日常
「……続いてのニュースです。本日未明、都内に住む二十六歳男性が仕事帰りにヘビに噛まれ血を吸われるという事件が発生しました。ヘビに血を吸われる事件はこれで3件目です。警察は事件解決にむけて慎重な調査をしているとの事ですが、未だ進展はありません」
壁の向こうから聞こえる音に、意識が浮上する。このキャスターが話しているということは今は昼か、と上半身を起こして大きく伸びをすれば、体のあちこちがパキパキ音を立てた。
このニュースのヘビ、ちまたでは新種だの外来種だのと騒がれているが、だんだんと暖かくなってきたのできっと冬眠から目覚めただけのヘビだろう。血を吸われるとやらは見間違いか、ヘビではなくほそっこいヒルだ。幽霊の、正体見たりなんとやらとよく言うやつで、なんでもないただのヘビ。案外そんなものばかりだ。
少し前まで隙間風が厳しかったのに一か月でこうも気温は変るもんなのだなァとのんびり万年床の敷いてある我がおんぼろ宮殿で、本日三回目の駄眠を貪ろうと横になる。
自分、古本屋秀はいわゆる、フリーターである。バイトはしているのでニートではない。自宅を警備するほど暇ではないのだ。
小学生時代、持久走が嫌いでわざと風邪をひき6年間無完走。中学生時代、球技大会に引っ張り出されたくなく逃げたり隠れまくって3年間無出場。高校生時代、この時はまともに運動系の学校行事にはでていたが、文化祭の後夜祭。ふられた腹いせに男女が踊るフォークダンスのその最中、キャンプファイアーに向かって爆竹をぶん投げる。とまぁ負け組人生をウィーリーで大爆走してきた。ちなみに大学は行っていない。
これでも勉強はまぁまぁできるので、もう少し頑張ればまともな人生を歩めていたのではないかとは思うが、いかんせん自分はそういう努力が苦手である。同じ量の努力をしたら一回りぐらい差が付いてしまう優秀な兄がいたから……という言い訳が使えなくなった今、これからどう言い訳をしていこうか。すぐにそんな事を考え始める程、驚くほどにまっとうな努力をするということが苦手である。一種の病ならばどんなに良かったことか。残念ながら心身共に健康だ。むしろ病で苦しんでいる人に土下座の謝罪をして回りたい。
両親はそんな自分にもう期待はしていないのであろう。未だにすねかじり虫な自分に、前は働けだのなんだの言ってきていたがもうとやかくは言ってこなくなった。このことを世間一般では見限られたともいう。
そんな自堕落を極めている自分だが、流石に先の葬儀代で小遣いが減った事もあり、そろそろ重すぎる腰を上げて就職を考えてはいる。けれど履歴書は空欄だらけの真っ白けっけ。これではどんなブラック企業も受け入れてくれない事は一目瞭然だ。受け入れてくれるのは黒を通り越してさらにその先の暗黒企業ぐらいだろう。……いざという時の腎臓は二つで足りるだろうか。
ふざけた事を考えまどろんでいると、ほとんど使っていないスマホが軽快な音楽を奏でた。せっかく三回目のいい夢を見ようとしていた矢先である。辛い。表示された名前は「母」……別の意味で辛くなってきた。このまま居留守を使おうと思って目を閉じかける。
しかし、まだ兄の死に傷心中の母からの電話を蹴るなんて、それこそ息子、いや人間失格なのではないか?さすがにそこまで畜生に自分は堕ちてはいないと思いたい。仕方がないのでノロノロとスマホを手に取った。
「あァい、なんですかァ……くわァ……」
しまった、欠伸を噛み殺せていない。慌てて手で口を押さえるが間に合わなかったようだ。案の定、電話の向こうでは大きい溜息が聞こえる。
「……相変わらず自堕落な生活してるの、屋秀。アンタどうせ4度寝するつもりだったんでしょ」
「母さん、それは違ェよ。俺ァ今から3度寝しようとしてたんだよォ」
無意味な訂正だと思うがやはり間違いは正しておきたい。
「4も3も変わらないわ。全く、誰に似たんだか……河原で拾ってきたって言った方がまだ信憑性あるわよ」
「手厳しい。相変わらず酷ェ。なんでィ、世間話を息子とする為に掛けて来たのかよ。お隣に親父いるんでは?」
確かに河原の下の子や橋の下から拾われたと言われた方が自分も納得する。だがアルバムやビデオ、果てはDNAにしっかりはっきり母が腹を痛めて自分を産んだことが記録されているのだ。看護師が取り違えた説をまだ父が推しているのを自分は知っている。そっちも納得できる。
母はのんべんだらりな自分の態度に、色々な意味を込め、更には言いたいこと全てを混ぜ込み溶かし圧縮した深すぎる溜息を3秒ほど吐き出した。いい肺活量だ、さすがお袋。
「ねぇ?必要な事以外で屋秀に電話をする時は、親子の縁を切る時って前に言っていなかったっけ?」
「ありゃ、ようやく縁を切る決心がついたんですかい?二十四年とは案外長かったな~。俺が親なら三日で切ってましたぜ」
「……屋秀」
「……あい、おふざけが過ぎました」
流石に言い過ぎた。自分としてはお茶目な冗談なのだ。黒い諧謔のつもりだったのだ。本当、この碌でなしでも愛情を向けてくれるいい親だ。前世は聖人かなにかだろう。いい人過ぎて騙されないか心配になってくる。すでに自分に騙されている気もしないでもないが。
電話越しなので見えないと思うが、よれよれの寝巻きとして愛用している甚平をきちんと着直し、居ずまいを正す。見えなくとも話をちゃんと聞く体制に入ったことを悟ったのか、母はクスリと一つ笑いをもらした。何気に、葬式から初めて聞く母の笑い声だ。
「分かればよろしい。……で、本題だけども、屋典の知り合いで『草壁彩』さんって女性の事知ってる?」
「さぁ?全く心当たりがねェな」
「知らないのね……困ったなぁ、なんだかすごく高そうな紙にそりゃもう大層丁寧な字で『お礼がしたいので是非従兄弟の会社が主催するパーティーにお越しください』って。招待状まで一緒に入っているのよ。まぁ、こんな綺麗な字を書く子をアンタに紹介したいとは思わないでしょうから知らないのは当たり前か」
自分の喚きを完全に無視して、さらにこき下ろす。さすが我が母親、年々自分へのスルースキルが上がってきている気がする。ついでに打撃もあがっている。
なんてことだ。いったいどこでそんな良物件をみつけたんだ。
「会社……逆玉の輿……」
「屋典ならありえる話ね。随分豪華なパーティー開くみたいよ」
兄はそれはもう老若男女誰彼かまわず大層人気があり、あっちこっちの引っ張りだこであったので家族の知らない友人や知り合いも多いことだろう。草壁彩さんとやらもきっとその一人に違いない。そこまでは容易に考えられた。
さてはて?ここで疑問ができる。なぜ一年もたって亡くなった人宛に手紙が届くのだ。どんなに自分達家族が知らず、亡くなった旨を伝えていなくとも、友達の友達に兄が死んだ事を教えて貰えるのでは?その事があり今でもたまに人が線香をあげに来る程だ。その人に友達がいないと言うなら納得できるが。どう考えてもないだろう。
「新手の詐欺じゃねェです?まぁ俺らなんて呼び出してもなんら利益はありもしねェだろうけど」
相手には悪いがそれぐらいしか心当たりが考えられない。おつむの弱い自分なりの回答だ。
「私もね、そう思って会社名を検索したりして調べてみたの。そしたら最近大きくなって、ちゃんと存在している会社だったわ。青桐グループ!あのワインが美味しいって評判の会社!本当びっくりしちゃった。どうやらパーティーって新しいワインのお披露目会なんですって」
酒好きの母さんらしく食いつくところは酒の美味さか。テレビもラジオも見ていない自分にはいまいちピンとこない。壁が薄いアパートのおかげで、お隣からニュースの音が聞こえるので最近の物騒な話題は耳に入っているが。
「そんで、どうするおつもりで?そのまんま無視してゴミ箱にポイで解決?お返事程度はしといた方が俺はいいと思うんだけどなァ」
「ううん、代理を立てるつもり。だってせっかくのパーティーだもの」
代理ときたか。まぁどうせ母が兄の代わりに行くつもりでいるのだろう。ほぼ無料でワイン飲み放題、しかも美味しいなんて最高じゃないか。自分も代理に立候補したかったが長年の猫背とこのたるみ切った言葉遣いは一朝一夕で治るものではない。会社のお偉いさん方がいる中で大きな粗相をする未来は予知をせずともわかる。へたすりゃ親のクビがとぶ。それに、きっと父もいい気分転換になると母が行くのに賛成するはず。嗚呼、非常に、非常に残念で仕方ない。
「はぁぁ、どうぞどうぞお楽しみくだせェ。アタシは安いセール品の焼酎片手に夜桜でも鑑賞してやす。花見酒はうめぇなァ」
芝居がかったワザとらしい口調でそう告げると、電話の向こうの母はシン、と一瞬静かになったと思いきや、次の瞬間には地を這うような唸り声を発し始めた。何事かとスマホを落としかけたではないか。全くなんなのだ。
「その日はお友達との集まりがあるの……私の為に開いてくれるお茶会なんですって……この意味わかるわよね……」
「貧相な庶民の出涸らし茶よりキンキラキンのお貴族様御用達のワインが飲みたいってェこと?」
「代わりにあんたが行ってきなさいってこと」
「はっはっは……あぃ?」
空気が固まるとはこういうことだろう。小首をかしげ何も聞かなかったことにして、そっと通話終了ボタンを押した。幻聴にしてははっきり聞こえたので幻聴ではない。全く何を言っているのだこの人は、わざわざ不作法者を送り込んで自身の人生を棒に振るつもりなのか?思わず天井を見上げる。いつもと変わらない、シミだらけの安っぽい天井だ。
再度、時間を空けずに同じ人物から電話がかかってくる。おそるおそる出てみればその反応は想定内とでも言いたげに鼻を鳴らされた。それが想定できるのなら自分をパーティーに出した時の大惨事の事も想定しておいてほしい。父さんの会社が倒産なんて本当に起きたら洒落にならない。
「……お袋、エイプリールフールは、四日前に、すぎやしたぜ?」
情けないことに声が震える。唾を飲み込む音が酷く大きく聞こえた。遅めの四月馬鹿とはやくいってくれ。胸元で十字を切る。少しも気休めにならないだろうがやらないよりはマシだ。でもきっと意味が無い。
「馬鹿、嘘言ってどうすんの。青桐グループのパーティー、アンタが行きなさいって言ってんの。聞こえなかった?それともそんな日本語を理解する脳味噌も劣化しちゃった?え?」
なんてことだ、脳裏に有名な哲学者のセリフがよぎった。親が自分の子供に言うセリフがこれなのか。そう言われるようなことをしてきた自信はあるのであまり強く反論できないことが悔しくてたまらない。
「いやいやいや!?何をおっしゃってンの!?正気かアンタ!?俺のようなのが坊ちゃん嬢ちゃん紳士に淑女の集まりにいってみろィ!アンタ方の職が無くなって晴れて親子共々ホームレスになっちまうぞ!?」
「粗相をしなければいいじゃないの。それにもう出席に丸つけて出しちゃったから行かねばなりませーん」
ごもっとも。正論をありがとう。そしてよくも勝手にやってくれた。逃げ道が無い。何故知らない人物からの誘いにホイホイのっているのだ、危険すぎじゃないか。
まぁその気になれば常識人に成りすますこともできるのでそれほど問題はないと思う。しかしそれに成りすませばしばらくして自分の精神力が尽きる事はわかっているのでやりたくない。世の中には人と接するだけで気力を吸われる人種がいるんですぜ。
なんせ、基本的にごちゃごちゃした場所ときっちりした場所は苦手なのだ。学生時代にかなりお世話になった職員室を彷彿とさせるから。背筋をのばし続け、笑顔を振りまきまくらないとならないのは猫背に慣れ切って、基本的に眠たげな表情をしている自分には案外つらい。
だいたい、素敵で楽しい最高のパーティーに招待したはずの奴と真反対な奴がきて「兄が亡くなったので代理できました~、ついでにその兄は死んでいました~」なんて言い始めたら会場の空気が凍る。春に真冬が御帰還なされる。そんなパーティーは絶対にごめんだ。
「ぜってぇとんでもねェ事する。俺のデリカシーの無さにかけて断言していい」
自分でも珍しいくらいのまじめな顔をしている事だろう。声のトーンも心なしか低くなる。胡坐をかいていた足は気づけば正座になっている。気づけば暖かいと思っていた日差しはその熱を無くし、たまに入ってくる隙間風は吹雪のごとく体温を奪ってきた。どうやら行く前から自分には冬が来ていたようだ。
「そんなこと言ってサボろうったってそうはいかないわよ。理性のない獣じゃないんだし、大人なんだから言っていい事と悪い事の区別ぐらい付くでしょうが。アンタ今年でいくつになるの?就職もしない、結婚もしない、性格は泥水に少量のコーヒー混ぜたようなかろうじて人の心がある程度。食っては寝る食っては寝る、たまにバイトを3時間しては寝るの自堕落生活。せめてそのカッコよく産んでやった顔を有効活用する事ぐらいしないの?」
確かに、日本人にしては少しばかり彫が深い顔つきを兄弟揃ってしているため、自分も顔はいい方に入るのは自覚している。むしろ目の色素が薄く、涼やかな目元をしている自分の方が女性受けは良かった。ただし内面のカッコよさは言わずもがな兄のぶっちぎり一位なので、付き合ってみたら兄さんの方が優しいしかっこいいと言われ、ふられた事は何度もあった。
「美人と馬鹿は三日で飽きるというでしょうや……」
かろうじてでた言葉を口にする。言っていて少し虚しくなってきた。これだけ嫌がっても向こうは行かせる気なようだ。たまにこの人は強引な手に出る事がある。その事に屈してしまえばもう最後、しっかり成し遂げないと解放してくれない事を自分はよく知っている。
いつまでも行きたくない口実を延々といって駄々をこねていると、電話越しに痺れを切らせた怒号が響いた。
「とにかく!パーティーに粗相せずあいさつに行ってできたらワインを貰ってくる!きっと世界が狂ってもないでしょうがついでに上手くいいとこのお嬢さん捕まえてきなさい!同情なりなんなり使って既成事実さえできりゃこっちのもんよ!」
無茶を言う。思わず真顔になってしまった。きっとこの人一番の目的は噂のワインだろう。職を失うリスクより目先の欲望を優先させるなんてなんて人だ。第一、貰えるなんてきっとどこにも書かれていないだろうになぜ貰う気満々でいるのだ母よ。
「ドレスコードは安心しなさい、立派なのを着せてあげるからね!詳しい事は後でメール送るから、予定はちゃんと空けておきなさいよ!きゃー!屋秀飾り付けるの何年振りかしら~!今からわくわくしてきちゃった!」
最後にワイン、ワイン美味しいワイン~なんて鼻歌が聞こえ、電話は切られてしまった。どうせ相手はこちらが庶民だと分かっていて誘っているのだから親父の安っぽいスーツで充分だと自分は思うのだ母よ……。通話終了の画面にむかい、独り呟く。
いやはや、非常に大変なことになってしまった。スマホはロック画面に戻っており、デジタル表記で13時34分と文字が浮き出ている。これからこの画面にメール受信のアイコンが表れると思うと憂鬱で仕方ない。眉間を指で押さえ深呼吸を一回。これは一種の意趣返しでもあるのだろうな。
「……なんで俺がやんねェとならねェだィ。あーあ、気がのんねェなァ」
ぼりぼりと無造作に伸ばした髪をかきむしる。これも整えなければならないのだろうし、ついでに髭も剃らねばならない。美容院なんて何年振りか。
大きくため息を吐くと、ぐぅぅ、と腹の虫が空腹を訴えてきた。そうだ、遅めの朝食にしよう、まずは腹ごしらえだ。冷蔵庫には何か食べ物は残っていただろうか?
これからの事に不安を感じるが、もう後には引けなくなったのは確かなので、大人しく腹をくくる。考えても仕方がない、ようは、いい子にしていればいいのだ。何、簡単な事じゃないか、精神を犠牲にするだけで美味い御馳走や可愛い子を見れる。ポジティブにいきよう。朝食は最後の一枚の食パンがあったので、トースターに突っ込んだ。ジャムやバターはないのでただの焼いただけの食パン。
もう一度、大きなため息をつく。この場に似合わないチンッと軽快な音と共に、優しい香りが辺りを包んだ。