっと、濃いピンクのビーズを散りばめた様に可愛い花が咲き誇っている。

 黄色い稲穂とあぜ道には赤い彼岸花、その手前には目にしみる程の緑色の葉に赤い小さなオシロイバナ。三階の廊下から見るそのコントラストは去年には考えられないものとなっていた。

 彼がどうやってそこに種を蒔いたのか、またそれをどうやって育てたのか、本当にそれがあの時彼が集めていた種から育った花なのかは、その時はわからなかったけど、この秋色の光景は、忘れられない記憶の色になった。


【初めて】

 ガラクタ市の様な一時のブームがまたきた。それは紙飛行機。男子は挙って自分なりの飛行機を折っては教室の中で飛ばしていた。どうも今回は彼が始めたんじゃないみたい。私としては止めて欲しい。頭や顔に当たる事も屡で、休み時間を静かに過ごしたい私には邪魔以外何者でもない。たまに紙飛行機は窓の外へ飛び出すことがあった。三階の教室から外に出てしまった紙飛行機は風に乗りグランドやその手前の花壇に落ちる。でもそれを拾いに行く男子はいなかった。

「あーあ、また外に出てしもた」

「掃除の時、誰かが捨ててくれるからほっとったらええねん」

「せやな、まぁええか」

 こんな無責任な会話を耳にする様になり、エスカレートする男子は、窓から外に飛ばすようになっていった。やっぱりというか当たり前というか、それが先生の間でも問題となる。そんなある日の学級会で、紙飛行機の問題が話し合われることになった。

「今日の議題は紙飛行機についてです。最近、紙飛行機を窓から飛ばす人がいるみたいですけど、やめたほうがいいと思います」

「窓から飛ばしてるんと違いますぅ。窓が開いてるから外に飛んで行くだけですぅ」

 屁理屈を言う男子にはうんざりする。アホなガキ、低学年よりアホや。議論にもならない。

「花壇の周りを掃除する組からクレームが出ています」

「男子はやめる方がいいともいます」

「このクラスだけやなくて他のクラスもやってるんですけど」

 うちのクラスの影響で他のクラスの男子までも外に向けて紙飛行機を飛ばしているのは事実で、ゴミ問題は深刻になると同時に、「自分だけじゃない」と言い訳を許す結果になっていた。

 堀江先生はどう思っているのかと、ちらっと教壇の端を見てみたが、パイプ椅子を広げ座って腕を組んでいるだけで、ただ動向を見守っている風だった。


「そんな外に向けて飛ばしたかったら一層の事、外に飛ばす日を作ってみんなで競争するっていうのはどう?」

 言い出したのは、彼だった。その発言に一瞬静まった教室中の視線が彼に向けられた。

「何それ? そんなんゴミ増えるだけやん」

「そうやで、アホちゃう」

 反対意見を並べていた女子がバカにするように彼を見ている。

「だからな、その飛ばした飛行機は後で拾いに行けばええねん。そんでな、名前書いて飛ばしたら誰が一番飛んだかわかるし、自分の責任で回収できるやん」

 また教室が静かになった。

「拾いに行くの面倒やねんけど」

 教室の端からそんな呟きが聞こえた。教壇の真ん中で進行していた議長が目線を先生に向け助けを求めると、今まで静観していた先生が立ち上がった。

「よし。来週の学級会は紙飛行機大会にしよ」

「そんなことしていいんですか?」

「ええんちゃうか、ちゃんと拾いに行くんやろ?」

 議長の意見に堀江先生は軽く答えた。一部の男子が声をあげて喜んでいる。でも、本当にいいのかな。学級会は授業の一環のはず。その時間に紙飛行機を飛ばして遊ぶなんて考えられない。堀江先生も何を考えているのか。

「その代わり……」

 堀江先生は教室を見回して続けた。

「その代わり、その日以外は、絶対に外に紙飛行機を飛ばさんように。もし、なんかの間違いで外に出たのが有ったら、その場ですぐに拾いに行くこと。いいな!!」

 なるほど、そういうことか。


 次の週の学級会は宣言通りの紙飛行機大会となった。なんだかんだと文句を言っていた女子も楽しそうに折っている。

「この紙、可愛いやろ。これやったらすぐに見つけられるしな」

「うち、紙飛行機なんて折ったことないんやけど、どうすればいいんかな?」

 そんな女子を男子が照れながら手伝っているのを見ると、先生の企みも満更でもないのかと思った。それは自分にもいい機会を与えてくれたことからの結論。ノートから破いた紙を前にどうしたものかと悩んでいた私に、彼の方から助け船を出してくれた。

「純ちゃん飛行機折ったことないん?」

「うん」

「簡単なん教えてあげるわ。おんなじようにやってみて」

「うんおおきに」

 机に広げられた紙を器用に折って行く彼に続いて同じように折り進める。

「コツはな、角を合わせたりするとき丁寧にきちっと折ることやねんで。ええ加減にしたらあんま飛ばへんからな」

「わかった。こんな感じ?」

「うん。それと、完全に折ってから必要なだけ広げるねん」

「これでええ?」

「もっともっと、爪で折り目付けるくらい」

「そうなんや」

 机に置いた折れた飛行機を手のひらの手首に近いところで押し付けるように折り目をつける。

「で、広げたら出来上がり」

 彼の飛行機と見比べると、同じものを折ったとは思えないほどブサイクで、自分のがまともに飛ぶとは思えない。

「ちょっと飛ばしてみぃ」

 促され座ったまま教壇に向けて軽く飛ばしてみた。

 それは自分の予想に反し真っ直ぐに飛ぶと、コツンと黒板に当たり床に落ちた。

「うわ」

 思わず小さく叫んでしまった。それを彼に聞かれた。

「びっくりした? 上手に作れてるやん」

 恥ずかしさを隠すため席を立ち、教壇に落ちた飛行機を拾いに行く。

「それ純ちゃんの?」

「うん」

「なんかめっちゃすごいやん。綺麗に飛んでたやん」

「そうかな?」

「優勝できるんちゃう?」

 それは自分でも期待していいかと思えたからなのだろう。優勝という言葉に照れてしまった。席に戻ると机の上に白い紙が置いてある。

「今のは練習な。こっからが本番やで。おんなじの折ってみよ」

 外に飛ばすにはノートの紙では柔らかすぎるのだそうだ。彼はノートより厚く画用紙より薄い紙を、飛行機用に用意して来ていた。

「ほな、さっきと同じように折ってみよな」

 彼は前回よりもっと丁寧に折るように指示した。角をピッタリと合わせる。左右の長さを合わせ、バランスをとる。指示は練習の時より細かい。でも彼は私に教えながら、何事もなく折り進める。その流れるような指先の繊細さに見蕩れ、手が止まりそうになりながらも、自分の飛行機を真剣に折り進めた。


「はーい。では、班ごとに飛ばしまーす。まずは一班の人」

 教室の机は廊下側に寄せられグランドに面する窓際が広く開けられている。掃除の時は机を前後に動かすが、机が黒板に向かって右に寄せられた光景は新鮮だ。ほんの些細なことでも、決まり切った形のある教室では別の場所にいる気分になる。

 室内と違い外は風があるようで、先に飛ばしたみんなは思ったより飛んでいない。ほとんどの飛行機がその風を受け、墜落同然に落下している。それを見ながら落胆の声が多く聞こえた。

「あーあ。全然あかんやん」

「簡単なようで難しいな」

「もっと飛ぶと思てたのに」

 そんな中、良い成績が出たのだろうか、驚きの声が教室に響いた。

「すごーい」

「お前それ、飛ばしてるっていうより、投げてるやん」

「遠くまで行ったらええんやろ。ルール無いんやし」

 その男子の作った紙飛行機はもはや飛行機とは言えない形をしていた。それは飛行機というよりさながらロケットだった。それを力任せに投げたので、風に影響されず真っ直ぐに、遠くまで飛んで行った。今のところ、この飛行機のようなものが一番だ。

 次は、彼の班。私までドキドキする。でも、彼の手から離れた飛行機は風に吹き戻され校舎に当たりほぼ墜落状態。それでもなんとか飛んだけど期待を裏切り、平凡な成績に終わった。

「あんまし飛ばへんかったわ」

 近づいてくる彼は残念な素振りはなくニコニコしていた。

「ちょっとそれ見せて」

 彼は私の飛行機を手に取り、片目でいろんな角度から観察すると、羽の後ろに微妙な湾曲をつけた。

「はい。頑張ってな。真っ直ぐ飛ばすんやで、上に向けんように。力も入れたらあかんで」

「うん」

 彼からの言葉が耳の中に柔らかくそして優しく残る。


「ほな次の班、飛ばして」

 彼に言われた通りに力を入れずに飛ばした。手から離れた紙飛行機は真っ直ぐに飛んで行く。邪魔するような風も吹いていない。

「うわーーあれ誰の?」

「あれ誰が作ったん?」

「え? 純ちゃん?」

「上田? 嘘やろ」

 あまりの意外さにクラスメイトがみんな驚き、私と紙飛行機に注目している。それより飛ばした本人が一番驚いた。さっきの投げられたロケットではなく、飛行機として飛んでいる。優雅にフワフワと機体を揺らしながら校舎から離れて行く。みんな私の飛行機を見てくれている。こんなに注目され、応援されたことはない。なんだか気恥ずかしい。

「いけー もっと飛べー」

「純ちゃんすごーい」

 誰かと競争していい成績を取ったことなんてなかった。もともと体力がある方じゃなかったし、運動はどちらかと言うと苦手で、運動会は嫌いな行事。絵や書道でも、コンクールで入選なんて別次元の話しで、候補に選ばれたことなんて皆無。本を読むのは好きだけど、読書感想文はいつも人並み。他人と比べられ良くも悪くも注目されることなんてなかった。

 そんな私に向けられる初めての賞賛と歓声。クラスのみんなが一つになって私を応援してくれている。いつしか私も手すりを握りしめ、窓から少し身を乗り出して「もっと飛べー」と大きな声を出していた。

 結果から言うと、準優勝。私の後に飛ばした男子の飛行機が一番遠くまで飛んだ。

 その紙飛行機はしばらく教室の後ろにある掲示板に『準優勝』の札と共に画鋲でとめられていたが、いつのまにか無くなった。おそらく男子の誰かが持ち帰ったのだと思う。なくなった時にはちょっと残念だったが、彼と最初に折った飛行機は地図帳に挟んで大事に取ってある。


 一番にはなれなかったけど、みんなが応援してくれた暖かい歓声は今も耳の奥から頭の中に張り付くように残っている。


【夜の学校】

 六年生の夏休み前のある日、飼っていた犬の『ミロ』の散歩をしていると、学校の裏門で彼を見かけた。

 この日は夕食の準備を手伝っていたので、散歩に出るのが遅くなった。でも散歩に連れて行くのが遅くなった、なんて言うのは詭弁で、夕食の手伝いのことで母親と口論になり、ふてくされて家を飛び出したというのが真実。こういう時に『ミロ』は都合のいい相棒になってくれる。家を出る言い訳にもなるし、その後は話し相手にもなってくれる。その上、反論しないし文句も言わない。ただただ私を癒してくれる。

 そんな相棒に愚痴をたれながら、いつもの散歩コースをダラダラと歩いていると学校の裏門で彼を見つけた。

 日も完全に落ち少し暗くなりかけている。そんな時間の学校は毎日通う場所にもかかわらずちょっと不気味に見える。彼はその裏門の脇から中を覗いていたので、声をかけてみた。

「何やってんの?」

「えっと。待ち合わせみたいな感じ」

「ふーん。じゃぁね」

 邪魔になっても悪いと思い立ち去ろうとしが、何だか慌てたような声で彼に呼び止められた。

「待って、待って。純ちゃん、これから暇?」

「え? うん。別に用事ないけど。なんで?」

「えっと、その…… 詳しくは中で」

 彼は学校を指差している。これから学校に入る気のようだ。浅はかだとは思ったが、また不思議なことでもやってくれるかも、との期待を持って、彼についていくことにした。(どうせ帰るの嫌やし)

 裏門から学校に入るとプールの脇を通り校舎の端に着く。

 やっぱり夜の学校は不気味だ。昼間とは全く違う表情をしている。窓から覗く教室は生気を失ったようで、怪談の一つだったらすぐにでも思いついてしまいそうな佇まいだ。

 恐怖は、私には見えないお化けや幽霊からくるそれだけではなく、犬を連れて夜の学校に忍び込んだことを咎められ、怒られる怖さも含んでいる。私は知らず知らずに彼の着ているシャツの裾を掴んでいた。

 校舎から滲み出る背中を寒くする空気と、誰かに見つかって怒られるのではという恐怖を、紛らわそうと彼に話しかける。

「なぁ、『ミロ』連れてきてよかったん?」

「ええんちゃう。勉強しに来たんとちゃうんやし」

 あまりにも普段通りの声で、いつもと変わらず返される返答には、私の恐怖を拭い去る力はなかった。

「着いたよ」

 連れてこられた場所は給食室への搬入口だった。そこにはすでに男女二人の大人と、その大人の女性に手を引かれた幼稚園ぐらいの女の子が一人、誰かが来るのを待っているみたいに立っていた。その女の子が女性と繋いでいた手を振り払い、彼の元へ駆け寄ってくる。

「ひろくん、おそーい」

「ごめーん」

 なんだか意味がわからない。この状況が理解できない。混乱している中に、もう一人別の大人が増えた。どこかで見たことあるその人は水の入ったバケツを手に私の前で立ち止まった。

「上田さんだね」

「はい。あのー」

 ニコニコする彫りの深い顔を間近に見ることで私はその人を思い出した。

「あ、えっと、校長先生…… ですよね」

 笑顔を崩さず、はいと答えた校長先生は、持っていたバケツを地面に下ろした。そこにさっき見た大人二人が近づいてくる。彼はしゃがんで『ミロ』を撫でていて、女の子は私が怖いのか、犬が怖いのか、彼の後ろに隠れさっきまで私が掴んでいた彼のシャツをギュッと握っている。

「あの、校長先生」

「どうした?」

「これ、なんなんですか? ここどこですか? 何するんですか? 私、犬連れてていいんですか?」

 質問が無茶苦茶だ。言ってる自分が変だと思うほどに分けがわからない。それに、叱られる恐怖もまだ拭えていない。

「あれ? 本多君から聞いてないの?」

 校長先生は彼を見下ろし眉間に皺を寄せた。

「内緒にしときたくて、言ってませんでした。すみません」

 やれやれと言わんばかりに肩をすくめた校長先生が、私には理解できないこの状況を説明してくれた。

「用務員さんの家族が花火したいっていうことで、ここでやることになったんだけど、どこで聞き付けたか、本多君も一緒にすることになってね。どうしても――」

「あー あかんてそれ。先生それ無し」

「そうやったな、悪い悪い。犬を連れて学校に入るのはあかんけど、今日のところは大目に見るから、心配しなくても大丈夫だよ」

 彼と校長先生の間で約束があるのか、笑いながら話す校長先生がとても身近に感じられた。今まで会話などしたことがないどころか、さっきも一目で判断できないくらい遠い存在。普通の生徒は校長先生とそんな気さくに会話なんてすることがない。行事があると壇上で挨拶をしているだけの存在。そんな校長先生と気兼ねなく喋っている彼が、やっぱり不思議だった。

「上田さん。さっきの本多君の話ぶりだとここに来ることをご両親には言ってないようだけど、どうなのかな?」

「はい。突然誘われたので言ってません」

「じゃぁ、ちょっとこっちに来なさい」

『ミロ』のリードを彼に預け、校長先生に付いて校舎に入った。誰もいない廊下は冷んやりとして、空気の動きがない。その空気の壁を全身で受け歩く、今まで体験したことない感覚。

 連れて来られたのは校長室だった。入学以来、初めて入るその部屋には、応接間に置かれている様なソファーとテーブルが真ん中にあり、部屋の奥には運動会や何か行事の時にしか見ない校旗が立てられている。壁には立派な絵と、表彰状の類が幾つか掛かっていた。キョロキョロと見回す私を校長先生は、大きな背もたれのある椅子に座り、重厚な机に両手の指を組んだ腕を置いて、優しく見守ってくれた。

「校長室に入るのは初めてかい?」

「はい」

「今からおうちに電話するから番号教えてくれるかな」

 このどさくさに紛れさせ、頭の隅に追いやっていた「母親との喧嘩」のことを思い出した。今電話されると大変なことになるかもしれない。ややこしくなるかもしれない。校長先生から直接自宅に電話があるなんてよっぽどのことだと思われてしまう。母親より父親に叱られてしまうかもしれない。俯き口を閉ざしてしまった。

「ん? どうした?」

「校長先生…… あの、母とちょっと喧嘩して、出て来たんで……」

 校長先生は私の話を真剣に聞いてくれた。些細なことでの喧嘩だった。自分も悪かったと少しは反省している。うまく伝わったかわからないが、思っていることを話した。話したと言うより聞き出された。聞いてもらった。

「そうか。わかった。私に任せくれないかな?」

「…………」

「大丈夫だから」

 差し出されたメモ用紙に電話番号を書いて渡すと、ソファーで座って待つように言われた。電話をかけた校長先生は、うちの母であろう人と、何やら大人の会話をしている。私は耳を閉ざした。

 さほど長い時間ではなかったと思う。受話器を置く音が聞こえ、校長先生は私の座るソファーの横に立った。

「はい。これで大丈夫。花火しよう」

「……いいんですか?」

「もちろん。花火を楽しもう」

 何がどう大丈夫なのかは聞けなかった。でも、確信ある先生の眼は子供なりにも受け入れるのに十分だった。

 校長室を出た先生は彼のことを少し話してくれた。校長先生や他の先生にも不思議な子として写っているみたいで、学校に来るのが楽しいと言って笑っていた。そこには私の知らない彼がまだまだいるみたい。

 給食室裏では私たちを待つことなく花火は始められていた。

「おねーちゃーん。こっちこっち」

 その声が、私を呼んでいることだと気が付くのに少し時間がかかってしまった。弟妹のいない私は「おねーちゃん」なんて呼ばれたことがない。従弟妹にも「純ちゃん」と呼ばれていたので、そう呼ばれたことがなかった。くすぐったい気持ちと新鮮さが入り混じる恥ずかしさが表情に出ていた気がする。彼女が花火を振り回す手を止め、私の顔を見てキョトンとしているので、そうではないかと思った。

「綺麗やな。おねーちゃんもやっていい?」

 言った自分がまたちょっと恥ずかしくなった。

(おねーちゃんか、なんかいい響き)

「うん。おんなじのやって」

 赤・緑・青・黄。弾ける火花。線香花火はどっちが長く保つか競った。地面に置く花火には怖くてなかなか火が着けられなかった。それをイモウトがガンバレーと応援してくれた。

 こんな花火初めて。こんな時間も初めて。夜の学校。自分たち以外、誰もいない学校。内緒の花火。可愛いイモウトとの花火。秘密の時間。


「おねーちゃん。見て見てー」

 両手に違う花火を持ってはしゃぎながら近寄ってくる。花火から出た煙が私の顔にかかり、ケホケホと咳をするとイモウトは「ごめんね」と申し訳なさそうな顔を向けた。

「大丈夫よ」

 笑顔を返すとイモウトは「よかった」と言って火の消えた花火をバケツに入れた。

 花火の間中、こんな素直で可愛い妹が欲しいと思い続けた。

 そういえば数日前の給食時間に、友達とその子の妹のことで話が弾み、私も欲しいなんて言っていたのを思い出した。

 (あれ? え? まさか)

 探すまでもなく、校長先生や用務員さんと話をしてた彼がいつの間にか私の横で花火を持って立っている。

「楽しんでる?」

 優しく漂う声が、私を柔らかく包み込む。

「うん」

 私は短く答えただけだった。彼の声に思考を止められたようで、何を聞こうとしていたのか、わからなくなった。

 流れる風に乗り、彼の持つ花火の煙が私に向かって来た。また、ケホケホと咳をする私を見て彼が笑った。

「純ちゃん、トンボだけやなくて、煙にも好かれるんやな」

「何それー!」

 目にしみた煙のせいで出た涙をぬぐいながらに見た彼は、今までにない柔らかい笑顔だった。


 あっという間の楽しい時間は、文字通り、「あっ」と言う間に過ぎて行った。過ぎ去った時間は「あっ」とも言ってない気もするくらい短かった。

 帰り道は校長先生が家まで送ってくれた。どうもそれが私の夜間外出許可を得る条件だったみたい。自宅前で心配そうに待っていた母が、校長先生に連れられる私と『ミロ』を見付けて駆け寄って来た。

「純子の母です。今日は本当に申し訳ございませんでした」

「いえいえ、私の方が話し相手になってもらっていたんですよ」

 その日、両親から叱られることはなく、それどころか、いつになく優しい母と、とても機嫌良く晩酌をする父が、私の話を沢山聞いてくれた。花火が楽しかったことや、妹が欲しいなんてことも言ったかもしれない。

 イモウトたちと夢でも会えたらいいな、なんて思いながら、パジャマに着替えようと服を脱いだ時、鼻に飛び込んできた火薬の焦げた刺激臭――


 洗濯され消えて無くなったはずの服についた焦げた火薬の匂いは、Tシャツを脱ぐ度、シャツに視界が奪われる度、鼻の奥がツンとする刺激とともに蘇る。そんな気がする。



 数日後、廊下ですれ違った校長先生に呼び止められた。

「上田さん、ちょっといいですか。堀江先生見かけたら校長が探していたと伝えてもらえますか」

 私の「はい」という答えに、一緒にいたルミとマミが、目の前で手品を見せられたかのような、訝しげな顔を向けた。

「純ちゃんいつから校長とそんな仲良うなったん?」

「えっと、ちょっと前に校長室行くことがあって、それで」

「何やったん? 呼び出し?」

「ううん。なんにもやってへんて、たまたま」

「校長室って入ったことないんやけど、どんな感じやった?」

「校長室は…… 花火の匂い」

「なんやそれー?」

「嘘」


【授業】

 二学期も終わりに近かったと思う。廊下の窓から見る田んぼに稲は残っていなかったし、風も冷たくなってきていた。

 給食の後、彼から声をかけられた。

「純ちゃん。これから学校抜け出さへん?」

 唐突でとんでもない提案に耳を疑った。

「何? え? なんで? どこ行くん?」

 誘ってきた彼もやってはいけないことを口にしているとわかっているようで、周りをキョロキョロと気にしている。

「学校出て遊びに行かへんかなぁって。嫌やったらええんやで」

 この時は流石に躊躇した。授業のエスケイプなんて、絶対に叱られる。それもかなりひどく怒られることが目に見えている。どう転んでも守ってくれそうな人が思いつかない。

「どうしよう」

 彼としては私の反応は想定内だったようで、悩む私の次の答えを待っている。

「絶対叱られるから、やめとく」

 やっぱりと言わんばかりの表情を向けられたが、断られ落ち込んでる様には見えなかった。諦めたのか、悪いことをしようとしていることに気がついたのか、あっさりと教室から出て行った。

 午後の授業前の予鈴が鳴り、ダラダラと教室に戻るクラスメイトと逆行するように教室を出てお手洗いに向かった。用を足し廊下に出るとそこでいきなり手首の辺りを握られそのまま階段まで連れられた。

「ちょっと、え?」

 もちろんそれが誰の仕業かはわかっている。そんなことをしそうな奴は、彼しかいない。さほど強く握られていたわけではないので、そこで手を振り払い立ち止まった。

「何すんの!!」

 言った私のことなんて全く聞いていない。彼は階段を登り始めていた。五時間目の始業チャイムに急かされて、廊下にいた児童は早足で教室に向かっている。

「教室に戻ろうよ」

 階段を見上げる。ここは三階、この上は屋上しかない。彼はどこに行くつもりなのだろう。屋上に出る扉には鍵がかかっている。事故を防ぐためにどの学校でもそうだろうと思う。この先には鉄の扉があるだけなのに。

「ねぇって」

 やっと振り向いてくれた。けど、慌てる彼は口をパクパクさせ必死で手招きをしている。

「なになに?」

 わけもわからずそれに従って階段を上がり、踊り場の隅に隠れるように彼と並びしゃがみ込んだ。そこは人が来ないだけあって、ちょっと埃っぽい。

「ごめんな、先生の影が見えて慌ててん」

「どうすんのよ?」

 ほんのちょっときつい口調になってしまった。しばらくの沈黙の後、お尻の埃を払いながら立ち上がる彼を見上げた。

「いこ」

 差し伸べられた手の先に屋上に出る扉のガラス窓から漏れてきた光が当たる。指先からキラキラとこぼれ落ちては消える光の粒を受け止めようと手を伸ばした。触れた指先がピリッと痺れた気がして腕を引こうとしたけど、それは許されなかった。握られた手を引き寄せられ、そのまま立ち上がる。ほんの一瞬の出来事。

 階段の踊り場なのに、二人が弾ける光の粒の中にいるみたい。舞い上がった埃に日が当たってるだけなのに…… それでも。

「こっちね」

 そのまま手を引かれ階段を登ると、彼は開くはずのないドアに手を掛けた。ガチャとちょっと重たい音とともに冷たい風が吹き込む。

「なんで?」

「開けてもらった」

「嘘でしょ」

「うん。嘘」

「開いてるの知ってたん?」

「うん」

「本当に?」

 閉まりそうになるドアを身体で押さえる彼は、沈黙のまま目を細くして眩しそうにしている。開かれた扉の内側から見える切り取られた屋上には、遮るものは見当たらない。唯一正面にフェンスが見えるだけ。私はあと二、三歩が踏み出せないでいた。頭の中は授業を受けなきゃ叱られる。立ち入り禁止の屋上に出たら叱られる。頭によぎる先生や両親の顔が拭い去れない。

 それでも光に誘われたのか足が勝手に、無意識にフラフラと動いていた。それに気が付き我に返ったのは、彼が扉を閉めた時だった。

 ガチャン

 振り向いた私を、また、あの優しい声が包み込む。

「今ここは、純ちゃんだけの場所ね」

 吹き抜ける風は冷たく頬を撫でる。そんな風がさらっと不安を吹き流す。さっきまでの心配は、冷たい初冬の風に流され思考の範疇から消え去った。今そこにあるのは彼の笑顔と広い空。

「あっち行ってみよ」

 そう言う早足の彼をちょっぴりの駆け足で追いかける。でも、そんなのは一瞬のこと、前を歩いていた彼を追い越し先にフェンスを掴んだ。

 カシャン。無機質な金属音が、胸の高鳴りにかき消される。


 知らず識らずに止められていた息をゆっくりと吐いて、無意識に込められていた指先の力を解く。体温が移り冷たくなくなったフェンスから手を離し、ぐるっと屋上を一周。五年生になり教室が三階に上がった時感じた以上に偉くなったようで、全てを手に入れたようで、何もかもが私の手の内にあるみたい。

 廊下から見ていた田んぼは、こんなに遠くまで広がってたんだ。その奥に京都タワーが見える。それどころか、街を囲む様に連なる山々が、京都が盆地であることを実感させてくれる。グランドの向こうにある川の、その向こうはこんなに家が立ち並んでたんだ。遠くに見える山の麓まで建物が続いている。校舎に窓が無く見たことがない方角には、山が近くまで迫っているように感じる。自宅を探してみたがたくさんの屋根に紛れて見付けられなかった。

 ここには何度か来たことがある。それはいつも授業の一環で自由には行動できなかった。四年生の時に社会の授業で来たけど、はしゃぐ友人に混じれず、決められた場所しか見なかった気がする。でも、今は違う。

 私だけの場所

 屋上の真ん中と思われる場所に立ち、その場でゆっくりくるっと一回転。三百六十度のパノラマ。この景色は全部私のもの。

(そういえば彼はどこに?)

 彼は屋上への扉の脇にもたれかかりニコニコと私を見ていた。それを知り、あまりにも幼稚な自分の行動が恥ずかしくなった。優しく見守られていると思うと照れくさくなった。

「こっち来て」

 手招きの私に笑顔を崩さず応じてくれる。

「ほら、ここでこうすると空だけになるで」

「汚れるよ」と言いながら彼も私に並んで横になった。

「ほんまや。空だけやな」

「うん。ありがと。でも何で私を?」

 彼は何にも答えなかった。

 頭からつま先にさわさわと流れる風が夢から引き戻す。

「寒いからそろそろ中に戻ろ。風邪ひくよ」

「うん。上着持って来たらよかった」ここまで呟き、後は飲み込んでしまった。

 ―――そうしたら、ずっとここに居れたのに―――


 私は彼に続き、鉄の扉の向こうに戻った。

 暗い階段は現実を突きつける。暗さに慣れない目で見る階段は地獄へ向けて下っている。今は授業の真っ最中。まさかこのまま教室に戻ることはできない。

 彼は先に階段を降りて三階の廊下を覗き込んだ。もちろんそこには誰もいるはずがない。手招きされ彼の後ろに隠れる。そんな風に追っ手から逃げる映画の主人公みたいに一階の給食室横裏口まで来た。この扉の向こうは校舎の外だ。誰にも見つかっていない。ここまで来るともう安心。 ? 安心って何が安心なんだろ? でも、ちょっと楽しかった。扉を開けた彼が手招きをしている。柱の陰に隠れていた私は、一気に扉の外に掛け出て振り返る。ゆっくりと音を立てずに閉められる扉を、息を飲んで見守った。カチャンと微かな音の後、扉から彼の手が離れたと同時に、私はフーッと長い息を吐いた。直後彼は私の方に振り向いた。でも、その顔はあの優しい笑顔じゃなかった。頬が引きつりこわばってる。なんだか目が泳いでいる。

「どうしたの?」

 訊いたと同時に彼は頭を下げた。

「ごめんなさい」

 振り向くとそこに見たことがある男性が大きな壁のように立っていた。

「おや、お二人さん。何してるんかな?」

 そう声を掛けてきたのは、花火の時に見た用務員さんだった。

「授業はどうした? 自習か?」

 彼は前に出て、私を庇うように話し出した。

「いいえ、ちょっと抜け出して来たんです」

「ほー、面白いことするやん。ちょっとこっち来い」

 もう従うしかない。叱られる。怒られる。どうしよう。両親と先生の怖い顔が浮かんで消えない。あの時のように無意識に彼のシャツの裾を掴んで俯き付いて行った。

 連れてこられたその場所も初めて入る部屋だった。上履きを脱ぎ通されたその部屋は畳敷きで六畳ほど、入り口横には簡単な炊事場があった。入り口には「用務員室」と書かれていた。

 用務員さんはその炊事場でヤカンにお湯を沸かし始める。

「そこに座れ」

 言われて見回すと、部屋の真ん中に置かれていたちゃぶ台の横に、座布団が二つ並べられていたが、彼に習って座布団を横にずらし、畳に直接正座した。

「ひろくんって、最近にしては珍しいよな。ほんまおもろいわ」

 用務員さんが何を言っているのかわからないが、怒っているようには聞こえない。それどころかなんだか楽しそうに聞こえる。

「そうですか?」

 答える彼はこれまで見たことがないくらいに真剣顔そのものだ。

 用務員さんは沸いたお湯でお茶を入れてくれた。単に入れてくれたのではなく、茶托にお茶碗を置き、蓋までしてお盆でちゃぶ台まで運び、私と彼の前に差し出し、もてなしてくれた。授業を抜け出してきた小学生相手におもてなしなんてわけがわからない。

「さて、これからどうするつもりや?」

 茶托に乗せたお茶を差し出す用務員さんは嬉しげにそう訊いた。

「考えてなかったんですけど」

「そうかな? 何企んでたんや?」

「な、なん、何も企んでませんて」

 笑顔の中にうっすらと不敵さを見せた用務員さんは、立ち上がり炊事場に戻った。緊張でお茶に手をつけられないでいる私を気遣い、彼が茶碗の蓋を取ってくれた。

「ねぇ、私たち叱られてるの?」

 率直で真っ当な疑問の問いかけだったと思う。うんと答えた彼も何だか自信がなさそう。

「やることないんやったら、手伝ってもらおうかな」

 戻って来た用務員さんは一抱えほどのカゴいっぱいに入った柿を持っていた。それをちゃぶ台の上に置き、果物ナイフをそれぞれに手渡した。

「渋柿いっぱいもらったんやけど、干し柿作るのに剥くのが面倒でね」

「あの、私……」

「純ちゃんやったね。柿剥いたことないか?」

「そうやなくて……」

「なら、手伝えるよな」

「叱られてるんですよね。授業抜け出したから、叱られてるんですよね」

 釈然としない、違和感だらけの状態に落ち着かない。というか、落ち着けない。ナイフが使えないわけではないし、柿くらいは剥ける。でも、このままでは刃物を持つのに自信が持てない。

「そうやな。授業を抜け出したことは褒められたことやないけど、一回授業受けへんかったくらいで、勉強について行けへんようになるほど影響はないやろ。悪いことをしたと思ってるんやったらそれで十分。それよりも、今のこれが大事な経験と思い出になるかもしれへんで。」

「…………」

「手伝ってくれたら先生にはちゃんと言うといたるから」

 そんな交換条件を出されてしまった。用務員さんは優しい笑顔を私にも向け、柿を一つ差し出した。

「ほら、ひろくんはもう剥いてくれてんで」

 彼はすでに柿を一つ手に取り向き始めている。ほんのさっきまで神妙な顔をしていたのに、もういつもの表情をしているように見える。順応性があるのか、変わり身が早いのか、よくわからない。私も用務員さんの持つ柿を受け取り、皮を剥き始めた。

「花…… ありがとうございました」

 皮剥きを真剣にするあまり沈黙していた用務員室に彼の声が落とされた。

「どういたしまして。結構綺麗に咲いたな。種いっぱい集めたもんな」

「あそこ寂しかったけど、人が見に来るようになりました。それと上から見るとすごいんですよ」

 彼が我が事のように誇らしげに言ったところで、はっと気がついた。そうだ、やっぱりあのオシロイバナはあの時の種だったんだ。それを用務員さんに育ててもらったんだと、脳裏にあった疑問に答えが出た。大いに納得すると同時に終わらない二人の会話に耳が集中してしまう。自分の意思とは無関係に柿を向く手が止まる。

「でも、あそこに花育てようなんて、何でそんなこと考えたんや?」

「わっ!! それは前に言うたやないですか!」

「そうやったっけ?」

「それ、知ってて言うてるでしょ」

 結局、二人の話す内容は私には理解できなかったが、慌てる彼と、何だかとぼけたように彼をからかう用務員さんは、とっても仲の良い年の離れた兄弟に見えた。


 この日の放課後、用務員さんに連れられて職員室の堀江先生のところまで行くことになった。もちろん授業のエスケイプについての謝罪が目的だったのだけれど、思っていたほどのお咎めも無く、まるで遅刻か宿題を忘れて叱られている程度の注意に終わった。用務員さんをはじめ、堀江先生も周りにいた他のクラスの先生達も、なぜかニコニコとして私たちを叱っているなんて思えない雰囲気に、なんだか拍子抜けだった。そんな中、彼は真率な表情で、背筋を伸ばし、両手をピンと体の横に添わせる。目線は少し上向きで何を見ているのか、どこを見ているのか。そんな姿が、滑稽に見えてしまった。そうは言っても私も彼と同じ姿勢で横に並んでいたのだから笑えたものではない。今日の件は、用務員さんの計らいで、両親への連絡もしないとのことになったと言われた。そればかりか、柿の皮剥きをしていたことで、この日受けなかった授業も出席扱いになっていることが、その後児童全員に対して行われた三者面談の時に明らかになり、びっくりを通り越して、呆れてしまった。

 でも、もしかするとこれも彼の仕業なのだったのだろうかと思ってしまうのは、考えすぎなのかな。


 この時剥いた柿は、用務員室の軒先で干されていた。そこに干し柿が下がっていることは、学校に通う誰もが知ることになるが、干し柿に至るまでの経緯を知っている人は極限られている。

「純ちゃん知ってる?」

「何が?」

「あの干し柿のこと。あれ食べれるんかな?」

「どうなんやろ?」

 三学期になり、そんな会話をして間もない晴れた日の放課後、用務員さんに呼び止められ、久しぶりに用務員室に行った。そこにあの時と同じ風にちゃぶ台の前に座る彼が居た。あの時と違うのは、この日の彼は座布団に座っていた。

「純ちゃん!」

 お茶をすすりかけていた彼は慌てて茶碗を置きながら私の名前を叫んだ。そして、なんで? と言うと、私じゃなく、後ろに居た用務員さんと目が合ったみたいで、ちゃぶ台に両手を付き、おでこをちゃぶ台に付ける程、深々と頭を下げた。私は、彼が黙って用務員室に入っていたのか、それともまた何かをやらかしたのか、大げさな挨拶か、わざとらしい謝罪をするもんだと思った。

 用務員さんは私と自分用にお茶を入れ、あの干し柿をちゃぶ台の上に並べた。

「ほな食べてみよか」

 その干し柿はまだ渋味が残っていて、お世辞にも美味しいとは言えなかったけど、その口の中に残った渋さがとても印象的で忘れられない味になった。


【現実】

 私たちは小学校を無事卒業した。小学校なんて学校に行ってさえいれば、卒業は問題なくできる。その後は勝手に中学生にもなれる。私と両親は中学受験なんて考えもしていなかったので、地元の公立中学に普通に上がった。

 入学式の前にクラス分けが張り出される。もちろん自分の名前を探すのは当然として、無意識に彼の名前も探し始めてしまった。しかしそれはどこにも見つけることができなかった。六クラス全ての名簿を何度も見直したが見当たらない。卒業前に話をした時には公立の中学に通うと言っていたはずなのに、私立の受験はしないと言っていたのに、この学校に彼の名前が無い。

 同じクラスになった小学校の時の同級生男子に彼のことを訊いてみた。

「なぁ、本多君ってこの学校ちゃうん?」

「知らんけど、おらへんの?」

「うん、探してんけど、名前あらへんかった」

「ほな、また引越したんかな」

 その彼も知らなかった。心当たりのある数人に聞いてみたが、誰も彼の行方を知らなかった。学校帰りに寄り道をして、今日貰った全ての教科の教科書が入った重いカバンを肩に、彼の家へと行ってみた。その家の窓にはカーテンがかかっておらず、薄暗い室内が覗ける。部屋の中に家財道具は一切無く、もぬけの殻という表現がそのままの空き家になっていた。それを見て全身の力が抜け、崩折れアスファルトにへたり込んでしまった。

 さよならを言われていないのに。いない。何があったんだろう。また引っ越しかな。でも、何も言わずに居なくなるなんて薄情すぎるよ。

 中学は小学校の続きだと勝手に思い込んでいた。また、楽しいことをやってくれると勝手に期待していた。そう、勝手に、自分勝手に。

 叱られることもあったけど、いろんな経験をさせてくれた。その続きがそこにあると思っていた。なのに、何もかもが叶わないものになった。絶望、空虚、虚無。どれでもないけど、その全て。今の自分を表すには言葉を知らなさすぎる。まだ授業も始まっていないのに、入学式が済んだだけだというのに、楽しい筈だった中学生活が一瞬のうちに失われた気がした。

 あの二年間が嘘の様に感じられる。夢でも見ていた様に思われる。あれは誰だったんだろう。本当にそんな人と一緒に学校に通っていたのだろうか。容赦なく流れ落ちる涙に溺れる私の逃避感情とは裏腹に、冷たいアスファルトが太股からじわじわと現実に引き戻す。過ぎ去った二年が蘇る。止まらない涙のように溢れ出す。

 指に留まった赤トンボの優しい感触。

 校舎裏に鏤められたオシロイバナの色。

 初めて浴びた耳に残る賞賛と歓声。

 夜の学校で染み付いた花火の匂い。

 授業を抜け出して作った干し柿の味。


 舌に、鼻に、耳に、目に、そして皮膚にと、五感全てに彼がいる。

 ただの思い出だけじゃない。私が私でいるための全てを彼が作ってくれた。

 私の全てが彼でできている。そんな大それた勘違いをさせてくれる彼のことが…… 


 浩一が大好き。


 中学になって人が変わったと言われる。今までの純ちゃんじゃない、なんてよく耳にする。そうかもしれない。自分でもわかっている。でも、変わったんじゃなくて、これが本当の自分だと言い聞かせ、全てに争うように毎日を過ごした。

 でもそれは、大事なモノを無くして駄々をこねているだけ。大好きな人がいなくなって拗ねているだけ。

 あの日の赤トンボの様に肩を叩かれないとそこから離れられない。飛び立てない。誰か、誰でもいいから窘めて、言い聞かせてほしい。肩を叩いてほしい。

「この先はダメだよ」って言ってほしい。そしたら離れられるのに。

 やっぱり誰でもいいわけじゃない……

 浩一じゃなきゃ……


 また言い訳……



「東中か、なら、小林先輩って知ってる?」

「うん、ちょっとだけ」


 パリーン

「北村ー 待てこらー」


「またあいつなんかやったな」

「北村って?」

「この学校で一番イキってるやつ。何があったか見に行こ」

 手を引かれ廊下に出ると、床に散らかった窓ガラスじゃない細かいガラス片を片付けている真面目そうな女子が数人いた。


 また、あの時みたいな楽しい日々がくるかな。くるといいな。

読み苦しい文章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

タイトル通りのただの備忘録です。しかも勝手に思いっきり美化しています。

本編(?)もそのうち書き上げたいと思います。

その時にはまた読んでいただけると幸いです。


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