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語り部奇譚  作者: 缶詰
3/15

会場

 ついにこの日が来てしまった。本日も実に素晴らしい日本晴れである。タクシーから降りると、大きなビルを仰ぎ見た。確か会場は9階だったと招待状を睨みつけ、気の乗らない足取りで敵地へと向かう。やけに来るのが早いエレベーターに乗り込んで、目的のボタンを押した。

 エレベーター内部は無人で、あのエレベーター独特の音が大きく聞こえ心地がいい。この音は不安に感じる人もいるらしいが自分は振動こみで結構安心する。この時間がずっと続けばいいのにとため息をつくと同時に、チンッと到着した事を知らせるベルが鳴り、扉が開いた。

 降りてすぐに会場の扉が見えてくる。大きくて光沢のありシンプルなのにどこか目を引く、その扉は自分には地獄の門に見えて仕方がない。周りのレリーフは美しいのに禍々しく見えてきた。そばで待機している受付……ボーイさんだろうか?に招待状を渡し、サインをするとにっこり微笑まれて、花の胸飾りを渡された。よく見るとネームプレートになっている。洒落ているなとお下がりのオーダーメイドで作られてしまったスーツに穴を開けないよう飾った。

「それでは、ごゆるりとお楽しみください」

「はい、どうもありがとうございます」

 笑顔は引き攣ってなかっただろうか?ゆっくりとボーイさんが扉を開くと無音だった廊下に、賑やかな人の声と、眩しいくらいの光が溢れる。

 思わず余計に瞬きをして、ゆっくり視界を慣れさせる。鮮明になってきた世界のせいで目がつぶれそうになった。真っ先に思った感想がこれだ。

 あたりには煌びやかなドレスやスーツを身にまとった紳士、淑女。その中に負けず劣らずのスーツに身を包み、髪をしっかりオールバックにセットし、背筋をピンと伸ばした自分がいた。唯一異質なのは色素の薄い瞳を守る為の眼鏡だ。それでもパーティー用に普段の物とは別のお洒落で少しお高い物をつけている。我が家のどこにそんな金があったのか知りたいような知りたくないような複雑な心境である。

 会場となったビルでさえ大きく立派であったのに、中に入ればこれまた立派なパーティー会場。絨毯は靴の上からでもふかふかとしている事がわかり、誰でも裸足で歩きたくなるだろう。子供でなくても思ってほしい。所々に設置された猫足の丸いテーブルを包む、おそらくシルクであろうテーブルクロス上には美術品のような豪華な食事が置かれていた。少し奥には白いグランドピアノが飾られているステージがある。いったいいくら使われているのか。純粋に興味がある。

 まずは主催に挨拶か、それとも送り主と合流か。一人悩んで壁の花になっていると、会場にいても違和感が無い程度に様になっているのだろうか、お嬢様方が話しかけてくる。……が生憎自分はどこか大きな企業の人間ではない。丸い背中を必死になって伸ばし愛想笑いを浮かべ、話しかけてくる人たちをあしらう一般階級のド平民だ。内心勘弁してくれと悲鳴をあげた。誰でもいいから助けてほしい。おうちについて聞かないでくれ、自分はしがないフリーターです。

 お嬢様達のアプローチに失礼のないよう気を使いながら話していると、ふいに何かの視線を感じた。

 熱い思いのこもった視線とは違う、なにか、言葉にするには難しい冷たい視線。憎悪、嫌悪とは少し違う。

 そっと誰からだろうと感じる先に顔を向けると、黒い集団がいた。この会社の幹部達が雑談をしているようで、その中心になっている紺色のスーツの人物には見覚えがあった。ここの主催の青桐冬弥(あおぎりとうや)。青桐は写真で見たように42とは見えない程若々しかった。キリっと吊り上った目元にある大きな皺以外皺もなければシミもない。自分を見ているのは青桐のみのようで、しばし、視線が混じり合う。

 何かやらかしただろうか、やはり挨拶はした方が良かったか、と軽くそちらに向かって頭を下げると、フイッと顔を背けられてしまった。やばい、嫌われたか。嫌な汗が背中を伝う。早速の粗相にやらかしたと頭を抱えそうになる。

 今からでも挨拶間に合うかとそちらに向かおうとすると、クスリと女性の笑い声が聞こえた。なぜに笑うのかと向かう方向をかえると、声を出したであろう人物は申し訳なさそうに眉をひそめた。

「あ、ごめんなさい。いきなり笑ってしまって、失礼でしたよね。……冬弥さん、自分より目立つ人にちょっと嫉妬しているだけですよ」

 なんでもないように爆弾発言を頂いた。目立つつもりはなかったのだが。曖昧な顔をして困った表情を見せると、女性はころころ笑いながらそんなに心配しなくても大丈夫だ、と安心させるように微笑む。青いパーティードレスに身を包んだ、そばかすが可愛らしい20代前半ぐらいの女性。笑うと、どこか儚げな印象を持たす彼女はふんわりとカールさせた髪を靡かせ近寄ってきた。

「私、草壁彩(くさかべさや)っていいます。クラッシックはお好きですか?私、結構ピアノで活躍しているんですよ。今日だってゲストとして演奏するんです」

 招待状の送り主は、随分と自信家のようだ。こんな所で出あうとは。しかし自分はクラッシックにはそんなに興味が無く、クラッシックのことを『強制子守歌』程度にしか認識していない。曖昧に微笑むと、少ししょんぼりとされてしまった。

「えー……お、自分は古本屋秀と言います。兄に招待状下さった『草壁』さん、で間違えないですか?今日は都合上弟の自分が出席させていただきました」

 正直こんなご丁寧な話し方をしている自分に寒気がする。やればできるが自分のキャラではないので、話していると結構辛い。

 自分のできる範囲の丁寧な仕草でお辞儀をすると、わざわざおこし下さってありがとうございます、と彩さんも慌てて頭を下げる。ゆっくり顔を上げ、目線を合わせれば彼女は少しだけ心配そうな顔をしていた。

「そうだったのですか、道理で姿が見えないと。……代理、という事はもしかして屋典さんどこか体調がすぐれないんですか?風邪ですか?怪我ですか?それとも……まさかまたなにか事件に巻き込まれたんですか!?」

 どんどん声が大きくなっていく。彩さんはハッとして取り乱しました、とすぐに謝罪をした。自分は彼女が取り乱した事よりも一つの言葉に引っかかった。『また』とはなんだ。兄が何かの事件に巻き込まれているなんて一度も聞いたことが無いし、そんなそぶりも見せた事が無い。なのに、『また事件に巻き込まれた』とはどう言う意味なのだろうか。あの死に方になるような、事件に巻き込まれていたのか。家族に、なにも言わずに。

 少し、興味がわいた。

 家族に知られたくないような事に、巻きこまれていたのか。それとも知られたくないような事を自分からやっていたのか。あの、完璧超人で悪さなんてした事がありませんというすました面をしていたアイツが。

「……また、とはいったい?」

 意図的に声のトーンを少し低くする。興味津々といった顔は隠し切れていない事はわかっているがどうしようもない。なんて言ったって面白い話が転がってきたのだ、ここを逃したら聞けなくなってしまうかもしれない。

 彩さんはしまったと言いたげに口を手でふさぐ。その仕草で兄貴が何かに巻き込まれたことがあることは明白だった。一度大きく呼吸を整えるとゆっくり言葉を紡ぐ。

「いえ、その……!ま、巻きこまれていないならいいんです!前から屋典さんって危なっかしい人だなって思っていたので!」

 あからさまに嘘を吐かれる。まぁ想定内の反応だ。だが危なっかしいとはなんだ、もう少し別の言い方が無かったのか。お人好しが過ぎていたから否定はしない。

「あぁ、巻きこまれていないと言えば巻きこまれてないですよ。巻きこまれたと言えば巻きこまれました」

 何でもないようにケロりとした表情で伝える。その言葉に彩さんは面白いぐらいに顔をサッと青くさせた。金魚のようにパクパクと口を動かす様は言葉を一生懸命に探しているようにみえた。

「……どっち、なんですか?無事、ですよね……?」

 震える声からの質問に意地が悪すぎたと反省をする。反応がよくてつい突っ突いてしまった。さて、今の彼女に教えてもいいのだろうか?今にも泣きそうな顔をしているが大丈夫か、教えて大号泣なんて事になったらここを追い出されること間違いなしだ。はたから見れば自分がちょっかいかけて泣かせたように見える。

 目と目が合う。今にも涙腺ダムは崩壊しそうだ。自分たちの周りに漂う不穏な空気にギャラリーも遠巻きで見てくる。なんだなんだと会場全ての視線が集まっているようだ。真実も言えない自分はただ困ったように笑みを浮かべる。その顔に彩さんは顔をくしゃりとゆがめさせた。まずい、泣かれると覚悟すると彩さんの後ろから、彼女の肩を支える紺色のスーツの腕が現れた。その色には見覚えがある。

「失礼、うちのゲストと何か問題でも」

 青桐社長のお出ましだ。先ほどこちらを見ていた時の表情とはまた違い、侮蔑をその顔に浮かべてこちらを見ている。そういえば従兄妹と招待状に書いてあった。何てことだ、ただでさえ嫌われていそうなのにこれ以上目を付けられたくない。やぶを突っついたら蛇が出たとはまさにこの事だ。こんなにも泣きやすいとは思わなかった。今すぐここから逃げだしたい。刺激を与えぬようにそっと距離を取ると、体を傾けていつでも離れられるように体制をとる。

「いえ、特に問題はないですよ、お騒がせしてすみません」

 今逃げると完全に自分が手を出したら男に邪魔されてしぶしぶ逃げる負け犬に見えるだろうが関係ない。逃げる事は時にはとても重要になるのだ。これは敵前逃亡ではなくて戦術的撤退なのだ。

 それでもなお逃がすまいと手を伸ばしてくる青桐社長から逃れようと身を思いっきり引いたその時、会場の扉が大きな音を立てて開かれた。そこにいた全員の視線が扉の方に釘付けになる。

 廊下の明かりがいい具合に逆行になっていてよく見えない。扉を開けたであろう人物が会場にはいってくる。そこにいたのは赤、これ以上ないほどの赤色をした女性だった。真っ赤なドレスに身を包み、栗毛色のゆるくウェーブした髪を薔薇の飾りでアップにまとめている。手袋もひっそりと覗く足元のハイヒールも、持っているバックですら赤い。顔を見る。キリン並みの瞬きするたびに風圧が起こりそうな長いまつ毛に縁どられた瞳は、赤を引き立てる深い緑をしていた。他にもつんっと吊り上った眉、高く伸びる鼻それぞれが綺麗に整った位置に鎮座していた。間違えなく彼女は外人さんというやつだ。

 女性は掴みかかられた体制のまま静止している自分たちに目をやると苛立ちを隠すなんてせずに思いっきり眉間にしわを寄せた。歩き出すと迷うことなく自分達に向かってきた。近づくにつれ、ヒール込みでも175近くの自分とそう変わらない事が分かった。デカい。

「……私は楽しいパーティーに呼ばれたのですが?プロレスでも余興に出るのかしら、ねぇ青桐社長?」

 程よく高い、落ち着いた音色が奏でられる。ただ、その音に乗っている感情はあまりいいものではない。

「……いえ、ありませんよ。よくお越しくださいました、ヴァレンティーナ様」

 青桐社長は自分から手を放すと女性……ヴァレンティーナさんに頭を下げる。彩さんも慌てて頭をさげた。置いて行かれた自分はぽかんとマヌケ面をさらした。いったいどのような人物なのかとジッと顔を見つめる。こちらの視線に気付いたのか、シワを解いてニコリと微笑む。間近でみると相当の美人だ、ハリウッド映画にでも出ていたのではないだろうか。笑みを止めたヴァレンティーナさんはスッと青桐社長を見ると数分前よりかは柔らかくなった表情をした。

「そう、ならいいの。今日は存分に楽しませてもらいますわね」

 一言いうとヴァレンティーナさんは会場の人の海に潜りこんでいく。面白いことにどんなに離れていても彼女の存在感は圧倒的で、すぐに居場所がわかった。

 ふっと知らずの間に詰めていた息を吐き出す。嵐のような人は去っていったが問題は全然去ってはいない。ゴホンと、ワザとらしい咳払いが聞こえた。

「……それで、君は彩に何をしようとしてたんだ」

 改めて聞かれると自分は悪くない。ちょっと突いたら泣かれそうになっただけなのだ。ていのいい言葉を選んでいると彩さんの方から控えめに声が上がった。涙を指で拭うと青桐社長に向き合う。

「冬弥さん、古本さんは悪くないの。ただ、その……私が彼のお兄さんについて熱くなっちゃって……古本さんも騒ぎにしてしまってすみません」

「泣くほど熱くなったのか?」

「……はい」

 しゅん、と己の非に申し訳なさそうに縮みこむ彼女にガッツポーズをとりたくなった衝動を抑え、自分も意地悪が過ぎましたとヘラりと笑いながら謝罪をする。そんな自分の態度に不満があるとありあり顔に書いた青桐社長はフン、と一度鼻を鳴らした。

「ようはお互い様って事です」

「……わかった、今はそういう事にしておこう」

 何がしておこうだ早とちり野郎め。喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。青桐社長は自分にも聞こえるように彩さんにむかって何かあったら警備員を呼びなさいと言うと、また黒服の集団に戻って行った。

 またも二人きりになる。最初の時の朗らかな空気はもはやなく、微妙な空気が二人を包んでいた。

「あ、あの、先ほどは本当にすみません。私昔からよく、泣き虫だって言われてて、すぐ泣いてしまうんです……冬弥さんには昔から可愛がってもらっていたので、今回も多分大げさにとられちゃっただけなんです」

「はぁ、まぁこの話は終わりにしましょうや。さっきも言ったでしょう?お互い様でさァ。自分もそんな気にしてませんし?」

「あ、ありがとうございます。……あの、よければ連絡先を交換しませんか?屋典さんの話をもっと詳しく知りたいし……病気だとしても今ここでは言い辛いですもんね……」

 またしょぼんとした顔をする。たぶん自分と話しているとまたさっきのように繰り返すかもしれない。次は絶対殴られる。どこか確信めいた思いが胸に広がった。

 メールぐらいならいいかと、胸ポケットから母が作った名刺を差し出す。絶対役に立たないと思っていたのに役に立ってしまった。無事に名刺を受けってもらうと遠くで彩さんを呼んでいる声が聞こえた。この後、一曲ピアノを弾くらしい。彩さんは返事をすると申し訳ない顔のまま大きく一礼をして去って行った。その背中を見送り、自分は次こそ美味しいものを食べようとまだまだ余りある料理が乗ったテーブルに向かった。


 青桐グループとは最近になり進出してきた貿易会社だという。主にイギリスやそのあたりの酒や骨董品を取り扱っているらしい。先ほどから長々と司会が喋っているのを横目できいた。

 ようやくワインのお披露目のようで、給仕が慌ただしくグラスを配り歩く。自分にもほぼ透明の水のような液体が配られた。こっそり香りを嗅いでもアルコール独特の匂いすらしない。ただの水を配られたかと思ったが会場を見渡すと首をかしげている人が多いため、きっとコレが噂のワインなのだろう。

「それでは大変長らくお待たせしました。これより社長からの御言葉と共に乾杯をしたいと思います」

 舞台に上がってくるその顔にはザ・愛想笑いという感じの満面の笑みを浮かべる青桐社長。青桐社長はマイクを受け取ると、またもや長ったらしい話が始まった。いつになったら飲めるのだ。

 もう先に飲んでしまおうかとグラスに顔を近づけると、ようやく最後の言葉になってきたため、仕方なく顔を離す。話は半分以上聞いていなかった。

「それでは……。我が社がここまで来られたのも、すべて皆様のご協力、援助のおかげです。今回ご用意しましたワイン『ランポーレ』も、その力の一つ。これからも是非青桐冬弥共々この青桐グループを宜しくお願いします。乾杯!」

『乾杯!』

 あちらこちらで乾杯の弾ける音がした。怪訝に思いながら自分も小さく乾杯を呟いて一滴程度、舌にのせてみた。

 のせた瞬間、驚きに目を見開く。ただの水かと思ったそれは見た目だけの話でほんの一滴なのに口の中に甘酸っぱさ広がった。例えるならばベリー系の、ラズベリーのような鋭い酸味と野性的な甘味。合成甘味料のような突き刺す甘味は感じられない。その中にアルコールによるほのかな苦みが意外に甘さと合っていて、ワインというよりかは果実ビールに近い飲みやすさがある。

 見た目と味の混乱で目を白黒させるとあたりから驚きの喚声が上がった。皆口々に絶賛の言葉を紡いでいる。中にはもう飲み終わった人もいてもう一杯飲みたいと近くの給仕に詰め寄っている。それも数人。確かに美味い、何度も飲みたくなる感じがすると二口目を口に含んだ時、見知った赤が視界の隅に映った。

 ヴァレンティーナさんは口もつけていないグラスの、その中身をジッと見つめている。何かを探るような目を液体に突き立てている。こんなに美味しいのに酒が嫌いなのだろうか?それともまだ水だと疑っているのか。口に広がる幸せを飲み込みもう一口。飲まないなんて勿体ない。いらないのなら欲しいぐらいだ。まだまだワインの追加に間に合ってないのか、二杯目にありつくには少々時間がかかりそうだった。大手企業のお偉いオッサン共が我先にとワインを求めているのが見えた。

 ゴクリ、と喉が鳴る。今、あたりはワインに夢中で誰もこちらを見ていない。ヴァレンティーナ嬢はまだグラスを見つめて口を付ける素振りを見せない。自分のまだ半分残ったグラスの中身を見る。早めに味わい少し残して飲むことにした。これから行うことは善意の行動であって、何も悪いことはしない。かなりはしたない真似をするが仕方ない。あんな高級ゴリラのジャングルに突っ込んでいく気はさらさらないのだ。どっか服を破ったり汚したりしたらどうする。寒気がした。だがしかし飲みたい。この美味しい幸せのワインがすごく飲みたい。

 逃がすまいと視界の真ん中に標準を合わせ、少し大股で近寄る。顔には世の女性に人気の朝の爽やかニュースキャスタースマイルを携えて。あと数歩の所に近づくと向こうもこちらに気付いて顔を向けた。

「どうも、先ほどぶりですね。助けて頂きありがとうございます。自分は古本屋秀と言います」

「……あら、ご丁寧にどうも。私はヴァレンティーナ・ネルソンと申しますわ。でも、助けただなんて。私は余興の確認をしたまでですのに」

 ほほほと上品に笑う。さらりと確認したがグラスのどこにも口紅やぬぐった後はみえない事に自然と笑みが溢れた。なんでもないようにそっと口元を隠す。さて、どうやって頂こうか。一番不審に思われぬようにとるシチュエーションを何度か頭で考える。

 まず「お酒は苦手ですか」などで話しかける場合。ここで「別に苦手ではない」なんて言われてしまったらそこで終わりだ。手放す事はしないだろう。「飲めないのですか」も同様。しかもこちらは気分を害してしまう可能性がある。次に「飲まないのですか?」と聞く。これは慌てて飲まれる可能性が高いので却下。「不味いですよ」は論外、敵を増やす。ラスボス級の。一番マシなのは「別の美味しいお酒や食事に関心を向ける」という事。幸いここには上手い料理がたくさん用意されている。興味がそれて手放した隙にそっとグラスを遠ざけ、自分が初めから持ってましたといった顔ですり替える。この時に自分のグラスに水を入れておいてうっかりヴァレンティーナさんのグラスを落として割ってしまった事にすれば完全犯罪の完成である。我ながらせこいしはしたないが、そうでもしてすぐに飲みたい。

 ちらりと人だかりを見る。人が増えていて支給の人が埋もれて動けていない。ああ、かわいそうに。合掌。

「なんだか向こうは大変そうですね」

「アラ、そうね。これじゃあ求める物も来ないでしょうに」

「ははは、巻きこまれては大変ですね。そうだ、よろしければあちらにご一緒しませんか?人が少ないのでここよりかはゆっくりできますよ」

 離れたテーブルに指をさす。いい加減うるさくなったのが嫌だったのかヴァレンティーナさんはすぐに承諾してくれた。第一段階はクリア。このまま第二段階「自分のグラスに水を入れる」に突入する。慎重に彼女が口をつけていないグラスを持っている事をばれない様に進む。テーブルはもう目前に迫っていた。レモンの浮いた水差しの位置を確認。そっとそちら側に体を寄せる。水を入れれば完璧だ。テーブルに着くなり作戦を決行。ミッションクリア。後はすり替えるだけである。

 他愛無い話をしながら機会を窺っていると、ふと、彼女は何かを思い出したように聞いてきた。

「ねぇ、ところで古本さん。少しばかりお聞きしたい事があるの」

「へェ、なんですか?」

「貴方のお兄さんって、変な本を持ってませんか?見たら気が狂いそうになったり表紙が変わっていたりなど。それか日記や遺品に不審な物とか、悪夢見そうなものとか」

 遺品と言う言葉に、思わず手が止まる。何故そんな事を聞く、と言うよりもなぜ自分に兄がいる事を、そして死んでいる事を知っている。彩さんに聞いたのか?だとしたら死んでいる事を知っている筈がない。彼女をジッと見つめると、質問してきた本人はうっすらと笑みを浮かべている。誰もが見とれる頬笑みは彫刻めいていて、初めて不気味だと思った。

「……なんで、その事を」

 声が喉から這い出ると同時だろうか、背中側から衝撃が走る。バランスを崩した体はやけにゆっくりと御馳走の海目がけてダイブした。驚きに見開く緑と目があう。その近くにやってしまったと言った顔をしている給仕。全て察した。

「ッテェ……!?」

 大きな音と共に頭上に落ちてくる料理、飛び散る香ばしい汁で髪が彩られた。あんなに騒がしかった会場が静寂に包まれる。時が止まったように感じられた。

「も、申し訳ございませんお客様!」

 耳が聞こえなくなったのではないかと錯覚するほどの無音を引き裂いたのは時を止めた本人だった。手を借りて身を上げ前を見ると、顔から血の気が一気に失せる。目の前に有るはずの鮮やかな赤が、大輪の花の色に白い皿がデコレーションされていて、その下からジワリジワリとくすんだ茶色が重力に従い下に向かって広がっている。美味しそうなソースの匂いを漂わせながら。その皿には覚えがある、いや覚えている。顔面に落ちてきた濃厚ソースが絡まった肉料理を手ではじいた事を。即座にクリーニング代をどう安く済むようにするかと考える。もう頭の中にはワインの事を考える場所などどこにもなかった。ヴァレンティーナさんは汚れたドレスと自分達を交互に見る。これは完全に怒っているのではないか?

「申し訳ございません!すぐに別室と服の替えをご用意致します!」

 わらわらと数人集まってくる。強制的に手をひかれ会場に背を向けると、サッとヴァレンティーナさんが近寄ってきた。なんだやるのか、ビンタか?キックか?どっちだ?どっちにしろ痛い事は嫌だ。

 衝撃に備えようと腹に力を入れると、細い指先が胸元のポケットを弄る。取り出されたのは自分の連絡先の書かれたナンパ用名刺だ。

「私、もう帰りますわね。なんだか疲れちゃったみたいなの。……では、またお会いしましょうね、古本さん」

 逃がさない。優しげな笑顔にはっきりとそう書かれている。父さん母さんどうやら倒産や借金じゃすまされないかもしれません。内臓を売る覚悟とクリーニング代をご用意してください。去っていく背中を見つめることしかできない。ずるずると給仕に引きずられて別室で着替えることにする。

 もう楽しむことなんてできないであろう。そのまま帰る事にする。タクシーに乗るにもこのままではいけないので、ため息をつきながら用意された服に袖を通した。


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