沼
2作目です。文章が稚拙なのが自分でもわかるレベルですがご容赦ください。何が伝えたかったのか(「難解さ」とは別の意味で)分かりづらい自覚もあります。
文章を書くのは難しいですね。精進します。
沼
朝、妻の声で目が覚めた。ワイシャツとスーツに着替え、パンとコーヒーを食べた。子供は西の方の遠く離れた高校に通っているため私が朝食を食べるころには家を出ている。対して私の勤めている会社は家の東側近くにあり、出社時間の20分前に家を出れば十分だった。
「それじゃあ行ってくるよ。」
何百回と同じように繰り返してきた穏やか朝を今日も過ごし、私は会社へ出かけた。
私は生まれてからそこそこ平凡に生きてきた。小学生時代は放課後に友人と遊びまわっていたし、喧嘩もほとんどしなかった。それからやや優秀な中高に入り、大した反抗期もなく過ごした。そこそこな大学に入り、そこそこ優良な企業に入った。20代半ばには結婚し、5年目には子供ができた。
自分の人生はそれなりに幸せだと思う。嫌なことだってあった。もちろん小中高と嫌いな奴もいたし、嫌な先輩もいた。今だって嫌な上司もいる。それでも鬱になるほどではなかったし、親や妻や息子は支えになってくれた。
ごく普通のサラリーマンである私は今日も一日デスクワークをこなし帰路に就いた。似たようなコンクリートの建物が並んだ街の中、碁盤の目のように敷かれた道を歩いた。
私の帰り道の道添には少し大きな湖があった。落下防止のためか周りには柵がたっており、近所の子供たちは湖で遊べない、と大層不満気にしているらしい。親である私たちとしては柵があって安心だが。
湖の対岸――ちょうど今は太陽のある方向だった――には古い木造の家屋とコンクリートの高層ビルと少しの自然がバランスよく入り混じっていた。本来協調し合わないはずの3つが絶妙なバランスで美しさを保っていた。息子の通う高校も見えた。
――そういえば対岸には柵がないんだな
何気なく対岸を眺めていた私はふと気づいた。
太陽がまぶしいので対岸の景色へと向けていた視線を下へ向けた。目の前には沼があった。小さな入り江のようにして湖からぽこりと飛び出して沼があった。毎日見る風景だ。
しかし今日はいつもと違うようだった。その緑色のどろっとした沼から腕が出ていた。いや、どちらかというと、「生えていた」と言った方が正しいだろうか。不思議なことに、浮き上がっていることもなければ沈むこともなくただ不規則に腕が揺れていた。
――「 」
ただ動いている。それは一見苦しんでもがいているように見える。しかし、腐敗してねっとりべっとりした沼の生暖かい重みに浸っているようにも見えた。
――………………!
なぜ熟視していたのだろうか。助けねばなるまい。
しかし、体は上手く動かなかった。目の前の柵が私を威圧してくる。ようやく動いて乗り越えようとした柵は子供の背丈ほどしかなかったが、腕に強く力を籠めねば乗り越えられなかった。
幸いその腕は沼の岸からそれほど離れていなかったから、私はその手を沼に入ることなくつかむことができた。
しかしなぜだろう。これだけ岸に近いのだから自分で岸に上がれるだろうに。その腕は岸の存在など知らない、といった感じだった。本来溺れている時というのは、自身を飲み込んでくる水という怪物の口から、喰われるまいと必死にもがくはずのものだ。その「本来」とはかみ合わない、沼の一部のような腕に私は恐る恐る手を伸ばした。握った手をひっぱると、それはびくともしなかった。私を拒むかのような硬い掌だった。
得体のしれない自身の場違い感と無力感に襲われた私はその場から逃げだした。
「…………ただいま。」
「おかえるなさい、あなた。」
家に着くといつもの日常が待っていた。いつも通り着替えるために自室に行ったが、その目的を押しつぶすようにしてベッドの布団に倒れこんだ。
――おちつかない。
先ほどの腕が頭の中で私の横に生えていた。近づきもせず、遠ざかりもしない。非日常に出会った私は平凡な日常に落ち着けなくなっていた。
そういえば、部屋にいるはずの息子から、いつもなら返ってくる「おかえり」の声が聞こえなかった。かわりに、息子の部屋からは重いため息が聞こえた。私が気になって息子の部屋に入ると、息子は布団に横になって天井を見ていた。
「何か悩みでもあるのかい?」
「や、何でもないよ。」
息子はそう一言だけを言った。その一言だけだったが、鈍く光るマーブルのような瞳は確かに「父さんに相談しても解決しないだろうな」と言っていた。
「そうか。」
いつもと違う部屋の空気に居心地が悪くなって私は自室に戻った。
自室に戻ってふと机に視線を向けると数学のプリントが乗っていた。普段整頓されている机にぺらっと一枚あったものだから私はなんとなく気になってその紙をめくった。
――なんだ、メモ用紙か。
その紙は息子がいらなくなった裏が白い紙をメモ用紙にとっておいたそれだった。なつかしくなって私はプリントに目を通した。
〔絶対値〕
数の大きさを表す一つの基準です。
例えば、数式の中の負の数に絶対値記号がついていれば、
その負の数は負の記号をとった正の数と実質的に同じにな
ります。
つまり、どんなに小さな負の数を足していっても全体に絶
対値記号がついていればそれはとても大きな数になります。
逆に、0に近い負の数は絶対値記号をつけても0に近いま
まなのです。
息子に頼られなかった私は、自身が二本の棒で圧縮されたちっぽけな存在に思えた。
――………………!あの沼の腕は息子の腕だったんだ!
私は気づいた。あの腕は上から引っ張る程度ではだめだと。
あの沼にまだ腕は生えているだろうか。私はなぜか好奇心にあふれた子供のように、新しい発見をした科学者のようにわくわくして家を飛び出た。
走って沼にたどり着いた私は腕があるのを確認し、スーツのままであるのも構わず柵を踏み台にして勢いよく沼へ飛び込んだ。
読んでくださってありがとうございます。