序章 異世界転生は甘くない
序章 異世界転生は甘くない
45歳になった年、俺はリストラされた。
20年間努めた会社であった。
ただ、そのことが悪かったのか良かったのかは微妙なところである。
俺はシステムエンジニアで、いわゆるIT土方と呼ばれる職種であった。
もちろん、俺が勤めていた会社はそれはもう、標本にしたいような立派なブラック企業であった。
一日の労働時間は平均でも18時間。長い場合だと24時間を超えることも珍しくはなかった。
いわゆる泊まり込みというやつである。
ただ、労働基準基準局に提出する資料上では8時間労働ということになっており、表向きは優良企業そのものであった。
もちろん、俺も含めて社員のもらっている給与は8時間分だけが支給されているので、現場見学にくることでもなければ絶対に実態が漏れることはない。
もちろん10時間分の労働時間はいわゆるサービス残業ということになる。
通常勤務時間よりサービス時間の方が長時間なのも、俺が勤めていた会社の特徴と言える。
そんな会社に20年間努めていた俺は、完全なる社畜と言っていい存在であった。
そして、ようやくそのことに気がつくことができたのはリストラされた後のことだった。
リストラされた俺は、ひたすら呆然としていた。
何しろ20年間毎日仕事しかしてこなかった。
それがある日突然無くなったのだ。
俺は一体何をやればいいのか、自分の頭で考えることすらできないようになっていた。
俺が勤めていた会社が理想的なブラック企業だとしたら、俺は理想的な社畜になってしまっていたということであった。
残業代もつかず、最低賃金を遥かに下回る給料で働かされていた。その上、各種経費はすべて自腹という恐ろしい勤務実態だった。その結果、20年間働いて貯金は皆無であった。
もちろん、リストラされても退職金などなかった。
唯一理想的なブラック企業に存在していた善意は、雇用保険をちゃんと払い続けていてくれたことだけだった。
おかげで、どうにか食べていくことだけはできたのだ。
新たな職を探そうという気になったのは、リストラされてから三ヶ月が過ぎた頃だった。
ブラック企業による洗脳がようやく解けてきて、俺はようやく自分の今の状況を冷静かつ客観的に見つめることができるようになった。
改めて自分の人生を振り返ってみると、恐ろしいくらい何もなかった。
これといった趣味もなければ、女性と付き合ったこともない。
それも当然で、ほとんどの時間をブラック企業に捧げていたのだから。
そのあげくに、会社に仕事が入らなくなった瞬間に切り捨てられた。
会社に勤めていた期間はとことんまで使いつくされて、利用価値がなくなると都合よく使い捨てられたのだ。
まるで、百円ライターのように。
そんな中で、唯一と言っていい俺の趣味はネットで小説を読むことだった。
沢山の投稿者がいて、絶え間なく新しい作品が投降されていた。
俺はその中から、異世界転生物を中心に読みふけっていた。
チート能力を身に着けた主人公が、異世界に転生してひたすら無双する。そういった物語を読んでいると、単純に気持ちがすかっとした。
俺にとっては、アルコールなどより遥かに癒やされる時間であった。
現実から逃避することのできる、唯一の時間であったからだ。
なのに、リストラされてしばらくの間は、読む気がどうしても起きなかった。
人生の大半を埋め尽くしていた仕事がある日突然消滅したのだ。
その瞬間、たぶん俺は空っぽになってしまったのだろう。
だから、しばらくの間、何も読めなくなってしまった。
それを解決したのも投降サイトで読んだ作品の一つだった。
異世界に転生して、人生をやり直す。
そう、俺は今、人生をやり直したかったのだ。
ようやく社畜としての人生から開放され目が覚めた。
だが、もうすでに45歳になっていた。
新しい仕事を探そうにも、この年齢のシステムエンジニアに見つかるような仕事はどれもブラックなものばかりだった。
ほとんど空虚な俺の人生。
やり直せるものならやり直したかったが、現実にできるはずもなくせいぜい小説で憂さ晴らしをすることだけが生きがいであった。
異世界に転生して、チート能力を使いまくり、勇者として活躍する。
ついでにモテモテライフを満喫する。
現実には絶対にかなわない、俺の願望を夢見させてくれる時間。
小説投降サイトと出会うことで、どうにか俺は生き甲斐というものを一つは見つけることができたのである。
仕事を探してもあるのはブラックな仕事ばかり。
45歳という年齢は、人生やり直すには少々遅きに失した。
時間は取り戻せないとしても、自分なりの希望を見つけることでなんとか前に進もうという気力だけは湧いてきた。
そんな矢先であった。
この世界が、俺にとってはまるで優しくないことを、改めて思い知らせてくれたのは。
前よりも、心なしか幾分マシそうなブラック企業の面接を受けるために、地下鉄のホームに俺はいた。
そういえば、努めていたとき何度か飛び込みたくなったものだと懐かしい気持ちになっていた。
その時には、そうすれば楽になれるだろうなぁ、という甘い囁き声が頭の中に聞こえてきたのだ。
それを思いとどまった、というかやめたのはとにかく疲れていて他人を押しのけてまで飛び込む気力がなかったからだ。
それを懐かしく思うというのも、あの頃に比べてずいぶんとマシになっていたのだと思う。
今から思えば、俺の人生の中でこの瞬間こそが最も幸せな時間だったのかも知れない。
面接に向かうためにホームにいた俺の周囲には、ほとんど人がいなかった。
午前中ではあるが、ラッシュの時間帯はとっくに終わっており、それほど混んではいなかった。
なので、並ぶことなく白線の内側に立ち電車の到着を待っていた。
駅員によるアナウンスが構内に流れ、電車の到着を知らせる。
俺は身を乗り出すこともなく、おとなしく電車がホームに入ってくるのを見ていた。
だんだん近づいてくる電車を、いつもどおりに眺めながら待っていた。
そして、先頭の車輌が俺から数メートルほどの所に接近したときだった。
背中に強い衝撃を受ける。
何を言う暇もなかった。
誰かに突き飛ばされた。その感覚だけはあった。
何をすることも出来ず、誰が突き飛ばしたしたのかも分からない。
俺の体はホームから転がり落ちた。
強い衝撃と激しい痛み。
手や足や、胸がぐにゃりと歪むのを感じた。
それは、自分の体が肉塊に変わっていく痛みであった。
そして、頭が歪んだ。
次の瞬間、俺の世界は終わった。
と思ったが、意識は続いていた。
正確に言えば、世界が切り替わった感覚だ。
何もかもがひどく、ぼやけている。
誰かいるのは分かるが、それ以上のことは分からない。
その誰かが、俺に話しかけているが、何を話しているのかさっぱり分からない。
分からないが、一つだけはっきりと確かなことがあった。
その誰かが、俺の手に何かを握らせた。
俺は、反射的にそれを掴んだ。
感覚的には野球のボールのような感覚だ。
表面は完全になめらかで硬い。
暑さも冷たさも感じない。
プラスティクの球体を握ったような感覚といえば一番近いだろうか。
だが、やはりプラスティクとは何かが違う。
結局それが何なのかは、さっぱりわからなかった。
分からないまま、今度は徐々に俺の意識は薄れていった。
今度こそ、本当に死ぬのだと思いながら。
そして、今度こそその通りになった。




